1250.心豊かに生きる



得丸です。
岸田秀の「一神教vs多神教」(新書館)を読みました。

そもそもユダヤ教は、奴隷の宗教だった。奴隷であったユダヤ人は
、外国人モーゼに導かれて、「赤の他人」の冷酷無情な神と契約を
行った。自分たちの神が守ってくれなかったから他人の神に飛びつ
いた。

ヨーロッパ人たちは、ローマ帝国によっていやいやながらキリスト
教に改宗させられた被害者意識が攻撃性へと転化して、それが植民
地主義やユダヤ人差別につながった。

西洋の科学が宇宙支配の原理を追及したのは、神の存在やはからい
を明らかにするためというよりは、人間が神の原理を使って宇宙を
支配しようとした。

本能が破壊された人間は、自我を必要とする。ただ、西洋的自我(
日本では近代的自我)のような強い自我は、一神教や正義を振りか
ざす思想が後ろ盾になっていなければ成り立ち得ない。祖先崇拝、
多神教、愛に満ちた世界の自我は、弱い自我になる。それでいいん
じゃないか。

などなどの、なかなか面白い指摘が続きます。
(突然ですが、永山則夫氏が、死ぬまで獄中で叫び続けていたのは
、彼の満たされない心、愛に飢えた自我の表現だったのかなと思い
つきました)

かつて南博通氏がまとめられた「ヨーロッパ人の心」を読んだとき
に、「一神教は間違っているのではないだろうか」という感想を持
ったのですが、岸田氏は、明確に一神教を人類の癌だと言い切りま
す。そして、それとどう付き合っていけばいいのかは難問であると。

「一神教が人類の癌だという意味は、一神教の唯一絶対神を後ろ盾
にして強い自我が形成され、その強い自我が人類に最大の厄災をも
たらしているということです。結局、自我というのは病気で、自我
の強さはその病気の進行度のようなものだけど、その場合の最大の
難問は、自我の強い奴と、弱い奴が対決すると、必ず自我の強い奴
が買ってしまうということなんですよ。つまり、人類は、病気の重
い連中のほうが勝つという絶対矛盾的状況に置かれているというこ
となんです。」
(p98)

人類史でいえば、ネアンデルタール人が絶滅して、クロマニヨン人
の世の中になってしまったという、あの段階でもう間違ってしまっ
ていたんじゃないか(笑)という聞き手=三浦雅士のコメントに続
けて、岸田氏は、続ける。
「そんなことを言えば、地球に人類が発生したのが間違いのもとだ
ったということになるでしょうね。(笑)人類が発生していなかっ
たら、地球上の人類以外の動植物はどれほど幸福であることか。
人類のせいで絶滅した動植物の恨みの声が地の底から聞こえてきそ
うです。」

一神教には、人間至上主義で、他の動植物への尊敬がないという欠
点もある。

いつか取り上げてもいい本かもしれませんね。
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(Tより)
得丸さんから連絡があり、当分得丸さんからの投稿はないようです
。まことに残念ですが、ご報告します。
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心豊かに生きる・・・S子 

普段はほとんどテレビを見ない私だが、その時、画面に映し出され
た番組を見るとはなしに見ていたら、ついつい引きずりこまれ、
とうとう最後までテレビの前に座り込んでしまったことがある。

「手を加えない美」と題してひとりの女性を年齢を追って映し出し
ていた。時に神は人間技とは思えないような芸術作品をこの世に生
み出す所業をやってのけるものだと感嘆した。彼女の十代、二十代
の美しさは群を抜いている。が、四十代半ばの美しさはこの世のも
のとは思えないほどだった。

女の私でさえもため息がでるほどだから、いかに私がテレビ画面に
釘付けになっていたかおわかりいただけるだろう。気品と妖艶さと
何といっても理知的な色気が感じられ、それがより一層彼女の魅力
となっていた。

現在、七十歳を過ぎている彼女はさすがに首や手のしわは隠せない
が、背筋が伸びていてさっそうとした歩き方は、とても七十代には
見えない。「いつまでも美しくある秘訣は何か。」と問われて、
彼女は「心豊かに生きることです。」ときっぱりと言ってのけた。

