1287.読者の声



地域通貨について・・・S子 
グローバリゼーションは米国の世界支配でもありますが、私はこれ
を不道徳性の連鎖だと思っていました。
今もその思いは変わりませんが。
 
1269 米国金融界の変調 を読んだときは、更に新たな発見が
できました。グロバーリゼーションは貧富の差を生むだけでなく、
富の集中化を加速させるものでもあったということです。
 
実体なき経済は右上がりの経済成長に則したものである限り、いず
れ何かが起こった時には一気にその経済が崩壊する危険性も充分に
はらんでいるわけです。
経済が永久に成長し続けるなんてあり得ないのですから。
 
日本は今現在デフレ下にありますが、私はマイナス金利の地域通貨
政策はとても妙案だと思っています。
今、あちこちのHPで地域通貨のことが取り上げられています。
 
このデフレ下で今や100円商品は当たり前になっています。都会
の方では50円ショップもあるとか。。。
しかし、一般小売店に100円商品を揃えても人が流れてこない現
象が続いています。
 
車社会であるために、レジャーを兼ねて買い物をされる人が多い
(?)ために、同じ100円なら、楽しく買い物をしたいように見
受けられます。だから地域経済はますます悪化してゆきます。
 
商店街の空洞化も言われて久しい。魅力がないと言われればそれま
でですが、私には最後の秘策としてこのマイナス金利の地域通貨政
策は、実行するべきだと思っています。
 
給与の何割かを地域通貨で払い、残りは今まで通りの現金か、銀行
の振込みでもかまいません。
要するに、物も人もボーダレスになり動きすぎたように思います。
ここはひとつ留まることを考えるべきです。
 
結局それが地域のよさを見直すことになり、ひいては日本のよさを
見直すことにも繋がってゆくように思う。
米国が全てではない。この世の中バランスを失っている。
今は非常に偏りすぎている。バランスをとるために、留まることを
選択するのもひとつの生き方のように思える。
 
グローバリゼーションは結局米国自らを崩壊へと導くことになる。
墓穴を掘ったというと聞こえが悪いかもしれないが、あまりにも
調子に乗りすぎたのかも。。。
==============================
小泉内閣の経済政策の後進性

 先月、小泉総理大臣はブッシュ大統領に招かれた。その時の
小泉総理の主張「円安政策」を求めたが一蹴され、逆に世界経
済リーダーになれと言われたが、彼は何を言われたのかを理解
していない。

 総理帰国後の竹中大臣の発言にも何の変化も伺えず、福井日
銀総裁の発言も「インフレターゲット策をとらずに、円の増発
をしながら徐々に景気回復気運の盛り上がることを目指す」と
いう。

 一方、スノー長官のドル安容認発言と、ブッシュ大統領のド
ル高維持政策が相矛盾しているようだが両者の認識は同じであ
ると思う。
 アメリカ経済はITバブルによって牽引されてきたが、バブ
ル崩壊後バブルを再演出できる「テーマ」が存在していないこ
とが明確になり、製造業の復活を目指さなくてはならないとい
う認識が台頭してきていると思う。

 小泉総理はブッシュ大統領から、日本は、日本経済の復活を
図り世界の経済のリーダーとして、世界の生産物を購入して世
界経済の活性化に貢献すべき時がきていることを自覚せよと言
われてきたのだ。もう、対米輸出で日本経済の再生を図ること
など夢見るべきではないと諭されてきたのです。立場が逆転し
ていることを認識しなくてはならないのです!

 もっと強い言い方をすれば、日本が同盟国としてアメリカ経
済を積極的に支えられる体質になれと言われてきたのです。ア
メリカ軍の日本からの撤退を含む質的変化を充分に理解しなく
てはならないのです。

 小泉内閣が、アメリカの申し入れを理解して政策を立案でき
なければ、アメリカは小泉内閣に対してNOのサインを出さざ
るを得なくなることをなる。アメリカはゴマスリ内閣を求めて
いるのではないのです。

Tanaka
==============================
総理官邸宛てに下記メールを送信しましたら、下記の回答がきまし
た。今まで何回も官邸宛てにメールを出しましたが、回答があった
のは初めてです。

Tanaka
************************************************************
回答メール
----- Original Message -----
From: "内閣官房 官邸メール担当 (発信専用)" 
Sent: Thursday, June 05, 2003 9:07 AM
Subject: [首相官邸より]

