1474.ブッシュ政権内部の混乱



ブッシュ政権内部の意見対立が、イラク政策を読みにくくしている。
その検討。   Fより

パウエルは欧州のドイツとフランスの説得を行い、NATO軍をイ
ラクに派遣する方向で調整していた。この証拠がフランスの主張し
ている国連の役割を増大し、かつイラク・シーア派の存在を重要視
すると発言していた。また、共和党の中では穏健なブッシュ家の番
頭でもあるベーカー元国務長官による対イラク債務削減交渉開始も
、この路線を裏付けていた。

前回の米国分析の方向(1459.米国のイラク占領政策に変化)
に国務省を中心に向かっていた。どうも2月にはヨーロッパもイラ
ク派兵をすることでだいたい決着が着いた可能性があった。
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/151130.htm

しかし、ネオコンや福音派などの勢力がブッシュ大統領に圧力を掛
けて、パウエルの穏健な、協調外交を潰したようだ。ブレマー行政
官も一時はパウエル路線になるかと思ったが、ライスかブッシュか
ローブの指示で、再度シーア派に対しての強硬路線に戻っている。
決定的なことはウオルフォウイッツ国防総省副長官がイラク復興事
業から仏独露の排除という方針を出して、かつブッシュ大統領が、
それを擁護したことで独仏露を怒らせてしまった。パウエルの努力
は水泡に喫したのです。

このため、米国の没落を予感して、市場は機関投資家を中心に欧州
のユーロに向かっている。グリーンスパンまでもが米国の現状の保
護主義・一国主義が問題であると指摘している。そして、どうも米
国のデリバティブの崩壊が近いようで、米国の資本主義は崩壊の方
向にあるようだ。

その崩壊をグリーンスパンと結託して日本は円ドル相場に介入して
必至に防いでいる。怒った欧州は米国の言うことを聞かないでしょ
うからドル防衛をしないし、もう中国もドル買支えをしなくなって
、ユーロで外貨準備をし始めた。

中国までもが米国離れになっている。北朝鮮との調整も米国の代弁
をしなくなっている。ドイツとの経済関係を緊密にすると言って、
米国の要求と天秤に掛け始めている。

米国は軍事的な大国であるが、経済的な大国は欧州になってきた。
市場規模は米国より今でも2倍も大きい。しかしユーラシア連合で
中国とロシアが加入すると、その規模は米国の10倍に達する。

現在すでに経済大国の証拠に石油代金の決済はユーロになっている
。ドルではないのです。シーレーンを防衛してもユーロがないと買
えない。今後、日本も石油を欲しければ、ユーロを持たないといけ
ないのですよ。その意味では国際通貨はドルではなくユーロですよ。
石油という戦略製品が買えることで国際通貨としての意味があるの
ですから。

この意味からも、石油のためにイラク派遣というなら、欧州の合意
が重要になっているのです。このため、YSさんもブリュッセルに
小泉さんは行くべきであると進言している。地政学より地経学を見
ないといけない。

ドルの紙きれ化が進んでいる。欧州は歴史的な積み上げがあり、各
家に金貨や金のスプーンや有名な絵画があり、その富の積み上げは
、凄いものがある。欧州財閥の凄さは米国財閥の数十年の積み上げ
とは規模が違う。経済的な実力は欧州の方が断然上にある。これを
知っているグリーンスパンやパウエルやネオコンでも有識者である
ケーガンは、欧州を怒らせてはいけないと思っている。しかし、
欧州の実力を知らない福音派やネオコンは怒らせてしまった可能性
がある。FOXのマードックも欧州を怒らせる不利を知って、ネオ
コン離れをし初めている。

このため、米国の一国主義が世界の特に欧州の米国離れを加速して
いる。欧州は欧州を中心としたユーラシア連合を作り始めて、米国
が嫌う路線を行くことになりそうである。その現れが、ガリレオ衛
星の打ち上げで、米国に独占されているGPSシステムを欧州を中
心に米国の没落が近いと思っている韓国・インド・中国・ロシアな
ども加盟してユーラシア大陸の鉄道・道路を網羅しようとしている
。ランドレーンの整備である。このランドレーンの始発はパリかロ
ンドンで終点は東京であろう。アジア横断道路の計画も明らかにな
った。戦争に忙しい米国はこの対応ができないでいる。その代わり
にイラク復興事業を持ち出した可能性があるが、経済に対する影響
の規模が違いすぎる。

日本は米国と同盟関係にあるのはいいが、欧州との関係も維持・発
展させる必要がある。特にガリレオに加盟するべきである。英国も
EUに居て、独仏との会談を通じて関係を強化している。スペイン
も同様の対応をしている。欧州の独仏は大人である。米国に配慮し
ている国家も、ユーロ圏に受け入れている。

米国の動きをフランスは読んでいる。そして、米国の動きは非常に
わかり易い。外交は分かりにくさも必要であり、日本は米国と同盟
関係を維持しながらも、独仏露中とも関係を強化する必要があり、
そのように動くべきである。政権交代期での上杉藩や黒田藩のよう
な動きが絶対必要だ。

フセイン元大統領が拘束されて、イラク・ゲリラの攻勢は少なくな
るであろうと、予測されている。しかし、イラクより欧米対決にな
っていくようである。米国は益々一国主義になるであろう。米国は
欧州の言うことを聞かないようになる。
黙示録では日本が歓喜して、イラクに軍を出すことになっているが
、これでこの予言が成就したようだ。どんどんハルマゲドンに近づ
いている。しかし、これでもゲリラ活動が収まらないと、どうする
のであろうか??シリアなどに目が向くことになるのか。
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「仏独露の排除は愚か」ネオコン論客が米政権批判
2003 年 12 月 12 日 
http://news.msn.co.jp/newsarticle.armx?id=644956
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【ワシントン=永田和男】米政府がイラク復興事業の元請け受注か
ら仏独露などの企業の排除方針を決めたことについて、ブッシュ政
権に影響力を持つとされる新保守主義の代表的論客2氏が11日、
「愚かである」と酷評した上、「ブッシュ大統領は、恐らく方針を
撤回することになろう」との見解を発表した。

この見解は政策研究所「新アメリカの世紀プロジェクト」(PNA
C)のウィリアム・クリストル代表と評論家ロバート・ケーガン氏
の連名によるもの。

両氏は、イラク復興事業で英国やスペインなどこれまで協力的な国々
の企業を優先すること自体は支持できると述べた上で、「真に賢明
な政権なら、戦争に反対した国の企業の入札も受け付けることで
その国の協力をも取り付けることだろう」と指摘した。

両氏は、ブッシュ政権は仏独露などの企業排除を公に表明してしま
ったことで欧州にかねて根強い「米国は友好国の意見も顧みない」
との批判を蒸し返した上、ベーカー元国務長官による対イラク債務
削減交渉も困難にしたと糾弾。「大統領は被害を最小限にとどめる
ため、すみやかに方針を撤回すべきだ」と主張している。

PNACは6年前に発足し、新保守主義の論客が集う拠点と目され
ている政策研究所。今回の仏独露の受注排除を決めた通達を発表し
たウォルフォウィッツ国防副長官も設立メンバーの1人で、副長官
は欧州や民主党に加えて古巣の批判にもさらされた形だ。
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イラク復興事業から仏独露排除は妥当…米大統領
2003 年 12 月 12 日 
http://news.msn.co.jp/newsarticle.armx?id=644929
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【ワシントン=永田和男】ブッシュ米大統領は11日、記者団に対
し、イラク復興事業の元請け受注から仏独露などの企業を排除する
米政府の新方針について、「危険が伴う復興支援の対価である」と
述べ、十分妥当性があるとの見解を強調した。

大統領は「我々の(兵士や要員は)生命を危険にさらしている。連
合国の人々もそうだ。それは受注に反映されるし、米国の納税者が
期待していることでもある」と語った。

一方、カナダも受注可能国リストに載っていないが、同国からの報
道によると、クレティエン加首相は11日、ブッシュ大統領から電
話で「心配することはないと言われた」と語った。これについてホ
ワイトハウスのマクレラン報道官は、肯定も否定も避けた。
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国際戦略コラム御中

