1441.「ヤクザ・リセッション」を通して見えた日本社会



「ヤクザ・リセッション」 ベンジャミン・フルフォード 光文社ペーパーバックス
   「ヤクザ・リセッション」を通して見えた日本社会
                                  S子
▼    個人に厳しい日本社会
最近私は「ヤクザ・リセッション」という日本在住20年のカナダ人
ジャーナリストが書いた本を読んだ。その内容は日本社会の構造が
今日日本経済が混迷をきわめている要因となっているというものだ
った。

「政・官・業・ヤクザ」の癒着構造がなくならない限り日本再生は
ありえないと彼は言っている。彼のこの分析はまず間違いないだろ
う。彼は普段私たちには見えない日本の闇世界の話を提供してくれ
、私は大いに興味を抱いてほとんど一気に読みあげた。

しかし、私はこの本を読みながら別の思いも抱かずにはおれなかっ
た。それは日本という社会が組織という大きい強いものには甘いが
、個人という小さい弱いものには厳しいということである。それも
個人には徹底的に容赦なく厳しい社会であるということ。つまりそ
れだけ日本国民を軽視している証拠でもある。

▼    労働形態の変化
小泉政権になってからの日本経済の破壊は著しい。自営業者の破綻
や中小零細企業の倒産、大企業によるリストラ等で失業者は増加し
ている。政府による雇用創出対策はなく、失業者対策のセーフティ
ネットも言葉だけで真に国民ひとりひとりを救済するという思いは
なさそうだ。

人々は生活不安にかられとりあえず働く場所を確保することで精一
杯である。それがアルバイト、パートタイム労働、フリーター、派
遣社員というこれまでは特殊な人に限られていたものが今は一般化
しつつある。日本社会における労働形態が大きく変化し、これまで
にないような日本社会が出現しつつあるということだろう。

こうして人々が連帯することもできないような社会構造ができあが
り、ひとりひとりが孤立する状況がうまれている。個人が追い詰め
られている。そうして失業問題も結局は個人の問題として帰結させ
ようとしている。自殺者も年間3万人を越えているのにこの問題を
大きくとりあげるメディアはない。

▼    孤立を招く成果主義
以前より聞いたり見たりした言葉ではあるが、最近よく出てくる言
葉に成果主義というのがある。サラリーマンの終身雇用や年功序列
が崩壊し、個人の実力が大きく問われる時代に突入した。だから一
層成果主義がもてはやされるようになっている。小泉政権下でおこ
なわれる弱肉強食政策が進行している証拠でもあるだろう。

この言葉は一見すると響きはよい。個人の能力が問われるわけだか
ら、頑張れば頑張ったぶんだけ成果給となってあらわれる。会社、
社員個人、顧客という三者の価値が合致すればこれほどうまい話は
ない。

しかし、成果主義は常に相手との競争を念頭におくわけだから、や
やもすると目先の利益優先という短期目標に重点がおかれやすい。
そうなると目的のためには手段を選ばずということになり、モラル
の破壊がおこる。

またこの成果主義は資本主義社会における成長至上主義とも連動し
、ますます個人は追い込まれる状況をうみだす。最終的には同じ会
社内の社員さえもが競争相手となり孤立してゆくしかない。業績が
悪化した場合には会社の責任は問われず、個人の責任となり首を切
られ会社に使い捨てにされるだけだ。

▼    弱体化する労働組合
こうして国民ひとりひとりが雇用不安や生活不安の中にあるのに、
労働者の立場にある労働組合はいったいどうなっているのだろう。
残念ながら日本における労働組合の組織率は、雇用形態の変化にと
もない年々低下する一方である。

それは日本の労働組合が大企業や公務員に多くあり、アルバイト、
パートタイム労働、派遣労働等の不安定雇用という一番生活に切実
なところでは労働組合が組織されにくいことにある。

また労働組合員と執行部との意識の差、執行部と会社経営者との意
識の差との板ばさみや、戦後未曾有の日本経済危機に直面して労働
組合が大きく労働者の権利を主張できないでいることもある。

労使の力関係があまりにも乖離しすぎている。だからリストラを受
けないように無理をして働く過労死問題やサービス残業が横行する
。そして結局は個人が追い込まれてゆく。