 小泉総理大臣あてにメールをお送りいただきありがとうございま
した。いただいたご意見等は、今後の政策立案や執務上の参考とさ
せていただきます。
 皆様から非常にたくさんのメールをいただいておりますが、内閣
官房の職員がご意見等を整理し、総理大臣に報告します。あわせて
内閣府、財務省、金融庁へも送付します。
 今後とも、メールを送信される場合は官邸ホームページの「ご意
見募集」からお願いします。

                 内閣官房  官邸メール担当
************************************************************
送信メール

テーマ :財政支出の構造改革を!
ご意見・ご要望 :
再度お願いいたします。

財政支出の構造改革をするだけで、日本経済が蘇えります。
小泉総理が推進する構造改革の最終的な決定版となりうるものと自
負しています。是非お取り上げください。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
デフレ克服対策の試案
財政支出の構造改革でデフレ脱出
 デフレ不況から脱出するためにさまざまな意見が出されているが、
いまだに決定的な提案が出されていない。

 デフレ解消とは、デフレマインドの解消である。
 もう昔のような好景気はやってこないと思っている大多数の人の
心を一つにして、消費に向かわせる心理操作に取り組むということ
は、従来の手法ではおよそ不可能に近いことである。国民の国の景
気対策に対する完全な不信感を拭い去ることは、すでに限界を超え
ており、かなり難しいことである。

 しからば、いかなる方策が残されているのであろうか?
 残されている方法は、国民を強制的に消費に向かわせることであ
る。その方法は、毎月1%ずつ減価する代用通貨(金券、商品券のよ
うなもの)を日銀が造り、国、地方自冶体の支払にあてさせることで
ある。
 そして、その減価分は国、地方自冶体の収入となる。

参考 ベルグルの奇跡
       http://www.oasisjapan.org/tsuuka_2.html
 上記のHPでは、地方自冶体が減価する地域通貨を発行して消費
を創出したが、日本国内でそのような方法を各自冶体が取れるよう
になるまではかなりの時間を浪費してしまので、日銀が代用通貨(金
券、商品券)を発行して、国、各自冶体の求めに応じて日銀券との
交換できる体制を構築することである。

 あくまでも日銀発行の代用通貨にこだわった理由は、代用通貨の
偽造を防ぎ、万一上記の方策がハイパーインフレを誘発した場合に
日銀が出動できる体制を残しておくために、日銀券と金券がリンク
していることが絶対的に必要であるからである。

 もう、赤字国債の増発による日銀券の乱発は許されていない。
 景気回復を図りながら、赤字国債を減少させるためには、他にど
のような方策も残されてはいない。
==============================
ドラマ『共和に向かって』に見る中国の歴史観の変化

 皆さん、こんにちは。深センで仕事をしている漢語迷と申します。最近、中国で面
白い歴史ドラマが放映されたので、ちょっと長くなりますが、ご報告させていただき
ます。

 北京がSARSパニックに揺れていた4月の末、中央電視台で『共和に向かって』(中
国語名『走向共和』)という歴史ドラマの放映が開始され、5月の末、一週間ほど前
に放映を終えました。このドラマは59回にも渡る超大型ドラマで、日本で言えばNHK
の大河ドラマ以上の大作です。しかし、中国のドラマは日本のように週1回放映では
なく、毎日放映する慣わしで、しかも、このドラマの場合は最初は1日2回分、後半は
1日3回分も放映したので、これほどの大作であるにも関わらず、わずか1ヵ月程度で
放映を終えてしまったというわけです。

 中央電視台はこのドラマの制作に4年もの時間と4000万元(約6億円)もの巨費を投
じたといいます。物価水準が日本の5分の1以下に過ぎないことを考えれば、中央電視
台がいかにこのドラマに力を入れていたかがわかるでしょう。
 
このドラマが放映当時、ちょっとした論争を巻き起こし、ついには中央電視台が放
映内容を変更するなどの騒ぎになりました。
 
 実は、中国に来て3年半以上がたった私ですが、この間、歴史ドラマというのはあ
まり見てきませんでした。なぜなら、中国の歴史ドラマ、特に近現代を題材としたも
のはイデオロギー性が強く、愛国心を高揚させるという目的が見え見えで、見ていて
あまり面白いとは思えなかったからです。ところが、その私が、この『共和に向かっ
て』にすっかり、のめり込んでしまいました。それでは、一体、このドラマがどんな
内容で、何が論争を巻き起こすに至ったのか、なぜ私がのめり込んでしまったのか、
簡単にご紹介したいと思います。