この言葉を聞いて私は思った。彼女の神がかり的な美しさが彼女に
「本物」を引き寄せたのではないかと。「本物」に接し、「本物」
から受ける影響力は、更に彼女の美しさを際立たせたのではないか。
そして、彼女が自身の美しさに溺れることなく、人としての道を踏
み誤ることもなく誠実に、彼女の言葉通り心豊かに生きた証でもあ
るように思われた。

また、きりっと伸びた背筋としっかり大地を踏みしめ歩いている姿
勢からは、彼女のこれまでの生き方に対する自信と誇りのようなも
のさえも感じられ、それとともに彼女のこれからの生き方を暗示し
ているようにも見受けられた。

彼女の答えとなった「心豊かに生きること」はいつしか私の中でひ
とつの問いかけに変わる。「心豊かに生きるとはどういうことか。
」経済大国となり物質面においては恵まれているこの日本で、いっ
たいどれほどの人間が心豊かに生きていると実感しているのだろう
か。

物質的に恵まれたからとはいえ、心がそれで満たされるかというと
そうでもない。一時的な満足感は得られても、飽きるか目新しいも
のが欲しくなるかの繰り返しであろう。ものに振り回されると自己
を見失いやすくなるのは当然の帰結であるし、ある程度のものを持
ってしまうと人間保守的になりやすいとは言われる。

人間若い頃は美しいのは当たり前だが、ある程度の年齢を超えると
、その人の生き様が顔や姿、形に隠しようがないほど歴然として現
れるのはどうしてだろう。いかに己自信を大切に愛して生きていた
か否かが手に取るようにわかる。これはどんなに身を飾ろうとも隠
せないから実に不思議ではある。そこに心豊かに生きることへの答
えが潜んでいるように思うがどうだろうか。

私がこうしてものを書くようになって一年以上は過ぎた。きっかけ
はインターネットとの出会いがある。「書く」ことによって自らが
救われたと思っているだけに、私はインターネット肯定論者である
。長尾敬氏に言わせれば、今や情報のゴミ箱と化しているゆえあま
り信用してはならないそうだ。しかし、誰が何と言おうと私はイン
ターネット性善説をとる。

実はこのインターネットを通じて私は二人の美しい男に偶然出会い
、「知る」ことの楽しさを教わったのである。そして、「知る」こ
との総仕上げとして「書く」という作業をやってみたら、これが案
外おもしろかったというか、私の性分にぴったりと合っていたので
ある。

「知る」「書く」という生活を続けていくうちに徐々に人生観、価
値観が変わっていった。ただでさえ自営業という商売で外出困難な
状況にあるのに加え、私はこの「知る」「書く」ことの楽しさを覚
えてからは、ますますひきこもりのような生活状態になってしまっ
た。しかし、私の脳の中は中世ヨーロッパを生きたり江戸時代を駆
け巡ったり現在に戻ってみたりと、非常に忙しい毎日を送っている。

そして、今年は二人の美しい男に少しでも近づくべく、寸暇を惜し
んで「知る」「書く」ことに努めている。これが苦痛以外の何もの
でもなかったら私はとうの昔に挫折していただろうが、楽しくて仕
方がなかったのだ。また、私の知らない私に出会ったことで、私は
更なる未知の私に出会いたいとも思い始めている。

その水先案内人がこの二人の美しい男であり、どうやら私が常々感
じていた彼らの「本物」が間違いのないことが、最近読んだ本で証
明されたかたちとなった時には、ただただ泣けてきて仕方がなかっ
た。生きてゆくことの意味を教えてくれたとでも言おうか、自らの
力で真理を追究してゆくのが本質だと言っているゆえ、手取り足取
り丁寧には教えてくれない。

ただ間違っている時は訂正し、私を軌道修正してくれる。言葉数の
少ないのは毎度のことで、私はだから行間を読み送信日時を読みな
がら理解に努めた。情報ソースとしてだけでなく数々のそれ以外を
学んだ。

今わが国は未曾有の国難にあり、個人の生活も苦しくなり精神的に
も追い詰められ、心豊かに生きることはなかなか困難になりつつあ
る。ましてや私のようなひきこもり的生き方は非生産的であり、資
本主義世界に逆行するような生き方をしている。世界を手玉にとっ
ている国際金融資本家達に取っては、私は新たな敵であるかもしれ
ない。こんな生き方を推奨することは許されないだろうから。

