1355.「食」と教育について



       「食」の意識変化と少年犯罪要因
                         S子

長崎の幼児殺人事件にみられる少年犯罪の要因は、テレビメディア
の影響や愛国心をぬきにした日本の戦後教育にあるようだ。

たしかに、これらに要因の一端があるのは事実だが、こんにちある
日本人の「食」に対する意識変化も、その要因のひとつにあるので
はないかと私は考えている。

いまやテレビは各家庭に一台どころか、各個に一台の時代になって
いる。それぞれが見たい番組を見れる状況にある。

テレビをつけっぱなしにしていれば、良きにしろ悪しきにしろ一方
的に情報はたれ流されてくる。テレビから残忍な犯罪報道が流され
、それをまねする少年が現れたとしても、私は不思議ではないと思
う。

また、愛国心抜きの戦後教育は、人間が生きてゆくうえでの大切な
道標をいだかせることなく精神の空洞化を生じさせた。

その結果、自律をなくした無軌道な少年が増えている。こうした少
年がふとしたことから犯罪に手をそめてしまうことも大いに考えら
れる。

戦後、日本の食糧自給率は低下してきている。現在の食糧自給率は
40%にまで落ちこんでいる。

日本は戦後の経済発展とともに物質的ゆたかさを手にいれ、それと
同時に「食」のゆたかさも実感してきた。

つまり、戦前、戦中の「飢えた」状態から現在の「満たされた」状
態に、「食」の位置づけが大きく変化したのだ。

ちまたにあふれる食材、飲料、菓子、インスタント食品の類、半加
工食品、できあいの惣菜、弁当の類、外食産業の隆盛で、私たちは
お金を出しさえすれば手軽に「食」にありつける。

あえて手間ひまかけなくとも私たちの「食」は満たされる。すくな
くとも私たちは「食」に関して、「飢えた」状態からは脱している。

むしろ現在の飽食では、私たちは「食」を残し、捨てることになん
の感情もいだかず、食べることは重視しても食物軽視という姿勢を
とっているのではないか。

「食」は人間が生きてゆくうえでの基本であり、不可欠なものだ。
食べるということは動植物の生命を奪うことである。またそれは、
ほかの生命の犠牲のうえに自分の生命があり、自分が生かされてい
るということでもある。

これを理解すれば「食」は人間が生きるうえにおいて、必要な量だ
けで充分ではないのかという考えがおのずと生じる。「腹八分」と
いうことばは、それをうまくいい当てている。

また、食糧自給率の低下はつくる「食」から買う「食」へと私たち
の意識を大きく変えた。そこから生産者と消費者のかい離現象が生
じ、私たちから「食」の本質を見えにくくさせている。

それが「食」への鈍感さをうながす結果となった。「食」を残し、
捨てる行為に対して少年の口から「もったいない」ということばが
聞かれなくても当然だろう。

こうした食物軽視は、「食」をとおして学ぶべき大切な生命という
ものを軽んじてしまい、ものの生命を粗末にあつかうようになる。

さらに最近は「個食」という生活スタイルが生まれている。学校を
終えてからの塾通いは、いまやほとんどの少年に見られ、ゆとり教
育がそれに拍車をかけている。少年の生活リズムの乱れとあいなっ
て、核家族化のなかでも少年の「個食」は増えた。

「食」をともにするということは、そこから相手の過去に思いをは
せ、未来を語り現在という時間を共有することでもある。「食」を
とおしてより深い人間関係が構築される。「個食」は人間関係を希
薄にし孤独へとむかう。

「個食」からくるコミュニケーション不足は、人間同士の接点をも
ちにくくし、その接点をゆがんだものにする。段階をへて築きあげ
てゆく人間関係が、「個食」ではうまく作用できないと私は考える。

とくに少年期の精神が多感で不安定なころにおいて、生きるための
基本である「食」は重要だ。「食」は少年のからだをつくり、その
からだをつくる精神を大きく育む。

「食」を買い、残し、捨て、「個食」にはしる少年の姿からは、
自己本位はあっても、自分以外の他人を思いやるこころが欠けてい
ると私は思う。

戦後の急激な「食」のゆたかさは、私たちから「食」の本質を見失
わせ、「食」にたいする意識をおおきく変えてしまった。「満たさ
れた食」「買う食」「個食」は、生命の尊さをかんがえる機会を
うばい人間関係を希薄にしている。