 このドラマは日清戦争直前の清から、辛亥革命後、袁世凱の帝政が崩壊するまでの
時代を舞台にしています。ドラマ全体を通じての主人公というのはいません。歴史そ
のものが主人公と言っていいでしょう。ただ、その中で重要な人物として登場するの
は、李鴻章、西太后、袁世凱、孫文です。このドラマがこれほどの論争を巻き起こし
た最大の原因は、これらの人物の描かれ方が、中国の歴史教科書の中で描かれている
人物像と大きく異なっていることにあります。

 例えば、李鴻章。中国の歴史教科書の中では、日清戦争の結果、日本と屈辱的な条
約を結んだ「売国奴」として描かれており、多くの国民の中でもそのような評価が定
着しているようです。しかし、このドラマでは全くそのような描かれ方がしていない
ばかりか、全く逆の描かれ方をしています。それは大体、以下のようなものです。

 北洋海軍を指揮する李鴻章は日清戦争前から、日本の軍事力が清の軍事力を上回っ
ていることに気付き、軍事費の増強を訴えます。しかし、西太后やその側近たちは、
頤和園の建設に資金を回し、軍事には資金を回そうとしません。また、官僚の腐敗が
ますます、国家の財政を逼迫させていきます。李鴻章の訴えは届きません。このまま
では日本と戦争した場合、勝てないと主張する李鴻章に対して、ある官僚は「武器の
力が主ではなく、武器を持つ人間の人心こそが勝敗を決定するのだ」と言って、反論
します。このくだりは、作者が意図したかはわかりませんが、後代の、「人民戦争
論」を主張する毛沢東と、武器の近代化の重要性を主張する彭徳懐の論争を想起させ
るものがあり、非常に面白いものがあります。それはさておき、結局、李鴻章の軍備
増強の主張は周囲の反対と妨害に遭い、実現しません。そんな中、日清戦争が起こり
ます。李鴻章の予想したとおり、軍事力で劣る清は、惨敗を喫します。清掃前は軍備
増強に反対していた官僚たちは、敗戦の責任を北洋海軍の指導者・李鴻章に押し付
け、敗戦という不利な状況の中での条約締結の任務も李鴻章に与えます。李鴻章は、
賠償はしても、領土の割譲だけは絶対に許さない覚悟で交渉に臨みます。しかし、敗
戦という厳然たる事実の前に、そのような譲歩が引き出せるわけもなく、李鴻章の必
死の努力と抵抗にも関わらず、賠償と領土の割譲という、屈辱的な条約を結ばざるを
得なくなります。その結果、「売国奴」の汚名を受け、失脚することになります。

 このドラマからのメッセージは、「売国奴」と呼ばれてきた李鴻章こそが、実は本
当の「愛国者」だったということです。このような見解は、これまでなかったわけで
はないようですし、自分から進んで歴史を学ぼうとする人の中には、李鴻章をこのよ
うに評価していた人もいるようですが、大多数の中国人の常識からすると、これは
180度違った李鴻章だったようです。このような新しい歴史観、新しい人物像が、中
央電視台という国営テレビのドラマの中で登場してきたのは、中国の一つの変化の現
われだと思います。

 その他にも、「反動的」な人物の典型として見られてきた袁世凱についても、非常
に多様に描かれています。その時々の状況を見ながら、誰につけば自分に有利か、誰
を追い落とせば自分に有利かを瞬時に判断し、清の朝廷の中の権力闘争の中で生き
残っていく巧みさや、自らの野心を実現するためには手段を選ばない冷酷さも鮮やか
に描かれていますが、同時に、科挙の廃止などを進めた進歩的側面や、西洋列強との
交渉にも物怖じしない図太さ、守旧派の官僚との論争に負けない有能さといった面も
存分に描かれています。

 この点については西太后も同様で、李鴻章が必死に軍備の増強を主張していた時
に、頤和園の建設を始め、豪奢な生活にうつつを抜かしていた面、義和団事件の際
に、全く勝ち目がないにもかかわらず、列強八カ国に無謀にも宣戦し、反対した官僚
を殺害までしたにも関わらず、八カ国連合軍の北京攻略が始まり、放浪生活を強いら
れると、とたんに宣戦したことを後悔し始め、戦争に完敗し、列強から西太后処刑の
要求が出されると、その条項だけは除かせるように必死に部下に要求するなど、その
醜さも描かれていますが、同時に、彼女の政治家としての一種のカリスマ性や指導
力、自分の権力の維持ということを前提にしながら、清の改革を彼女なりに追究して
いた面なども描かれています。

