1329.文化論的議論



国際戦略コラム  NO.1309 是非善悪の基本 Mond殿に
お尋ねします。
 
“是非善悪”を論じるのに、何故、ニーチェ? 

『』は、NO.1309 の文です。
『人間が、一人では生きられない群居動物であり(ニーチェによれ
ば「畜群動物」)且つ男女の別があるという制約の中で生きる以上
、文明を営む時、その社会にはこの制約から発生するルールが出来
る。それが宗教的表現をとればモーセの十戒のように、「汝、殺す
なかれ、盗むなかれ、姦淫するなかれ・・・」となる。これは古今
東西どの社会でも成立する万古不易のルールだ。』

ニイチェは、「神は死んだ」と叫んだ人ですよね。
二元的な神に絶望した人です。
人間を「畜群動物」と侮蔑しました。どうしてここに引用されるのか?
彼は、「超人」を説いたのですよね。

万古不易のルールを論じるのにニーチェを引き合いに出し、モーゼ
の十戒を引用する。理解に苦しんでしまう。これは、人を混乱させ
るのではないでしょうか。

人類の歴史は、戦い、戦争の歴史にさえ思えます。それも宗教の名
の下に。例えば、十字軍の遠征。ナチスのユダヤ迫害。近くはブッ
シュのイラク攻撃。フツ族とツチ族の紛争の背景には、キリスト教
があると聞いています。

万古不易のルールにもかかわらず、争いは絶えません。今、地球上
でどれ程、多くの争いがあり、多くの人の命が奪われている事でし
ょう。現代に限った事ではないのではないでしょうか。

『ところが、現代日本人は余程退行したらしく、アホな子供から、
「どうして人を殺してはいけないのか」とアホな子供に問われて、
答えに窮したとか。・・・哲学の貧困」というべきか。いや哲学と
いうほどの世界観でもあるまい。文明を営むための訓練(ディスチ
プリン)をスポイルしてしまったのだ。日本文明の根幹が腐ってう
ろ状態だ。』
 
−何かブッシュもそんな問いを発するような気がします。「どうし
て、イラク人を殺しては、いけないの」って。
 
自身より弱い友を殺して、それも嬲り殺しをして、反省もしない。
そのような子供がいるのは、痛ましいことです。被害者、加害者ど
ちらの側に立っても本当に悲しい。胸が張り裂けそうです。
 
長崎の12歳児による4歳児の殺人事件では、
「親は、市中引き回し・・・云々」と鴻池大臣の発言があり、同大
臣に対する厳罰を求める世論が持ち上がっていますが、どうせ尻す
ぼみってとこですね。
 
被害者側、加害者側にあっても、人々は、慄き震えたことは、言う
までもありません。プライバシーで生育歴、家庭環境を報じないが
、ちゃんと公表されるべきである。皆で考える事は大事である。
 
そして、加害者が如何なる年齢であろうと罪に相当する罰は、受け
るべきだと私は思う。それは一人の人間として、尊重するからであ
る。決して、犯罪抑制のためではありません。
 
世の中は、弱者に対する批判は、堂々としますが、権力に対する批
判は、大方の人は、口を噤んでしまいます。
 
自民党なんて、悪の巣窟だと思います。自民党に限った事はないで
しょうが。将に弱肉強食の畜群です。
 
『そこには自分の属する社会集団への忠誠と愛が発生する。それが
拡大して国というまとまりが出来るときに愛国心がある。』
 
『基本的に宗教やイデオロギーとは関係がないが、それによって脚
色され将にそれに生命を捧げても悔いのないように価値付けされて
もいる。』
 
「宗教やイデオロギーとは関係がない」と表明されているのに、モ
ーゼの十戒を持ち出されり、ニーチェを宗教と言われたり、「生命
を捧げても悔いのないように価値付けされている」と・・・・・。
天皇の為に戦争が行われた事を私は、連想してしまいます。
 
『 【参 考】 宗教(ニーチェ)
宗教の開祖たちの本来の発明は、第一は、意志の訓練としての効果
をもち、同時に退屈を除去するような、そうした一定の生活法や
日常の慣習を設けることである。第二は、まさにそうした生活にあ
る解釈を与えて、そのおかげでその生活が最高の価値によってくま
なく照らされるように見え、かくして、その生活が今や、人がその
ために戦い、事情によっては生命を投げ捨てるような一個の善なる
ものになることである。』
 
