1434.読者の声



私は、現在年金をもらっていますが、年金について若い人が非常に
心配していることを実感しています。若い男性は、生活に対する不
安があるうちは結婚を躊躇するようです。

年金問題は詰まるところ、世代間負担(賦課)のため、少子化問題そ
のものとなっています。少子化の解消はかなり難しく、年金は、少
子高齢化が進むことを前提に論じなければなりません。

少子高齢化に対する解決法は、
(1) 見かけ上の労働人口の増加
(2) 高年齢世代内負担の導入
(3) 家族内負担の導入
の3点から対策を考える必要があります。
(世代間負担の増額という見方もありますが、限界に近づいている
と思います。)

(1) 見かけ上の労働人口の増加
  これには、国内での労働人口の増加と海外の労働人口の国内化
の2点があります。

 1.国内労働人口の増加策
   これは、就業年齢の引き上げの制度化(例えば、75歳まで)が
      考えられます。また、移民も考えられますが、移民の質が問
      題となり、かえって国民の負担が増大することも生じるので
      一概によしとは言えません。
 2.海外労働人口の国内化
   現在日本は、膨大な海外投資を行っています。
   これは、海外の労働力を使って、企業活動をしていることを
      意味します。したがって、海外投資から得られた利益や配当
      金の一部(現在の法律での税金の一部)を厚生年金や国民年金
      の基金に使用すれば、見かけ上、海外の労働力の国内化にな
      ると思います。

(2) 高年齢世代内負担の導入
  これは、世代間負担の増加を世代内負担で補おうという考えで
    す。国内資産の多くの部分は、高齢者が持っているとのことで
    す。したがって、この資産から納入される税金は、世代内負担
    に振り分けるのが妥当と考えられます。

 1.高齢者が負担している税金(65歳以上の人の所得税、地方税、
      配当税、利子税など)の一部を年金基金に組み入れる。
 2.相続税を上げ、増加した税金を年金基金に組み入れる。

(3) 家族内負担の推進
  これは偏に、同居の推進をすることになると思います。
 
 1.同居可能な住居への建替え、買い替え推進策の導入。
 2.家族による高年齢者看護にも介護保険を適用する。

 など

今までは、どのような議論がなされているのでしょうか。
「消費を増やすため」(消費が増えることが本当によいことなのか
はわかりませんが、現在は、消費が増えないと税金が集まらないよ
うになっているので)にも「子供を増やすためにも」明確なビジョ
ンを国民に示す必要があると思います。

健康保険に関する提言
健康保険財政は、企業も国も赤字になり、このままでは、破綻をす
るかもわかりません。年収で徴収すべく、企業や個人に負担を求め
ていますが、介護保険も含め、対策が必要です。

健康保険財政の建て直しは、徴収金額を増やすか、支出金額を減ら
すかの2つしかありません。徴収金額の増加は、保険料率や保険料金
額を上げることにより実行していますが、限界に近づきつつありま
す。支出金額の減少は、支払い負担率を上げることにより実行して
いまが、更に工夫が必要と思います。
例えば、高額医療に対しては、10万円/年を超える場合は、所得税
控除を受けるようになっていますが、これは負担を軽減するための
方策です。

見方を変え、きわめて健康なものに対する控除を充実することによ
り、各自が日ごろの健康に注意し、結果として、医療給付が減少す
ることが期待できます。一例として、「国民の一人当たりの年間医
療費の8割以下の人は、差額の2から3倍の税控除を与える」などの案
があります。

現在IT化が推進されているようですが、個人レベルの医療費の把握
は、健康保険番号と住民番号とを組み合わせれば、可能になると思
います。

これによれば、簡単な試算ですが、平均医療費が2.5万円とし、その
8割すなわち2万円以下の人に税控除を与える場合は、仮に、医療費1万
円/年の人は差額1万円の2から3倍、すなわち2から3万円の税控除が
受けれることになり、各人が健康を維持しようとする意欲が増進す
ると同時に、無駄な医療を受ける機会を減少させる効果が期待でき
るのではないでしょうか。

介護保険については、扶養者への税控除を行う同様な制度を設ける
ことにより、無駄な介護を受けようとする人が減るのではないでし
ょうか。

本来は、優秀は医者に対しては、健康を回復するに必要な期間が短
く、また、再発率がより低くなることを期待して、報酬料を増額す
るなど、質に対応する報酬を決めるべきであろうと思いますが、実
現が不可能です。それであれば、患者側からの評価に基づく報酬料
の個別制定が可能であれば更によいのですがこれもよい案が浮かび
ません。
小野 惠嗣
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件名:民主主義 

埼玉県の参議院補選の投票率は、28%に満たなかった。当選者の
得票数は、有権者数の12%弱ではないだろうか。

立候補するのには、供託金が必要であるが、有効投票の20%を獲
得しないと供託金は、没収となる。供託金制度には、常日頃、疑問
を感じている。国家のご都合で設けられたものではあるが、有権者
の12%で当選できるのにも疑問を感じる。しかし、供託金制度は
、貧乏人が立候補できない制度だ。
 
投票率の低さを如何に見ればよいのだろうか。
それは、政治不信と政治の実態が見えない事が先ず考えられる。
 
国民に行政が見えれば、政治家の利権あさりや腐敗は、消え、政治
不信は、自ずと減っていくのではないだろうか。
 
民主主義の基本は、先ず行政の情報公開である。情報閲覧に多額の
費用を要する等、これこそ民主主義に違反している。いつでも、行
政が見える状態する事こそ民主主義と言うものではないだろうか。
 
今やIT時代である。政治が見えない。そして、メディアが真実を
伝えない。政治家とメディアとの癒着にある。
 
公職選挙法
寄付行為
就職斡旋
埼玉補選
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Akiko Kunii
email: takunii@d1.dion.ne.jp
URL: www.d1.dion.ne.jp/~takunii
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!!視聴率買収事件と国政政党云々率は同等!!