江田島です。ご意見に対して、以下コメントさせていただきます。
 
1.エアーパワーとスペースパワー
 
軍事的にはシーパワーでもランドパワーでもなく、エアーパワーや
スペースパワーの時代です。宇宙戦略や航空戦略が重要な時代です
。そのため、米国でも金の掛かる空母艦隊を転換して、空軍を中心
とした編成にと議論されている。シーパワーからエアーパワーへの
変更をしようとしているようですよ。また、シンセキさんが反対し
ていた陸軍の大幅削減をしたために、イラクのゲリラ戦で躓くので
す。米軍はランドパワーを大幅削減したために問題を起こしたが、
正解だと思います。
 
⇒エアやスペースについての考察が重要だとの指摘はおっしゃると
おりです。しかし現時点でもそして近未来においても、人類が地上
で生存する以上、分析基盤はあくまでシーとランドに置き、それを
補完するサブ条件としてエアとスペースがあると考えます。これは
、シーとランドは人類の生活の基盤だからです。シーパワー、ラン
ドパワーは軍事だけの概念ではなく、人間の行動様式、生活形態、
社会基盤に関わる概念です。人間の行動はその環境によって大きく
左右されます。
その最大の環境はランドとシーです。内陸部と沿岸・島嶼部では人
間や文明の質が異なります。それが拙著の主眼です。現在ほど、こ
の視点が重要になっている時代はありません。ここを無視した議論
がイラク戦争を惹起しました。私が出版に踏み切ったのは、この視
点を世に問い、何とか世界大戦へ進むのを阻止したいからです。
 
未来においてスペースコロニーへの移住が達成されあるいは地球外
知的生命体との交流が始まり、ガンダムやヤマトのような世界にな
ればまさしく、シーやランドよりエアやスペースが基盤になります
。それはまだまだ先のことでしょう。
 
よって私は近未来においてもシーとランドを分析の基盤におくべき
と考えます。米軍で空母や在外基地見直しが議論され、ラムズフェ
ルドはその急先鋒です。
彼の主張に沿って行ったイラク戦争はごらんの泥沼です。地政学を
無視し、ランドとシーの考察を怠ったからです。ランドパワーに手
をだせば泥沼化します。兵の多寡は本質ではありません。本質は周
辺国や周辺地域支配の必要から、際限なく戦線拡大し、結果として
内陸部へ引きずり込まれ戦線や補給線が延びきり、かつ地域住民を
敵に回すことです。こうなったら勝ち目はありません。
 
これはナチス(300万人を独ソ戦に投入)、ソ連、日本陸軍、ベトナ
ム、レバノンその他歴史上かつ、地政学上の鉄則です。さらに、十
字軍の頃から、キリスト教徒がイスラム教徒を支配してうまくいっ
たことはありません。これも歴史の鉄則。
 
アメリカはこの二つの鉄則をともに破ってます。
 
思うに、現時点でもなお、ランドパワーとシーパワーは必要かつ有
効な議論だと思います。エアとスペースを補完する必要はあります
が、本質は古代ペルシャ(ランドパワー)とギリシャ(シーパワー
)の頃から何ら変わってません。
現時点では、人類史を貫く黄金律、最強の理論だと思います。
 
2.勢力均衡か直接支配か
それと現代の経済大国日本は海外展開の軍事力もないのに、世界的
に商品を輸出・輸入しています。台湾エバーグリーンや中国の会社
が運んでいますが、何も問題が起きていません。あるのは、インド
ネシアの海域で海賊がでることが大きな問題のようですが。

米軍が圧倒軍事力で、世界の安定を保持しているために、他国は、
その軍事力に対抗できないために、米国が提唱する資本自由主義、
グローバル・スタンダードになっているのです。
 
⇒イラク戦争前であれば、上記に全く同意です。イラク戦争後、世
界のパワーバランスは崩れてます。アメリカは世界の安定のための
シーパワーによる海上交通維持(戦力均衡戦略)より中東直接支配
を選択しました。今後、上記のような条件は失われていくでしょう
。アメリカが中東から手を引かないかぎり。
ランドとシーの二正面作戦は無理がありすぎます。
今後の展開を想定するに、イランとシリアへの攻撃は時間の問題で
す。伸びきった戦線を保持するためには核攻撃しかありません。
短期的にはそれで中東を抑えることができても。中長期的にはかな
らず破綻します。モンゴル帝国やアレクサンダーのように。
 
その破綻に備えて、環太平洋連合(http://www.boon-gate.com/12/)
を英、豪その他海洋国家と構築する必要があるというのが拙著の主張。
これら諸国共同で制海権を保持する必要があります。
 
アメリカが財政破綻、軍事的失敗、孤立化により、崩壊する可能性
を真剣に検討すべきです。
 
3.ロシアのランドパワー化
ロシアも然りです。今のロシアは米国に対抗できる国ではないです
よ。そのために資本主義経済に戻っている。ロシアがプーチン独裁
になったとしても、この経済は当分続くでしょうから、取引可能で
す。現状をしっかりと分析する必要があると思います。

⇒ロシアの石油資本の逮捕、選挙による与党圧勝をみても、独裁回
帰は鮮明です。これこそがランドパワーの真髄。あるべき姿。資本
主義から離脱し、国家管理です。意見は合わないようですね。残念
ながら。
 
4.米国のランドパワー化
このように米国が江戸幕府のような働きをして、世界が安定してい
るのです。そして、米国の提唱する民主主義を実行しないイスラム
教中東を、米国流民主主義化しようとして、中東でも宗教色の少な
い世俗主義のイラクに侵略したのです。ランドパワーとは関係ない。

⇒米国はイラク戦争前はたしかに江戸幕府でした。しかし、イラク
戦争後、ネオコン主導によりナチスドイツや旧ソ連,戦前の日本陸軍
と同じになりました。
イラク攻撃の目的は民主化ではなく、石油直接支配によるドル機軸
態勢維持とイスラエル安全保障です。この観点から、シリア、イラ
ン攻撃は必至です。
また、アメリカが民主化というときは、反米政権に攻撃しかけて親
米政権樹立することをいいます。地政学的に重要な国ならいくらで
も独裁政権支援します。
戦略の基盤は民主主義ではなく、地政学なのです。民主主義は口実
です。
 
5.イスラム諸国との関係
インドネシアとマレーシアは石油のルートで、かつ海峡があり、そ
の海峡を通行するタンカーや空母を陸から砲撃されるとどうしよう
もない。陸からの砲撃と海上からの砲撃では精度が数段違いますか
ら、相当な犠牲を出すはずです。インドネシアやマレーシアと友好
関係を維持するか、その地域を占領するしかないでしょうね。地図
を見てください。精度の高い分析をしないと現在の戦略を間違えま
すよ。このため、アチェの独立も一時、米国は企てたように感じる。

⇒私は、イスラム諸国との友好関係維持のため、イラクへの陸自派
兵絶対反対の立場です。
しかし、上述の事態になれば、コスト増を覚悟して豪州沖とフィリ
ピン沖を通過ルートにすればいいんです。この観点から豪州や比と
の同盟が必須。

6.未来
シーパワーやランドパワーの分析が間違いと言っているのでなくて
過去を分析しているだけで、現在の軍事的な状態や将来戦略の姿が
十分に解析されていないと感じるのです。
 
⇒歴史を分析することは現在そして将来を見通すことにつながりま
す。むしろ、現在そして将来の問題解決のマニュアルは歴史しかあ
りません。
 
ご指摘の点は今後の課題とします。色々ご教示ください。
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(Fのコメント)
大陸的な国民と海洋的な国民の気質があることと、軍事的な問題を
ごっちゃにして、議論していませんか??、私は別問題と思う。

現代科学は構成要素を、1つづつ分解して、分析し、再度統合する
ことで議論を進めることでできているが、シーパワーとランドパワ
ーは複数の要素を関連させているために、分かりにくくしている。
要素を分解して、より強い要素を中心に分析しているのが最新の国
際関係学の手法です。リアリストたちもそうですね。

気質については、天性的な要素があり、ある程度分かるが、それと
技術上の軍事的な要素は、過去にそうなっていたとしか言えないよ
うに思う。米国空母がシーパワーの中心で、戦艦の時代ではないし
、その空母の主力兵器は航空機になっている。エアーパワーが主力
ということになる。空母はエアーパワーの輸送手段でしかない。

陸軍も対戦車ヘリ、戦闘機がその中心を成している。戦車よりアパ
ッチの方が主力である。よってエアーパワーである。対戦車ミサイ
ルでゲリラも優位な位置が築けるなど、近代通常兵器よりゲリラな
どの精神戦の方が優位になっている。軍事的な構成は技術の進歩で
変化する。軍事的な過去を幾ら調査しても将来の軍事的な分析の参
考にはなりませんが、国民気質は参考になります。イスラムの気質
は重要ですよ。

現在の経済面(米国から欧州へ経済覇権が移行している)の分析も
必要であると思います。経済的な覇権無しには世界を動かすことが
出来ない。

もう1つ、過去を調べることも重要ですが、ここ50年間(戦後か
ら)の地政学、地経学の最新情報も調査した方がいいようですよ。
スパイクマン以後の情報をもう少し加味してはいかがですかね。
ナイさんの主張やリアリストたちの主張も加味して検討するとより
よい議論が可能になると思います。

覇権国家にならないなら、覇権国家のサイトに着いていることが、
サブ国家としては得です。米国・英国がシーパワー中心で覇権を取
ったためにシーパワーがいいように感じているのではないですか?