こうした「食」の背景が少年犯罪の要因のひとつとして生みだされ
ているとしても、私はおかしくはないと思っている。

「食」の自立は人間の自立をうながすことにつながる。
私たちが少しずつでもいいからつくる「食」を目指してゆけば、
こんにち多発する少年犯罪、またその低年齢化に歯止めがかかるの
ではないかと、私は思うがどうだろう。
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(Fのコメント)
S子さん、いつも問題の本質を切り込んでいただいて、ありがとう
ございます。今回は青少年の心の問題を取り上げてくださった。

趣旨はその通りですね。もう1つの観点をここでは議論したいと思
います。日本の食事が欧米的になって、「気」を殺している食事に
なっているように感じるのです。

日本が貧乏であった時は、玄米や麦ご飯であり、粟や稗を米に混ぜ
て食べていた。動物タンパクではなく、納豆や豆腐などの植物性タ
ンパクや魚のタンパクで日本人の骨格ができていた。この昔の日本
人は「気」を集中させることが簡単であったように感じる。「気」
を操れたように感じる。「気」を操れるということは、素直が心に
も成れたようだ。
私は「気」を集中するために、発芽玄米を食べているが、一度この
米を食べると、白米もおいしくないし、白米や動物性タンパクだけ
では「気」を出すことが難しいことに気がつく。ビールもいけない
。空気が体の中に充満して、「気」の発生を妨げる。

気を集中できることは、心を自由にできることであり、心を自由に
出来ると自分自身の悩みを解消しやすくなる。そして、心身の鍛錬
は、精神性疾患を押さえる。このような食事と心身の鍛練をしない
ことがもう1つの原因であるように思う。
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件名:学力づくりのこれまでとこれから  

低下したのは学力だけではない 

 こんにちは。山口小学校の陰山です。私の実践は、「これからの
学力づくり」に向けた実験的な取り組みですが、まず、今何を感じ
、どう進めようとしているか、過去の事例を交えながらお話ししま
す。
 今、子どもたちの学力低下がいわれていますが、体力も長期低落
傾向にあり、歯止めがかかっていません。中でもデータのはっきり
している「立ち幅跳びの年次推移」では1981年から2000年
まで、どの年齢でも記録が継続的に低下しています。つぎに「分数
計算の学力推移」ですが、分数のかけ算、わり算の定着度が94年
から急速に下がっていることがわかります。ものすごい落ち方です。
また、計算力の低下時期と時を同じくして、「校内暴力の発生件数
」が増加しています。
 子どもたちの力は学力のみならず、体力、気力ともに低下してい
る。ひとことで言うなら、子どもたちの「元気がなくなっている」
ということです。子どもたちの生命力そのものが落ちているわけで
す。つまり、ここに、学力低下の根本的な理由をみなければいけな
いと思います。
 では、94年、95年というのは何か? 新学力観、生活科が始
まったころに小学生だった子どもが、中学校に入学したころと一致
しています。子どもたちの生きる環境が悪くなってきた時に、対策
として打たれたのが「ゆとり教育」だったわけですが、それが適切
ではなかった。勉強のほうを緩くしてもけっしてよい結果は出なか
った。そのために子どもたちの力が低下した、と私は総括していま
す。 

元気でないと学力向上はできない

社会全体が「ゆとり教育」と言っている時、山口小学校のある朝来
町では「学力を上げてくれ、結果を出してくれ」という地域の要請
に取り組まざるを得ない状況にありました。以来10年以上、私た
ちは「読み書き計算」の反復学習を基本とした独自の学力づくりに
取り組んできました。
 しかし、私たちの実践については、だれも耳を傾けなかった。
実践が日の目を見たのは、皮肉にも大学入試の結果でした。私が4
年連続して担任した50名の卒業生(1993年卒業)のうち、
25%が難関の国公立大学に合格したという客観データがあればこ
そでした。
 まず、「生活アンケート」をとりました。ところが、お米を作っ
ている農家ばかりなのに、「朝食にパンを食べている」が60%以
上、「家族一緒に食事する」は3分の1。
 こうした生活習慣から変えていこう。そう考えた私がやっと見つ
けたのが「一食当たり摂取食品数と学習成績および五教科学力テス
ト偏差値」というデータでした。少々強引なデータでしたが、保護
者会で配ったら効果テキメン。「朝食運動」からはじめて、テレビ
を見せないよう保護者に協力してもらうなど生活全般へ。このよう
な取り組みが、山口小学校では10年以上も続いています。
 山口小学校の子どもたちは元気です。子どもたちに健康と元気が
なければ、学力向上なんて言えません。 