国際戦略政治評論コラムとはちょつと違うかも知れませんお許しの
上読んで頂ければと思います、
宜しければ国際戦略政治評論のどなた様かコラムを頂ければと思い
ます。

日本テレビの視聴率買収事件「事件と言うのか?」私はテレビ・リ
サーチなどと言う物は信用出来ない。と常々見ていました。紙面を
賑わした通りマスコミがスポンサーの機嫌取りの一環と見ます。
其れより、スポンサーの会社がそれ程願っているのか担当の社員が
今回と同様先走りして、手柄をとスポンサーと共同で今回の事件が
当然の結果として出てきたので今更大げさにする事は無い。

其れよりも国政政党の各評価を国民にリサーチして、結果を各新聞
に記載しているが色々各社の調査方法が記載されていて、各社とも
我が社は間違いないとの調査実績をうたっているが、「私に言わせ
ると」殆ど各社とも代わらない。此れは「可笑しい」そんなに同じ
とは恐らくリサーチ会社に下請けに出している事と思う此れは余り
言うと裁判問題かも、

でも選挙結果がすぐに11月9日にでる恐らく其の時に前段で述べ
た!!視聴率買収事件!!と余り違いない事に気づくはず賢明な政
治評論家の諸先生に回答をお願いしたい・さて国際戦略の諸先生は
如何に?

10.31.pm8.00.ks_kiyo4@yahoo.co.jp 阪本 潔
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(Fのコメント)
リサーチで高視聴率であると、その枠の時間は値上げされて、広告
料を多く取れるのです。それと、その番組を担当したプリデューサ
の報酬が上がるのです。利益があるために、改竄をしたのでしょう。

しかし、政治の世論調査を弄っても、だれが得をするのでしょうか?
世論調査で支持率が高いというのと実際が違うのでは、政党として
は支持率弄ってもどうしようもない。

新聞社が全員で会合して、調整するはずがない。リサーチ会社に一
括して頼んでいるか??これは分からない。

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神が死んだどうかう以前に日本の鴇が死んだ    波江究一   
   
 日本の鴇は死滅
稲も不作の田居
手抜かり恨むヘマ越え
弱れる智慧を卸す
蝶や遊び

にほんのときはしめついねもふさくなた居てぬかりうらむへまこえ
よわれるち餌をおろすてふやあそひ

戦後体制なる物も抽斗の中身残り少なくなりましたやうで。

「字数歌」を宣傳するついでに話をする、と云ふ人を馬鹿にした態
度を取るのは止めて貰ひたい。云々

これいかに風雅の道に暗いかといふ証明にのみ。歌に付ける詞書と
して散文は発展して来たのですよ。
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九星観音歌  波江究一   2003/10/26 12:43 
   
 暦の九星を韻字にして漢詩に纏めてみましたからご座興にまで。
陰遁はさながら維新後の歴史を暗示して居るやうな所があります。

紫電断九悪   紫電九悪を断つと 
白刃布八紘   白刃八紘に布けば    大東亜開戦です。 
赤霄亡七寶   赤霄七寶を亡じ     大空襲の炎です   
白虹貫六合   白虹六合を貫きて    臣下が君に代りて死ぬ
                    兆し 東京裁判を暗示
                    白虹とは叉原子爆弾の
                    象徴
黄幡塗五濁   黄幡は五濁に塗れ    将兵の戦没俘虜の途上
                    の苦役 移民の受難
緑衫喘四苦   緑衫は四苦に喘ぎて   緑衫ろくさん 下級役
                    人の制服 転義一般民
碧眼睨三槐   碧眼三槐を睨めば    日米地位協定等国権の
                    枢機が事実上属国化   
二気閉漆黒   二気漆黒に閉ぢて    陰陽二気
一切白雨中   一切白雨の中

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拝九星観音歌陽遁 投稿者:波江究一    
六曜が商売関係に結びつき強いであらうことは想像つきますが九星
の方はどう応用してをられるか、お伺ひ序でに九星の組合はせを借
りて古風の衰微を憂へる形に纏めし愚詩披露致して置きます。

拝九星観音歌陽遁

一宇綺白堊   一宇白堊に綺ひ  
黒檀二力士像  黒檀二力士像
三尊碧冠弊   三尊碧冠弊れ
四面覆緑青   四面緑青覆ひて
五常黄金朽   五常の黄金朽ち
白亳照六趣   白亳六趣を照らせば
尽七生赤忠   七生の赤忠を尽くし
八紘白日下   八紘白日の下
奉九天紫泥   九天の紫泥を奉ず
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廃藩置県 波江究一   2003/10/25 13:39 
   