その覇権国家が米国から欧州にシフトしていると思えるのです。
この100年ぐらい、英米で覇権を維持してきたが、その経済基盤
がぼろぼろになってきている。そろそろ、覇権の移行期にあるよう
ですね。覇権移行期は紛争期でもあり、リムランド対ハートランド
の戦いになっているようなのです。ここは豊臣政権から徳川政権に
移行する時の黒田藩のような動きが日本には必要であると思うので
すがどうでしょうね。

もう1つ、7000年の地球の歴史のほとんどはランドレーンの時
代ですよ。近代のポルトガルまではシーレーンは補助交通ですよ。

この面の情報は、米国国際関係学のサイトやコバケンさんのサイト
がいいかもしれません。
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シーパワーの成立
 
下記は拙著「環太平洋連合」の一部です。国際情勢を読み解くには
ランドパワーとシーパワーの視点が絶対に必要と考えます。
 
→http://www.boon-gate.com/12/
 
天然の要塞である島国で、外的の侵略を受けずに来た日本人には、
ランドパワーの精神構造は理解できない。
それがために、第二次大戦において、松岡外相が独ソというランド
パワーを手玉にとろうとして、逆に裏切られ三国同盟に(1940(昭和
15)年9月27日、ベルリンで調印された3ヵ国の条約に基づく軍事同盟
。日本代表は松岡洋右外相、来栖三郎駐独大使、ヨアヒム・フォン
・リッベントロップ独外相、チアノ伊外相が署名1936(昭和11)年に
締結された日独防共協定を引き継ぎ、三国の指導的地位、相互軍事
援助が取り決められた。この同盟によって日本の対英、対米関係は
悪化 太平洋戦争は不可避となったとされる。11月 ハンガリー、
ルーマニアが加盟1941(昭和16)年3月 ブルガリアが加盟(ソ連攻撃
にそなえてドイツがルーマニア、ハンガリー、ブルガリアに加盟を
強要)当初ソ連を入れた4カ国同盟で英米に対抗しようとしたが、独
ソ開戦に至った。終戦時に日ソ不可侵条約を頼って、ソ連に米英と
の仲介を頼み、又、裏切られる(1945年8月9日、日ソ不可侵
条約を一方的に破って参戦)という愚を犯した。ランドパワーは純
朴な日本人が手玉に取れるほど甘いものではなく、彼らとは接触し
ないことが最善なのであるが、その教訓を歴史から得ているとは言
い難い。

一方シーパワーはどうか。シーパワーの成立は沿岸部、島嶼部に生
息するという地理的条件だけでは説明できない。何故なら、上記の
イギリス、オランダ(16世紀以前はカソリックという閉鎖的精神
構造)や日本(平安時代、鎌倉時代、江戸時代)は小ランドパワー
として内に篭っていた時期があり、これら諸国がシーパワーとして
海外に乗り出していったのはそれぞれ理由があるのである。イギリ
ス、オランダにおいては、前提として閉鎖的、集団主義的カソリッ
クを捨て個人主義のプロテスタント(イギリスにおいてはイギリス
国教会)を受け入れたことも大きい。イギリスがプロテスタントと
なる過程は以下のごとくである。ヘンリー8世は、自分の都合(離
婚のため)で、イングランドをローマ・カソリック教会から脱退さ
せ、独自のプロテスタント教会(国教会)をつくった。そして、カ
ソリック教徒を迫害し、プロテスタン教徒に改宗しない者を、次か
ら次と火あぶりにし、ローマ教皇の所有物である修道院を片っ端か
ら壊してしまった。これがイギリスの宗教改革の始まりとなる。
1530年頃の話しである。ヘンリー8世の子供、メアリー女王は、王位
につくとスペインの後ろ楯を得て、イングランドを元のカソリック
国に戻そうとした。今度は、新教徒(プロテスタント)の司教をはじ
め、信者を次々と迫害し火あぶりにしてしまった。イギリス人たち
はこのメアリー女王のことを、「残忍なメアリー」つまり「ブラデ
ィー・メアリー (Bloody Mary)」と呼び、今では飲物として、人々
の心に残っている。 

  メアリーの後に、王位についたのがエリザベス1世である。ヘンリ
ー8世の2番目の王妃アン・プーリンの娘である。  そのため、母親
を早く亡くしたエリザベスは、私生児として扱われ、王位継承権を
もつことができなかった。ところが、イングランド人たちは、残虐
なメアリーにもうんざりしていたのでメアリーを処刑してしまった。
ところが次に王位につく者がいない。そこで、王位継承権がなかっ
たエリザベスを後押しした。その中心的役割を果たしたのが、ヘン
リー8世の最後の王妃キャサリン・パーである。彼女の努力で、エリ
ザベスは王位につき、エリザベス1世となった。おもしろくないのは
スペインである。カソリック教徒であるメアリーを処刑され、スペ
インは怒り、両国の関係は悪化してしまった。

  この時代のイングランドは、外交問題や宗教問題などでゴタゴタ
していた。当時のスコットランドは、フランスの息がかかっており
イングランドを狙っている。スペインもフランスと同じである。同
じカソリック教国なのでお互い通じている。国内のカトリックたち
も、メアリー1世のあとは、スコットランドのメアリー女王 (イング
ランドのメアリー女王とは違う人物)がイングランドを治めるべきだ
と考えていた。

 プロテスタンド化を推進するエリザベス女王は、カソリックはイ
ンクランドから出ていくよう通告して追い払った。そして、プロテ
スタントのイギリス国教会をさらに強固なものとした。エリザベス
1世は、イングランドの王位を狙っているという理由でスコットラン
ドのメアリー女王を危険人物として処刑しまう。このメアリー女王
もカソリックだからである。この女王は、愛人と共に爆弾を仕掛け
て夫を殺してしまい、スコットランドから追い出され、イギリスに
逃げ込んだところを捕まってしまった。スコットランドのメアリー
女王は、エリアベス1世にとっては従姉妹にあたるのだが、スペイン
が後押しをしており、影でコソコソやっていたことと関係があるよ
うだ。おもしろくないスペインは、スペイン無敵艦隊でイングラン
ドを攻め込んだのだが、イングランド艦隊はこの無敵艦隊を打ち破
ってしまった(Armada invencible1588年、スペイン国王フェリペ2
世がイングランド制圧のために派遣した艦隊に与えた呼称。 艦艇
131隻 1000tを越える大艦をそろえる。ハワード、フランシス・ド
レーク、ホーキンズらの率いるイギリス艦隊(長射程砲搭載の小艦艇
197隻)とのドーバー海峡での消耗戦に惨敗。暴風のためにスコット
ランド北方を迂回してスペインに帰還。スペインに帰還できた艦船
は半数ほどで、兵員も多数を失った。この敗北で、スペインは国際
政治における発言権を弱め、イングランドの地位とエリザベス1世
の支配は不動のものとなった)。

イギリスやオランダは東方貿易の実を挙げようとしても、大陸欧州
は仏独に支配され、シルクロードはイスラム教国というランドパワ
ーに支配され、かつ、国内での産業革命が海外への市場を求めた。

