1361.101匹目の猿が臨月を迎える



101匹目の猿が臨月を迎える
2003/8/01/MN 
■	2003年 アメリカ
 去年の9月より、アメリカのニューヨークで生活した。約一年間
、留学生の立場での生活である。ニューヨーク・マンハッタンは、
植民地時代より続く独特な移民街が広がる世界というだけでなく、
世界の金融の中心地であるウォール街、芸術と娯楽のビジネスが花
開くタイムズ・スクエア、伝統的な学術の世界に満たされるコロン
ビアなど、わずか数キロの長方形型の中にこれだけ多様の文化を保
有している。人々は、今なお、ここに人生への希望とチャンス、
そして何かしらの刺激を求めて訪れるか、移り住む。

 実は、今回は私にとって2度目の留学経験であった。私は、学生時
代、1997年に、シアトルで半年ほど生活したことがある。当時、ス
ターバックスとマイクロソフトを生み出し、米国発ニューエコノミ
ーの勢いにのるシアトルの街には、底知れぬ活気と意欲を駆り立て
る魅力があふれていた。そうなのだ。実は、このマンハッタン、何
か空しい街なのである。私にとって、マンハッタンは感動のない街
であった。街の空気は、そこに住む人が作り出す。そこに住む人々
の息使いが街の雰囲気をかもし出す。私は、そこに何か、ごちゃご
ちゃしていて、狂気と苛立ちが渦巻くものしか感じなかった。

 別のものにも97年シアトルとの違いを感じる。それは、「言葉」
である。これはひょっとするとマンハッタンに限ったことではない
かもしれない。多くのアメリカ人の話す言葉が、どこかふわふわと
していて、あまり意味のない着飾ったような話し方をする人が多い
。日本のバブル期を思い出す。あのときも人の話す言葉に乱れがあ
ったようだ。

 上海から来ている日本人留学生に、「上海と比べてどうか」とた
ずねると「上海の方がずっと楽しい」と返ってくる。アメリカの勢
いがピークに達しているのはこのようなところからも感じる。アメ
リカという国家が何か狂気じみた世界へと向かいつつあるように思
える。米国メディアは次々洗脳集団へと変わり、宗教右派に肩入れ
する政治家が増え、経済の行き詰まりは深刻化、ローマ帝国の崩壊
期も同じようなことが起きていたのだろうと感じる、そんな一年で
あった。

■	カタストロフィー(崩壊)の行方
 米国経済の衰退と覇権後退、それを必死に食い止めようとあがく
米国政治の暴走は、現代の世界システムを根幹から崩壊させること
になる。そこには、まさに資本主義を支え続けてきた巨大な金融シ
ステムと資本主義が人類に齎した巨大な物質社会の崩壊を齎すこと
になる。過去の知りうる限りの歴史文献を検証しても正確に推し量
ることのできない未曾有の混乱が我々に襲いかかりつつあることを
感じさせる。これは、人間の意識に強烈な影響を与えることになる
だろう。カルト教団がアルマゲドンを叫ぶ気持ちも分からなくはな
いのだ。

 ちなみに、私の大半の発想手法は、学生のときに出来上がった。
まずは近代経済学から入ったが、その理論があまりにもザルなのに
もほどがあると感じ、複雑系という現代科学を独学で学び、これに
哲学や科学の発想、歴史学、人類学、生物学、超古代文明論、神秘
学、宗教、西洋・東洋の古代理論などを掛け合わせた独特のもので
ある。過去の学者の理論・はたまた偉人さんの人生哲学まで拝見す
るとその時代の様相を色濃く受けたりしていることがよくあるので
、自分もこれでよいのかと感じている。

 当時、出した漠然としながらの21世紀への結論は、人類の進化
、それも人間の意識に起こる進化だというものであった。社会に出
てから、この情報化社会の中で、色々な発想に触れたが、結局は
この解にいつも行き着く。不思議なものであるが、本当である。
ただ、そのときは、まだ余りにも発想が哲学的・空想的であり、現
実とのリンクが不十分であったため、時間軸や現象像について具体
性にかけていた。今、それが今、「相場」という世界と多くの友人
の協力を通じて具体性を帯びつつある。それは、これから100年は、
その未曾有の混乱の生成から収束、そして全く新たなタイプの人類
社会の萌芽期を自らみることになるということである。そして、
自分はその中を一生、生きることになる。