維新後300藩を47県に分けたのは明らかにいろは歌を意識した
ものでして、根本に国の運気を支へたものでした。そのいろはから
勝手に二音削りすて、己の目鼻のありかもわからぬやうな国語を抱
へてこの先どこまで運気を保ち指針を失はずに居られるものでせう
か。その辺懲りぬ
brokenな英訳も添へて歌にして置きました。
選挙も始まりますが 、政治家諸君先祖に承けた姓、親に授けられ
た名を書き崩してにやつく気色の悪いことはよい加減止しにして戸
籍記載通りの正札で争つて頂きたい。選挙民が書きにくいとならば
機械投票を導入すればよい。

いろはに沿ひ
県分けせし
維新後
打つ手皆招く智慧
四方覆ふ消えぬ夢を
鳥の群れさすらへ

いろはにそひあかたわけせる居しんこうつてみなまねくち餌よもお
ほふきえぬゆめをとりのむれさすらへ
After the revolution of Meidi,
47 prefectures replaced the 300 dukedoms.
As it were traced the number of IROHA rhymes
In which every political decision had been guarded 
by invisible wisdom.
They arranged the imperished dream covered whole world.
But now it strolled about unknown sky like the 
aimless birds.
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六曜を通してみる歴史の深層     波江究一  
   
 六曜そのものは私も信じて居るといふわけではありませんが、専ら
文学上の興味からその名称と運用規則を韻字に使ひ漢詩にしてみまし
た。
正月七月は先勝で始まり 二月八月は友引 三月九月は先負 四月十
月は仏滅 五月十一月は大安六月十二月は赤口です。
さうして出来た詩の内容はどうも維新の暗部を暗示する内容になつて
しまひました。南朝の再興を目指す筈であつた改革が、一旦事成るや
、誰も天皇殺しの咎負ふを恐れて権力そのものの果実のみを貪り初志
を忘れた結果、北朝の子孫である筈の現皇室が南朝を正統として奉ず
るといふ、何やら頭隠して尻隠さずの系図を捏造した侭、文化上の良
識の基本にまで悪影響をおよぼして居ると思へてなりません。

正義先勝七世敵   正義は七世の敵に先勝せしに
悪友二心引八逆   悪友二心して八逆を引けば
三軍先負九族禍   三軍先づは負ふ九族の禍
四面仏閣滅十方   四面の仏閣十方に滅し
五大得安十中一   五大安んずるを得しは十中一と
六斎赤口誦十二念  六斎赤口に誦す十二念
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(Fのコメント)
どうも六曜は、歴史の展開を感じますね。波江究一さんも一連の投
稿でそこを言いたいような気がするが、チャントした解説を書いて
いただきたいですね。四柱推命や三元六曜九星の推命など中国の易
経から由来する推測学の一連のことですよね。

私の少し齧りましたが、身になっていないようです。
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件名:「神と仏の姿について」  

 宗教学者の山折哲雄氏は、神のイメージと仏のイメージが違って
いることを通じて、面白い指摘をしている。
 すなわち、日本の神はほぼ大部分が「翁(おきな)」(老人)の
姿を通して現れることが多いのに対して、仏(ブッダ)は、若々し
い青年として表現されることが多いのはなぜか、というものである。

 山折氏は、その著書『神と翁の民俗学』(講談社学術文庫)の前
書きで、その両者のイメージの違いが起こるゆえんを次のように述
べている。

「細部を切り捨てていえば、ブッダの表情や肉体が若々しいのは、
大乗仏教の経典が『永遠の仏』という思想を説いているからだと思
う。永遠の仏というのは死滅しない仏陀ということだ。それはむろ
ん、現実の人間の生命を超越している。現実の人間の生命を超越し
つつ、しかもその永遠性を具体的な姿であらわそうとするとき、青
年の身体が理想的なモデルとして採用された。肉体の表現という点
からするとき、青春が永遠を象徴する絶対の年代とされたのである」

 確かに、仏陀の姿を模した仏像は、肉付きがよく全体的にふくよ
かであり、座像の場合は圧倒的な存在感をもって造られている。
このふくよかさは、仏教のありがたみや効能をインド的な肉体観念
<豊饒(ほうじょう)が幸福な状態>で示されたものかもしれない。

 要するに太っている人が悟りを開いたというイメージを喚起させ
るということだろうか。そして、それは青年の肉付きを連想させる
ものといっていいようである。

 その意味で、仏像には来世の幸福をイメージすると、飽食した青
年像となったのかもしれない。と同時に、大乗仏教が大衆布教への
道を歩んだとき、「肉体的な若さと肥満」という現世的な幸福を大
衆が受け入れやすいイメージとなったのだろう。

 「これにたいして、カミがオキナのように老いているのはどうし
てであろうか。人間は人生の最終段階においてはじめて神と同化す
るのだという思想が、そこには前提されているからだと思う」 

 神と仏陀についての考察として、なかなか含蓄のある言葉である
。(鷹)世界日報 ▽掲載許可済です
Kenzo Yamaoka
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件名:自由貿易協定締結を推進せよ  