即ち、海上航路しか東方にたどり着く手段がなかったのである。裏
を返せば、仏独、イスラム諸国を排除できるだけの強大な陸軍を保
有するほどの王権を持たず、国力のない、農業生産力に劣る、島国
、沿岸部であったことが、あえて、危険な航路を選択させ、それが
出資者たる商人(金融資本)のリスク分散の手段として、証券取引
、為替、中央銀行といった資本主義の原点を生んだのである。国王
が富裕でリスクを全て負える体制であればこのような資本主義は発
展しなかったであろう。前提として、商業活動を是認するプロテス
タントであったことが大きい。アジアのシーパワー華南政権たる、
明の鄭和の大航海(鄭和は雲南出身のイスラム教徒で、永楽帝に仕
えた宦官でした。宦官と聞くと暗いイメージがあるが、鄭和は永楽
帝が皇帝となるきっかけとなった靖難の変で戦功を挙げ、国政にも
携わり、永楽帝の命を受け、1405年大航海の途についた。その
艦隊はまさに大帝国明の国力を示すものであった。その巨艦の船が
数十隻、乗員は1万を越えた。ちなみにコロンブスの船は乗員50
名前後だった。当時明は中国大陸を完全に制覇し、隣接する国々も
明にひれ伏していた。永楽帝としては、艦隊を遠く東南アジア諸国
まで派遣し明帝国の力を見せつけ、彼らを明に朝貢させようと考え
たわけだ。ヨーロッパの大航海時代は、商人が香辛料を初めとする
貿易のためであったが、明の場合は王様が朝貢を促すためだった。

 そして鄭和はこの期待に見事応え、計7回の航海で、東南アジア
ばかりか、インド・中近東、果ては東アフリカまでその航海を広げ
ていった。)が欧州諸国より遥かに早くアフリカ沿岸まで達したの
は事実であるが、官製の航海であったため、資本主義の端緒とはな
り得ず、明が華北政権に滅ぼされると航海の文化は絶えた。王権(
=上からの規制)が強いと、このような、副次効果があるのである。
規制緩和論者の参考にしてもらいたい。                           

余談であるが、イギリスの貧弱なバッキンガム宮殿とフランスの壮
麗なベルサイユ宮殿を両方訪れたことのある方は、シーパワーとラ
ンドパワーの王権の力の差を感覚的に理解できるであろう。農業生
産力だけみれば、10倍以上の差があり、王権すなわち、動員でき
る兵力もそれに比例して大差があったと思われる。中世において、
イギリス王がフランス王の臣下であり、1066年(The Norman 
Conquest :1066年証聖王エドワード亡き後、ウエスト・サクソンの
貴族ハロルドが王位についた。そこへノルマンディー公ウィリアム
が異議申し立てをしたのがことの始まりである。エドワードが生前
、自分に王位継承を約束していたと主張。しかし、受け入れられず
、ウィリアムは八千の軍隊を引き連れペベンジーに上陸、10月14日
ヘースティングの郊外バトルの戦いでハロルドを倒した。こうして
、ロンドンに入ったウィリアムはウエストミンスター寺院で戴冠式
を行い王位につき、全英は間もなく平定され、ロンドンが新しい首
都に定められた。)にはフランスに侵略されたりしているのである。
金融資本が登場する以前の中世イギリス王権はかくも脆弱だったの
である。

近代日本において、事情はより深刻である。すなわち、シーパワー
にならなければ植民地化されるという恐怖である。幕末、長州藩の
伊藤博文や高杉晋作は藩命でイギリス留学する際に立ち寄った上海
で白人の疎開の、「犬と中国人は立ち入るべからず」という立て札
を見て、全てを悟ったのだ。この過程は後述する。

シーパワーがランドパワーになった(戻った)例もある。スペイン
、ポルトガルである。スペイン、ポルトガルは中世末期、東方貿易
に乗り出した。当時、胡椒は大変な貴重品であり「コショウ一粒は
黄金一粒」と交換された。ヨーロッパは肉食の文化であり、まだ冷
蔵庫のない時代、それひとつで防腐、消臭、調味に役立つ胡椒は、
食生活に欠くことが出来ない貴重品であった。

ところが、その胡椒は熱帯地方のみで栽培される香辛料であり、温
帯、亜寒帯に属するヨーロッパでは栽培が不可能。非常に高価だっ
たのもこのためで、胡椒の入手はヨーロッパとインドを行き来する
ジェノバ商人たちによる東方貿易によってまかなわれているに過ぎ
なかったのである。15世紀中期、この東方貿易が大問題に直面す
る。

1453年、7代スルタン、メフメト2世率いるオスマントルコ帝
国が、神聖ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを陥れる。
これにより神聖ローマ帝国は滅亡。コンスタンティノープルはイス
タンブルと改称され、オスマントルコ帝国はこの地を新たな首都と
し、ヨーロッパとインドの間に広大な領土を築いたのである。この
ため、東方貿易は通行の手段を失い事実上不可能となり、同時に胡
椒の道も閉ざされてしまったのである。

ここで、道を奪われたジェノバ商人達は他のルートに目を向けざる
を得なかった。このときジェノバ商人たちが接近したのが、イベリ
ア半島でイスラム勢力を駆逐し、国土回復を達成したポルトガル・
スペイン両王国である。国土を回復し領地獲得の野望に燃えていた
両国にとってもジェノバ商人の持ちかける話は魅力的なものであっ
た。

 スペイン、ポルトガルは英蘭と異なり、国王が出資者となり船を仕
立てて東方目指して出航した。言い方を変えれば、交易のリスクを
国王が負ったのである。

この時代は特に羅針盤の改良、造船技術の発達、地理・天文学の向
上により遠洋航海が可能になりはじめた時代でもあった。地中海経
由の東方貿易が不可能であるのならば、アフリカ経由でアジアに行
けないか。商人たちはこう考えたのだ。世に言う大航海時代の幕開
けである。 

いち早く国土回復を成し遂げたポルトガル王国が大西洋に飛び出す
。1445年航海王子エンリケの派遣船がアフリカの最西端ヴェル
デ岬に到着、アゾレス諸島を中心に植民を繰り返し、1488年、
バルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達。1498年にはバスコ・
ダ・ガマがアフリカ経由でインド洋に入りインド西岸カリカットに
たどり着いたのであった。

国土回復にもたつき、一歩出遅れたスペイン王国も女王イザベル1
世のもと大航海時代に乗り出す。カスティリア国王ファン2世(位
1406〜54)の娘イサベル(後のイサベル1世、1451〜1504)は、1469
年にアラゴン王子のフェルナンド(後のフェルナンド5世、1452〜
1516)と結婚した。イサベルは兄の後を継いでカスティリア国王と
なり(1474)、夫のフェルナンドも父の死後アラゴン王となったの
で(1479)、カスティリア・アラゴン両国は合邦してスペイン(イ
スパニア)王国となった。 

 フェルナンド5世(位1479〜1516)とイサベル1世(1479〜1504)
はスペインを共治し、1492年にイスラム教徒の最後の拠点であった
グラナダを陥れ、ここにレコンキスタ(Re-conquest:(国土回復運
動)とよばれる。イベリア半島では、13世紀になって、イスラム
のグラナダ王国ができ、南のイスラム教と北のキリスト教との政治
的なバランスを取りながら、折衷の文化をつくった。王国の首都グ
ラナダには、当時のアラビア数学を結集して、地上の楽園アルハン
ブラ宮殿が建設され、アラビア科学の威光を放った。しかし、イベ
リア半島のレコンキスタは、じりじりとイスラム勢力を追い出して
ゆき、やがて、イベリア半島に残るイスラムの領土は、グラナダだ
けとなる。1492年にアルハンブラ宮殿が陥落して、最後のイス
ラム王家の人々がモロッコへ逃げ去り、レコンキスタが完結する。
)が完了した。イサベルが出資したコロンブスの船団がサンサルバ
ドルに到達したのも同じ1492年のことであった。この1492年はコロ
ンブスによるアメリカ発見の年として世界史に登場する。しかし、
より重要な意義は、スペインによるイスラム教徒からの国土回復い
わゆるカソリック帝国建設が達成された年であり、カソリックは
その集団性、閉鎖性から考えるとランドパワーの宗教であり、ジェ
ノバの商人(ユダヤ人)に代表される当時の金融資本に対して、敵
対的排除を行ったのである。いわゆる異端審問(Inquisitor、国王
フェルデナンドと女王イザベラによって始まった。プロテスタント
、ユダヤ人、イスラム教徒などが、異端者であった。ドミニコ会の
修道士たちが異端者を探し出す任務にあたっていた。異端審問にか
けられた者たちは、転向か、公開火刑が待っていた。)である。
カソリックへ改宗するかスペインを出て行くかを厳しく問うたので
ある。一部は改宗してスペインに残った(Malano、マラノ)が、大
半はピレネー山脈を超えてフランス、そして当時、宗教的自由があ
ったオランダへと逃れた。これがスペインをランドパワーに引き戻
し、オランダ、そしてイギリスといったプロテスタント諸国が勃興
してくる根源的原因である。上述の無敵艦隊撃滅(1588年)は
およそ100年後のことであり、旧教国=ランドパワー、新強国=
シーパワーの関係に終止符を打つ画期的なことであったが、根本的
理由はスペインカソリック帝国による金融資本追放なのである。

