1420.ミュータント・メッセージ



       ミュータント・メッセージ    S子
         ==アボリジニ族から現代人への警鐘==

私は「ミュータント・メッセージ」を読んだ。ひょんなことから
オーストラリア先住民のアボリジニ族と共に数ヶ月間砂漠を旅し、
そこから学びとったことを現代人に伝えるという使命を与えられ
た白人女性の実話である。

彼女が出会ったアボリジニ族は『最初の人類の直系であり、初代
の価値と掟をしっかりと守り創世記から生き延びている』部族で
あった。『「ミュータント」とは基本構造が突然変異して生まれ
た異種という意味』らしい。

白人女性にとってアボリジニ族はミュータントであり、アボリジ
ニ族にとってもまた白人女性はミュータントな存在である。この
著者である彼女は本のあとがきで、これをフィクションだととら
えてもいいから読者に何かを感じとってほしいと言っている。

実話とはいえ内容があまりにも奇想天外なストーリーに満ちており、
読者がおいそれとは信じがたいと彼女に思わせたゆえんだろう。が、
これを夢物語や感動物語という感情レベルにとどめてしまうならば、
私たち人類はこの先あらゆる面において破滅への道を歩まなければ
ならないと私は確信した。それほど私はこの本から強い衝撃を受け
た。

私たちは人と関わる場合、その意思伝達手段として言葉を使ってい
る。私たちにとって言葉を話し、読み、書くことは人とのコミュニ
ケーションをはかるうえで必要不可欠だ。言葉は私たちには空気の
ようにあまりにも当たり前すぎる意思伝達手段である。

まだ言葉もない人類の歴史も浅いところで生きていた超古代人は、
どのようにしてお互いの意思を伝えあっていたのだろうか。かなり
素朴すぎる疑問だが、私にはずっとそれがなぞだった。それがこの
本を読んで見事に解けた。

アボリジニ族は文字文化をもたない。言葉はあっても彼らはほとん
ど言葉を声に出すことはしない。彼らはメンタル・テレパシーを使
って無言のままにお互いの意思を伝えあっている。お互いの考えて
いることはお互いに意識レベルで通じあっているというわけだ。だ
から彼らはうそをつく必要がない。彼らのこころは常に開かれてい
る。

これは言葉を使って人とのコミュニケーションをはかっている現代
人には衝撃的である。言葉たくみに人を騙すというが、言葉で人を
騙すことは容易なのである。意識レベルで通じ合うことのできない
現代人は、余程のことがないかぎり言葉のわなにまんまと陥りやす
い。私たち現代人の生きる世界ではメンタル・テレパシーといえば
さしずめ超能力のことである。しかし、それを当たり前にアボリジ
ニ族は使っている。

アボリジニ族と白人女性が数ヶ月にわたり砂漠を旅するのだが、不
思議なことに彼らは旅立つにあたって食糧も水も持参しなかった。
食糧はその日その日で宇宙から与えられることをアボリジニ族はこ
ころえている。蛇や蜘蛛、蛙に出会えばそれがその日の彼らの食糧
となる。

鳥の群れに出会えば喜んで命をさし出す鳥の意識を彼らは読みとり、
ブーメランで打ち落とす。彼らはむやみやたらに鳥を打ち落とした
りはしない。また、彼らは何キロも離れた場所にいる鹿を察知し狩
猟にゆく。それも必要に迫られてであり、それ以上のものは捕らな
い。

同じように植物にしても根こそぎ採らない。次の成長のために必ず
残す。常に自然との調和をこころがけている。というか彼らもまた
その自然と一体の中にある。水は砂漠に手をかざし地下水を探り当
てたり、砂漠に横たわって水の音を聞きだす等、現代人からしてみ
ればアボリジニ族は超能力に長けていると思わざるをえない。

ある日、切り立った崖のふちを歩いているとアボリジニ族のひとり
が六メートル下の岩底に落ちた。膝からくるぶしの間を複雑骨折し
白い骨が五センチほど飛び出している。医療器具もない彼らがどの
ようにしてこれを治すのか、白人女性同様私も興味をもって読んだ。