しかし、私のような生き方は誰かを傷つけるわけでなく、自然を破
壊することもないだろう。メディアに翻弄されてゴールデンウィー
クに出かけるようなこともしない。ただひたすらに我が道を突き進
み、自己完成に向けてまい進するのみである。非生産的ではあるか
もしれないが、私自身は未知なる「私」を求め続けてゆくことで別
の何かを生み出しているようにも思える。

人にはその人なりの生き方というものがあり、こういう生き方が良
いと言えるようなものはないのかもしれない。が、私の心は今大変
に充実しているのは否定しようがない。心豊かに生きるとは文字通
り心に響かないものではどうしようもないのである。私にもはっき
りとは言えないが、それは心にたっぷりと栄養をつけてやり、心を
高揚させ生きる喜びへと繋げてゆくことではないのか。案外これが
己自信を愛することにも繋がっているようにも思える。

私はインターネットにより偶然にも二人の美しい男に出会い、今心
豊かに生きることができている、と思っている。つまり無機質なハ
イテク機器により私は一個の人間として新たな「生」を吹き込まれ
再生されたのである。私にとって神とはこの宇宙であろうと思う。
私にこのような出会いをもたらしてくれた宇宙に私はひたすら感謝
するのみだ。

参考文献   「知性の磨きかた」  林 望 著
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国際戦略コラム 御中

送信者:山口将俊

いつも情報提供有難うございます。

今回は記事へのコメントです。ただし、質問でも共感の提示でもなく、珍しく真
性のクレームです。

no.1240の冒頭の三菱信託OBの方のお寄せになった文章、あれは何か国際戦略コ
ラムの趣旨に配慮して送ってこられたものなのでしょうか。大いに疑問です。

三菱といえば名の通った企業(系列)ですね。その名を用いたとしても、思いつ
きで文章を寄稿するのには、このコラムの扱っている主題は重過ぎると思います
が、それにしても噴飯ものです。しかし、この寄稿があったという事実を直視し
なければなりません。OBという年齢にあられるということはそれなりの見識をお
持ちだと思うのです。けれども、そのような認知度の高い企業のOBたる人物が、
こんな国際戦略という主題を無視した文章を寄稿されているということがまず
ショッキングであり、さらに「冒頭に」掲載されるということ自体、この文章を
貴コラムの執筆陣が「国際戦略と関連がある」として扱うことになり、二重に不
見識だと思います。

私も感想を述べたりはしますが、それはすでに掲載された貴コラム文責の記事に
基づいています。また、仮説的な意見はそのような表現を用い、内容の不十分さ
をきちんと断ります。特に理念的な話は好きなのでいいですが、経済系は控えめ
にするとか自分なりの配分はあります。そしてそれはもちろん、国際社会の日本
のありように結びつくように議論をしたいというベースにのっとって行われま
す。それくらいはわきまえているつもりです。

これは逆に、OBという年齢にあることを笠にきた横暴ではないか、と若輩の身と
しては感じます。散髪屋の構造をただデータとして羅列する行為は、私の知りた
い情報として貴コラムに期待しているものとは全く異質のものであると断ぜざる
を得ません。もちろん、そのデータから何らかの観点が抽出できるという提案で
あったならば、私のほうでも謝罪する用意はありますけれども。(たかだか26歳
の人間にここまでいわせるというのも、相当なことだと思ってほしいです)

これからも貴コラムに期待することは変わりありません。しかし、すこしだけ期
待をそがれました。ほんの若輩者ではありますが、率直にそれだけ申し上げたい
と思います。

真摯に期待したがゆえの訴えだと受け取っていただければ助かります。今後も北
朝鮮の動向について非常に緊迫した情勢を分析する一助として、貴コラムの助け
を得させていただければと考えております。失礼いたします。
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(編集人Tより)
山岡さんの記事は、ときどき著作権侵害を犯すことがあり、十分、
気をつけている。このため、山岡コラムだけは、他からのコピーと
思われる記事を後ろに掲載して、個人的なメールと思われる物を前
に掲載しています。このような処置を、今までの山岡さんと報道機
関の著作権問題からそうしています。どうぞ、ご了承ください。

もう一つ、基本的に読者の投稿は、投稿ルールに従うものはすべて
掲載しています。


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