さらに、シーパワーがランドパワーになった例としてユダヤ人を挙
げたい。彼らはローマに祖国を滅ぼされてから、二千年の長きに渡
り、主に欧州大陸各国に寄食しマイノリティーとして生きてきた。
キリスト教徒でないため、つける職業に限りがあり、キリスト教徒
に禁止されていた、利子をとる金融業に活路を求めた。上記の金融
資本の発生とは、これらユダヤ人の生活上の追い詰められた状況を
抜きにしては語れないし、各国にわたって信頼できる同胞がいると
いう条件は為替、貿易といった資本主義を生む原点であり、欧州シ
ーパワーの中核を担った。彼らは第二次大戦後二千年来の悲願であ
ったパレスチナでの祖国再建を行った。つまり、二千年ぶりに土地
に執着し、ランドパワーになったのである。その後の状況は多くを
語るまでもないが、現在にいたるまで、パレスチナ人との間で、凄
惨な殺戮が繰り返されている。こういうコストに合わないことをシ
ーパワーはしないのであるが、土地を神聖視するランドパワーは一
片の土地のために人を殺す。不断の軍事的緊張がもたらす、上述の
ランドパワーの閉鎖的精神、獰猛性を理解すれば、彼らの行動も分
からないのではないが。

古代ローマは当初ランドパワーであったが、カルタゴと戦った頃か
らシーパワーと化していく。カエサル登場以後帝政期を通じて、欧
州内陸部への拡大に執心したころは、ランドパワーであった。ラン
ドパワー化したために帝政になったのであろう。

上記の代表例に挙げた諸国の中で、アメリカはかなり特殊である。
アメリカは当初オランダ、次いで、イギリスの植民地として、移民
を受け入れてきた。アメリカに渡った欧州人はシーパワーなのであ
る。しかし、彼らはそこで、先住民の襲撃を受け、悩まされること
になった。初期のニューアムステルダムはオランダ商人の根拠地で
あったが、先住民の土地を奪ったものであったため、常に襲撃を受
け、それを防ぐため壁(Wall)を設けた。現在のニューヨークWall
 Streetである。アメリカは大陸であり、初期の移民は先住民の攻撃
を常に受け、銃なしでは安心して眠られない状況、つまり、ランド
パワーと同じく臨戦態勢であった。独立後は欧州諸国から、いつ武
力侵攻されるかもしれないという事態にあった。この強迫観念はア
メリカ人の精神構造に深く関わる。彼らの先住民への恐怖心は、現
在、テロへの恐怖心と変わり甦った。これは、彼らを過剰防衛に走
らせることになる。又、かっては、外交的にモンロー主義という孤
立政策を採っており、30年代の大恐慌期において、スムートハー
レイ法を成立させ保護主義に道を開いたことからも分かるとおり、
ランドパワーの資質を十分備えている。アメリカがシーパワーとし
て世界に関わってくるのは二度の世界大戦以後のことである。この
点は後に詳述する。

人間は、否、生物は、生命維持に際して、一般的に保守的である。
なんの問題もないのに、環境を変え、リスクをとって、新たな分野
に進出しようとは思わない。「海」というあらたな空間に進出する
のはそれなりに必要な「理由」、「条件」がいるのである。そして
、新たな空間に進出するという困難な選択をした者は、合理的、論
理的、先進的にならざるを得ない。船を動かすには星の動きを観測
したり、測量、海図といった技術を習得する必要があり、旧来の人
間関係は役に立たないのである。
==============================
日本におけるシーパワー
 
下記は拙著「環太平洋連合」の一部です。国際情勢を読み解くには
ランドパワーとシーパワーの視点が絶対に必要と考えます。
 
→http://www.boon-gate.com/12/

話がいきなり近世に飛んで恐縮であるが、戦国時代以降の日本の歴
史を考えてみたい。古代や中世についても語りたいことは多々ある
が、本論から外れるので別の機会に譲る。戦国時代の画期を示すも
のとして、1543年の種子島へのポルトガル商人漂着による鉄砲
伝来、1600年に豊後に漂着したオランダ商船リーフデ号(西暦
1600年4月19日、佐志生の入江に今にも壊れそうな、とてつもなく
大きな帆船が漂着した。遠いオランダの地から、東洋の国ジパング
(日本)へ向けて旅立った5隻の船団(ホープ号500トン乗員130人、
リーフデ号300トン110人、ヘローラ号300トン109人、トラウ号220ト
ン86人、スハッブ号150トン56人)の中でただ1隻だけ、1年10ヶ月に
およぶ苦難の航海の末日本に到着した船、それがオランダからの初
めての船、リーフデ号であった。この船には、江戸時代、日本とイ
ギリス、オランダ両国の友好をとりもつことになったウイリアム・
アダムスとヤン・ヨーステンが乗っていた。

 1600年という年は、関ヶ原の戦いで徳川時代を決定した年である。

 この時代、世界史の中では15世紀末にはじまった上述の大航海時
代の末期にあたり、ヨーロッパのプロテスタント国家オランダも東
洋進出に躍起になっていた。

 オランダという国が正式に公認されたのは1648年だったので、リ
ーフデ号がオランダを出発した1598年という年は、オランダがスペ
インから独立を宣言した1581年からわずか17年しか経っておらず、
まだ独立戦争の最中のことであった。)が上げられる。日本には
1543年に欧州勢力としてポルトガル商人が種子島に漂着して火
縄銃を伝達しているから、カソリック国とは面識があったわけであ
るが、オランダ船により、プロテスタント国との接点ができたわけ
である。時の権力者、豊臣政権の大老筆頭徳川家康は、漂着したオ
ランダ船に多大な興味を示した。船に載まれていた武器が、一番の
目当てだった。リーフデ号が運んできた武器は全て没収され、ヤン
・ヨーステンとウイリアム・アダムスは大坂、次いで江戸に上るよ
う命じられた。そこで2人は、ポルトガル語の通訳を介して取り調べ
を受けることになる。運良く彼らの返答は家康の気を良くし、臼杵
で被った損害も補償された。日本に残った乗組員のほとんどは、そ
の後貿易に携わったり、日本人女性と結婚している。この漂着者た
ちは、地図や航海術、造船術の知識、さらには西洋諸国の戦況に関
する情報など、非常に役立つものを握っていた。(リーフデ号の乗組
員のあるものは家康の上杉景勝討伐に砲手として参加したと伝えら
れている。)中でもウィリアム アダムスは三浦按針の日本名を与え
られ、また江戸橋に邸宅、相模国三浦郡逸見村に220石あるいは250
石の領地を与えられ家康の外交顧問として活躍した。彼の業績とし
ては、日蘭貿易のための画策及びイギリス東インド会社へ日英貿易
の利を説き平戸のイギリス商館開設の窓口となったことや航海士と
しての技術を生かした洋式帆船建造などがあげられる。ヤン・ヨー
ステンは家康に仕え外交の諮問に応じる立場として活躍、オランダ
の日本貿易独占に尽力。東京中央区「八重洲」の地名は、「ヤン・
ヨーステン」が転訛したもの。

この中で私が注目するのはオランダ商船からもたらされた武器、長
射程艦載砲である。当時の日本にはなかったであろう、この武器が
、家康に天下取りの意欲をいだかせ、関が原合戦へと繋がったとは
言えないだろうか。わずか、関が原の半年前のことである。この因
果関係を証明する術はない。しかし、状況証拠を考えると、この時
期のオランダとの接触が家康に天下を取らせ、褒美がポルトガル、
スペインを排除してオランダへの独占的交易権の付与であったので
はないか。証明はできないが、辻褄はあっていると考えるがいかが
であろうか。もしこのことが証明されたらどうなるか。日本史は、
このとき以降独立した歴史ではなく、欧州勢力によって支配者が決
められるということである。間接的な意味での植民地である。陰謀
史観との謗りを覚悟で言えば、鎖国(この用語も適切ではない。
選択的開国というのが正しい)の真の意味とはオランダと徳川家で
談合して徳川家による日本支配とオランダの交易を相互承認し、他
の勢力(伊達、島津、毛利、前田等の外様大名)がカソリックのス
ペイン、ポルトガルと結びつかないようにするための規制、枠組み
であったのではないか。島原の乱(1637年のキリシタン一揆。
天草四郎時貞(当時16才)を総大将にし、原城(南有馬町)に総勢3
万7千人で90日間たてこもった。1637年12月 総大将天草
(益田)四郎時貞の下、キリシタン信仰を団結のよりどころに島原
天草の農民三万七千人の一揆軍が原城にたてこもり幕府軍十二万五
千人と戦いを繰り広げた。翌年の二月二十八日、一揆軍は総攻撃を
受け、老若男女問わず皆殺しとなった。日本史上もっとも悲惨な事
件とされる。)で幕府がカソリックに恐怖をいだいたことが最大の
契機となった。