 このように、このドラマでは、これまで単純に「黒」、「悪」として描かれていた
人物の正の面や、その複雑性が描かれており、そのイメージが多くの中国人の中にあ
るイメージと大きく異なっていたことが論争の大きな原因になったようです。もう一
つの原因は、歴史学者からの批判で、ドラマに描かれた内容の一部が史実と異なると
いうものです。例えば、ドラマでは若き日の孫文が李鴻章を訪ね、革命の必要性を説
くという場面がありますが、実際には孫文と李鴻章が会ったという事実はなかったそ
うです。

 こうした批判にさらされた中央電視台は、何と袁世凱の進歩的面を描いていると思
われる演説の部分をカットするなど、後半部の内容の一部を変更するという措置を取
りました。

 私が思うに、このドラマの価値はまさに、こうした人物の描写の多面性・複雑性に
あると思います。ご存知のように中国ではマルクス主義が現在でも公式イデオロギー
となっており、その中には階級闘争史観があります。ケ小平が改革開放政策を開始し
て以来、政治の場でこの「階級闘争」はほとんど語られることはなくなりました。し
かし、歴史観の中にはまだまだ色濃くその影が残っています。その影というのは、歴
史の中にはいつでも「進歩的な勢力」と「反動的な勢力」、「愛国者」と「売国
奴」、もっと言えば「善玉」と「悪玉」が存在しており、それがはっきりと色分けで
きるという考え方です。このドラマの中で描かれている李鴻章、西太后、袁世凱ら
は、こうした歴史観の中で、「悪玉」に明確に分類されてきた人物でした。

 こうした「善玉悪玉歴史観」に対して、このドラマは新しい歴史観をアンチテーゼ
として提示したのです。このドラマを制作した人たちの中には、きっと、このような
意図があったと思います。ですから、中央電視台が批判に屈して簡単に内容を変更し
てしまったのは非常に残念であると同時に、恥ずべきことであると思います。

 また、歴史家たちがドラマの内容と史実との違いを取り上げて批判するのは構いま
せんが、その前に、こうした新しい歴史観に対して、どのような態度を取るのかをま
ず、はっきりさせるべきだと思います。そうでなければ、細かい面に捉われて、この
ドラマの本当の意義を見失うことになると思います。

 さて、このドラマでは、登場人物の描かれ方以外に、もう一つ注目すべき面があり
ました。それは、日本という国の描き方です。
 
 日清戦争が、その数十年後に日本が中国に対して行なった侵略戦争と同じ性質の戦
争と言えるのか、これはまた、多くの議論があると思いますが、少なくとも、かなり
多くの中国人の中では日清戦争も日本が中国に対して行なった侵略戦争と考えられて
いると思います。ですから、ドラマや映画で日清戦争が描かれれば、「賠償金と領土
を奪った憎き日本」ということが主に描かれがちです。

  しかし、このドラマでの描かれ方はだいぶ違っています。このドラマでは、日本
を批判するというスタンスが主にはなっておらず、主な焦点は、「一体なぜ、清は日
本に敗れたのか?その違いはどこにあったのか?」という点になっています。先ほど
も述べたように、日清戦争前の清の政府は腐敗堕落しきっていました。西太后は贅沢
三昧の生活を送り、官僚は汚職に走り、軍備に回す資金などありませんでした。とこ
ろが、その時の日本はどうだったか?ドラマでは一つの象徴的な場面で、この違いを
描いています。当時の首相・伊藤博文らが明治天皇に対して、「清との戦争を準備す
るためには多額の資金が必要です。しかし、それを税金で賄うと国民に多大な負担を
強いることになります」と言ったときに、明治天皇は「これから清に勝つまでは朕の
食事は1日1食とする。まず、朕から国民に対して範を示すのだ」と言います。また、
皇室向けの費用も削って、軍事費に回しますことを指示します。これに呼応して、国
民の中でも、軍事費を寄付するなどの動きが盛り上がっていきます。一方、清の国民
の方は、戦争をまるで人ごとのように捉えている姿がドラマでは描かれています。つ
まり、このドラマでは皇后を始め、奢侈にふけり、腐敗堕落し、国民の支持を得られ
ない清と、天皇から先頭切って節食に励んで国家を支えようとし、国民の支持を得て
いく日本とのコントラストを描き出すことで、清の敗北の原因を明らかにしようとし
ているのです。

 いま、このような日本についての描写がどれだけ史実に忠実なのか、また、こうし
て日本が歩んだ道とその後の歴史がどのような関係にあるのかということについて
は、ここでは論じません。私が注目したいのは次のことです。

