1388.古神道の形成2



古神道は、日本の縄文時代からどのように形成され、そして変化し
たのであろうか?   Fより

縄文時代は1万年以上、日本では続いている。縄文中期に三内丸山
遺跡があり、この遺跡で縄文中期にどうような暮らしをしていたか
を知ることが出来る。祭りと漁業と団栗、栗を主食とした食事で、
勿論土器が使われていたし、黒曜石が鏃に使われていた。その黒曜
石は立山から交易によって、この三内丸山に来ている。中継貿易の
拠点として、この三内丸山はあったのです。

まだ、水田や畑のような労働を伴った農業をせずに、栗や団栗の木
を植えただけの簡単な農業で済ましている。あとは野草を摘んでい
るようにしか見えない。本当にそれで、三内丸山の数千人の人口を
維持できたのであろうか疑問があった。

この疑問を解いたのが福岡さんの果樹園やその周辺の木や山菜の繁
茂でしょうね。木々を中心とした自然に適度な手を入れるだけで、
基本的に自然は自ら繁茂するようになっている。これを利用したの
でしょうね。人間の排泄物も肥料になり、自然の循環に組み入れた
生活をすれば、あまり労働をしなくても、おいしいごちそうにあり
つけるようなのです。あくまでも中心は木々である。

木立に立つと分かるが、温度や湿度がコントロールされていて、そ
の下の草にはいい環境を提供している。この草によって、栄養分を
増強されて昆虫達が繁茂し、それを狙って鳥が来るという循環がで
きる。うっそうとしたジャングルでは木の下は暗くなって、草は生
えない。このため、所々、日が入るような道が必要なのでしょうね。

この循環を崩さないようにすれば、自然と作物ができる。と言うよ
り、人間もこの循環に組み入れた生活をする仕組みが戦前まで、日
本にはできていたのです。林は適度に見通しが利かないためにいろ
いろな物語も生まれる。森の妖精などの物語もそうですね。

しかし、この林ですが病気や害虫から身を守るために、熱帯や亜熱
帯では人間を襲うライオン・トラなどの猛獣やサメなど海獣やコレ
ラ菌などがいるために人間環境としてはよくないのです。このため
、温帯に多くの人間が暮らし、冬を越すことによって病原菌の繁茂
を押さえられたのです。

このような環境で、人間は自然と持たれ合いという一体感を確立し
たのです。夏の暑さで、作物ができて、冬の寒さで人間に有害な病
原菌が抑えられるため、この気候の循環も人間の生命維持には必要
なのです。

冬の寒さで、人間自身は気を引き締められ、夏の暑さでは気が緩ま
せて、暑さを我慢せざるを得ない。この人間の中にある感じと自然
が繋がっていると感じたのであろう。ここに気が意識されてきたよ
うに思う。気はその周り気候や木々や動物や人間達が出す電磁波を
感じ取る受信機であり、かつ自分の気持ちを伝える発信機なのであ
ろう。

この自分の中にある気を高めるためにはどうするかを古代人たちも
考えたのでしょうね。気候の変化により人間自体の内的変化が気の
存在を気がつかせた。そして、気が付いた「気」を高める方法を人
間は考えたようです。

この方法として、呼吸法、座禅、気の集中点(チャクラ)、丹田な
どを見つけていく。この気をどのように使うかが重要なのが、日本
の古武道であろう。甲野さんの本「古武道の発見」を読むと気の使
い方と、身体をバラバラに動かすことが重要であると書いてある。

もう1つ、人間と天を結ぶ儀式として、火が使われたように思う。
日本の土器を造るにも火が必要であり、この火や火の親玉である太
陽を神聖なものと見なしていたようだ。この旧日本人たちが、メソ
ポタミアのシュメールに行って、拝火教を広めることになったよう
に思う。この日本拝火教・太陽教の祭壇が日本のピラミッドであろ
うと、日ユ同朋論でも有名な酒井勝軍が言っている。
しかし、ペトログラフは西日本でしか発見できない。東日本にはな
い。そして、縄文中期の中心は三内丸山のように東日本が中心にな
っている。このため、縄文中期には日本はロシアや中国からの移民
により、別の思想の土地になっていったのであろう。三内丸山から
は拝火教的な要素が見えない。

この拝火教とユダヤ教の融合形が東方キリスト教で、この思想を持
った人たちが秦氏であろうと、ケン・ジョセフ「十字架の国日本」
で述べている。古日本人たちは日本から出てシュメール人やユダヤ
人をなり、かつBC772年にイスラエル王国が亡国になり、再度
、故郷に帰ることにしたというのである。

故郷に帰るためにアッシリアの首都バビロンに捕囚されて、その後
BC612年にアッシリアが滅亡して、このアッシリア滅亡で自由
になりユダヤ教の亜流である拝火教を造り、シルクロードを通って
、中国に秦を立て、秦滅亡BC206年で、その後最初の帰還人が
日本の弥生時代に戻ってきたというのです。この前に長江文化の末
裔でもある呉が滅亡して、この人たちが農耕文化を縄文時代の日本
に伝えて、その後、帰還した秦の強大な兵力が天皇家の古墳時代を
築く。そして、最後に天皇家が日本に政権を確立したので、技術力
のある秦氏を呼び寄せたように感じる。あれだけの技術力がありな
がら、景教徒である秦氏は天皇家に楯突かないし、権力を志向した
ことも無い。巧妙に神社に自分達の景教を隠すことになったのでし
ょうね。

日本の神社を調べた原田常治の「古代・上代日本正史」は、古代史
の見方を神社の歴史から見ている。超古代史への接近の1つの道を
与えていると思う。
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前5000頃  河姆渡遺跡【中国】
前2300頃  檀君王倹、古朝鮮の建国(『三国遺事』)【朝鮮】
前1700頃  商(殷)成立。成湯王位につく【中国】
前1200頃  周がおこる【中国】
前900-722  イスラエル王国
前1350-0640 エラム王国(イラン)
前0612   アッシリア滅亡
前770-403  春秋時代
前0403   戦国時代
前0221   秦
日本の弥生時代開始は、前200頃からです。
その前は1万年以上、縄文時代です。
日本史を考える時には、中国古代史、中央アジア史との繋がりを、
いつも意識する必要がある。この古日本人たちは地球規模で活躍し
た痕跡を残している。このため、世界の古代史は繋がっている。


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