▼    個人の覚醒
このように日本社会はどこまでも個人という小さくて弱い者には冷
たい。しかしながらこの経済危機において、日本政府が最終的にあ
てにしているのが個人資産1400兆円であるから笑えない。国民
が汗水たらしてまじめに働き蓄えたお金を一瞬にして吸い上げる、
または吸い上げようとしているのだから、日本は「ドロボー国家」
だと「ヤクザ・リセッション」の著者は言っている。

国民は完全に日本政府になめられており、このままの状況が続けば
さらに失われる10年は続くだろうとも彼は言う。そうならないた
めには、国民ひとりひとりがこの未曾有の経済危機を正しく把握、
認識する必要があるようだ。

ところが日本の危機的状況の中、メディアの大半が権力の手に落ち
偏向報道をしているから、国民に真実が伝わらない。どこまでも国
民はなめられてしまう。これこそがまさに危機的状況である。いっ
たいどうすればいいのか。

とりあえず私たちが今できることは、自分がどのような生活状態に
あるのかしっかりと凝視することである。変化はあったのか、なか
ったのか。どのくらいの変化でそれが悪かったのか、良かったのか
。

小泉首相は改革に痛みはともなうと言ったが、どこまでその痛みを
我慢できるのか。もうすでに限界なのかどうか。国民にばかり痛み
を押付けているが、小泉首相自身はこの痛みを感じているのかどう
か。同じ日本国民であるなら痛みを共有してこそ初めて改革が叫ば
れるのではないか。何かが違う。おかしいと疑問を感じ自分自身で
考え始めたら、そこが個人の覚醒の出発点だろう。

▼    個人メディアの連帯
ありがたいことに、今はインターネットという個人に開かれたメデ
ィアが存在する。これを利用しないわけにはいかない。同じ境遇に
ある者、同じ悩みや痛み苦しみを抱えている者同士の連帯は、イン
ターネットにおいては容易である。

ここでは姿かたちは見えなくとも、こころの中では同じ思いを共有
できる。こころに抱えている悩みや苦しみをうちあけることで、こ
ころの負担はずい分と軽減される。ひとりでは見えなかった解決方
法もインターネットで連帯することにより、いろいろな解決方法が
あることを知る。ひとりではすぐにあきらめていたことも、あきら
めずにすむ。

こうして情報を交換しあうことで知性の共有をはかることができる
。知性の共有はやがて生きる力へとつながる。権力に毒されていな
い個人のメディアは言うなれば無償の愛そのものだろう。私たちが
より住みやすい日本社会にするためには、この無償の愛という個人
メディアを通して連帯し、小さな力を大きな力に変えてゆくしかな
いと私は思っている。

参考文献    「ヤクザ・リセッション」 ベンジャミン・フル
                         フォード著
                           光文社

        「経済」11月号 p98 「過労死、過労自殺
                      はなぜなくならな
                            いか」
                         新日本出版社
        「日本の労働組合の現状(資料編)」
      http://www.interq.or.jp/red/rodo/unionsituation/
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(Fのコメント)
いつも、興味あり記事をありがとうございます。自民党の支持母体
が、農民層、中小企業主であり、どうサラリーマンから金を奪うか
を考えてきた政権であるために、そのようなことになっている。
この改革を自民党自体がするしか政権を維持できないと小泉さんが
立ち上がったのです。
権力基盤の問題が大きいと思う。
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年金という争点。 虚風老 

  年金問題が、有権者の最大の関心事になっておるという。まあ、
わしゃ、それだけが重要とは思わぬが、選挙終盤、訴えるべき争点
は、ここじゃろう。
残念ながら、自民党は、相変わらず内容をうやむやにして、言質を
取られないようにしとる。出ているのは、厚生省案(公明党案に近
いもの)と財務省案じゃ。
 ここに、まやかしがあるのは、一目瞭然じゃね。

公明党案は、口当たり良く言えるが、責任がない。小泉政権が、事
実上、財務省にべったりなのは、政界すずめなら、知るところだしの。
「必要なのは、国民皆年金の制度が崩れないことだ。」これは、あ
たりまえのことを、言っておるに過ぎん。中身が問題じゃというのに。