<呪術師>と<女の癒やし手>と呼ばれるアボリジニ族のふたりは、
けが人の傷口の上に手をかざし祈りとも歌ともつかない言葉を口に
した。ある時点でそのふたりが同時に声を張り上げると、不思議な
ことに飛び出していた骨が元通りにおさまった。そして開いている
傷口には保存していた女性の月経血の塊をぬり、治療はそれでおし
まいである。

翌朝、いつものようにそのけが人は皆と共に何事もなかったように
歩いて旅を続ける。信じられない出来事である。一体何が起こった
のかわからないが、私なりに理解すればこうである。私たち人間に
は本来自然治癒力が備わっており、その治癒力を自らが純粋に信じ
ることによる強烈な意思が肉体に働いて、複雑骨折も飛び出してい
た骨も傷口も元通りに治ったのではないか。

現在の医療現場における事故を知る限りでは、医者自身の医療技術
に対する過信、信仰のようなものと、医者を前にした患者のあまり
の無防備さと医者に対しての不信感、更に患者自らが医療に頼りす
ぎ自らの肉体を放棄している姿勢が、さまざまな病気やけがを治り
にくくさせているのではないかと私は思った。

これは今日の医療のあり方を根本的なところでひっくり返すような
出来事だ。病は気からといわれるが、この出来事ほどぴったりと当
てはまる言葉はない。

こうしてアボリジニ族と砂漠を旅しながら、白人女性は現代人が失
った多くのことを学びとってゆく。旅の終わりに近づいたある日、
彼女は旅の集団の先頭に立つことを告げられる。彼女の学びのテス
トもいよいよ最終段階にきた。二日間食糧も水もない状態で彼女の
意識は朦朧となる。

しかし、アボリジニ族は彼女を支えることはしてもそれ以上は何も
しない。何も答えない。そうして彼女は死にそうになりながらも、
この宇宙と意識を一体化することを知った。彼女はひたすら水にな
る。そして遂に水を得ることができた。アボリジニ族と彼女と全て
がひとつになった瞬間でもある。

こうしてみると、アボリジニ族は一貫して他人を批判しないし何か
を強制したりはしないことがわかる。彼女がこの旅で経験し学んで
ゆくことを、彼らはただ静かににこやかに見守る。

このアボリジニ族の姿勢は今日の世界のあり方を大きく問うている。
不必要に内政干渉をしたり、自らの価値観を最高水準に置きそのレ
ベルに世界標準を強引に合わせる。言うことを聞かなければ世界の
警察国家として先制攻撃に出る。無意味な戦争で多くの尊い命が失
われる。自然破壊が進み地球環境も悪化の一途を辿る。

そこから見えるのはただ驕りである。自分さえよければよいという
自己中心主義である。他者から何も学びとろうとしない低俗な魂で
ある。今日の世界の混乱を知れば、アボリジニ族の調和や平和を尊
ぶ姿勢から現代人が学ぶことは多い。

21世紀は調和の世紀であると言う。言い換えればそれだけ世界が
調和を失っている証拠でもある。私たち現代人があえてそう叫ばな
ければならないほど、この世界は調和とは程遠い。現代人は高度な
物質文明を生き、あたかも全ての頂点の上に立ったかのような錯覚
にある。

が、私たち現代人は本当に進化を果たしてきたのだろうか。むしろ
その反対ではないのか。物質信仰に走ることで人間として退化の道
を歩んできたのではないか。超古代人よりも現代人が最もすぐれて
いると錯覚しているのは、物質的に豊かになったからで人間として
は退化をどんどん進化させたのではないか。アボリジニ族を見てい
ると私にはどうしてもそう思えてならない。

彼らには恐怖はない。宇宙の意識と常に一体化しているから全ての
ことがわかる。ゆえに恐怖という感情も生まれようがない。人生は
楽しく生きること。自分自身が向上してゆくこと。あらゆるものと
調和し平和に生きること。そして魂が永遠にあること。ひとつの人
生における様々な出会いはその経験にすぎないこと。ひとつの人生
で学ばなければ次の人生でまた同じような教訓に出会うこと。

そしてやがてこの砂漠に食糧も水もなくなること。だからアボリジ
ニ族としての種の保存はもうしないこと。最年少の子供がこのアボ
リジニ族の最後であること。肉体が滅んだ後の魂の行く先まで知っ
ていること等。