上記文は、ニーチェの著作の何処のにあるのですか?教えて下さい。
 
『・・・人がそのために戦い、事情によっては生命を投げ捨てるよ
うな一個の善なるものになることである。』と。
ーこの引用文にも、若者を第二次世界大戦に駆り立てた大義名文を
連想してしまいます。
 
ニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」は、愛読書です。
ツァラトゥストラは、ゾロアスター教(拝火教)の教組だと聞いた
事があります。同教は、大地と火を崇めるそうです。
 
ニーチェも「超人こそ大地の意義であれ」「大地に忠実であれ」と
叫んでいます。
 
ニーチェは、敬虔な牧師の家庭に生まれと聞きます。しかし、彼は
、「神は死んだ!」と叫びました。
 
余談だが、指揮者のズービンメーターは、インドの少数宗教、ゾロ
アスター教徒で、アメリカに亡命したとか。
 
仏教者の私にとって、「ツァラトゥストラはこう言った」は、結構
、読みやすい。例えば同書の岩波文庫(上) p18 四 
「人間は、動物と超人とのあいだに張り渡された一本の綱、ー深淵
の上に掛かる綱なのだ。渡るのも危険であり、途中にあるのも危険
であり、振り返るのも危険であり、身震いして足をとめるのも危険
である。」
 
上記を読んでいると、浄土教の二河譬、二河白道を連想する。
善導大師の文を教行信証で親鸞が引用。
教行信証の岩波文庫本 p144。
「・・・まさしく西にむかいて道をたづねて、しかもゆかんとすれ
ば、またおそらくはこの水火二河に堕せんことを。時にあたりて惶
怖することまたいうべからず。すなわちみずから思念すらく、われ
いまかえるともまた死せん、住するともまた死せん、ゆくともまた
死せん。1種として、死をまぬがれざれば、われやすくこの道をた
づねてさきにむかいてしかもゆかん。すでにこの道あり、かならず
度すべしと。この念をなすとき、ひんがしのきしにひとのすすむる
こえを聞く。きみただ決定してこの道をたづねてゆけ。かならず死
の難なけん、もし住せば、かならず死せんと。また西のきしのうえ
にひとありて、よばふていわく、なんじ一心正念にしてただちにき
たれ、われよくなんじをまもらん。・・・」
 
宗教的な悪とこの世の悪とは違うと思います。
現代的な表現では、“自己の相対化 ” とでも言えるでしょうか。
 
以下は、親鸞の和讃、正像末和讃です。
 
浄土真宗に帰すれども  真実の心はありがたし
   虚仮不実のこの身にて  清浄の心もさらになし
 
外儀のすがたはひとごとに   賢善精進現ぜしむ
   貪瞋邪偽おおきゆへ   奸詐ももはし身にみてリ
 
悪性さらにやめがたし   こころは蛇蝎のごとくなり
   修善雑毒なるゆへに   虚仮の行とぞなづけた
 
無慚無愧のこのみにて   まことの心はなけれども
   弥陀の迴向の御名なれば   功徳は十方にみちたもう

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Akiko Kunii
email: takunii@d1.dion.ne.jp
URL: www.d1.dion.ne.jp/~takunii
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おこたえ         Mond
「悦ばしき知識」アフォリズム353 であります。
または、「ニヒリズムの克服」原佑訳編 p.147
古すぎて手に入らないでしょう。
久々にニーチェを振り返る機会を得ました。感謝します。 

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件名:私たちはどちらの「立場」に立つべきか  

 唯物論的科学と宗教は両立できない、“パラダイムの衝突”への
認識をダーウィン進化論は窮地に

 宣伝で恐縮だが、今私が「世界思想」という月刊誌に連載中の記
事(通しタイトル「人間原理の探究」)の八回目八月号のタイトル
を「ダーウィニズムの終焉、〈進化という事実〉はあったのか」と
いう。これを見て目を丸くする人や首をかしげる人があれば、この
記事やそれ以前の記事を読んでいただくよりほかないが、今アメリ
カでは、Intelligent Design Theoryという旗印のもとに集まった
反ダーウィンの科学者・哲学者たちの活動によって、ダーウィン進
化論がいよいよ窮地に追い詰められていること、のみならずダーウ
ィン進化論という根拠のない疑似科学が、なぜ科学的事実であるか
のように「常識」としてわれわれの社会に浸透してしまったのか、
そのからくりが解き明かされているという事実を、とりあえず知っ
ておいていただきたい。

