1367.古神道形成の背景について



古神道形成の背景について検討しよう。   Fより

どうも、古神道の考え方は「日本人とは何か」を問うことと等価に
なる。そして、どうも日本人とは何かを問われることが多いのは、
欧米で日本人社会と離れて生活をした経験のある人であろう。
CHACOさんとか欧米へ行った海外留学生などで、どうしても、
周りから「日本人とは」と聞かれることが多いためであろう。

この質問は非常に難しい。私も米国でビジネスをしている時、少し
親しくなると、なぜ日本だけがアジアで成功しているのか?とか、
中国人の友達がいて、あなたのような日本人を誉めるといやな顔を
して、日本人は下等動物でアジアでも一番最後に文明化した人達で
あり、その証拠に神道のような非文明社会にしかないアミニズムを
信じていると言われたと言う。この時、反論をするしかない。

左翼に近い人たちがいるメーリングリストでは、ここで議論してい
る古神道を非難している。日本にしかいない人が、どうして古神道
を非難するのであろうか、自分達の形成史を知らないのは不幸であ
り、かつ「日本人とは」の質問に答えられない。伊勢さんの「国際
派日本人養成講座」も同じ趣旨で開始しているように、海外へ出て
いる人たちの方が古神道などの情報を知りがっているみたいだ。

グローバルに活躍している人が古神道を知りたがり、ローカルで日
常的に神道的な行動をしている日本人たちが古神道を拒否するとい
う矛盾した現実があるように感じる。

これは日本在住の日本人には、その必要が無い。「日本人とは」の
問いが無い。このため、自分の行動原理が欧米人とはどこか違うと
認識できない。特に自然との接触での感覚は本当に違うように思う。
自然の音をどちらの脳で判断するのかが、欧米人と日本人では違う
と言われた。日本人は左脳で、欧米人は右脳だそうだ。日本人は、
自然の音を言葉と同じレベルで聞くが、欧米人は雑音のレベルで聞
くとのこと。

この違いは、普段の生活の行動原理が違うためで、この行動はどこ
から発しているのかを議論する必要が出てくる。この原理は日本の
縄文時代にその源を発するようだ。日本の縄文時代はBC300年
頃までであるが、中国は最初の国家「殷」はBC1600年に出来
ている。秦の始皇帝はBC221年に中国を統一しBC206年に
滅亡しているので、日本の縄文時代・弥生時代は、大きく中国の商
人や滅亡した国家の人たちが押し寄せたことが分かる。呉や秦など
の国家が、滅亡した時にその貴族達が日本に押し寄せた。

日本の縄文時代中期の人口は50万人レベルと非常に少ない。
BC6500年に日本で土器を発明しているようで、BC5000
年頃は日本から世界に文化を発信していたようである。「超古代日
本語が地球共通語だった!」徳間書房 吉田信啓。
しかし、その後の日本には歴史的な記述が無い。

縄文時代は栗、団栗などの木を植え、その実を食べていたのと、魚
介類を主食としていた。この時代の人口の中心は東北地方であった
のであろう。岡などの高い土地にいた。各地の高台に貝塚があるこ
とでも分かる。この当時の信仰はアイヌ・沖縄の人たちが信じてい
る太陽信仰や精霊信仰など多神教のアミニズムに近い信仰であろう
。しかし、神道の元はそうであるが、その上に古神道でも理論が、
幾重にも重なっている。

BC496年に呉の滅亡で、呉人たちはベトナムと日本に分かれて
逃れた。この時に道教・神道派の詔などの形式と村の鎮守の祭り(
秋、夏祭り)や稲作文化を入れたようである。稲作文化は縄文時代
後期には、全国に広まった。縄文人の岡と呉人の沼地とに分かれて
住むことになる。ここらまでは平和時代であったようだ。神道信仰
に縄文人の信仰の要素を入れたようだ。この時代の姿が上海の近郊
農村の道教の寺に残っている。日本人はこれに懐かしさを感じる。

その後、秦氏(はたし)が日本に来る。中国の秦は西アジアの民族
であったようであり、ユダヤ教や景教の影響を受けている。
このBC206年に滅亡した秦の末裔として秦氏(はたし)がいる
ような感じがする。2万人規模で、日本に移住したようだ。

日本に衛生の概念や土木・建築技術と神社の建築様式を持ってきた
。このため、神社を民間の今までの神社と秦氏(はたし)運営の神
社(八幡神社、稲荷神社)を分けた。
民間信仰としてのそれまでの神社も秦氏運営の神社様式を真似して
いくことになる。神社に入る前に手を洗うなどの仕来りが追加され
た。穢れの概念も追加されている。

このように日本は古代から技術を中国を通じて持ってきた。しかし
、明治以後は技術の導入先を中国から欧米に変えただけである。

弥生時代後期に、前に来ている呉人、秦人たちと、後に来た韓人・
漢人たちが倭国大乱というように紛争を起こす。この戦争に勝って
、天皇家が形成される。BC300年。中国は六朝時代、魏氏倭人
伝は、この頃の情勢を記述している。この倭人伝から倭と大和と2
国があったと、吉田武彦氏は言う。

天皇家は勝って、平和宣言をする。それが聖徳太子の17ケ条の憲
法であろう。天皇家は平安時代に権力を藤原氏に譲り、権威だけを
持つ存在になる。このため、2千年以上、権威を保つことが出来た
。天皇家がある意味は、日本が収拾つかない混乱に陥った時に、
その収拾を託される最後の砦としてである。この混乱は数千年に一
度しかないかもしれないが、その混乱の例として、白村江戦いの敗
戦、明治維新と太平洋戦争の敗戦であろう。

その時のための準備(悪い言い方は保険)として、日本国民全体と
しても重要な存在である。太平洋戦争の敗戦で、天皇の終戦のお言
葉と、昭和天皇がマッカーサーに言った「日本国民を助けてくれ。
自分はどうなってもいい。」というお言葉であろう。これで日本は
救われた。

しかし、今後は天皇絶対主義の国家神道はありえない。国家神道は
日本の歴史からしても異常なことである。明治・大正・昭和前期は
異常な時代で、欧米から侵略されるという意識があり、その対抗処
置として必要であったためであると欧米の歴史学者は言っている。

今はこのような異常な時代ではない。このため、日本史の正常な姿
に戻って、天皇を権威として位置付けする。
時代とともに権力は、交替可能するのが日本の歴史として正常であ
る。それも平和的な政権交代が理想だ。


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