もうこうなってくると私の中でこの世界において、一体常識といわ
れるものは何のために存在するのかという疑問さえ生じてくる。そ
していかに現代人が意識の表層部分だけで生きているのかというこ
ともわかる。現代人では未発達な潜在意識は、アボリジニ族の全て
を支配していた。

というよりも現代人はあえて潜在意識を捨て去り、物質に支配され
る愚かな歴史を歩む選択をしてきた。そのために恐怖が生まれる、
さらに恐怖を払いのけようと物質を生むという負のスパイラル世界
を現代人は生きている。

アボリジニ族が言うにはこの地球の破滅を免れる余裕はまだあるそ
うだ。現代人が21世紀を調和の世紀へと向けて歩む真摯な姿がある
なら、私たちは今から自らの内奥へと目を向ける覚悟をしなければ
ならない。

参考文献   「ミュータント・メッセージ」
                  マルロ・モーガン著
                                   小沢瑞穂 訳
                       角川文庫
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件名:メンタル・タフネス(人生にも通じる教訓)  

 大リーグ・マリナーズのイチローが、TVインタビューで、今シ
ーズンを振り返って語った。「プレッシャーで吐き気がしたり、息
が苦しくなったりした。過去になかったことなので、自分でも驚い
ている」
イチローは、「メンタルな部分が肉体に及ぼす影響が、とてつもな
く大きい」と述懐していた。

 日本のスポーツ選手は欧米の選手に比べて、プレッシャーに弱い
といわれる。練習ではうまくできるのに、本番になると実力が発揮
できない。力も技術も引けを取らないのに、オリンピックや国際大
会のヒノキ舞台では、なぜか勝てない。「根性がないからだー」と
、今から三十年ほど前、十代の私が柔道をやっていたころは、よく
先輩に怒鳴られた。
 そして、根性をつけるためのごく一般的なトレーニング方法が、
いわゆる”シゴキ”だった。

 当時、「根性」と呼ばれたものは、おおむね、厳しい練習に耐え
る忍耐力だったように思う。だが、いかに辛抱強くなっても、大観
衆を前にして”上がる”のを止められないし、試合でミスをすれば
、後悔の念にさいなまれるものだ。
こうしたプレッシャーは、どのように乗り越えられるのか?

 米国スポーツ心理学の第一人者、ジェームズ・ローアー博士が提
唱する「メンタル・タフネス」(精神的なしぶとさ)は、日本でい
う「根性」とは全く違ったものだ。
ローアー博士は、テニスプレーヤーのクリス・エバートやスピード
スケートのダン・ジャンセンなど、数々の名選手を指導してきた。
その著書「スポーツのための新たなタフネス・トレーニング」で、
こう説く。

 人間は感情の動物だ。競技になれば、緊張もするし不安にもなる
。ミスをすると、ショックを受け、自信をなくすし、後悔もする。
連戦になれば、疲労も濃くなり、倦怠感にも取りつかれる。メンタ
ル・タフネスとは、こうしたストレス状態を、歯を食いしばって耐
え忍ぶのではなく、”積極姿勢”に転じる力なのだ。そこには、
ちょっとした工夫が必要だ。競技の最中でも、少しの合間を見つけ
て休息を取り、気分転換すること。うまく深呼吸をするだけでも、
「マイナスの感情からプラスに転じる機会がつかめる」。
 それは、訓練次第という。
 メンタル・タフネスの教訓は、人生にも通じるように思う。つま
り、「七転び八起き」だ。十三日は「体育の日」であるが、スポー
ツから得られるものは、限りなく大きい。
   (中田雅博)産経新聞より転載
Kenzo Yamaoka
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件名:近代文学におけるキリスト教と文学  

今後検証すべきテーマ
 宗教と文学というテーマは、どちらかといえば、あまり論議され
ることはない。一部のキリスト教作家と神学者、その他によって、
若干論議され、その教義が与えた影響、作品におけるテーマとして
取り上げられていることの検討といったものに終始しているのであ
る。
 キリスト教文学者という呼び方がふさわしい文学者はそれほどい
ないというのが現状である。キリスト教をテーマにした伝奇小説的
な短編を書いた芥川龍之介をキリスト教的な宗教文学者というのは
いささか誤りであり、日本文学の中でそう呼ぶに妥当な作家を想定
するならば、みずからそのテーマで書き、評論活動にも積極的に発
言している遠藤周作、伝道を意識して執筆している三浦綾子などを
挙げなければならない。