対メキシコ交渉は重要な試金石・肝心なのは農業鎖国の打破
貿易自由化の主役はFTAへ

 過日のWTO(世界貿易機関)の閣僚会議は、新ラウンドの合意に向けての枠組み作り
 の場として注目された。しかし焦点の農業保護について、米・EU(欧州連合)間の妥
 協がわが国の頭越しに行われるという事態が起こり、わが国の苦戦が予想された。実際
 には、先進国と途上国との決定的対立のため、決裂という最悪の結末となったが、その
 中でわが国はコメの高率関税(490%)の大幅引き下げという外圧のとりことなって
 自縄自縛に陥り、欧米と途上国との歩み寄りに一肌脱ぐという機会を失ってしまったの
 は遺憾千万だ。
 WTO交渉の行き詰まりは、二国間のFTA(自由貿易協定)締結への流れを一段と加
 速する事態を招きつつある。FTAはすでにその数百八十を超え、二百の大台に乗るの
 も時間の問題。今や貿易自由化の主役は、世界的に広がるFTA網に移っていると言っ
 ても過言ではない。

 しかしWTOは前身であるGATT(関税と貿易に関する一般協定)以来の正統的な基
 本原則(自由・多角・無差別の三本柱から成る)を高く掲げており、この理念はむろん
 尊重しなければならない。それゆえ今回の閣僚会議の挫折がWTOの機能不全を招くこ
 とは何としても回避すべきである。ただWTO加盟国の約70%が途上国、しかも意思決
 定は全会一致を原則とする制約の中で、グローバルな自由貿易体制という理想の実現は、
 言うべくして困難だ。そこで次善の策として、地域的あるいは二国間のFTAの実績を
 積み重ね(これをビルディング・ブロック方式とも呼ぶ)、漸進的に理想に接近すると
 いうプロセスが選好されているものとみてよい。重要なのは、FTAかWTOかという
 二者択一ではなく、後者の枠内で前者が進められることは矛盾でないとの基本認識であ
 る。

世界の潮流に立ち遅れた日本

 わが国にとって問題なのは、こうした世界の潮流に大きく立ち遅れ、貿易立国の国是に
 反し、このままでは国際的な孤立化の危険さえ否定できないきびしい現状である。

 このような事態を招いた原因は大別して二つある。第一は、わが国が前述した国際貿易
 の理念に固執し、FTAは多角・無差別の原則に反するとの立場にこだわり続けたこと。
 第二は、より具体的事情だが、「農業鎖国」と批判される保護政策が制約となって、F
 TA交渉の土俵にさえ上れないという自縄自縛に陥ってしまったことである。唯一二国
 間協定を結んだ相手国が、互いに農業問題に制約されないシンガポールというのも、決
 して偶然ではない。

 それだけに農業問題が重要な対象となるメキシコとの交渉は、FTAの成否を占う試金
 石であった。同国は米加両国とすでに北米自由貿易地域(NAFTA)を形成する一方、
 EUともFTAを締結している。同国には二百に近い本邦企業が進出しているが、FT
 Aの締約国でないため、輸入関税の負担に加えて、政府調達からの排除(入札参加資格
 がない)という重いハンディを負い、それらの損失は年間で四千億円に達するとの調査
 結果もある。

 他方メキシコは、対日農産物(とくに豚肉)の輸出増が、高率関税に阻まれていること
 にかねて不満を露わにしており、今回の交渉でもこれが最大の争点となった。防戦一方
 のわが国は最終段階で思い切った譲歩をしたにもかかわらず、足元を見られ、オレンジ
 ・ジュースという新手を繰り出されるに及んで決裂を余儀なくされた。その前に行われ
 た東京における両国トップ会談にもかかわらず、政治解決に持ち込めなかったのは、わ
 が国にとって大きな失点である。

 これによって、次に控えるアジア諸国とのFTA交渉の先行きが一段と憂慮される。タ
 イ、フィリピン、インドネシア、韓国のほか、中国さらにインドというライバルの存在
 がある。農業貿易が争点になる中で、域外の両大国とも、ASEANとのFTA締結に
 意欲を燃やしており、事態は切迫している。万一わが国の裏庭であるこの地域における
 存在感が後退し、アジア重視の経済外交路線が台無しになるならば、有形無形の損失は
 途方もなく大きい。

10年前の失敗を繰り返すな

 先日、バンコクで開かれたAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の首脳会議に出席し
 た小泉首相が、危機感を抱き、農業鎖国からの脱却に取り組む姿勢を示したのは、遅き
 に失したうらみはあるが、一歩前進と評価してよい。顧みれば、約十年前、ウルグアイ
 ・ラウンドの最終段階で、外圧に屈してコメの輸入という聖域に手を付け、ミニマム・
 アクセス(最低輸入義務枠)の受け入れを余儀なくされた際、政府は六兆円余というつ
 かみ金を「対策費」の名の下に農林予算に計上した。にもかかわらずいわゆる農業ロビ
 ーの連中は、今日なお十年前と変わらぬ主張を続けている。失われたもう一つの十年が
 ここにある。この失敗と無駄を二度と繰り返してはならない。経済評論家 鳴澤 宏英
  (世界日報)▽掲載許可済です
Kenzo Yamaoka
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件名:江戸幕府と大名統制  

薩摩藩に見る「対幕府外交」の悲劇
 今年は「江戸開府四百年」。創業者の徳川家康が江戸に幕府を開いて以来二百六十年余
 という、江戸時代の長期安定ぶりはどこにその要因があったのだろう。
 その一つに、徹底した幕府の大名統制が挙げられる。例えば、参勤交代制や藩に課せら
 れた普請(ふしん)事業は、その両輪の輪といっていい。