■	相場から見る現実
 私は、実はビジネスが大好きで、色々と戦略を練ったりすること
も大好きである。不思議なものだが、初めての社会人としての自分
が相場の世界であったことにいつも感謝している。自分の学生時代
の哲学が、具現化するにはまさにもってこいの世界であるからだ。

 相場は、いわば「揺らぎ」の世界だと感じている。マクロ的な世
界観から見れば、長期的な波動が支配する世界になるため、歴史が
A地点からB地点に移行することは予想できるが、たとえ、そこま
での時間軸を想定しても、ミクロの世界には必ず、潜在的な自由許
容性があり、多数のミクロ波動やストレンジ・アトラクター(未来
の連続像を形成する現象を決定する主要素ではないが、現象に影響
を与える要素)が存在するため、それらが不確実性を創出し、B地
点へ直線的に行き着くことはない。必ず、「揺らぎ」が存在するの
である。ビジネスを含めた投資や相場とは、時間軸を想定し、その
揺らぎによるダウン・ウェーブやアップ・ウェーブに資金を上手く
乗せたり引いたりすることだと考えている。

 不思議なものだが、あまり私の描く未来社会とは関係ない商売を
しながらもそれで生きている自分にふと気付く。生きるとは、色々
ごちゃごちゃしているようだ。

■	今を生きる
 これから社会、多くのものが乱れるだろう。それは、現代システ
ムを構成する無機物(貨幣システムや司法システム)と人間の意識
という有機物が相互にネガティヴ・フィードバックを引き起こすこ
とで生じてくると見ている。多くの人は、生きる道に迷うであろう。
人は、必ず何かに支えられて生きようとする。それも、また必然で
ある。そうして人は、既に起こりつつある新たな文明気流に身を任
せるようになり、何より物質社会の中で忘れてしまった「こころ」
の大切さをもう一度知ることになる。

 101匹目の猿が臨月を迎えようとしている。それは、知りうる限り
の歴史上いまだかつてないほど、人類が経験する生命波動の衝撃で
あり、人類の生命としての価値を飛躍的に高めるだろう。ただ、残
念ながら、それは過去の地球上の生命史が語るように、極めて大き
な破壊をなしには行われないのである。最大のものは通念意識の破
壊である。私は、多くの人と、私の愛する人と家族、そしてかけが
えのない友人達に伝えたい。どのようなことが起きても、乱れる目
の前のものにとらわれず、自らを信じ、真実と真理を見抜く目をも
って、今を生きて欲しい。それが、進むべき道に自ずと自らを導く
のである。
==============================
(Fのコメント)
米国の国力、指導力が落ちている。指導者の質が落ちている。イラ
クに展開している現地米軍に物資が届いていない。補給ラインが、
ほとんど構築されていない。このようなことが、ラテン系米国の軍
人から本国へのメールで明らかになっている。これでは米軍はイラ
クで本当に負けるかもしれない。補給を無視した旧日本軍と同じ誤
りを犯している。

米国の国力が落ちていると思うのは、補給には普通は予備兵力を当
てるが、そのような余裕が米軍にない。そのため、民間企業に補給
を任せた。しかし、民間に補給を任せたら軍事力が無いために戦闘
地域には行けないに決まっている。そして、この補給をハリバート
ンの子会社に任せる。チェイニーに関係する汚職を疑わせる。

もう米軍は往年の米軍とは違う。攻撃に強く、防御に弱い。イラク
のような熱帯で生理的に十分に必要な水も補給できない軍隊になっ
ている。
これで米国を帝国主義にとネオコンが主張するが、現地の秩序維持
もマトモにできない統治力・軍事力・補給力でどうしてあのような
絵空事の理論ができるのか分からない。

現地の事情を無視した米国指導者の指導力を、疑わせることになっ
ている。特にラムズフェルド国防長官は陸軍兵士を、補給も無い
イラクに置き去りにしている。最初に補給線の確保を、するべきで
あるし、補給線が無い地域には米軍を展開するべきではない。