このように考えると、カソリック勢力と接触し、支倉常長(慶長
18年9月15日(1613年10月28日)仙台藩主,伊達政宗
の命を受け,メキシコ,スペイン,イタリア,そしてバチカンと旅
した)け,メキシコ,スペイン,イタリア,そしてバチカンと旅し
た)を派遣した伊達正宗は徳川+オランダ連合にカソリックと組む
ことにより対抗しようとしたのではないか。

種子島に漂着したポルトガル商人によりもたらされた鉄砲が30年
後には織田信長により集中利用され、戦国時代を収束した点も重要
である。日本史の教科書には、この鉄砲の集中利用(長篠の戦い 
1575年(天正3年)には三千丁の鉄砲が集中利用された)が信
長の覇権を決定づけたような記載がされているが、ここで忘れては
いけないのは、鉄砲そのものは、日本刀の生産技術を応用すること
で国産が可能であった(砲身の尾栓を塞ぐネジの技術のみが当時の
日本になかった)が、火薬の原料たる硝石は国内では産出せず、
ポルトガル商人からの輸入に頼ったということである。信長が堺の
支配にこだわったのはマカオから堺にもたらされる硝石を独占する
ためなのである。これは、すなわち、この戦国期というのは日本史
が、欧州から影響を受け、ありていにいえば、シーパワーたる欧州
勢力との提携が国内政治の覇者を決めるようになった時期なのであ
る。これをエージェントというべきかどうか意見はわかれると思う
。江戸時代に入ると欧州シーパワーの中でイギリス、オランダとい
うプロテスタント諸国にのみ交易を許し、スペイン、ポルトガルは
排除した。イギリスはアダムスや初代館長コックスの賢明な営業努
力にもかかわらず、オランダとの競争に敗れ、10年で平戸を撤退
した。これは幕府が排除したのではなく、単に営業的判断であった
ろう。幕府はカソリックを南蛮人、プロテスタントを紅毛人と呼ん
で明確に区別していたのである。オランダとの交易の重要な点とし
て、オランダ船が長崎に入港すると、まず風説書が提出されたこと
が挙げられる。これにはヨーロッパからアジアの政治情勢などが記
載されており、幕府の貴重な外交上の情報源として重用視されてい
た。 

 これは1641(寛永18)年以降その提出が義務づけられた。
むしろ、この情報を得る見返りに交易を認めたというのが真相であ
ろう。当時の日本にとってオランダから輸入するもので必要不可欠
なものはこの世界情勢に関する情報以外にはないのである。風説書
の内容は極秘扱いであり、老中以外は内容を知ることが出来ないた
め重大な情報を得たとしても適切な対応が出来なかった。が、極秘
扱いとはいえ、一部の諸藩はこれに大きな関心を持ち,長崎駐在の
聞役(藩と長崎奉行との連絡に当たる要職)の暗躍で,通詞の訳文
の控えが外部に洩れていたようである。 

 その情報はかなり詳しいものであり。例えば,1673年,イギリス
船リターン号が来航して貿易の再開を求めたとき,幕府はイギリス
の王室とカトリック国のポルトガル王室とが姻戚関係にあることを
理由にその要求を拒否している。その根拠となった情報は,1662年
の阿蘭陀風説書であり、チャールズ2世が1662年ポルトガル王女カ
サリンと結婚した事による両国王室の姻戚関係を知っていたのであ
る。これをどう見るか。言い方を変えると、オランダの情報に依存
するということは、とりもなおさず、オランダによる恣意的な加工
された情報にも頼ってしまうということである。カソリックが領土
的野心があるなどといったことも当然吹き込まれたであろう。

 そして、現在の東京都中央区は運河と江戸時代初期の埋めたて地
で構成されるが、その造成にオランダの知識、技術があったのでは
なかろうか。 江戸期以降、中央区は日本のアムステルダムであり
、本家アムステルダム、ニューアムステルダム(ニューヨーク)そ
して中央区は全てオランダシーパワーの紡いだ線で繋がっていたの
である。

これらの都市に金融センタが存在することが何よりの証拠である。
更に、近世の貨幣制度を確立したのは家康である。金・銀・銅の三
貨制度といわれている仕組みである。この三貨は家康以前にも存在
していた。しかし、使用法は異なっていた。まず金貨は主として贈
答や褒美用のものとして使われていた。軍功を立てた家臣にご褒美
としてつかわすといったものである。これに対して家康が慶長6年
(1601年)に発行した金貨、すなわち慶長小判は、実際に流通の用
に供するために鋳造され、合わせて四分の一の価値をもつ一分判が
発行された。家康はここに従来の使用法を改め、金貨である小判を
中心とした三貨制度を実施した。金貨を貨幣制度の中心に据えるこ
ともヤン・ヨーステンの発案ではなかろうか。更に、生糸輸入の超
過であり、金銀の海外流出が止まらず、必要量を補うため実施した
のが貨幣改鋳である。すなわち、金・銀の品位を下げて同じ量の金
・銀量からより多くの単位の金・銀貨を作ろうというものである。
これは綱吉の時代の勘定奉行・荻原重秀によって始められ、何度か
見直しはあったが、江戸時代を通じて財政危機を乗り越える苦肉の
策として何度も実施された。 
 重秀の発行した元禄小判の例では、慶長小判に対し金の含有量が
三分の二に減ってしまった。これを改めようとしたのが儒学者(儒
教はいうまでもないがランドパワーの教えである)新井白石である
。白石は失われた貨幣への信用を回復すべく、金銀の比率を「慶長
小判」、つまり幕府創設当初に戻した。さらに金銀の流出を防ぐた
めに長崎貿易の制限を行った。(正徳の治)

背景として、オランダシーパワーは長崎を通じ、当時の日本の経済
システムにも影響を与えていた。そして、このオランダによって紡
がれた日本とシーパワーを結ぶ線は次に見る、イギリスとオランダ
の闘争を通じて、イギリスに引き継がれるのである。

ここで、目を欧州に移してシーパワー同士の闘争を見てみたい。明
治以降の日本史に密接に繋がるイギリスとオランダおよびフランス
の海外植民地をめぐる激闘である。 

イギリスにおいて、1649年チャールズ一世に死刑が執行される(清
教徒革命)。2年後、クロムウェル主導による共和制政府[1649-60]
が航海条例(Navigation Acts:航海条例、貿易拡大、植民地貿易独
占のため1651年以降数次にわたって発布; 1849年に廃止された)を
制定したことで、1652-4年の第一次オランダ戦争が起きる。この条
例は、いままでの政策を吸収し、それを包括したものであった。
この基本法令のほとんどが、この後約200年間有効となる。

 イギリスとフランスは、自由な通商により繁栄を謳歌するオラン
ダを17世紀後半以後、締め出そうとする。上記の1651年のイギリス
航海条例の発布とそれに端を発した1652年以後1674年まで3次にわ
たって繰り広げられる英蘭戦争であり、またルイ14世による対オラ
ンダ戦争である。17世紀後半の度重なる英仏との戦争によってオラ
ンダは衰退した。シーパワーたるイギリスとランドパワーたるフラ
ンス双方を同時に敵に回したのだからたまらない。島国と沿岸国で
ある、地理的条件の差異が運命を分かったのである。

オランダが衰退した後に登場してくるのが17世紀末以後のイギリス
とフランスの残った強国同士の激突である。この英仏両国がオラン
ダを打ち負かして互いを仮想敵視するようになるのは、1680年代の
ことであろう。英仏は18世紀を通じて、海外植民地を争う。