 いずれも、過大な財政負担を各藩に強いて幕府反抗への芽を摘むといった狙いもあった。
 もっとも、幕府としては中央集権の実を上げることが本旨であり、必ずしも押さえつけ
 ることだけが目的だったとはいえまい。

 とはいえ、とくに普請については、ただでさえ苦しい藩財政事情に大きな負担となった
 ことは間違いない。幕府創業の頃でも、江戸城大工事の過重な負担に堪えかねた福島正
 則(広島五十万石)が、僚友の加藤清正(熊本五十二万石)に幕府に対する憤まんをぶ
 ちまけると、「それなら国に戻って戦の準備をしたらいい。その覚悟がなければひたす
 ら我慢することだ」といさめたという話があるくらいだ。

 余談だが、渡部昇一氏が、そうした幕府の強大さを例に「アメリカ幕府」論を唱えてお
 られる。

 冷戦が終結し、かつてのソ連帝国は解体され、米国の“一人天下”となった。湾岸戦争、
 先のイラク戦争に至る経過を見るまでもなく、米国の圧倒的軍事力には「向かうところ
 敵なし」といった状況だろう。いわば、「米国幕府」を頂点とし、各国が各藩となった
 「米国幕藩体制」というわけだ。

 そこでは、日本外交の独自性、主体性追求を声高に叫ぶのにもおのずと限度というもの
 がある。当面、この世界的“幕藩体制”の下では冷徹なリアリズムに立って身を処すべ
 きということなのであろう。

 それはさておき、この徳川幕府の普請の苛酷さについて、一つ例を挙げると、薩摩藩島
 津家の「宝暦治水」がある。

 美濃、伊勢、尾張にまたがる木曽川治水工事という難事業で、宝暦四年(一七五四)か
 ら約二年かけ、総工費は約四十万両に達した。藩の年間財政の倍の規模だった。あまり
 の難工事と幕府の横やりに、惣奉行の平田正輔はじめ藩士が五十二人割腹死するという
 惨事となった。幕末、薩摩藩の倒幕感情はこの恨みも根底にあったといわれる。

 だが、これほどの犠牲を強いられた普請も、実は回避できたかも知れないのだ。幕府か
 ら何の前触れもなく、薩摩藩にこの難工事が課せられたのではないのである。

 そのあたりの経緯は、家坂洋子氏の『薩摩秘史』(高城書房出版)に詳しい。この悲劇
 の遠因は五代将軍綱吉の時代にさかのぼる。綱吉の養女、竹姫(京都公家出身)は不運
 な女性だった。会津の松平家、有栖川宮家と婚約した相手が次々に急死し、以来、江戸
 城にひっそりと暮らす身に。

 再び彼女が日の目をみたのは、八代吉宗の時。吉宗は一時は自分の正室に迎えることも
 考えたほど竹姫を寵愛したというが、結局、薩摩藩主・島津継豊への降嫁を図った。時
 に竹姫二十六歳。

 継豊はすでに妻帯し嫡男(後の藩主・宗信)もいたため、当初これに抵抗したが、時の
 名家老・種子島久基が、これ以上の抵抗は幕府の不興を招く、むしろ将軍家と縁戚とな
 ることがお家安泰になるとして受け入れた。正室の竹姫に男子が誕生しても、宗信の後
 継を認めさせるという条件付きではあるが。

 こうして幕府と島津家との蜜月関係が続くかと思われた矢先、藩主の宗信が急逝し、弟
 の重年が本家を相続。すると、幕府(九代家重)はまたも縁談を持ち込んだ。だが、竹
 姫の仲介もむなしく、今度は藩は言を左右にこの縁談を拒み通し、つぶしてしまった。

 実はこの判断が甘かったというしかない。かつての種子島のように、幕府との距離感を
 冷静に計れる重臣に欠けていたことが悲劇の始まりだったのである。

 幕府はこの間、藩主重年を丁重に扱い、さらにはその妻女にまで鷹狩りの雁を贈った。
 男尊女卑の封建時代に、将軍家が外様大名の妻女を名指しで物を贈るなどとは前代未聞
 のことだった。『秘史』は言う。「支配者がおかしなほどいんぎんになった時は、恫喝
 に類するということを、薩摩藩は敏感に察して態度を改めるべきであった」と。

 そして、ついに幕府が牙をむいた。江戸家老が老中に呼ばれ、木曽川治水工事の普請を
 言い渡されるのである。その時の老中の言は、「重年殿の御内室は江戸上りの道中、名
 所巡りをなさるほど御裕福で、無駄金の余っておられる御様子ゆえ、河川の修復工事の
 助役など、重年殿にとっては何ほどのこともござるまい」。

 そこに至って藩はようやく、自らのやりすぎを理解したのだ。そして、幕府との仲を取
 り持つ存在であった竹姫への扱いが不興を買っていたことを…。生前の種子島は、折に
 触れ、「表向きは将軍家、内向きには竹姫君にご奉公を心がけることこそがお家のため
 に何より肝要」と若い官吏に言い聞かせていた。このことだったのか、と悟った時は遅
 かった。
 治水工事が完成した直後、重年の妻女は急死した。病気とされたが、自らの入嫁が災禍
 につながったことを苦にして自決したとの説もある。重年も工事の心労で後を追うよう
 にして亡くなった。

