1406.マルテの手記



マルテの手記

事実に基づかない論議は、空論である。
事実を捻じ曲げた論議は、詭弁である。
 
事実を謙虚に誠実に正確に見つめる。決して第三者として、冷徹に
見るのではない。
 
私は、見る事を学ぶのだ。大学の文学概論でいつも先生は、優しい
澄み切った声で話しておられた。
 
フローベル、モーパッサン、リルケ・・・・・ボヴァリー夫人、
ロダン・・・

先生の澄み切った優しい声を思い出して、今も胸が張り裂けそうに
なる。
 “私は、事実を見る事を学ぶんだ”
最初から最後まで一貫して、“見る事”についてであった。
 
ヘッセの小説、題名は、忘れました。「彼女は、セガンチーヌの雲
と一つになっている」と。
 
画家と絵画と見る者、3者が一つになること。
カメラマンと写真と見る人が一つになる。
これによって、始めって、真実の世界が具現すると私は、思います。
坂口安吾が志賀直哉を貶していた。彼は、徒の文章家だと。
    
一番思い出にあるのは、「マルテの手記」である。そして、フロー
ベルは、お釈迦さんのようだと思った事を覚えている。 
 
 マルテの手記(岩波文庫本)より
『僕は見る目ができかけている。自分でもどういうのかよくわから
ないが、なにもが今までよりも心の深くへはいこみ、いつもとどま
る場所よりも奥へはいる。今日まで自分でも知らなかった心の隅が
あって、今はなにもがそこまで、はいりこんで行くのだ。その隅で
どんな事が起こるかはしらない。(p9)
 
僕はもう書いただろうか?僕は見る目ができかけている。そうであ
る。僕は目が開き始めた。まだ少々おぼつかない。怠らず修行しょ
う。(p10)
 
・・・個性に富む死は、個性に富む生活と同じくらいまれになるだ
ろう。ああ、今はなにもが既製品でまに合う時代である。この世に
生れ出て、既製品の生活を見つけ、それを体につけさえすればいい
のだ。(p13)
 
僕が今まであった人や、話に聞いた人のことを思い出してみると、
どの人も祖父と同じ死に方をした。だれの死も個性のある死に方で
あった。男は死を囚人のように胸中に宿し、女は高齢になると小さ
くひからび、船のような大きな寝台の上に舞台の女のように寝て、
全家族、召し使い、犬に見守られて、ひっそり荘厳に死んだ。さよ
う、子供も、がんぜない子供でさえも、子供らしい平凡な死に方を
せずに、心を張り詰め、現在まで育った生活と、これから育つはず
であった生活を合わせて死んだ。(p19〜20)
 
見る目をできかけている今、僕は仕事を始めなくてはと考える。
(中略)詩を作る事を何年も待ち、長い年月、もしかしたら翁にな
るまで、深みと香りをたくわえて、最後に十行の立派な詩を書くよ
うにすべきであろう。詩は一般に信じられているように感情ではな
いからである。(p22〜23)    』
 
見る目を養って行く、感情や先入観を排し、謙虚に事実を見つめて
いくこと、先生の言葉が今も聞こえてきます。
 
浄土真宗で一番よく読誦されるお経、正信偈(教行信証の行の巻の
最後)があります。
そこに浄土真宗の七祖の一人、竜樹について親鸞が賛嘆しいる文を
挙げます。
 
釈迦如来楞伽山    為衆告命南天竺
竜樹大士出於世    悉能摧破有無見 
宣説大乗無上法    証歓喜地生安楽
 
釈迦如来、楞伽山にして、
衆の為に告命したまわく、南天竺に、
竜樹大士、世に出でて、
悉くよく有無の見を摧破せん。
 
この“有無の見” とは、今風に表現するならば“相対的な思想、
イデオロギー”。 
真実の宗教は、絶対的、“人間の計らい”を離れた超えたものです
。即ち他力。
 
智不得有無       智は、有無を得ず。 
而興大悲心       而して、大悲心を興す。
 
鈴木大拙の墨跡にありました。出典は、解りません。
 
左や右 、勉強(仕事)が出来る出来ない、etc。
こんな事にとらわれていると自身も世界も
惨めで悲しくなっていくばかりではないだろうか。
とらわれから解放されなければならない。
 
事実を見つめる事こそ、解放の第1っ歩だと思う。
國井明子
*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*
Akiko Kunii
email: takunii@d1.dion.ne.jp
URL: www.d1.dion.ne.jp/~takunii
*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(Fのコメント)
事実を見つめて、その事実から解決案を見つける必要がある。
しかし、事実が自分の意向と違うと、事実を変える傾向がある。
==============================
一つの物語に向けて…。(1)

今、大変なのは、地方が、活性化する方法を見つけることが難しい
から。
拡大するパイを、再配分することによって、地方を底上げしてきた
<システム>に、無理があることを、誰もが知ったから。