 当然のこと、両国の争いは、ヨーロッパ大陸にのみ限定されるも
のではなく、世界の全てのエリアの分割を視野に入れて行われた。 

 戦いは「ウォルポールの平和」(1721‐1742年)という一時的休戦
を挟んで100年近くにわたり行われている。第二次百年戦争とい
うこともある。「名誉革命」により妻メアリー2世とともに王位に
ついたウィリアム3世(在位1689-1702年)は、ファルツ侵略を開始し
たルイ14世と、アウグスブルク同盟を率いて戦ったが(1688-1697
年)、この戦いは北米では「ウィリアム王戦争」として展開された(
ちなみに、イングランド銀行の設立(1694年)により、戦費調達が可
能であった。課税によりまかなうには王権が弱く、イギリスの国力
が貧弱で、植民地戦争が実質的に金融資本主導の戦争であったこと
を物語る)。さらにこれに続いて、スペイン王位継承戦争(1701-1713
年)や北米での英仏植民地戦争(「アン女王戦争」。1702-1713年)が
生じた。これらの戦いにイギリス側は陸海軍ともにフランスを圧倒
し、ユトレヒト和約(1713年)により、ニューファウンドランドやハ
ドソン湾を獲得することになった。 

 「ウォルポールの平和」の後は次のようなものであった。オース
トリア王位継承戦争(1740-1748年)が発生した。イギリスはフランス
を破り、終戦のためにアーヘン和約が結ばれることになった。しか
し英仏間のヘゲモニーが確立したのは七年戦争(1756-1763年)におい
てである。オーストリア=フランス対イギリス=プロイセンの戦いで
あったが、イギリスはカナダ、インドなどの戦いでフランスを完膚
なきまでに撃破した。この戦いでイギリスは、カナダ、インドを支
配下に治めたのみならず、ミシシッピ川以東のルイジアナ、フロリ
ダなどを取得した(パリ条約)。このようにして、18世紀中期、ア
フリカを除く世界の大半でシーパワーとしてのイギリスの優位が固
まった。注意すべきは、この時期、イギリスの対外活動、商工業活
動は、貿易、金融に従事する金融資本主導であったことである。
上述のイギリスのプロテスタント化により、および、17世紀の二
度の革命により王権に勝利し、金融資本に活動のフリーハンドが与
えられたことが非常に大きいのである。逆に言えば王権が弱く、商
人、金融資本に頼らなければ、強大な王権を誇るルイ王朝のフラン
スと張り合えず、世界帝国を形成できなかった。

産業革命以前の製造業としては毛織物が挙げられるが、それは地方
、農村を基盤として、農民の土地を奪い階級分化を促した。羊が農
民を食い殺すといわれたのである。しかし、このシステムはマニュ
ファクチャや問屋制家内工業の域を出ず、イギリスが世界に乗り出
すシーパワーとなるには、上述の金融資本による、本国と植民地で
進展していった経済発展を、たくみに連結させる三角貿易が必要で
あった。

繰り返すがこれは、王権が行ったことではない。貧弱な王権(弱い
規制)にともない金融資本のフリーハンドが実現したことによるの
である。

さらに、イギリスの特質として、金融資本と土着の地主貴族(Sirの
称号をもつ)の相互交流が認められたことが大きい。ありていにい
えば、商人を貴族にしたのである。ビクトリア朝を特徴付けるこの
動き(the Victorian Compromise=ビクトリア朝の妥協と呼ばれる
)は近代のイギリス史を語る上で強調しすぎることができないほど
重要な点である。別の言い方をすると、商人が政権に入り、商業的
見地からcostとprofitを考えて外交政策を決定し、戦争する契機を
与えたのである。すなわち、市場獲得のための軍事力行使である。
この政策を推し進めたディズレーリ(Disraeli.Benjamin1874年、数
次の蔵相をへて、保守党首相。スエズ運河の買収、東インド会社の
政府移管を実行。)はその代表である。イスラエルという名前で分
かるとおり、彼はユダヤ系であった。世界史の教科書にはこのシス
テムは帝国主義と書かれてるが、これこそがシーパワーの真髄なの
だ。背景として、この時期、アメリカ、ドイツの工業生産力がイギ
リスのそれを追い越し、イギリスとして、排他的独占市場を必要と
したということがある。イギリスと植民地間の通信を営む事業者が
、国営のBritish Telecomではなく、民営のCable & Wirelessであり
、日本近代に際して来日したイギリス人が全て商人であったことは
、このことを雄弁に物語る。余談ではあるが、フランスはこれ(金
融資本との提携)ができず、金融資本を活かせず、逆に言うと王権
が強すぎたがために、中世(農業生産力)においては臣下であった
イギリスに、近代(商工業力)において敗れたといえる。かっての
カソリックによる国土回復後、金融資本を追放したスペインがそう
であったように。世界をめぐる覇権争いでイギリスに敗れたフラン
スはその後革命をむかえ、ルイ王朝期の一等国からころげ落ちてし
まう。ルイ王朝とは、本質的にランドパワーだったのだ。

日本において、江戸時代中期頃から日本近海に外国船が頻繁に出没
するようになった。この時期ランドパワーの徳川政権下で、シーパ
ワーの脅威を最初に説いたのが、仙台藩の学者林子平の書いた「海
国兵談」(寛政3年(1791年)刊行)である。「江戸の日本橋
より唐・オランダまで境なしの水路なり」。松平定信によって人心
を惑わせるとのことで発禁となったことがランドパワーの世界観の
閉鎖性を物語っており、興味深い。鎌倉期の日蓮による立正安国論
も同じように蒙古の脅威を説いたものであるが、幕府によって弾圧
された。

このような流れの中で、欧州シーパワー諸国の最終勝利者たるイギ
リスは、インド、シンガポール、香港と地歩を伸ばし、いよいよ、
日本に接触してくる。

明治維新を断行した薩摩長州であるが、彼らは実は江戸時代からシ
ーパワーであったことはあまり語られていない。江戸幕府とは、外
交顧問たるオランダの指導により、東南アジア進出が南蛮国(スペ
イン、ポルトガル)との対立を招くという観点から、海外進出を諦
め、国内の土地配と交易の制限(鎖国)および商業取締りをエトス
としたランドパワーであった。大陸諸国のランドパワーと違うのは
薩摩長州といった反対勢力(外様大名)を体制内に残したことであ
る。薩摩長州は関が原以降仮想敵とされ長州藩などは120万石を
大幅に削られ36万石となったが、実際の財政は石高以上に交易に
より潤っており、幕末には実質100万石を達成していた。薩摩藩
にいたっては幕府の目を盗み琉球や種子島との貿易により潤ってい
た。反面幕府は直接支配する直轄地(天領)は約400万石で、旗
本領を合わせると約700万石となり、全国の石高の約4分の1を
有していたが、実際には農民は畑作(商品作物)の栽培にいそしみ
米穀の収入は激減していて屋台骨は大きく揺らいでいた。これが倒
幕を可能ならしめた一つの大きな理由なのであるこのような時代背
景で、イギリスは薩摩長州と接触した。その契機は生麦事件(1862
年、文久元年8月21日、旧東海道の一漁村生麦村で起きた薩摩藩主
島津久光の行列を無礼にも騎馬のまま横切ったイギリス商人リチャ
ードソンを薩摩藩士が抜刀のもと切り捨てた)につづく薩英戦争(
生麦事件で,薩摩藩はイギリスの犯人処刑と賠償金支払い要求を拒
否し、攘夷実行の準備を着々と進めた。イギリス艦隊は、本国から
の訓令に基づいて、同2(1863)年7隻が鹿児島に来攻した。
同年7月2日イギリス艦隊は行動を開始,荒天の中で激しい交戦が
続いた。イギリス海軍の世界最新のアームストロング砲は,十分に
威力を発揮して,市街焼失1割の損害をあたえた。古い装備の薩摩
軍は,士気が旺盛で訓練も十分であったので、戦死者60余名におよ
ぶ打撃を与えた。薩摩藩は、この戦争で攘夷の不可能を悟り、藩論
をイギリスとの提携へ大きく転回した。)さらに、元冶元年(1864年
)、長州藩は、8月4日、英仏欄米の四カ国艦隊に砲撃。近代兵器
の威力の前に、長州の武士は為すすべもなく、6日には、イギリス
海兵隊1400、仏国兵350、阿蘭陀兵200が前田に上陸。茶臼山、前田
、壇ノ浦一帯の砲台を占拠、破壊。彦島の砲台も砲撃。8日、前田
、彦島の砲台から砲を捕獲。午後、高杉晋作らが休戦協定を締結。
これを契機に長州藩は「開国」政策に転換し、やがて維新への大激
動となっていく。交戦を通じ、薩摩長州藩士の士気の高さに驚き、
他の植民地にない知性と礼節を弁えた日本の武士の存在を知り、パ
ートナーとするに足る存在であることを認めたのである