 とはいえ、遠藤周作の小説のテーマも、キリスト教の「原罪の問
題」を取り上げ、魂の相克の中で苦悩する人間像というよりも、「
神の不在」に苦悩し、最後には汎神論的な世界で、抱き留められる
、罪を許すという母親的な感情への帰還である。

 まさに東洋的な宗教の枠組みの中にある姿勢であり、受容のあり
ようである。

 イエスの存在は、実体というより主人公を許すための「声」であ
り、「光」であり「幻」である。実体が感じられないのは、イエス
に対する実感がない(信仰に蓄積されたキリスト教文化がない)た
めに、描ききれないといった感がある。自我の中に激しく戦う善悪
の相克といったものが肉感的に感じられないのだ。

 これはリアリティーという面からも、実感が乏しい感じがして、
どこか観念的なこしらえものを感じさせる要素ともなっている。

 しかし、逆に言えば、日本のキリスト教の受容は、その程度の実
体しかなかった、ということを逆照射していて、ある意味では日本
的な宗教文学としてリアリティーがあるとも言える。

 キリストの存在が信じられ、その教義によって、都市や建築が造
られ、生活の中心に鎮座して長き歴史を経ている文明の中では、イ
エスは実在しているかどうかは別として、肉感あふれるものとして
、教会にも家にも、町にも実感として存在する。生活の規範として
生活の意識を呪縛(じゅばく)もしている。

 従ってリアリティーあるものとして、文学者の意識によみがえっ
てくる。実在のものとして、描き出すしかない存在である。そのよ
うな実在の相対としての社会と文明が遠藤周作の前には欠落してい
る。

 自ずから、その世界は膜を隔てた世界としか見えることがない。
西洋文学や神学、そして聖書の言葉としてほぼ書籍を通して訪れて
くる知的な問題の果てに現れてくるものがほとんどだ。

 その意味では、西洋の文学者が陥った宗教と文学の問題のような
罪の問題の相克といったものが元々欠けているのは、それだけ遠藤
周作が誠実な優れた文学者だったからだろうと思う。

 見事にキリスト教の問題をテーマとして切り取っても、それはた
んに小説のテーマとして存在するだけで、宗教文学の地平には関係
のないものになる。善と悪の図式的な構図ならば、ヒューマニズム
文学の一種として理解するしかない。 

 もともと、キリスト教自体の影響が、日本の歴史の中にあって、
神道や仏教のような歴史を持っていない。これまでの文学は、仏教
的無常観、儒教的倫理観、そして、神道的自然観によって形成され
てきたことを思えば、キリスト教における宗教と文学は、これから
検証され論じられてしかるべきテーマではないかと思う。
(羽田幸男・世界日報)掲載許可済です。
Kenzo Yamaoka
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件名:ネット関連のセキュリティ会社について 
いつも洞察の深い記事に関心しています。
さて、インターネットを中心としたネット社会が発展し、それと相
俟って、セキュリティ問題が重要度を増している昨今です。私の知
り合いで新しい会社を起こした方がいらっしゃいます。
会社名は「潟gリニティーセキュリティーシステムズ」です。2000
年には、徳島ニュービジネス大賞を受賞している、大変将来性のあ
る優良会社ではないかと思っております。
そこで、F氏、並びに周りの方々でネット関連、とくにセキュリティ
関係でご関心のある方のこの会社並びに、会社の販売する商品につ
いてのご意見、ご感想をお聞きしたいと思います。
何卒、宜しくお願い致します。
 yamiroko@aqua
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(Fのコメント)
この会社の製品は、暗号化技術で、文書を暗号化する技術製品です。
セキュリティは暗号化、ファイアー・フォール、ウイルス検地・除
去などといろいろな分野がある。暗号化と方法はいろいろあるため
に、この会社の製品がいいかどうかの判断はできませんが、1つの
分野を精緻に製品化していると感じました。URLは下の通り。

http://www.trinity-ss.com/


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