年金問題には、三つの視点から見るべきじゃろう。
一つは、<若い世代で、老世代を支える>というシステムが、少子
化という厳然とした事実の中で、破綻してしまうということじゃ。
一つは、<未加入、不払い>(若い世代の4割にも達しようとして
いる)の増加を止める有効な手段がないことじゃ。
もう一つは、既に年金は、人生計画の一翼をになっていて、家族的
責任(子供から親への仕送り)などという、システムが働かないだ
ろうということじゃ。

 この点からみれば、こう説得すべきじゃろう。
若い世代には、年金が無くなって、あなたは、「親へ、月に10数
万もの仕送りできますか?」また、「あなたの子供が、仕送りして
くれますか?」と尋ねるべきじゃろう。

民主党案にある、基礎年金の税化(消費税を中心とする)は、上の
二つの問題を解決するのには有効じゃろう。全員で支える形にはな
るからの。
最低限の保証が、社会の<安定の基盤>なのじゃよ。いつも、

自民党は、消費税は福祉に使いますと、掛け声だけは言うが、ブラ
ックボックスの中で票集めの、利権分配に使っておるに過ぎん。
(だから、道路予算総体から、高速道路償還費を捻出するのを嫌が
るのじゃね。土建族の取り分が減る。)

 年金が、今や、社会の安心の根底にあることは、関心の高さを見
ればわかる。安心こそが、社会の建て直し、基本であるとすれば、
その為には、今、根本的な<制度変更>をする必要があるのじゃ。
今なら、まだ余力はあるしの。少なくとも、見通しを(経済が上向
けばとか、突然少子化が止まるなど)あまり、楽観的にしないこと
じゃね。

二階建てにした、所得応分の納付と給付も、社会の現実をみれば、
良い対応といえるいえるじゃろう。(国が主体運営するか、民間の
個人年金が活用されるかは、まだ議論の余地があるじゃろうが)
問題があるとすれば、現行の複雑な制度から、どうスムーズに移行
するかじゃね。
かなり腕力のいる断行になるじゃろうからの。
まあ、だからこそ、現在ある巨額?の積立金をシステム移行に伴う
齟齬をならし、緩やかにするために使うべきじゃろうね。

 郵政民営化は、肝心の内容が見えんから、思考材料の乏しいのう。
一つだけ言えることは、バブル崩壊前に郵貯がなくなっていなかっ
たことじゃ。ほとんどの個人の貯蓄の安心の核があったことで、
(その内実がどうあれ、国の保証があるという安心)日本経済はパ
ニックにはならずにすんだ。
へたに市場に無防備に出していれば、国際金融資本に<尻の毛>ま
で抜かれかねんかったからの。
普通、国民資産が三分の一に減価すれば、恐慌になっとるじゃろう
な。日本人の保守的金融運用が、重しになった例じゃね。金融運用
はすべての<生活費>をあてるべきものじゃない。
変動が少ない低リスク低リターンの<核>を持っておることが必要
なんじゃ。

問題は、財投等の使い方にある。透明性がないから、金庫をあけて
みれば、お金は官僚(天下りを含めて)と、土建の腹の中というこ
とが知れるだけかもしれんがの。

郵政問題の中心は、<財投の中身>こそキチンと、精査されるべき
ということなんじゃ。
                       虚風老
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(Fのコメント)
その通りである。年金問題をそのままにすることはできない。
年金の基礎部分を公共事業に使っていた道路資金を回すことも検討
するべきだし、道路の維持管理だけに用途を限定して、残りを年金
資金にすることが必要である。
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件名:西洋・中国、そして日本美術  

日本の美意識を表現する大和絵・温かく優しく優雅なる情の世界

物質面を追求する西洋美術

 源豊宗氏は『日本美術の流れ』(思索社)の中で、西洋・中国・
日本の美術の特質について、西洋美術はヴィーナスの官能性、中国
美術は龍の精神性、日本美術は秋草の情緒性に象徴されると述べて
おられる。

 ギリシャ美術の特徴は、人間を中心とした合理性の追求であり、
調和・統一・均整による理想美の探求であるとされる。例えばミロ
のヴィーナスも、女性の人体における完璧な造形の追求の結果生み
出された作品である。