 この運動の中心人物の一人、フィリップ・E・ジョンソンの著書
の一つに、『裁かれるダーウィン』(Darwin on Trial)という、
条理を尽くし、該博な知識と論争経験に基づいて書かれた、相手陣
営にとっては大打撃であるはずの、名著というべきダーウィニズム
論駁(ろんばく)の書がある(残念ながら今のところ邦訳はない)
。私はこのジョンソン氏と全く立場を同じくする者であるが、なぜ
その立場が肝要なのか、なぜそこにこだわるかということについて
述べてみたい。

 この本が最初に出た時、アメリカの進化論者側の重鎮ともいうべ
きスティーヴン・J・グールドから反論の書評があったことが書か
れている。この書評は「あたかもこの本が生物学の基本的事実に
ついての無知からきた懐疑の書であるかのように思わせる、むき出
しの悪意に満ちた書評」であったそうで、グールドに強力な論敵を
予想していたダーウィニズム批判者側は、むしろ拍子抜けしたらし
い。

宗教への「寛容」とは噴飯事

 ところで私の関心を引き付けたのは、次のような双方の論点であ
る。グールドは、いかにも物分かりのよいところを見せるかのよう
に「自分たちダーウィニスト側が、科学にも宗教にも等しく敬意を
払うべきだと言っているのに、この男ジョンソンは一方的に、科学
者が不正直であるというような、いつわりの、思いやりのない非難
を浴びせることに我慢がならない」と言っているのだそうである。
ジョンソンはこれに対して、自分は科学者を非難したことなどない
、唯物論を前提とする科学が唯一許される真理への道であるかのよ
うに主張する科学者を非難しているのである、そういう立場に立っ
て「宗教に対する敬意」などと物分かりのよさそうなことを言うこ
と、それこそが問題であり許せぬことなのだ、と言うのである。

 ここで私が直ちに思い出すのは、わが国の教育基本法第九条「宗
教に関する寛容の態度と宗教の社会生活における地位は、教育上
これを尊重しなければならない」という条文である。私が以前から
これにこだわっているのは、これを書いた人がグールドと同じ立場
に立っていると思われるからであり、私はジョンソンと同じ立場に
立つからである。
 宗教に対する「敬意」とか「寛容」などという言葉は、真に宗教
的立場を理解する者のどこを叩いても出てくるものではない。宗教
を、確固たる唯物論的土台の上に置かれた「上部構造」のように理
解している者の言うことである。

 むろん私はこの条文の起草者に、不誠実な意図があったなどとは
毛筋ほども思わない。誠実で温厚な人からの提案に違いないのであ
る。だからこそ困るのである。実はグールドにしても、(他は知ら
ず)この点に関する限りは、おそらく誠実さから出た言葉であって
、ジョンソンに苦笑され一蹴(いっしゅう)されようとは予想しな
かったであろう。問題は、双方のパラダイムの衝突なのである。

 「こちらが宗教に敬意を払うと言っているのだから、そちらも科
学に敬意を示すがよかろう」とグールドは言うのだが、そんな問題
ではないのである。唯物論に立つ科学が唯一の知にいたる方法だと
するような哲学は、われわれの文字通り不倶(ふぐ)戴天の敵でな
ければならない。それは戦って滅ぼさなければならないものである
。仲良く二本立てで「棲(す)み分ける」ことなどできない。しか
もそういう哲学が「宗教に対して理解を示す」などと言うとしたら
、これ以上の噴飯事はない。