 幕府との折衝、距離感がいかに藩(家)の存続、安泰に重要であったか。薩摩藩のこの
 悲劇はそのことを端的に示すものだったといえよう。(黒木 正博・世界日報)△掲載
 許可済です
Kenzo Yamaoka
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件名:日本の親の弱点  

東洋大学教授 中里至正氏に聞く・心理的な距離、意外と遠い親子
家庭での縦関係弱まる/子を叱れなければ失格者

 凶悪犯罪を犯した少年たちの背景が少しずつ明らかになるにつれ、日本の親子関係や子
 育てに共通する問題がクローズアップされている。そこで、子供の思いやり意識や親子
 の心理的距離について国際比較調査を行っている中里至正・東洋大学教授に、日本の親
 子関係の特徴や欠陥について聞いた。

 (聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

 ――日本の親子は心理的な距離が遠いのか?

 当初、日本の親子関係はうまくいっているのではないかと思っていたが、国際比較をし
 てみると意外に心理的な距離が遠いことが分かった。子供だけ、親だけの調査でも、さ
 らに親子を対象にしたデータでも同じだった。つまり、親が子供から離れていると同時
 に、子供も親から離れている。

 相関関係を見ると、親との距離が遠い子は、問題行動の「心のブレーキ」になる思いや
 り意識や道徳意識が弱い傾向がある。親子の関係は親から働き掛けてつくるものなので、
 子供の問題は最終的に親の問題といえる。少年犯罪においても、子供よりも親の問題が
 もっと注目され、反省材料にされるようでないといけない。

 ところが、児童相談所などで幼児虐待を発見しても、親に親権を主張されると介入でき
 ないケースが多い。そうであるなら、子供が事件を起こした場合の親の責任も問われる
 べきだろう。親も罰せよとは言わないが、底流にある親の問題にもっと注目する必要が
 ある。

 ――子育てに問題があるのか?

 例えば、米国の調査で「どんな子供にしたいか」を聞くと、「正直で」「常識があり」
 「責任感がある」の三つが過半数で収れんされる。これは、学歴や階層と関係なくコン
 センサスがある。ところが日本の親は、「思いやり」「責任感」「協調性」のある子と
 いうのが多いが、各人各様でどれも半数を超えない。しかも、スローガンとして言って
 いるだけで、そのためにどうすればいいかがはっきりしていない。

 その背景には価値観の多様化や教育現場での自己決定主義のまん延がある。それらはい
 い面もあるが、子育てにおいては問題だ。価値の多様化は親が自信を失い迷っているだ
 け。自己決定主義はいかにも個人主義の考え方で米国から導入されたが、当の米国の親
 たちは子供に対してかなり威張っている。つまり発達段階に応じた自己決定主義で、子
 供の自己決定を認めるのは大学に入ってからだ。親が何もしなくていいというのは無責
 任なだけ。子供の目線で見るというが、それで子供が分かることはない。日本の親は、
 いい親、いい大人になり過ぎているのではないか。

 離婚率の高い米国では継母、継父に育てられる子供が多いにもかかわらず、なぜ親子の
 距離が近いのか。米国で調査を担当したニューヨーク市立大学の人たちに聞くと、基本
 的に親は偉い、親の言うことは聞くという文化があるからだという。逆に子供は偉い親
 を頼りにしている。

 例えば、日本の親は叱(しか)らないが、米国の親はよく叱る。むしろ叱らないのは愛
 情がないからだという発想がある。叱らない、叱れないというのは、それだけ距離があ
 ることを意味している。日本のデータで驚いたのは、30%の子供が「親から期待されて
 いない」と答え、親も「大して期待していない」と答えていること。親に期待されてい
 ない子はかわいそうだ。

 親が子供と話す話題はトップが成績で、それ以外にないと言ってもいいくらい。米国の
 親は、成績もあるが友達や異性などいろいろなことを話している。勉強のできることだ
 けがいい子の条件では、子供の評価が非常に貧しくなってしまう。

 ――子育てが楽しくないという親が多いが。

 その調査結果を見て驚いた。特に母親が子育ては大変だと思っている。子育てのため、
 やりたいことができないと自分のアイデンティティーが失われてしまう、と。それ以上
 に子供はかわいいはずなのに、子育てより個人主義的な発想が勝っている。日本人には
 個人よりも家族や仲間を大切にする心性があるはずだが、戦後急に入ってきた個人主義
 との間でねじれ現象が起きているのではないか。

 また、欧米に比べて日本の家族は夫婦関係より親子関係が強いと思われているが、調査
 では逆になっていた。「子供が幼いうちでも、親子関係より夫婦関係が大事」という若
 い親が増えたため、子育てが負担になっている。私は少子化で親子関係が良くなるので
 はないかと思っていたが、そうはならなかった。もっとも、日本の父親はもっと影が薄
 いので、母親だけ責めるわけにはいかない。

 ――要するに親としての責任感の欠如なのか?

