1290.日本技術者の起源



日本を考える時、日本の技術者の起源が気になる。  Fより

日本の中世・近世史が変更されている。日本の江戸時代は米中心の
経済であったという見方は、物の計量として米換算にしていたたけ
で多様な種類の商品が流通していた。ほとんど、町が無く、村中心
の農業であったと今までは思われていた。これも村でも地方では大
港町というか大都市があった。しかし、この呼び名が村であったよ
うだ。江戸時代は日本の流通経済が大発展して、北廻船の港町は大
賑わいであった。今の裏日本が商品取引の中心的な存在であった。
特に能登半島の位置付けは今とは大分違う。

この江戸期、山では木地師、鋳物師、鍛冶師や金山、鉱山開発も活
発であったが、鉱山師の素性も、どうも日本人として異質であった
ようなのです。
江戸時代ワタリ・タイシなどと呼ばれた人たちで、浄土真宗の担い
手で、かつ聖徳太子信仰をしている人たちなのです。この人達は、
山から河で生活し、その活躍の場を海にも広げている。鉱業、工業
、商業活動の中心的な存在であった。一向宗の前の律宗などの信仰
の担い手でもあったようだ。そして、折口さんや柳田さんのサンガ
研究も、同じ人たちの研究だったのです。

この江戸時代前に山になぜ生活したか??地方に生活したかという
疑問がある??
この人たちの素性を追いかけると、秦氏に突き当たる。この秦氏の
菩提寺が太秦寺であり、景教色が濃くなる。もう1つ、秦氏と聖徳
太子の関係は深いような感じがする。聖徳太子の馬小屋で生まれた
とか、末法の世に生まれ変わるとかの伝説は、キリスト教の影響を
受けている。
この時代では、光明皇后の救護施設「非田院」「施薬院」などは、
仏教的、神道的ではなく、景教の影響を受けている。平安時代の初
めまで、秦氏の政治的な影響が日本にあったのでしょうね。

景教は仏教や神道と相容れないことが分かり、神道の一部として、
八幡神社や稲荷神社として再構成したり、キリスト教の影響が強い
阿弥陀仏や法華経の信仰に同調させ、浄土宗や日蓮宗に寄生して、
キリスト的な要素を確保してきた。これが一向宗の中で聖徳太子信
仰をする一派がいることなのでしょうね。

しかし、この秦氏は、平治の乱、保元の乱で平安京が壊滅した時に
京都を離れる。これ以前にも地方の溜池や治水工事には出て行って
いるようですが、地方にその技術が秦氏とともに大量に出て行った
のは、この京都が壊滅的な破壊を受けた後のようである。

この秦氏の広がりが以後のザピエルが、キリスト教布教の基盤と考
えていたとのこと。この基盤があったために、戦国時代に急速に普
及したようだ。そうしないと、100万人以上の信者を短期に獲得
できない。
秦氏という集団は、中央アジアの「弓国」から来たと言い伝えられ
ている。集団の規模は数千人以上であろう。高野山の真言密教にも
影響を与えている。空海が、地方の土木事業をしたが、その技術者
は秦氏の集団のようである。このため、各地に羽田、八田など姓と
八幡神社、稲荷神社ができたのです。

この秦氏の技術的な影響が日本を工業立国にしたし、衛生の概念を
日本に定着させている。中国と日本の違いは、衛生面や清潔度の概
念が違うような気がする。

勿論、中国にも景教が入ったが、何度かの政権交代で消滅している。
それと、その消滅時点で日本に逃げてきている。一番大きいのが、
南宋崩壊時で日本に多くの技術者が逃げてきたことで、日本の技術
レベルは数段上に上がっている。思想もその時々で最新思想が手に
入ることになった。


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