 これまでの中国の映画やドラマでは、日本との戦争のことになると、その非道さ
と残酷さを描くということに中心が置かれていました。中国側の問題点や弱点、「中
国はなぜ敗れたのか?」という観点からの描写は非常に少なかったと言っていいで
しょう。実は、私の友人の中でも、このような問題意識をもっている人もいました。
「中国が弱いからこそ、侵略されたのだ」という考えです。しかし、このような問題
の建て方をすると、往々にして、まるで日本を免罪、ひいては日本を賛美していると
いうような、短絡的な批判をされるため、そのような考えがあっても、なかなか口に
出せないというのが実情だったようです。

 しかし、このドラマはあえて、そのタブーに踏み込んだと言っていいでしょう。こ
のことの意義も大きいと思います(なお、不思議なことに、新聞などで報じられてい
る範囲で見ると、登場人物の描き方をめぐる批判や論争については報じられています
が、日本についての描き方については論争があったという話はありません)。

 日本でも話題になったという『対日関係の新思考』を書いた、人民日報の評論員・
馬立誠氏の「我々は欠点を覆い隠したりする必要はない。あえて自身の弱点を正視し
てこそ、誇りある民族と言えるのだ」と言いました。また、在日中国人の歴史学者・
劉傑氏は「中国は、自己反省を重ね、自らの弊害を克服していくことが求められてい
る。今までの中国は、外来の要因を強調しすぎたため、自身の変革が遅れたことは明
白である。中国人はまず『自分に勝つ』ことを覚えなければならない」と述べていま
す(『中国人の歴史観』)。私は、こうした中国人の言葉を捉えて、鬼の首でも取っ
たかのように中国人を批判し、日本人としての「自己反省」を忘れるような日本人に
は賛成できませんが、しかし、彼らの観点はこれまでの中国の歴史観やイデオロギー
の問題点の核心をついていると思います。このような、かつては圧倒的に少数派、さ
らに言えば、こんなことを言えば「漢奸」と罵倒されかねなかった考え方が、徐々に
広がってきていると言えるのかもしれません。

 このドラマは、袁世凱の帝政が崩壊して後、孫文がさらに「共和」に向かっての新
たな闘いを進めていく、というところで終わっています。そして、最後にその後の歴
史経過がテロップで流れます。 「1925年、孫文は『革命いまだならず』の言葉を残
して、この世を去った」 「残された共和実現の任務は、中国共産党に引き継がれ、
1949年の中国革命によって、ついに、その任務が実現されたのである」 
 素晴らしい、このドラマの最後に、このテロップを見て、思わず苦笑いしてしまい
ました。いや、このドラマの製作者ですら、このテロップを作りながら、苦笑いして
いたかもしれません。中国では、孫文の奮闘も空しく、彼の死去から60年近くがたっ
た今でも「共和」が実現していないことは周知の通りです。そうであるにも関わら
ず、このようなテロップを最後に流さなければならないところが、このドラマの限界
でしょうか。しかも、皮肉なことに、昨日のニュースによれば、このドラマは再放送
をすることすら、政府によって禁止されてしまいました(6月4日『香港商報』ネット
版)。こうなると、共産党自ら『共和』など今の中国にはないことを告白しているよ
うなものです。孫文は『革命いまだならず』と泣いていることでしょう。

 いずれにしても、ドラマ『共和に向かって』は私にとっては非常に新鮮な中国近代
史を提供してくれました。このドラマは優れた中国近代史の教科書にもなっていると
思います。中国語のわかる方は、ぜひ機会があれば、ご覧になってください。

 馬立誠氏の論文、そして、『共和に向かって』と、中国のイデオロギーの変化とい
うものが見えてきています。しかし、気になるのは、人民日報の評論員、中央電視台
と、このような変化が「上」の方から出てきているのに対し、政府だけでなく、市
民、「下」の方からそれに対する強い抵抗が現われていることです。中国のイデオロ
ギーが全体として変わっていくまでには、まだまだ時間がかかるのかもしれません。

(以上は『漢語迷の武漢日記』 
http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/kangomei/index.html
にも掲載しました。)
==============================
5月21日bP266の古賀さんへ

bP258の私(國井)のコラムに対する古賀さんのご意見について。
國井コラムは、5月2日bP247の小川信夫さんと
5月5日bP250の岸田秀さんに対して、私がコメントさせて頂
いたものです。
私に対する意見よりも、本誌のbP247、bP250をよく読み
直され、そのコラムに対する意見を述べられのが1番だと思います。
 