この後、薩長はイギリスの支援を受け(特に最新式の銃火器を大量
に安く調達できた。最初はミニエー銃、仏軍、ミニエー大佐が、椎
実弾の底部に木栓をはめ、発射時にガス圧で木栓が弾丸中に押し込
まれ、スカート部が拡張してライフルに食い込ませるという弾丸「
ミニエー弾」を発明した。ミニエー弾であれば、口径より少し小さ
い弾丸でも、回転を与えられるため、従来の弾丸よりも格段に弾込
め作業が簡単になった。) 薩摩藩は、薩英戦争後に攻められた後
の軍制改革で、これを一万挺購入した。火縄銃しかもっていなかっ
た幕府軍に対して、火力で圧倒的優位に立ったのである。(薩長に
武器を売ったのは、長崎グラバー邸で有名なグラバーだ。1859
年、長崎開港直後、 21歳で来日し、グラバー商会を設立。お茶や
鉱山設備も扱ったが、武器や船が主だった。1866年イギリス政
府は、エンフィールド銃(イギリス風改良ミニエー)前装銃を、後
装銃に改造し、エンフィールド・スナイドル銃と呼んだ。戊辰戦争
でも、西軍は江戸城占拠後、イギリス製ミニエー銃を、スナイドル
銃に改造した。この銃は、西南の役の頃も、明治政府軍の標準銃と
して使われている。

幕府はナポレオン三世に率いられたフランスの支援を受け、内戦状
態に陥る。まさしく、シーパワー連合VSランドパワー連合の構図で
ある。アメリカは国内問題(南北戦争)を抱え、日本への関与どこ
ろではなくなってしまう。 結果はイギリス金融資本に支援を受け
た薩長の勝利であった。ここで、私は幕府が自壊したのは、フラン
スが普仏戦争(1870年〜1871年プロイセンとフランス間で行なわれ
た戦争スペイン国王選出問題をめぐる両国間の紛争を契機として開
戦プロイセン側が圧倒的に優勢でナポレオン3世はセダンで包囲され
、1870年9月2日同地で降伏 )を抱え、日本への関与ができる余裕が
なくなったことが大きいと考える。イギリスとフランスが談合し、
日本はイギリスへまかせるというような密約、取引があったと思う
のは考えすぎであろうか。

この後成立した薩長による明治政府は外交の観点からはイギリスの
門下生となり、実質的にはイギリスの間接統治のような形態であっ
た。若手をイギリスに留学させ、内政については憲法と陸軍を当時
勃興してきた新興国プロイセンに学んだため、ランドパワーであっ
た。当初、内政や憲法もイギリスに学ぼうとしたところ、イギリス
の近代化は上述のように金融資本主導であり、日本の薩長主導によ
る上からのそれとは事情が異なったため、当時興隆していたビスマ
ルクのドイツ帝国がプロイセンという封建領主国主導で上から近代
化を行っており、日本に似た事情から、参考になるとのアドバイス
を得たのではと推察される。当時としてはやむを得ない選択である
と考えるが、このシーパワーとランドパワーの重層構造が後に破滅
を招くことになる。

安全保障上の観点から朝鮮半島支配をめぐって、ロシアとの衝突に
及んでロシア(ランドパワー)と組むかイギリス(シーパワー)と
組むかという対立が起きる。前者の旗頭は伊藤博文であった。結果
的にはイギリスと組んでロシアと開戦(日露戦争1904(明治37)年2月
6日〜1905(明治38)年9月5日朝鮮・満州の支配をめぐる日本とロシア
帝国の間で戦われた戦争朝鮮半島・満州を主戦場とした。1904(明治
37)年2月8日瓜生戦隊による仁川港奇襲で戦争開始、10日宣戦を布告
。陸軍は4軍を編制、総司令官大山巖、総参謀長兒玉源太郎のもとに
満州軍総司令部を設けて全軍を統轄。同年8月〜翌1905(明治38)年1
月の旅順要塞、1905(明治38)年3月の奉天会戦、同年5月27日の日本
海海戦など一連の戦闘で日本が制限つきながら勝利)に至ったので
あるが、イギリスの出方次第では逆の可能性すなわちロシアと組ん
でイギリスと開戦といった可能性だってあったのである。はからず
も、この構図は40年後に実現する(三国同盟+日ソ不可侵条約で対
英米開戦)。このことはいくら強調してもしきれるものではない。歴
史にIfは禁物であるとされる。しかし、歴史の転換点というのは必
然の結果ではなく、偶然の産物であることも多々あり、地政学的観
点からリムランドの日本は大陸勢力と海洋勢力の相互の影響を受け
、激突の最前線なのである。

いかにして明治期の日本がシーパワーとして台頭してくるかに関わ
るため、この辺りを少し詳細に見ていきたい。イギリスは、上述の
ように、17世紀の二度の革命を通じて、実態は共和制であり、国
王ですら勅許なしには入れなかったCityを動かす金融資本家が国家
の主である事は論を待たない。ロンドン市長とは永らく、この金融
資本家による互選で選出されたギルドの組合長を指しロンドン市と
はあくまでCityの内側を指すのである。普通選挙でロンドン市長が
選出されたのはつい最近が始めてである。彼らが大航海時代、産業
革命を通じ世界に乗り出していったであり、現在にいたるまで、イ
ギリスの政策決定に大幅な関与を有している。イギリスとは商人す
なわち金融資本が築き、その利権を守るため軍隊(国家)が乗り出
すという構図なのである。日本で言えば戦国期の堺や博多がそのま
ま自治権を獲得し、国家を裏から操っているがごときである。彼ら
は資本主義を信奉し不断に市場を求め資源を求める。極東において
は阿片戦争で清を屈服させ上海、香港といった地域での利権を確保
し、日本とも貿易の実をとるべく安政の五カ国条約で鎖国政策を放
棄させ通商権を得た。しかも治外法権と関税自主権を認めないとい
う片務的かつ互恵でもなんでもない形で。

清に対する軍事力によるアプローチと日本に対する薩長を背後から
操る間接支配のアプローチ(上述のように、薩摩長州が倒幕に成功
したのはイギリスの支援で最新式の銃火器が安く調達できたことに
よる。戦国期の織田信長がポルトガルから硝石を輸入できたことに
より、鉄砲の集中運用から、国内の統一ができたこと、徳川家康が
オランダ船から長射程艦載砲を譲受け、関が原に勝利したことと、
さらに、江戸期、徳川家による支配を安定させるため、諸大名に外
国貿易を禁じたことと、本質は同じである。薩長がイギリスという
外国勢力と提携したために、幕府は滅びたことは、この鎖国という
政策が、徳川家の維持には役立ったことを反対証明として、雄弁に
物語る。認めたくないが、外国勢力が日本の支配者を決めるという
慣行なのである。これを対等なパートナーが見るか、エージェント
(代理人)と見るかは読者の判断にまかせる。重要な点は彼ら外国
人がその戦略商品を他の大名に渡していたら、そちらが天下を握っ
ていたか可能性が高いということである。)の対比は興味深い。清
においては中央集権国家であり薩長のようなコントロールできる反
対勢力が存在せず、かつシンガポールという後背補給港を有してい
たことから軍事攻撃が可能であったこと。又、1860年代にイギ
リスが植民地政策から自由貿易政策へとシフト(穀物法が1846年に
撤廃されると、英国の内側では産業資本主義が定着し、国際社会に
対しては帝国主義が退き、グラッドストン内閣下自由主義的な「小
英国主義」が基調となった。)したことがその理由であろう。植民
地直接支配はコスト高でペイしないことをインドで学んだこともあ
ろう。

この日英の蜜月言い方を変えれば師匠と門弟の関係は日露戦争まで
続く。

日英同盟によりロシアの南下を防ぐことに成功したわけであるが、
1905年の改定でインドを守備範囲に入れていたことを知る人は
少ない。これはインドにおける英の利権を守るために日本海軍は出
動するということである。このように、日本はイギリスの忠実なる
パートナーまたはエージェントであったため、両国に利害の対立は
なかったのである。

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