1395.古神道の形成3



日本人とは何かとその歴史を議論しよう。    Fより

日本の政権は幾つか存在していたと考える必要がある。三内丸山は
、東の政権で黒曜石を武器(鏃)にしていた。西にはペトログラフ
(岩文字)を書いた人たちがいる。しかし、このペトログラクの人
たちは普通の石斧を使っていたために、三内丸山の黒曜石を武器し
た人たちに負けて、日本を出て行くことになる。この2つの文明は
土器を持っていたために、世界的に進んでいた。BC5000年前
頃と考えられる。

日本はノアの箱舟である。このペトログラフを書いた人たちは、大
津波によって、大陸と分離した日本を記憶の底に持っている。

ペトログラクの人たちはどこに出て行ったか?中国の長江文明の地
であろう。BC5000年頃長江文明の河姆渡遺跡が出来て、そこ
で米作を発明する。その後、シルクロードを通って、BC3000
年前頃にメソホタミアのシュメールまで行く。ここで米がないので
それに似た麦作を行い、文化を高めたようだ。またノアの箱舟など
の神話を作っている。しかし、BC1500年でヒッタイトの鉄に
遭遇し、ヒッタイトやバビロニアの武力に負ける。このため、エジ
プトに助けを求めていく。

その後、この鉄を持ってヘブライ王国を作り、BC722年にバビ
ロン捕囚でアッシリアに行く。アッシリアが滅亡した後、シルクロ
ードを通って、鉄を持って日本を目指す。

長江文明の末裔が呉・越人である。そして、神道は道教の神道派の
ことで、これを呉人が日本に持ってきたことは明らかである。しか
し、倭国の卑弥呼は鬼道であると指摘されている。この鬼道とは、
道教の前の世代に属するもので、この卑弥呼も中国からの移住者と
なる。道教が鬼道派から神道派になるのは、論語の影響であるから
、孔子の死んだBC479年以前に日本に移住してきた呉人がいる
ことになる。この呉人の元々の出身地は日本である。

このように、倭国は道教と農耕を導入した越・呉人政権であること
がわかる。天皇家は神武の東征があり、この九州王朝から出てきた
人たちであるから、呉・越人が中心になる。このため、宇佐八幡神
社が天皇家の古い信仰の社というのも分かる。

漢氏は漢滅亡で来たはずであるから、BC20年頃かAC200年
に渡来したように思う。このときには、すでに大和に百済政権があ
り、この百済の人たちが、中国で負けた政権の人たちを招きいれた
可能性が高い。

シルクロードを通って戻ってきたペトログラフの人たちが秦を作り
、秦が滅亡すると、朝鮮半島にBC194に衛氏朝鮮が造る。その
後、夫余国・高句麗などができる。夫余国が滅亡して、秦氏が日本
に来た可能性がある。滅亡前にも夫余は日本に乗り出してくる。
秦は鉄を持っているために、青銅器の旧日本政権を滅亡させる実力
があったが政権を目指さなかった。滅亡を何回も味わい、技術者と
して生きた方が得と思っていたのか??

AC200年頃で、秦氏との繋がりのある景教を信仰していた聖徳
太子は仏教に味方して、道教の神道派である呉・越人である物部氏
を滅ぼす。百済王であったであろう蘇我氏は仏教徒である。ここで
、大和政権の権力機構が変わった。この呉人の物部氏は東の三内丸
山の政権に逃げて、東と呉人が連合する。呉人政権である古い日本
の政権と神を追放するために、百済政権は出雲大社を造ったのです。

そして、AC673年、天武天皇は新羅の王であるという。持統天
皇は天智天皇の娘であり、百済王朝の末裔であるから、白村江で、
日本が負けたことは、日本の政権も変えることになったようだ。
蘇我氏も衰退する。新羅の貴族であった藤原氏は政権の中核になる。

聖徳太子は中国・朝鮮から影響を排除するべく日本化政策を進め
て、日本語を規定して、ひらがなやカタカナを作った。特にカタカ
ナは朝鮮の文字を持って来たと言われるのは、百済と新羅時代が
日本にもあるためであろう。このひらがな文化が定着するのは、
平安時代の女流文学の名作からであろうと想像できる。

このようにペトログラフを書いた人たちが戻って、中国と朝鮮に来
て、そこからの移民として日本に戻り、かつその王国間闘争によっ
て大和朝廷はできているのであろうと容易に想像できる。

それと、日本は東と西の2つの雰囲気を持っている。これも長い日
本の歴史から来ている。そして、西と東は、国際派と国内派になり
、先進性と伝統文化と、いつも日本の世論を2分する。これも日本
にずっといた人たちと、世界を又に掛けて回っってきた日本人の記
憶がそうさせているように感じる。


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