2人の主人には仕えられない

 ジョンソンが言うとおり「われわれの心は二人の主人に仕えるこ
とはできない」のである。いまわれわれの文化は、ようやく唯物論
的科学のパラダイムという呪縛(じゅばく)から脱け出そうとして
いる。そういう文化闘争の観点がない限り、何一つ解決できる問題
はない。
摂南大学教授 渡辺 久義・世界日報 ▲掲載許可済みです。
Kenzo Yamaoka
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 no.1312「神道と米」
について、建設的でまじめな議論が展開している中、まるで茶々を
入れるような事を書いてしまい、大変申し訳ないのですが、最近、
子供だけでなく大人であっても、多くの人々が、日本の主食だと
言われる、”米”にアレルギー反応を示す事が報告されています。

日本の危機のために、備蓄すべきであると、今まさに重要視されて
いる米... 以前は日本の経済の基盤ともなっており、人々の命
を支えるべく、また良質の種を得るべく全国で国の命と力を入れて、
かつては栽培されていた米の消費は、近代、実際に年々、日に日に
減少しており、一時は、現代人の米離れについて指摘されていまし
たが、この米離れ問題すらも上回って、米に対するアレルギーです。
下手をすれば、激しいショックを引き起こし、死に至ることもある。

以前ならば、飢饉や国内の発生しうる危機のために、食料を備蓄を
考慮する際、真っ先に米と乾パンを確保せよ。 となりましたが、
悲しいかな、近年ではあまりにも多くの人々が様々なアレルギーに
悩まされている。 それが命を支える重要な食料に対して起こり得
るのはあまりに悲しいですが、これも現実です。 

しかしながら食料は生命の源です。 ある程度、世界が貧富の差を
許容していられるならば、工業と農業のバランスが国内で崩れても、
地球規模で、金銭授受による取引が可能となり、食料は食料のない
金持ちの国にも十二分に行渡ります。  

ちょうど、現在、先進国が、お金がなく人件費の本当に安い国々の
労働力を極力安価で使い、農業労働者の彼らが、先進農業技術など
も持たずに、厳しい自然と対峙し、生命を支える食料を生産した後、
日本や米国を始めとする先進国のスーパーマーケットが大挙して、
大量に更に安く買い叩いて行く、農作物市場で行われているように
先進国も捨てるほど食料を輸入することができています。
(私は、現状にもかなり問題があるように思いますが...) 

しかし、世界規模の飢饉や経済のバランスが崩れるような事が、”
仮に”起こった際、各人が飢えるという事態に、金を積まれたから
と言って、お金がなくても食料のある国から本当に食料を譲っても
らえるかどうか非常に疑問を感じます。また、経済・経済システム
の崩壊と言う最悪の事態とは、このような形で訪れるかもしれない
とも想像しています。

日本の工業技術は、現在、世界中の食料を買いあさるだけの高い評
価を得るに値するかもしれませんが、生命の危機、飢餓と言う異常
事態において、食料が調達できなければそれも無駄な長物です。 

現在の日本で、人々の生活環境、嗜好、そして体質までも考慮し、
様々な危機があっても、国民に死の恐怖を起こさせない食料調達方
法を模索すると言うのは、ほとんど不可能に等しいようにも見えま
す。だからと言って、生命を支える重要な食料を供給する農業と
これを発展させる農業技術を軽視する理由にはならないと思います。

この米を取り上げた食料の問題は、日本人としての思想的な問題と
して考えるだけではなく、人間のみならず、生命として必須の物を
扱うため、重要であると同時に本当に難しい問題だと思います。
日本の狭い国土、あまりにも多様化してしまった国民の生活様式、
社会状況、さらには、近代の人々の体質の変化までも考慮して、何
をすべきかを導き出すには、多くの意見交換と、農業・医学・社会
学的研究に費やす時間が必要なのかもしれません。だからこそ、各
人が今からでも考察を始めるべきだと言うご意見に、私は諸手をあ
げて賛成します。

草々
古賀
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(Fのコメント)
農業や林業、水産業の今後の姿に、漠然とした不安がある。農業は
人間が生きていく根本であり、かつ日本人の精神は、基本的には農
耕民族のそれであり、その結果として日本文明は神からの恵みや病
を受けるという精神性・受動性の高い文明であると思っている。

その力が、知らぬ間に日本を支えている。この精神性の根源を強化
する必要があると考えている。ハッキリ言って、古神道の復活でし
ょうね。縄文時代で持っていた精神性の高さが必要であろうと思う。