その補給線確保のために、世界の諸国から派兵を期待したが、日本
もインド、パキスタンもダメであった。補給線用の兵員を確保する
ことが必要であろう。
==============================
件名:「クーパー理論」への批判的評価  

不明な点多い新リベラル帝国主義・保護政策に「教育」の要素も欠落

英政府外交戦略の背景的思考

 英国外務省高官ロバート・クーパーは、二〇〇二年、英国首相ト
ニー・ブレアの国家主権に制限を付す新国際主義と新人道的干渉の
呼び掛けを具体化する理論的根拠を提示した。
 この理論は、「新リベラル帝国主義」のタイトルでオブザーバー
紙に公表された。クーパーの「新帝国主義」と対外政策における二
重基準の適用は、左派陣営を激怒させたが、アフガニスタンやイラ
クに対するイギリス政府の戦略の背景となっている思考である。
 クーパー理論は、およそ以下のように要約される。

 ――世界は、およそ三つの世界に区別される。第一は、旧植民地
国家で、ほぼ存続を終結する国家で、国家が失敗し、万民の万民に
対するホッブス的戦争が行われつつある「プレモダン」地域(ソマ
リアや最近までのアフガニスタン)、第二は、もはや安全を第一に
征服構想を考えない、ポストインペリアル、ポストモダン世界(西
欧諸国と日本)、第三は、国家として、マキアヴェリ的諸原理と国
家事由に従う伝統的「モダン」国家である(インド、パキスタン、
中国そしてアメリカも)。

 ポストモダン世界の主要性格は、なかんずく、@(伝統的)国内
事項への相互介入と相互監視A紛争解決のための武力行使の拒否と
行動自己規制の首尾一貫した法典化B国境の非重要性の進行C安全
が、透明化、相互公開性、相互依存および相互脆弱(ぜいじゃく)
性に基づく。

 ポストモダン体制は、国民国家の崩壊を含まない。経済、立法、
防衛が国際的枠組みに基づき、しかも、領土境界が重要性を失う一
方で、一体感(アイデンティティー)と民主的諸機構は主に国家事
項に留まっている。

 この伝統的諸国は、予見可能な将来のための国際関係の基本単位
に留まる。ポストモダン世界内部では、伝統的な意味での安全への
脅威はない。メンバー諸国が相互に武力進入すると考えないからだ
。これに対して、モダン世界では、戦争が政治の手段であるとする
クラウゼヴィッツの格言に従っているが、これは、ポストモダン世
界では、政治的瑕疵(かし)の表徴だ。ポストモダン世界のメンバ
ー諸国が相互に脅威を提示していない一方、モダン地域とプレモダ
ン地域双方がポストモダン世界に対する脅威を提示する。

 これへの対応はどうするのか?

 二重基準適用と植民地化の勧め―ポストモダン世界への挑戦には
、二重基準の適用で対応すべきである。ポストモダン世界は、相互
に法と開かれた協働安全保障に基づいて作業するが、ジャングルで
作業する(プレモダン世界への対応)場合、ジャングルの法を使用
しなければならない。プレモダン世界でカオスが支配する場合、
これには「植民地化」で対応すべきだ――。

 これがクーパー理論の要旨である。単純明快でかつ説得的である。

二重基準適用の勧めは重大

 私の視点からしても、二重基準適用の勧めは重大である。ポスト
モダン諸国間の交際方式とポストモダン諸国とプレモダン諸国との
交際方式を区別し、プレモダン諸国との交際にジャングル方式の適
用を勧めることがこれである。つまり主権平等と武力禁止の原理を
修正することがこれだ。しかもこれに「植民地化」が加わる。
これに現在台頭しつつある「人道的干渉」を有機的に組み込むこと
が明らかになれば、説得性がさらに高まる。

 クーパーの「帝国の新時代」では、ポストモダン諸国は、プレモ
ダン諸国への対応で、もはや国際法に従う必要がなく、国連から独
立して軍事力を行使し、「統治に失敗した」政権を交代させた後、
保護国制度を課することができるのだ。これが大きな問題である。