小川信夫さんに対する私と古賀さんの意見とは、特別差異はないよ
うに思われるのですが、一体、どこに問題があるのでしょうか。
 
『別に宗教や思想や哲学を語らなくとも、家族を含めた自分以外の
人々(他人)を思いやる事ぐらいできたら良いなあ。と思うのは私だ
けでしょうか?
そしてその思いが、国を慈しみ、未来へつなげる原動力になるとも
思うのですが... やっぱりこんな誰にでも言えるような夢物語
事は、私のような無知で無学な人間が勝手に騒ぐ妄想に過ぎないの
でしょうか?』
『』は、古賀さんのコメントです。
 
この上記意見も本誌5月5日bP250のコラムを再読されると宗教
に付いて理解されるのではないでしょうか。私のコラムではなく、
「心豊かに生きる」意味が出ていると思います。
東洋と西洋と区別するのは、いささか問題があるように思いますが
、日本人は兎角、無神論を標榜するようですが、キリスト教国の人
達の思考は、東洋人とは、相当違うと思います。キリスト教の影響
は、大きいです。最近は、日本人の思考も西洋的になってきたとは
、思いますが。
  例えば、医学にしても、西洋医学と東洋医学。
  西洋医学は、病気に対する対処療法、東洋医学は、病気の原因を
 体の全体から看て行きますよね。色んな面で社会や生活に顕われ
 ています。
   
 二元論についてもう少し述べさせて頂きます。
  救う神と救われる者がいる。
  救われるものと救われないものがいる。エリートって、選ばれた
  民って思想も、二元論です。
  人間と人間以外の物がいる。例えば、牛は、人間が食るもの、犬
 は、人間に可愛がられるもの。
  
 「歎異抄」ってご存知でしょうか。岩波文庫で一番売れた本は「歎
 異抄」と聞いた事があります。
 「善人往生す、いわんや悪人おや」と「歎異抄」にあります。
  宗教、特に浄土真宗では、信心に目覚める時、自己、自身の存在
 に疑問を抱いたと時に宗教は、存在します。自力の限界に目覚め
 た時、他力があります。
   
   あなたのように生きておられる方を「善人」と言います。
   宗教について、学ばれる事も大事です。いつ悪人に気づかれるか
  解りません。一生、「善人」で暮らせ通せるかそれは疑問です。
  
私の先生は、教養とは、知識を沢山持っている事ではない、自己を
教え養う事だとおっしゃいました。まぁ宗教を否定したい一般的な
日本人の古賀さんだと思います。
國井明子
1266.読者の声
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k5/150521.htm
1258.国井&山中コラム
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k5/150513.htm
1250.心豊かに生きる
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k5/150505.htm
1247.山岡コラム
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k5/150502.htm
==============================
昨日、有事関連法案の最終審議を聞いておりました。
その中で社民党の田なにがしと言う愚かな年寄り議員が発言してい
ましたが、聞いていると情けなくなりました。
太平洋戦争で死んでいった人々は平和を望んでいたから、こんな法
案は反対するだろうとか言っておりました。
戦争で死んでいった人々は、確かに平和な時代を望んでいましたが
、それよりもこの日本の発展や親兄弟の為に死んで行ったのです。
国の繁栄を信じていたはずです。
こんな議員の意見を誰が想像したでしょうか。
多分、こんな人間と一緒にしてくれるなと言うでしょう。
さすが、厚顔無恥な元社会党です。

spector7 tk07
==============================
国際戦略コラム御中

送信者:山口 将俊

いつも、さまざまな観点の提供有難うございます。

最近いろいろな文章に手を出しすぎて収まりが付かなくなってしまうという愚行
をしてしまい、おかげでせっかくの貴コラムを拝読するのも後回し後回しになっ
てしまっていました。溜め込んでしまった都合で少々ずれた話になるのですが、
すこし前の山岡コラムを拝読して、素直にああそうだなという共感を得られたも
のがあったので、それに賛辞を送らせてください。それが今回メールする理由で
す。文末から引用をさせていただくことで、該当部分を見ていただけるとわかる
と思うのですが、ほぼ全面的に共感しております。青線が左についている部分を
お借りしています。

引用部、出だしの二文目に象徴されるように、「観光」はここに挙げてある要素
を主だった構成要素としていると思います。前提知識を詰めて予習した人が歴史
や伝統などのデータを踏まえた上で、景観や風土や気候に自分が溶け込み、それ
を五感・五官をもって体感します。理念と現実の融合が生じます。言い換えるな
らば、体感によって知識の洗い直しをしていく。それがデータの単なる焼き直し
にならないためには、さらにそこで自分の解釈を加えることが必要になります。
(むろん、この順序ではなくてもよく、いきなり対象に飛び込んでから、興味を
もった点を図書館で調べるということがあっても良いと思います)