今、不安なのは、未来の姿が見えないから。
老後という弱者に、すべての人は、なって行く。
その不安の大きさに、社会の<システム>との齟齬が、からまり増
大しているから。

今、うまくいかないのは、経済のシステムが、大きな国際化の中で
しか動かないから。再生産のない借金では、根本的な解決に結びつ
かないから。

今、恐ろしいのは、家族、社会、教育という人間の力と、こころが
弱くなって、連帯や、問題解決の力が弱まっているから。

今、苦しいのは、環境や、エネルギー、消費や、食など、大きく自
らの意識を転換させないと、生き残れないから。

今、苛立つのは、いわれなき利権と権力維持の為に、自由な発想と
、努力の芽が、押えられているから。

今、残念なのは、平和の名のもとに、本当の平和や、人々の安全が
希求されているか、疑わしいこと。
争いに至ることの、互いの不信を取り除けないこと。

今、求められるのは、政治が、誠実に語ること。あたりまえの情報
が、権力が恣意するために隠されないこと。

だから、政治を選ぼう。 日本の未来を語ろう。
何が、日本に必要なのか考えながら、利権で歪められる政策なんて
、もう、うんざりだ。
イビツになって、歪んだ建物は、土台まで考えて立て直そう。

充分に吟味された<柱>を立てよ。実行可能な<手順>を示せ。
邁進する、<意志>を、高く、高く掲げよ。

たくさんの<旗>を、なびかせよう。
街に、空に、街道に。
未来の為に、熱くなろう。
                        まとり 
==============================
件名:人生を意義づける目的意識  

善に生きるのも人間性の側面
 目的および「善行」についての議論は、しばしば哲学的宗教的観
点から表現される。そのような議論は時折、現実の生活や日常的な
活動とはほとんど関係がないといって批判される。しかしながら、
他の議論は逆が真であり、目的についての考え方が私たちが何を行
うかだけでなく、いかなる者になるかをも形成すると指摘している
。(米月刊誌 「ワールド・アンド・アイ」九月号)

 人間性に関するいくつかの理論は、すべてのものが究極目的(テ
ロス)、言い換えれば存在の最も根本的なレベルにおいてそのもの
が何であるのかを定義する本質を持っていることを示唆している。
これらの理論によると、人間としての究極目的の一部は、意味と目
的の探求である。もしこれが正しいならば、目的を知っていること
は人生に意味と情熱を付加することができる。しかし、いつも目的
が容易にはっきり分かるとは限らない。それには多くの理由がある。

 意思決定や行動を誘導する有意義な目的を特定化することが難し
い一つの理由は、私たちが常に複数のメッセージにさらされている
ことだ。例えば、広告やその他の文化の側面は、人生における目的
は美しく見えること、気分が良いこと、あるいは高級車を運転する
ことだと告げる。私たちの文化が人生のより深い目的についてメッ
セージを伝えることはほとんどない。

 もう一つの理由は、民主主義の中心的な価値と認定されているも
のによっている。私たちはそれぞれ自分のやり方で幸福を追求する
よう勧められているが、同時に全体の善のために共に働くように勧
められている。多くの場合、この二つを同時に行うには複雑でバラ
ンスある行動が必要である。

 資本主義の基本原理もまた、生きがいとなる目的を明確にするこ
とを困難にしているかもしれない。資本主義は、もし個々人が自己
の私欲、すなわち最大利潤を追求するならば、経済システムが最良
に働くと想定する。資本主義はまた、人間活動の価値を決定するた
めの主要な尺度としてお金を用いることを提示している。多くの
人々は資本主義社会に住み、この体制が提供する機会を評価してい
る。

 アダム・スミスが「国富論」において概説しているように、「す
べての個人は、自己の利己的な利益のみを追求する時に、見えない
手に導かれて、全体のために最高の利益を達成する」ということを
私たちは信じたい。

 これらの諸原理は、経済生産を増大させる力は持っているものの
、周囲の世界を注意深く観察すると、その倫理的意味について重大
な疑問がわいてくる。特にこれらの原理が作用すると、富者と貧者
の間に巨大な格差をつくりだすように思われるからだ。

 善意からしたことが他人や自分自身に害をもたらすことがある。
したがって、善意だけでは十分ではない。個々人の幸福の無拘束な
追求が私たち自身と他の人々に害をもたらし得ることも分かってい
る。それでは、人生の目的を特定化するに当たって何らかの信頼で
きるガイドラインがあるのか。このテーマに関する、最近出版され
た本の数が証明しているように、この問いが多くの人々の心に引っ
掛かっているようだ。

 評論家のリック・ウォレン氏は著書『目的に駆り立てられた人生
−私は一体何のためにここにいるのか』の中で、人は生存、成功、
意味という三つのレベルのいずれかで生きている、と述べる。同氏
によれば、ほとんどの人々は最初の生存レベルで生きており、ただ
何とか暮らしているだけである。彼らは時間を費やし、週末のため
に生きている。