 しかし、注意すべきは、それがあくまでも「造形」上の探求であ
る点だ。言い換えるなら、物質的側面の探求と言えよう。これは、
人間中心・物質中心を特徴とする西洋文明全体の特徴と全く一致す
る。私もパリ・ルーブル美術館のミロのヴィーナスやギリシャにあ
るいろいろな大理石彫刻を間近で見たが、造形の見事なことに驚か
された半面、心に深く染み入るような感動は全くなかった。このギ
リシャの大理石彫刻に象徴されるように、人間を中心とした物質的
側面における造形美の追求こそが、西洋美術全体を流れる大きな特
質なのではないだろうか。もともと木造の小屋だったギリシャの神
殿を、巨大石造建造物にしたのも、絵画における執拗な遠近法の追
求も、西洋美術の物質的追求の産物と言えよう。

 また、西洋美術には、中世を例外として、裸体表現が極めて多い
。源氏が指摘されるように、官能美の追求も西洋美術の大きな特徴
と言うことができる。

孤高的精神を描く中国美術
 中国絵画を代表するものと言えば、龍と山水であろう。中国の龍
図には、孤高にして威厳に満ちた精神性と、深遠にして幽玄なる神
秘性がある。それは支配者の孤高、威厳、神秘性に通じるものであ
ろうか。また山水図は、高い教養と精神と財力を持った高士が、俗
塵・俗界を遠く離れ従者を従えて、深山幽谷に孤高に隠栖する姿を
描くものである。
 龍と同様に孤高性・威厳性・神秘性を備えている。山水図が縦長
の構図が多いのも、これらの特徴と深く関係している。

 中国では文人たちの宴には、職人絵師たちは技術がいくら優れて
いても、参加することは許されなかった。学問・教養を身に付けた
文人と、市井の職人とは厳格に区別されていた。中国では、上流の
人々と庶民との階級的な隔たりが、極めて大きかったのである。
 日本の歌集のように、天皇と遊女の歌が一緒に編纂されることな
ど、想像もできなかった。中国絵画において、高士と世俗が遠く離
れていたことと、現実の文人と職人が相容れなかったことが重なり
合う。

 これらの、孤高性・威厳性・深遠性・強い階級意識・世俗の否定
といった厳格な精神主義のほか、中国美術には「枯れ」あるいは「
枯淡」という表現上の大きな特徴がある。
 山水に描かれる山や樹木は、書と同様、骨法を重んじて描かれて
いて、香の煙のごとく精神を落ち着かせてくれる。しかし、それら
には決して生き生きとした潤いはない。枯れているのである。橘の
香りのような新鮮で清らかな香りを感じることはできない。

 物質性を追求する西洋美術が大理石の冷ややかさを持つとすれば
、厳然とした孤高の精神性を追求する中国美術は、青銅器の冷たさ
を備えていると言えるのではないだろうか。

深い情緒性を持つ日本美術
 日本の美意識を、最も濃厚に表現しているものは大和絵である。
大和絵を代表する『源氏物語絵巻』や『鳥獣戯画』などは、背景の
重要な要素としてたおやかでゆかしい秋草を描いている。さらに、
江戸初期に大和絵に一大変革をもたらした本阿弥光悦・俵屋宗達、
またそれを継ぐ尾形光琳らに至っては、歯朶や蕨などの春草を中心
主題として描いているのである。また、着物や工芸品にも、あらゆ
る種類の草が描かれている。

 見逃してしまいそうな野辺の草を、中心主題にまで高め、しなや
かで優美に描くのは日本人だけであろう。そこには小さくて弱いも
のを、いとおしみなつかしむ日本固有の深い情緒性がある。それは
、官能性や物質性の強い西洋の美でもなく、厳格で孤高な中国の美
でもない、温かく優しく、そして優雅なる情の世界である。野辺に
咲く小さな花や草をいつくしむ心は、本当の強さを持った人からで
なくては生まれてこない。江戸時代には、秋になると上野の不忍池
に集まり、虫の音を聞いて夜長を楽しむ「虫聞き」が盛んだったそ
うだが、これも「秋草の美」と同様の美意識であろう。

 大和絵の形式的な大きな特徴は横長で、人と自然とが同じような
大きさで描かれる。場合によっては、人より草を大きく描いてしま
うこともある。それは、日本人が常に自然と解け合い、自分と他を
分け隔てない平等意識の表れではないか。