しかし、私たちの世代はすでに西洋化されたものの中に生まれてしまい、資料の
中から、かつての日本の美というものを推し量ることしか出来ないのです。つま
り、博物館などに「剥製化された知識」を垣間見ることが出来たとしても、京都
の市街地のように、出来る限り史跡と共存しようという試み自体がこの国の都市
部には皆無なのです。これと対照的な例を挙げます。例えばヨーロッパの市街地
では屋根の色が統一されるとか、教会の大聖堂と溶け合った景観を要求するとか
一定の縛りがあります。(それはそれで不便なこともあるのですが、その町が嫌
いなら引っ越せばいいという気軽さがどこかにあります。)

もっとも、こういう例を出した上で京都のケースに戻ると、日本でも最良と思わ
れる古都保存の形式でさえ、ゆかりある諸寺院とコンクリートの町が本当の意味
で「調和的」一体となっているのかは疑問の余地があります。つまり、確かに
「保存はされている」のです。しかし、先ほどの博物館の話ではありませんが、
剥製としての史跡が都市とパッチワークのように継ぎはぎされているだけなので
はないでしょうか。ここで、都市を人体に例えてみます。その上にある「縫い
目」で連想するなら、自然な人体か、フランケンシュタインのような人造人間か
という分け方が一つの観点として思いつきます。

そういう、生きた史跡を統一的に後世に伝えていくという流れは、実は環境政策
などとも積極的に結びついてくることだと思います。例えば、世界の遺跡は酸性
雨によって老朽化が急速に進んでいるというのは周知の事実です(アンコール
ワットなど多数)。それを食い止めるにはCO2規制をするのが第一歩です。その
意味でトヨタが先鋒を走っているエコプロジェクトなどは、貴コラムでも紹介し
ていただきましたが、水素の有効活用という次元にまで到達してきています。こ
ういった企業(群)の努力もさることながら、都市保存は行政の領域ですから、
公務員の意識が変わることが先決です。にもかかわらず、すぐには変えられない
と言うなら、早々にこの領域も民間に移譲したほうがいいのではないかというく
らい、急務の領域だと思います。

そして、結局はここにたどり着くのですが、個々の人間のモラルや到達点の話に
なっていきます(ここではあえてCO2排出との絡みでだけ限定的に申します)。
例えば、先ほどの車を運転するのは誰かというと個々の人間です。また、喫煙の
よる煙の発生があります。アメリカの禁煙の動きは異常なくらいの進み具合です
が、石油文化である以上、人の出す「排気」くらいはきれいにしておくというこ
となのでしょうか(これはかなりの皮肉のつもりですが)。

というのも、かの国では国土が巨大すぎ、また車の量も膨大すぎるためCO2規制
が全然行き届いていない実態が、禁煙促進のすぐ裏にあるからです。また、この
ことを踏まえると、「禁煙促進も個人の嫌煙権保障ということかもしれないけ
ど、世界の大気汚染はどうでもいいっていうのか」という気になるからです。た
しかにアメリカは世界に貢献している面も多大にあります。しかし、環境悪化は
結局未来の子供にアレルギーなどの先天的問題を残すし、遺伝上の変異ももたら
す恐れがあるし、喘息などは高齢者や現役の働き手にまで及びます。またそうい
う悪化した環境下でとれた動植物を食することも食物連鎖として人間に跳ね返っ
てくるわけです。それらの悪循環を考えるとき、優先順位の混同もいいかげんに
してほしいという静かな怒りが胸のうちにあるからです。

上記の皮肉と関連することがあります。石油文化ということです。アメリカがイ
ラク攻撃をしたことを正当化する大量殺戮兵器の報道はやはり収縮してしまった
ようです。復興について日本の役割を模索する報道はされていますけれども。貴
コラムがイラク戦争の実行行為時にも警鐘を鳴らしておられました点があります
ね。つまり、イラクの戦後、パイをどう分配するかという問題を解決するために
はアメリカに噛み付かないほうがいい。だから、開戦までは対抗した国々も、国
連の公開の場でやったような明らかな反対姿勢というものはないかに見えます。
仮にあっても、「内実についての」報道はされていないように思われます。