いろいろな情報がどこからともなく、舞降りてきている。それを掴
む受信能力を身に付ければ良いだけのように、感じている。この精
神性はどうも縄文時代では日本人として、当たり前に持ていた能力
のような感じがする。

これの復活なのでしょうね。
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国家の滅亡は、道徳の頽廃と神の軽侮の次に来る」と言う諺があり
ます。
 12歳が4歳を殺して世間が動転していますネ。誰も神を教えなかっ
たからとは気が付かないようですネ。日本人は、神を軽侮していた
報いが来たのでしょう。 
対策に、刑法適用年齢の10才が論じられていますが、根本的でしょ
うか。「太陽と北風」は、北鮮だけの話しではない。本来は、人間
教育のお話しなのですヨ。青少年に「太陽=神」を教える事から始めま
しょう。

宗教を語ろうと言っているのではありません。神と心を語れない日
本に誰がしたのか。神と心を語れない近代化と言う流れは、背徳の
根源になっています。

神の本質の一つに禁忌が在ります。道徳は禁忌であります。電柱の
下に鳥居が書かれていれば、立ちションが出来ないでしょう。鳥居
は、神を意味していますが、背徳禁忌の根源になっているではあり
ませんか。神を知ったら慎むのは、人間の本姓であります。
空在系を忘れたIT化、経済至上、明在系近代化主義は、人間の腐敗
堕落の根源になっているのではありませんか。人間の本質は、魂と
浮世身の一元に存在している事を知っていらっしゃると思います。

日本の現在の社会の常識が、可笑しいから宗教さえ必要になってい
る時代は、不気味ですネ。 

平目
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(Fのコメント)
平目さん、国家神道ではなく、古神道の精神世界が日本に必要なの
でしょうね。その再構築をこのコラムは、目指します。
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日の丸 
日の丸の中心は旗竿の方にずれています。
詳しくは広辞苑にも載っていますが、明治3年の太政官布告によっ
ているようです。
 
広辞苑によりますと
縦横の比率は横を100とすれば縦は70
日の丸の直径は縦の5分の3
日の丸の上下の空きを等くし
日の丸の中心は旗面中心より横の100分の1だけ旗竿側に寄る。
以上です
 
15.07.17
小長井
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(Fのコメント)
ご回答、ありがとうございます。両方向でのコニュニケーションが
できるのがインターネットのいいところです。聞けば、知っている
人が答えるが理想的な姿ですね。
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はじめまして。いつも貴コラムを楽しく拝見させて戴いております。
日の丸の件に関してですが、現在の国旗の原型を最初に使用したと
言われる小栗豊後守忠順と祖先を同じくする小栗令行氏の著述が
武者利光編「ゆらぎの科学2」森北出版に掲載されておりましたの
で紹介しておきます。

日の丸が国旗として決まる経緯も紹介されていますが、その部分は
割愛します。

(引用開始)
この日の丸国旗に最近の流行語でいうところのハイテク技術が巧妙
に仕込まれているのを皆様ご存じでしょうか。

まず昭和初期に作られた日の丸国旗を平らに広げてみますと、赤い
日の丸印が白無地の旗の真ん中では無く、旗竿に結び付ける側と僅
か上の方に偏っていることに気付きます。

実はこうした仕掛けがあるからこそ、日の丸の旗は旗竿の上で風に
はためいて時に、赤い日の丸印が風の流れに逆らって旗の中央で
ゆらいで見えるのです。もしこれが旗の中央に配置されていたとし
たら、風にはためいた時に赤い日の丸印は風下に押し流されて落日
の様相を呈し、日の丸に象徴される日本国の尊厳も力無く見えるの
は当然で、日の丸の旗にこうしたハイテク技術を駆使した無名の旗
職人さんの眼力と先見性には唯々敬服するばかりです。

ただし残念ながら現在市販されている大量製産のコンベアに乗って
作られた日の丸の旗の赤丸印は、旗の真中に配置されていて落日の
シンボルにならなければ良いがと心配です。
(引用終了)

徳増 実事
tokumasu@hcn.zaq.ne.jp
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(Fのコメント)
ご回答、ありがとうございます。真中からずらした理由がわかりま
した。参考になります。


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