 結論としてクーパーは、確かに、「新リベラル帝国主義」の全体
像ではなく、どちらかと言えば、そのトルソーを記述したにとどま
る。しかも、その中では、多くの不明な諸点が散見される。クーパ
ーは、新リベラル帝国主義と旧帝国主義間の決定的相違を「自発性
」の中に求めている。とはいっても、新リベラル帝国主義の中でも
、やはり武力行使の問題が除外されていない点が暗黙裏に前提とさ
れている。この点がいささか意図的に、不明確のままに置かれてい
る感が否めない。

「欠陥商品」のそしりを免れず

 次にクーパーは、旧植民地主義、旧帝国主義の中における「教育
」の要素を指摘していない。従って、新リベラル帝国主義の中でも
、「教育」要素は抜け落ちている。プレモダン世界を保護し、モダ
ン世界に変形し、究極的に、ポストモダン世界に育成するロードマ
ップが無く、しかも保護政策の中に「教育」の要素が欠けている「
新リベラル帝国主義」は、結論として、いまだに欠陥商品のそしり
を免れ得ない。

 さらにクーパーは、プレモダン世界がポストモダン世界になる基
盤を構成するためのヴォランタリー帝国のシナリオを提示している
が、そのプロセスがいかにも不明確である。
 確かに現在、プレモダン世界の危険性については争いがない。
しかも、これへの対応において、これまで、国連が不十分である点
についても争いがない。だから、それへの対応として、「新リベラ
ル帝国主義」が提唱されたことは周知の事実だ。しかしその内容は
、既に述べたように、手放しで賛同するには、いまだ不明な諸点が
あり、この詳細な解明が待たれるところである。
日本大学教授 小林 宏晨・世界日報 ▲掲載許可済です。
Kenzo Yamaoka
==============================
件名:アメリカという国  

 アメリカという国については、いろんな人がいろんな風に書いて
いるのであろうが、私には、吉田和男の見方がわかりよい。吉田和
男が、その著書「ものの見方・欧米と日本(平成6年、同文書院)
」にアメリカの個人主義について書いているのでその要点を紹介し
ておきたい。 

『アメリカの個人主義は、ヨーロッパの個人主義と違って、極めて
イデオロギー的であることが特徴である。すなわち、多数の価値観
をもった人々が集まり、社会を構成しているのであるから、その基
礎となる考えは自然に歴史の流れから生れたものとは異なることに
なる。結局、異なる人種、文化の中で、共通して持てる理念は個人
主義でしかない。しかも、それが道徳的、宗教的重要性をもってい
るところがアメリカ的である。個人主義を保障する「自由」に対し
ては、時には力をもって守ろうとする。 クルーズは「アメリカ精
神・・・・自由への愛、自由企業の精神、自由な束縛されない機会
」という表現をしているが、まさに個人の力を重要視するアメリカ
の精神といえよう。個人が個人の能力を自由に最大限に発揮するこ
とが道徳的に価値をもつのである。これが政府による個人への介入
を拒否し、市場における自由な経済活動を重視させる。 』 

 短い文章であるが誠に言い得て妙である。今回のイラク戦争も松
井選手のヤンキーズ入団もこれでよく理解できるのではなかろうか
。ヨーロッパ各国の個人主義は各国ごとに特徴があって一まとめに
することはできないが、ヨーロッパの個人主義とアメリカの個人主
義とはやはり随分と違うものらしい。それはやはり歴史や伝統、
それに風土が違うということらしい。アメリカの建国の精神は、自
由と民主主義だと思うが、その建国の精神に裏打ちされた競争社会
にあって、力のある個人はイキイキと生きていける。それがアメリ
カという国の競争社会ではないか。吉田和男が言うように、アメリ
カのフェアは競争社会の倫理を意味する。強いものが生き残るのは
「正義」なのである。 

『 アメリカが、外国にも軍事力で干渉し、世界秩序の形成に力を
入れてきたのも、このような考えによる。アメリカの問題点は、多
様な価値を認めるものの、基本的な枠組みを維持するためには強大
な権力が必要という連邦制度にある。正義を基本とする限り、国際
政治で容認できないのは国内政治でも容認できない。日本をアンフ
ェアとして攻撃するのは、そのやり方を認めれば国内政治がもたな
いからである。イラクのやり方を認めれば、アメリカ国内が崩壊す
るのである。 』 