 ウォレン氏によると、このような生き方は存在の生き残りレベル
を代表しており、満足とはほど遠い。成功を達成する人々でさえ、
このレベルではまだ満足途上であると気付く傾向がある、と言う。
同氏の前提は、「私たちは生き残りや成功というレベル以上につく
られている。意義のためにつくられている」ということである。

 もし私たちが意義のレベルで生きるようになっているならば、行
動を方向付けする必要がある。ただし、聖人との関連性ではなく完
全に人間的であるとの関連性だが。しかしながら、「人間的である
」ということに関しては何らかの混乱があるように思われる。
 例えば、「私は人間でしかない」「それは人間性だ」などのフレ
ーズはしばしば、「道徳的に弱い」「卑しい心の」「自己中心的」
と考えられている人間の側面に関して使用されている。こうした自
分に関する謝罪的なフレーズを使用する場合には、人格の弱さや洞
察力の欠如が人間的であると示唆されている。「彼は聖人に違いな
い」というフレーズも類似の見方を伝えており、正しいことを行う
ことは基本的人間性を超えて行動することを示唆している。

 人間性をこのような否定的で限定的な仕方で見ることには問題が
ある。自分自身を道徳的に弱い、自己中心的だと見るならば、それ
は恐らく私たちがそういうものであるということになる。しかし、
もし私たちが人間としての自分を異なった仕方で考え始めるならば
、どうなるだろうか。人間性に関しては、「見ているものが得てい
るもの」という前提を受け入れる代わりに、「そうなり得るもの」
の観点から考察できるかもしれない。
 謝罪的に「私たちは人間でしかない」と言う代わりに、自分自身
をそしてお互いに「十分に人間である」ように高めることができる
かもしれない。ただし、十分に人間であることは、完成とかいつも
正しいことを行うということを意味していない。

 十分に人間であることは、正しいことを行うという問題を真剣に
受け止めるように要求している。私たちが人間として大きな勇気と
寛大さを示す潜在力を持っている一方で、自分自身や他人に対して
時々意図的に大きな傷を与える潜在力も持っているということはほ
とんど疑いの余地がない。他人に対して同情、包容、親切さを見せ
るのと同様に、卑しい心で、嫉妬(しっと)深く、自己中心的に行
動したい時があるのを私たちは知っている。しかし、自己中心的な
仕方が“人間的な仕方”であると考える限り、私たちは本当の自分
の半分しか見ていないことになるだろう。
(世界日報)掲載許可済です。
Kenzo Yamaoka
==============================
衆議院予算委員会質疑を見て

自民党対民主党〜野党の論戦を見ていてイラク派兵問題が討論の中
で小泉自民党はなんら満足な返答が出来ていない

私は以前にも投稿していますが比のイラク派兵問題は日本が最初か
らは間違っている。「自民党」

そもそも日本の自衛隊隊員は特に「陸自」は銃器も持たずに海外に
出るなど、自衛隊法を見ても自衛隊隊員は国内の出来事には対処出
来ても、海外に出て行動する事は出来ない。

なるほど自衛隊法をみかたによっては派遣出来ると内閣は思ってい
るが一人一人の自衛隊員に今一度聞いてみる事だ
そうでないとブッシュに大恥をかくことになる仮に隊員100%の
うち海外に派兵OKなのはおそらく多く見て20%あれば最高と思
うがこのままでは日本が又又、戦争に突入する事になる。これから
の若い方々初め、おかあさん方の考えを小泉自民党は良く聞いてか
ら米国ブッシュのご機嫌を取る事だ。

私は民主党だが今の女性は大半が自民党びいきだそうだが自衛隊を
イラクに派遣したら消費税どころでなく小泉は没落することになる
その方が民主党の世界になる。

  10.01.pm5.30.ks_kiyo4@yahoo.co.jp  阪本 潔
==============================
joe です。
Subject: 国際戦略コラムno.1399.ネットワークの利用について

> (Fのコメント)
> 日本は今でもグローバルに活躍している企業を多く持っている。
> この企業は、好き嫌いを別にして、訴訟の対応策を取るしかない。
> これはグローバルな日本企業にとって、やるしかない。
> 
> 個人としてはこのようなことはいいことではないと思っている。

やはり、そういうことになるのでしょうね。これが解なのだろうと
コメントを読んで私も思いました。

> >最近、SGIというUNIXを販売している会社が無料のOSであるLinuxを
> >著作権侵害であると表明し、業務でLinuxを使用している企業にライ
> >センス料を支払うように通知しました。 
> 
> SGIは誤りで、これは SCO のことです.
> 
> 修正されることをおすすめします
> 
> name=N/A

すいません。送信後、私自身もこの誤りに気づいていました。

また、「固定IP」と書いた部分も「固定ID」の誤りです。

訂正し、お詫び致します。


コラム目次に戻る
トップページに戻る