こういった点を踏まえると、たしかに、エビアンサミットはイラクや北朝鮮の問
題を処理する上で、各国にとって「経済的損失がないためにはどう動くべきか」
という打算的産物だったのではないかと言う疑念が湧きました。むろん、旗印と
しては、デフレ対策のために世界レベルの微調整が必要だから各国で共通認識を
構築しなおそうということでしたし、事実そうだったのだろうと期待したいので
すけれども。

観光、環境、石油などとすこしずつ脇に話がそれてしまったようですが、遠因と
しては因果関係にあります(苦笑)。経済を上向きにしようと言う話で貴コラム
が話題として観光を持ち出してこられたのに対し感想を書くわけですから、もち
ろん、観光という話題とリンクしているはずだ、それを何とか表すためにすこし
逸れたのだとご理解ください。

環境政策・都市政策と表裏一体の観光誘致を21世紀型でどう進めるかといったと
き、やはりこれは国内の産官学共同という「お上」の問題、会社の問題というだ
けではなくなります。それだけではなく、自分たちの喫煙マナーをより改善でき
ないかとか、環境還元型の洗剤を購入するかとか、いかにリサイクルの分別をす
るかとか、もっと政治的に言うと不当労働によって作られた製品の不買運動をす
るとか(大げさではなく、ナイキの第三世界から労働搾取による製品大量製造が
国際的な不買運動にまで発展したと言う事例もありました)、そういう草の根と
しての我々個人の思考が問われると思います。全てのチョイスが地球にリバウン
ドしていく。その中に観光誘致の問題も位置付けられると思うのです。

そして、表現こそ違え、このような有機的関連を貴コラムにて発信し、指摘して
あることはすばらしいことだと思います。

かなり話を押し広げてしまいましたが、基本的には下記引用を賞賛するもので
す。基本的性格はそこにあります。上記のような認識に私が立っているために、
貴コラムから下記文面を発見したことを嬉しく思う、そういうことの発表にすぎ
ません。今後も観点を供給してくださることを期待しております。また長くなっ
てしまいましたが、ご容赦ください。失礼いたします。

(引用ここから)

>我々大衆庶民が海外観光に出かける目的を考えれば分かる。
>とにかく先ず日本では味わえないトコトン面白い体験が出来るか、さもなければその国の
>歴史・伝統・文化・風光・景観が味わえない所へは行く気がしない。
>このトコトン面白い体験とは、言うは易く多くの国や地域で事業として継続させるのは殆
>どの場合困難。ディズニーランドやラスベガスなど世界でも、そんなに何カ所も成功出来
>る代物ではない。日本ではTDR位で、後は日本のどこに作っても成功しないだろうと考
>える。石原知事の「ラスベガス」も果たして事業として継続しうる価値があるや否や?!
>しかし面白いだけでは経済に貢献する様な永続する観光客は誘致出来ない。
>
>だとすればその他の分野では、人間の教養・知識欲を満たすか、その国・地域特有の資産
>・歴史的遺産に接する喜びを求める心を満たすかである。
>何百年・何千年の歴史が脈々と漂う伝統・文化・風光・景観に接することによって、心が
>満たされその歴史知識が裏付けされ、具体的遺物・証拠品で裏付けてくれる博物館・美術
>館などを訪れることで充足感をもたらしてくれる。
>
>ところが日本の観光誘致策たるや、すぐに箱物を作りたがり、それで観光誘致策だなどと
>自己満足する。物理的に作った観光施設・観光地で今のところ成功しているのはTDR・
>TDSだけだと言える。長崎と言い宮崎・北海道もすべて倒産している。
>観光地などとは、頭で考えて出来るものはほんの一握りのプロジェックトにすぎない。
>六本木や汐留めの大ビル群などは、一時の集客が出来ても永続するものではなかろうし、
>況や外国人の観光客を永続的に呼び込めるなどとは到底考えられない。
>
>その国・地域に脈々と伝わってきている伝統や歴史を基礎にした文化・風光・景観がなけ
>れば、観光対象として構築したモノは、一時の宴の施設にしか過ぎなくなるだろう。と言
>うのが私の考え。
>
>戦後の日本は、日本古来の伝統を批判し、日本文明を否定し、日本人の伝統的風習や行事
>を否定し、日本人の心=道徳・礼儀作法まで否定し去った「戦後の文化人・知識人・マス
>コミ」が、最近「自虐史観」と批判されるようになった「観点」を、全く「反転・逆転」
>させることからスタートしないと、世界に訴える「観光国」にはなれないだろうと思って
>いる。


コラム目次に戻る
トップページに戻る