 兵庫県朝来町立山口小学校教諭 陰山英男 
 兵庫県の山あいの小学校、朝来町立山口小学校の実践が注目を集
めている。「読み書き計算」を基礎とした独自のプログラムと10年
間の成果が、朝日新聞やNHKテレビの『クローズアップ現代』で紹介
されたのが2000年の春。以来、学校を訪問した人は1000人を超えた
という。日本標準教育研究所では、山口小学校の実践の中心を担う
陰山英男先生を招き、8月3日に中野サンプラザで講演会を開催した。
当日は、多くの教師、保護者、研究者、マスコミなどが来場し、
山口小学校の実践、陰山実践の理解を深めた。 
Kenzo Yamaoka
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件名:江戸時代から学ぶ教育  

道徳と規範を重視
 江戸時代の見直しが、開府四百年を記念して、さまざま行われて
いる。見直す動機の中のには、現代人が築いてきた社会への反省が
ある。教育問題についても、江戸時代は興味深い材料を提供してく
れる。

 作家・村上元三氏の代表作『田沼意次』は、作者が七十歳になら
なければ書けなかった小説、と述懐している作品だが、少年時代の
意次を教育という観点から見ると、現代の少年像とはまったく違っ
た姿が描かれていて興味をそそる。

 小説の書き出しは、意次十四歳の年。父の専左右衛門は公儀小姓
組の旗本で、本郷弓町に屋敷があった。父の留守中に、この屋敷に
傷を負った浪人が子どもの手を引いて駆け込んでくる。あだ討ちの
侍二人が追っている。

 対応に出たのは意次で、浪人から事情を聞き、「武士と見て駆け
込んだる者は、是非を問わずかくまうが道」という父の言葉どおり
保護する。追っ手は引き渡せと迫る。そこへ父が帰宅。浪人は落命
するが、父は意次から事件の処理を引き継いでいく。

 まだ元服前の少年が、まるで大人のように、作法通り事件を処理
する手際が見事なのだ。
 少年はそのように教育されてきた、と言外で作者は述べているの
である。

 これはもちろんフィクションだが、長年、江戸の研究をしてきた
作家が、武家の生活習慣や作法をもとに、江戸という世界への愛着
を込めて作りだした場面なのである。

 江戸末期の外交官、勘定奉行川路聖謨(としあきら)を描いた
吉村昭氏の小説『落日の宴』も、主人公の礼儀作法、立ち居振る舞
いの美しさで、江戸時代の規範教育を見直させる小説である。川路
はロシア使節プチャーチンと交渉し、聡明(そうめい)さと誠実さ
とによって国を守った人物だが、良き外交談判の基礎が道徳的な力
にあるということを、作者は端正な日本画のように描き上げている。

 福島県の会津若松市には、かつて武士の子弟が学んだ会津藩校日
新館がそのまま再現されて展示されている。「教育は百年の計」と
いう五代藩主松平容頌(かたのぶ)の建言で、享和三年(一八〇三
)に造られた。

 藩士の子弟は十歳で藩校の「素読所」(小学)に入ったが、入学
前の六歳から九歳まで、地域ごとに組をつくって、武士の心構えを
学んだ。それが「什(じゅう)の掟」といわれた規則である。

 一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ。二、年長者にはお
辞儀をしなければなりませぬ。三、虚言(うそ)を言うことはなり
ませぬ(略)。と、七つの戒めが述べられている。

 有名な白虎隊もここで教育されたわけだが、残された肖像をみる
と、少年なのに大人のような面構えをしているのに驚かされる。彼
らが壮烈な最期を遂げたのは、今から考えると思考力や判断力の幼
さのゆえでもあるが、教育のもつ大きな力を考えさせられるのだ。
(増子耕一・世界日報)▲掲載許可済です。
Kenzo Yamaoka
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件名:三世代家庭の再建を  

日本家系研究会会長、与那嶺正勝氏に聞く
財産より良い夫婦仲を残せ/家系に不思議な法則性/離婚・不倫は
家系に悪影響/世代継承の責任ない核家族
 お盆は、墓参りなどを通して先祖の遺徳を偲(しの)び、自分の
ルーツに思いを馳(は)せ、併せて家族の絆(きずな)の大切さを
考えさせる貴重な時期だ。だが、今の日本では少子化、核家族化が
進み、離婚率も高まり、三世代そろった円満な家庭のカタチが急速
に崩れつつある。『家系の科学』などの著書や幅広い講演活動で知
られる日本家系研究会の与那嶺正勝会長は、長年の家系研究と調査
の経験から、「このままでは若者による犯罪も減ることなく、日本
の没落は避けられない」と警鐘を鳴らし、三世代家庭の再建をと訴
えている。