 家庭における縦の関係が弱くなっているのが問題だ。社会に出ればどの組織でも縦の関
 係が基本になっている。家庭でも親子は縦の関係になっていないとおかしい。縦の関係
 でないと叱ることはできないし、社会に出る訓練もできない。叱らなければ親でないし、
 教育者でない。

 特に義務教育では、おっかなくて優しい先生が必要だ。そうでないと子供に尊敬されず、
 目標とされない。子供は叱られたいと思っているし、厳しく指導されることで伸びる。
 誰が生徒か先生か分からないような「メダカの学校」では、むしろ子供たちがかわいそ
 うだ。

 ――道徳意識を育てるには?

 道徳教育は本質的に情緒教育だと思う。善悪を知的に教えるだけでは不十分で、その背
 景にある情緒を育てないといけない。罪悪感も情緒反応で、情緒が弱いと罪悪感も少な
 い。基本的には家庭生活の中で親子が情緒を共有できる機会を増やす必要があり、それ
 が道徳教育のベースとなる。

 また、人の意識は自分と周りとのバランスから形成される。自分の内側にあるのが情緒
 や価値観で、外側にあるのが仲間などの世間。今の子供の世間は非常に狭くなっており、
 世間を形成していないようにも思える。そのため、他律的な道徳の基準が形成されない。
 学級のような子供の世間にもコンセンサスがないため、急にいじめが起こったり、多く
 の子供がそれを見て見ぬ振りをしたりする。

 小学校高学年になると子供は親よりも友達を優先し、いわゆる社会性を身に付けるよう
 になっていくのだが、そのような場となる「子供の世間」が形成されていない。そもそ
 も近所で群れて遊ぶこともなくなった。数人が集まっても、ゲームをしていると一人遊
 びのまま。スポーツクラブや部活に入らないと、共感できる友達関係を体験できなくな
 っている。

 忘れられた言葉に「誇り」があるが、誇りも情緒反応だ。昔は武士だけでなく職人も誇
 りを持っていた。人間は誇りを失うとだめになる。子供にも誇りを持たせるようにしな
 いといけない。恋愛も情緒反応だ。それを失うと損得や利便性で愛情を計るようになる。
 最近の学生は「手なべ提げても」という言葉を知らなくなった。

 それにしても、性の許容度が大きすぎるのは問題だ。性非行の温床になるだけでなく、
 性意識の正常な発達を阻害しかねない。ジェンダーフリー教育では、男らしさ、女らし
 さを否定しているが、とんでもないことだ。性に目覚め始めた子供たちは、男らしさ、
 女らしさを追求することで、自分らしさを形成していく。男子は男らしさに目覚めると、
 力の差は歴然としているので、女子を守るようになる。男の子は父親と対決することで
 男らしさを自覚するようになる。そうした持って生まれた性を否定するのは机上の空論
 にすぎない。

 ――「恥」の調査を始めたのは?

 心理学では主として対人恐怖症など心の病気の問題で恥の研究をしていたが、私は非行
 を含め行動抑制力としての恥を研究しようと考えた。本格的な調査はこれからだ。

 恥には、他者に対して感じるのと、自分に対して感じるのとがある。いわば他律的な恥
 と自律的な恥だ。『菊と刀』のルース・ベネディクトはそこまで分類していない。誰も
 見ていなくても「お天道様が見ている」というのは自律的な恥意識だ。昔は侍や職人と
 しての恥意識があったが、特に戦後は恥の教育はしてこなかった。

 私が継続的に調査しているトルコや米国はいわゆる一神教の文化で、神と自分との関係
 が内的なコントロールになっている。日本にはそんな宗教がないので、神の代わりにな
 るものとして自律的な恥に注目している。それと道徳意識との関係を明らかにしたい。

 自律的な恥は共感性のようにむしろ情緒に近く、他律的な恥は理性に近い。理性に走り
 過ぎて情緒が欠けているのを証明できるかもしれない。そういう切り口からの心理学の
 研究はなかった。統計的に実証していけば、道徳教育で何をしたらいいか、親子関係が
 おかしくなったのはなぜかも、ある程度回答が出せるのではないか。

 凶悪な少年犯罪が起こる背景にも情性の欠如がある。中高生を対象に今年から二年間調
 査するので、子育てにも役立つデータが出るのではないかと期待している。

 中里至正 昭和10(1935)年生まれ。青山学院大学大学院心理学専攻修士課程修了。
 現在、東洋大学社会学部教授(社会心理学、犯罪心理学)。社会学博士。著書に、『道
 徳的行動の心理学』『「他者を助ける行動」の心理学』『愛他性と非行との関係』『異
 質な日本の若者たち』『日本の若者の弱点』『日本の親の弱点』などがある。
▽掲載許可済です
Kenzo Yamaoka
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件名:米外交批判は価値ニヒリズム  

「みんな仲良く」論の偽善性・価値のヒエラルキーを認めよ

文化や伝統の尊重とは別問題
 ブッシュ米外交の批判論者は「自由や民主主義といった米国の価値観を至上のものとし
 て、それをイスラム社会など他国に押し付けようとしている。テロリズムが生まれたの
 もそこに原因があり、米国は他の文化との共存に努めるべきだ」と言う。この言葉には
 一面の真理があるが、しかし悪くすると「みんな仲良く」という偽善と「すべての価値
 は平等」という価値ニヒリズムに陥る危険がある。すなわち、ヒトラーのアウシュビッ
 ツ、スターリンやポルポトの民族大虐殺や北朝鮮の人権抑圧を批判する根拠がなくなる。
 他国の文化や伝統は尊重しなければならないが、そこから生まれた価値観は平等でなく、
 ヒエラルキー(階層性)があることを認めなければならない。米国と北朝鮮の価値観は
 平等とは考えられない。