 私は先に、「21世紀の野蛮」というタイトルで・・・、『 
いよいよサダム・フセインに対する戦いが始まる。いよいよブッシ
ュ大統領の力の政策が始まるのである。サダム・フセインの次は、
いうまでもなく金正日(キムジョンイル)である。日高義樹のワシ
ントン緊急レポート「世界大変動が始まった(2002年11月30日
、徳間書房)」は、ブッシュ大統領の力の政策をドキュメント風に
その全貌を余すことなく書いている。
 実にリアルであり、こういった事実を知らずしてこれからの政治
をやっていけないことは間違いない。政治家並びに政治評論家必読
の書だ。日高義樹が言うように、世界大変動が始まったのである。
911テロはアメリカ国民にとって言葉には言い尽くせないほど衝
撃的な事件であり、ブッシュ大統領の決断によって始まるこの世界
大変動の流れは長期に続くのであろう。 』・・・・と、今回の
イラク戦争のことを書いた。 

良い悪いは別である。善悪は別として、アメリカという国は基本的
にはそういう国であるということだが、そういう基本が未来永劫変
わらないということでは勿論ない。上記の文章に続いて書いておい
たが、ジョセフ・ナイのような人も少なくはないのである。そこに
大きな希望がある。ジョセフ・ナイがその著「アメリカへの警告
(2002年9月12日、日本経済新聞)で、「テロ攻撃の被害は
恐ろしいものだったが、わたしの関心はそれよりはるかに深い。」
と述べ、アメリカの将来を心配してソフト・パワーによほど力を入
れなければならないと警告を発しているのだが、それもまたアメリ
カの良識である。 

 また、私は先に、浅海保の著「アメリカ、多数はなき未来
(2002年8月31日、ETT出版)」で紹介しながら、アメリ
カのもうひとつの注目すべき流れ「ダイバーシティー(多様性)」
があると述べた。アメリカにおけるこういう底流は世界における大
きな希望である。 

浅海保によれば、『 アメリカの歴史はそもそも、次から次へと海
外からやってくる人々・・・つまり「マイノリティー」を労働者と
して必要としながら、一方で彼らを「搾取」し、さらには彼ら同士
の間にくさびを打ち込み「分断して支配」してきた歴史であり、そ
の構造自体は簡単に消えそうにない。 』 

つまり、アメリカの支配層に属する人たちというのは、必ずしも
「ダイバーシティー」を理想にしているわけではないということら
しい。むしろ、逆に、マイノリティーたちを互いに対立させてそれ
ぞれの力を弱め、マイノリティー全体に対する「支配」をよりスム
ーズに行なうための手段にしようと考えている人たちも少なくない
ということらしい。そうかもしれない。そうかもしれないが、アジ
ア系やヒスパニックのありようは、まことに強烈なものがあるとい
うのも事実であるであろう。私は、アメリカのことについては書物
の知識だけでしか知らないししかもきわめて断片的な知識しかない
ので、断定的なことはとてもいえないが、浅海保が言うように、
そういう葛藤それ自体がアメリカの新たなる挑戦といえるのであろ
う。浅海保はこうも言っているのだが、アメリカの支配層に属する
人たちすべてが「ダイバーシティー」を新たな「分断して支配」す
る手段とにしようと考えているわけではない。「ダイバーシティー
」の可能性をみているエリートも少なくないというのも事実らしい
。浅海保によれば、そういう人たちは、「ダイバーシティー」の進
展こそがアメリカの繁栄を約束するものである、との認識をもって
いる、あるいは、そう信じようとしながら、社会の最先端で動いて
いるというのだ。そうだろう。アメリカにはそういう人たちがけっ
して少なくないと私も思う。そこに大きな希望がある。 

アメリカという国の持つ二面性・・・、強いものが生き残るのは
「正義」であるというアメリカの傲慢さと「ダイバーシティー」の
進展こそが将来の繁栄を約束するものであるというアメリカの良識
という・・・この二面性について、私たちはそのまま正しく認識し
ておかなければならないのではなかろうか。偏見は厳に戒めなけれ
ばならない。「ダイバーシティー」の進展こそがアメリカの繁栄を
約束するものでもあるのである。 
               日経新聞より抜粋しました。
Kenzo Yamaoka

コラム目次に戻る
トップページに戻る