 (聞き手・池田年男・世界日報)

 ――家系調査と一口でいっても、その家の歴史を探っていく作業
ですから簡単ではないはず。どこから着手するのですか。

 まず、依頼された人の出身地に行って、お寺の過去帳や古文書、
墓石に刻まれた名前など、膨大な資料を発掘し情報を収集します。
また、日本人の名字には由来や意味がありますから、その角度から
も考察していきます。歴史のかなたに消えた人々の足跡を明らかに
するわけですから、おのずと祈るような心境になり、不思議な経験
もよくあります。
 捜している墓の所へ足が勝手に進んでいくようなことは珍しくあ
りません。私は沖縄で生まれ育ったのですが、沖縄は祖先崇拝の観
念が濃厚な土地柄で、幼いころから墓参りが好きでした。そんなこ
とも何か関係しているのかもしれません。

 ――これまでに全国で万を数えるほど多くの家系を調査・研究し
ているうちに、先祖からの家系というものには不思議な法則性があ
ることを発見したと聞きましたが。

 一つには「縦横の法則」と呼んでいるもので、昭和五十七年に群
馬県で、ある家系を調べていた時のことです。家族のヨコの関係を
、その親や祖父母といったタテの関係に応用したら、いろんな事柄
がぴったり当てはまった。つまり、私たちはほぼ例外なく、自分に
対応する先祖を持ち、その先祖が歩んだのと同じような生き方をす
るということが分かりました。「同じ轍(てつ)を踏む」とか「歴
史は繰り返す」という言葉がありますが、家系の中でも似通ったパ
ターンが繰り返すのです。科学的に体系化できる内容です。

 ――先祖をたどると、破滅型や堅実タイプ、知者、徳人などいろ
いろな人がいたことでしょう。そういう血脈の中での「家」の栄枯
盛衰には人知を超えた秩序というか、宇宙のルールのようなものが
厳然として働いている。

 それは、シビアなものです。ごまかしが利きません。歴史上の人
物の中に例を見ると、戦国武将の武田信玄ですが、彼は本妻を幸せ
にすることができず、諏訪姫という愛人との関係のほうが強かった。
その結果、息子たちや家臣とのつながりが崩れ、天下取りレースで
敗退した。自分の正式の伴侶を幸せにできない人間は正式な国の指
導者にはなれないという教訓になるでしょう。また、家康から慶喜
までの徳川将軍家十五代にわたる家系は複雑に込み入っていますが
、その世継ぎの流れも、こういう法則で見ていけば、方程式のよう
に説明がつきます。

 ――家運が下降するか上昇するか、その一番のカギは何でしょうか。

 結局は夫婦関係に尽きます。どれだけ距離の近い夫婦になれるか
、そこに子孫の幸不幸も懸かっている、ということです。これも私
がじかに担当した調査ですが、かつて総理大臣を務めた政治家の場
合はそのいい具体例です。その人の家系は過去十二代にわたって離
婚がなく、円満な家庭が代々続いた。その結果、枝葉のように広が
った親族には優秀な人材が実に多い。発展していくきちんとした土
台があるという証左ですね。

 逆のケースは離婚や不倫です。これは家系の存続にとっては致命
的。本人はそれが自分の選んだ生き方だと考えたとしても、子孫に
そのツケが間違いなく回っていく。これも何度も調査で知った事実
ですが、離婚家庭には将来、大きな問題が生じます。代を重ねる中
で早死にする人や自殺者が出るなどしながら、やがて家系が絶えて
いく。家系の中での自然淘汰(とうた)と思わざるを得ないような
経過をたどるのです。

 だから、私は「財産よりもいい夫婦仲を残せ」と常々、強調して
います。夫婦仲がいいと、いわば“ろ過器”の役割を果たして先祖
からの悪い要素を帳消しにし、家系の流れをきれいにして子孫に残
していく。ですから、夫婦の愛情関係が壊れるということは実は非
常に怖いこと。家系研究の立場から見ると、離婚や不倫が日常茶飯
事のような今の風潮は、空恐ろしいばかりです。

 ――それ以外に、最近、痛感することはありますか。

 家系調査の一環として名字の分布具合も調べることがありますが
、関東と関西では違いが見られます。関東では、同じ名字の一族が
、寺や墓地や家紋も同じという形でまとまり、つまり家系が昔のま
ま継承されているというケースが目立ちますが、関西はどちらかと
いえばバラバラ。苗字が継承されていない。そこで、関東は父系社
会であり、関西は母系社会としての特色を色濃く見せながら両者が
合わさって日本社会を形成してきたという見方が成立します。