 文化の共生は確かに必要である。西田幾多郎が「善の研究」で述べているように、個人
 についても国家についても個性の発揮こそ、社会や世界歴史の発展に貢献し得る。多様
 な文化があってこそ、百花繚乱(りょうらん)の楽しさがあり、交響曲も各種の楽器が
 特色を発揮してこそ実現する。西田の友人の鈴木大拙が「富士山だけが山なのか」「桜
 だけが花なのか」と問い掛け、軍部の夜郎自大のナショナリズムを批判したのもこのた
 めだった。
 価値観はそれぞれの文化の所産だ。文化の共生は人類文化の多様性維持のために必要だ
 が、価値観の共生論ともなれば別問題だ。すべての価値が平等だとすれば、何をもって
 正義とし、何をもって悪とするのか。また敵と友を区別する基準も、フセインや金正日
 政権批判の根拠もなくなる。

先天的に持つ共通の道徳認識

 米国社会の混乱の原因は「すべての価値観は平等であり、絶対的道徳基準など存在しな
 い」という価値多元論、価値相対主義の考え方が広がったためだ。すべての価値観が平
 等だとすると、善悪を判断する根拠はなくなるからだ。人権抑圧や大量虐殺、奴隷制を
 否定する根拠もなくなる。さらに「人間は何をすべきか」あるいは「何をしてはならな
 いか」という問いもなくなり、「何をしたいか」「どうやって自分の思いを力づくで達
 成するか」という問い掛けだけになってしまう。あらゆる価値観は平等という考え方は
 道徳的相対主義を生み、人類共通の絶対的価値や普遍的価値を否定する。それが価値ニ
 ヒリズムだ。「何をやっても、その国の文化から来たもの」ということになり、あらゆ
 る非行が免責される。国家内で言えば、人権抑圧を含む一切の非行は許され、国家主権
 を絶対視する現行の国際秩序によって他国の介入から守られる。価値多元論に立てば、
 国や民族の数だけ価値や正義が存在することになろう。民族主義者の限界がここにある。

 文化の多様性の点から、米国式民主主義だけが絶対的なものではなく、英国式民主主義
 や日本型民主主義、あるいはイスラム型民主主義もあってよい。しかし、その根底に自
 由や人権の尊重といった普遍的価値がなければならない。価値観のヒエラルキーの観点
 からすれば米国の民主主義は、過去はどうであれ、現在はどの文化よりも自由、人権と
 いった人類普遍の絶対価値の追求を目指している。

 絶対的価値が存在する根拠として、「自然法」の存在が挙げられる。中国では「道」、
 インドでは「法」(ダルマ)、ギリシアでは「道」(メタソドス)といった風に、多く
 の文明は物質界を支配する物理的法則と同じように、人間の内面を支配する道徳的法則
 としての「自然法」の存在を認めている。宇宙が混とんでなく秩序が保たれているのも、
 このような理法(ロゴス)が存在しているためだ。さらに人間のみに道徳が存在するの
 は、他の動物と違って選択の自由が与えられていることだ。本能によって行動する他の
 動物は選択の自由がないので善悪は存在しない。

 さらに人間は単一の種であり、人間としての共通の生物学的、心理学的な特性と機能を
 持っており、共通の道徳的能力があるとみてよい。カントは人間道徳の核心を「定言的
 命令」と定義したが、人種、文化の相違があっても、人間には先天的に共通の道徳意識
 がある。孔子は「自分にしてほしくないことは他人にするな」と言い、聖書のマタイ伝
 は「人にしてほしいと思うことを、人にせよ」、インドの叙事詩マハーバーラタは「他
 人に対して、自分が納得できないような行動をするな」――とあるのが、その一例だ。

“人間を超えた存在”が前提

 価値観のヒエラルキーについて新渡戸稲造は、父の放蕩の費用を得るために娘が身を売
 るといった「義理」の価値観は、キリスト教の愛の教えに甚だしく劣る、と指摘してい
 る。絶対価値の前提は、価値の設定者として人間を超えた高次の存在を認めることだ。
 天安門事件について中国側は、中国社会を安定させ、国民を食わせることが最大の人権
 尊重だとして、米英の非難を一蹴(いっしゅう)した。この発想は「目的がよければ手
 段は合理化される」という共産主義者独特の「人神論」に立っており、神の定めた自然
 法に代わって人間が道徳的価値の決定者になるという発想だ。

 この宇宙や生命が盲目的、偶然にできたものでなく、宇宙の自己認識という目的に向か
 って、生命が霊的存在へと進化する方向へと定められた結果が人間存在の意義だとすれ
 ば、人間の存在そのものが貴重であり、そこに自由、人権、生命の尊重といった絶対的
 価値の根拠がある。このような価値を中心に価値のヒエラルキーを考えた場合、「あら
 ゆる価値は平等で、みんな仲良く」の価値共有論は偽善に満ちた価値ニヒリズムである。
  (評論家 井上 茂信 世界日報)▽掲載許可済です
Kenzo Yamaoka

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