 そして、このように物質性でもなく精神性でもない、温かく優雅
な情緒性によって美を表現しようとする日本人の根底には、最も美
しく自然と融和し、循環性に富んだ生産手段である稲作というもの
がある。稲を最高の食物と考えたことと、草を最高の画題としたこ
とには深い関連性があるのではないだろうか。

 西洋美術が大理石、中国美術が青銅器に象徴されるとすれば、日
本美術はおおむね温かいぬくもりをもった白木に例えることができ
るだろう。日本画家 鳥居 礼
               世界日報 ▽掲載許可済です
Kenzo Yamaoka
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件名:生命の尊厳性論議の深化を  

東洋医学の視点必要・明確な観点が欠如

 政府の総合科学技術会議生命倫理専門調査会で人間の受精胚やク
ローン胚生成についての議論がなされているが、今一つ白熱した論
議がない。この種の問題では生命の尊厳性の価値を中心にした議論
の深化が必要だ。

 同会の先月二十八日の会合では、@受精胚の作成はどんな研究目
的の場合に認められるか、公的規制機関を設置して判断するAクロ
ーン胚の作成、利用は必要な制度を整備して認めるか、あるいは胚
性幹細胞(ES細胞)研究の進展を待って是非を判断する―との報
告案が示された。しかし、人間の受精胚やクローン胚の今後の研究
のあり方について明確でなく、その論議は上滑りの感が強い。

 受精胚の作成についてはこれまで、日本産科婦人科学会の会合の
会告に基づき、不妊治療とその研究に限って行われてきた。クロー
ン胚の作成は、クローン技術規制法に基づく指針(二〇〇一年十二
月施行)で禁止されている。今回、その方針の議論から一歩も出て
いない。

 今回の報告案でも、依然、遺伝子組み換え技術に関連する法的整
備が不十分であるため、議論そのものが進まないという点があった
ことは十分考慮されるべきだ。しかし、それにしても生命の尊厳性
という視点を明確にした哲学的考察、およびそれを踏まえた国民的
議論がなさすぎる。

 米国では受精卵を使用することに宗教的な反対もあり、ブッシュ
大統領はES細胞の研究に公的助成を認めない方針を表明している
。フランスには生命倫理法があり、英国にはヒト受精・胚研究法が
ある。海外のこれらの措置、法律は、生命のあり方を説き、それに
対する社会的合意や見解を維持しながら研究を進めようとする国家
の意志の表れと見ることができる。が、わが国の場合、他の先進国
の研究の進捗(しんちょく)状況をにらんだ、いわば他律による研
究プランであると言うことができよう。

 欧米ではその宗教的風土のために、生命倫理から遺伝子組み換え
問題まで、専門家と国民との間で討議する場が日常的にある。わが
国では他の先進諸国と比較して、これまで生命倫理の議論があまり
に少なかったといううらみがあるのである。この際、政府の総合科
学技術会議生命倫理専門調査会は、ES細胞の研究の意義について
国民に明確な問いかけをなすべきである。 

宗教的思想に注目 
 その際、提起すべき重要な視点は東洋医学の思想である。日本で
は、人間存在を含めたあらゆる自然現象を全体として理解しようと
する思想が発達してきた。生命現象についても、単に科学の対象で
はなく、生命の目的は子女誕生であり、ひいては健全な家庭の形成
、それに基づいた社会、国家の構築、世界平和という考え方が昔か
らあった。

 今日、東洋のその種の宗教、哲学的思想が科学技術の本来の方向
を見定めるべく、力を発揮しているとは言いがたい。アジアにおい
て、遺伝子操作技術のトップランナーであるわが国は、生命倫理で
大いに主張すべき根拠がそこにあるように思う。

 たしかに医療の最先端分野である遺伝子操作技術分野に対するわ
が国の取り組みは、欧米の資本投入量と比較しても見劣りすること
は否めない。遺伝子操作技術の研究進展には期待をかけたいが、決
して拙速に走るべきではないのである。
 (科学ジャーナリスト・柴 穣治)世界日報 ▽掲載許可済です 
Kenzo Yamaoka


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