 ところが近年、核家族化が進むことによって、家の伝統や精神的
な重みを体現する祖父、祖母の存在が家庭から切り離され、継承さ
れてきた父系、母系社会が崩れて単なる男系、女系の社会へと変わ
ってきた。目覚ましい経済成長に伴って、若者がどんどん都会に集
まり、お年寄りが地方に残り、それまでは一緒に生活するのが当た
り前だった二つの世代が分離するという社会構造になりました。

 問題は、子供たちが両親との関係だけで終始し、一味違った祖父
や祖母の無償の愛情を得られないで育つということ。これは教育学
的にも望ましいことではありません。なぜなら、三世代が同居する
というのが本来の家庭構造だからです。それが失われるということ
は、家系の代々のつながりを実感する機会がないから、その継承に
責任を感じたりする心が育たないということ。そういう責任感を持
たない世代は増える一方ということになる。

 責任感が育たないところに他者を思いやる豊かな情緒は育ちませ
ん。個々人がよって立つ家庭の重要性を顧みないような価値観や社
会は、自壊していくだけです。今の日本社会は家庭が崩れて個人主
義の傾向を強め、バラバラになっている。

 ――少子化、核家族化は日本の将来を脅かしているということで
すか。

 途上国ではよく貧しいのに子供がたくさん生まれる。“あれは、
夜になると娯楽もないし部屋も暗いため自然にそうなる”と説明す
る人がいますが、それはおかしい。子供を生むということはどれほ
ど責任を必要とすることでしょうか。その責任に耐えられるから子
をつくるのであって、そんな動物的なことが原因ではありません。
今の日本では、そういう責任に耐えられない若い親が増えている。
父親としての、母親としての責任感が希薄です。親になれば何かと
忍耐、辛抱しなければなりませんが、子育てを放棄したり虐待した
り、親になりきれないわけです。生活が豊かになり、子供たちも親
の苦労を知らずに育つ。家族とのかかわりの中で責任を持ち、責任
を果たすことの喜びを学ばない。これはかわいそうです。

 今では田舎でも、実家の親と同居しない夫婦が増えて、三世代が
そろって暮らす家は少ない。これでは孫の代が健全に育ちません。
最近、青少年の犯罪が多発し、しかもどんどん低年齢化しているわ
けですが、「何をしようと自由だ。自分の勝手だ」という無責任で
、善悪の線引きができない若者が出てくるのも、祖父、祖母という
真に貴重な財産を捨ててしまったことが根本にある。このままでは
犯罪はますます増加するでしょう。祖父、祖母は父系、母系文化の
代表であり、子供の精神面での教育において、その存在は非常に大
きいのです。

 三世代家庭を失ったため、日本のいろいろな良さを継承すること
ができない事態に陥りました。三世代家庭を回復しましょうと、
講演などのたびに強調しているのは、そういう根拠からです。日本
が抱えている、さまざまな危機や困難を解決できるかどうか、三世
代家庭の再建にかかっていると言っても過言ではありません。

 ――お盆は家族や親族が集まって先祖を偲ぶ時期ですが、お盆に
限らず常日ごろから家系や先祖を意識することが大切ですね。

 よくない家系は法則に反するために長い歴史の中で消えていきま
す。今、私たちがここにこうして生きているということは、家系が
絶えることなく続いてきたことを意味しますし、まともな方々が先
祖にいたからにほかなりません。その意味でも、先祖には感謝しな
ければいけません。「皆様の子孫として生まれてよかった、皆様を
誇りに思います」という気持ちで手を合わせること。それが何より
の供養です。私たちもいずれは先祖という存在になっていく。子孫
から誇らしく、ありがたく追慕されるような生き方を残さなければ
なりません。夫婦が仲良く、きちっとした家庭を築けば、子孫が幸
せになれるし、社会も良くなっていくのです。

 与那嶺正勝 昭和25(1950)年沖縄県生まれ。理工系の教師を目
指し、琉球大学教育学部に学ぶ。学園紛争の中、民俗学や歴史、宗
教などにも深い関心を持ち、その研究のために全国各地を巡る。
同50(1975)年、日本家系図学会に入会。郷土民俗研究会副会長な
どを経て現在、日本家系研究会会長。依頼を受けた家系調査と家系
図制作に加え、企業や学校、各種団体などでの講演活動も行ってい
る。主な著書に『家系の科学』、(徳間書店)『八方位姓名術』
(星雲社)などがある。京都市在住。△掲載許可済です。

Kenzo Yamaoka

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