1245.魂の病と魂の分裂



      魂の病              Mond
   
アメリカ一国が世界制覇する勢いだが、逆に世界の人心はアメリカ
から離れつつある。アメリカは、まるで頭脳だけ発達した「近代ゴ
リラ」のようだ。
(引用開始)========================
湾岸戦争は、イラクの侵略を罰し中東の現状を守るという動機と意
味の明瞭(めいりょう)な戦争だった。ところがイラク戦争では、
米国が挙げる理由はテロ、大量破壊兵器の隠匿からイラクの民主化
までくるくる変わり、おかげで欧米のメディアでは米国の真の動機
について石油利権からイスラエル・ロビーの影響力までさまざまな
推測が乱れ飛ぶことになった。その中のどの推測が正しいかは重要
ではない。問題は、米国が意味と動機が不明な判じ物のような戦争
に乗り出したことであり、それが世界を混乱と不安に陥れているの
である。
意味不明な行動をする個人がそうであるように、今の米国は国家と
して心の病を患っているのだと私は思う。その病の名は「引きこも
り」。米国が圧倒的な軍事力にものを言わせて世界帝国になろうと
しているという説に反して、今の米国は自分の殻にこもり過去の栄
光の追憶にふけっている国とみた方がいい。
関 曠野(思想史研究家)【某新聞 H15.4.19(土)朝刊】
(引用終わり)=======================

問題は、「圧倒的な軍事力にものを言わせて世界帝国になろうとす
る」アメリカには、WASPの挫折と自信喪失の裏返しの心理機序
が働いていると考えるべきなのだろう。
 最近のアメリカ映画を見てみると、ほとんどはスーパーマンが敵
を破壊するバイオレンスであり、そこにお手軽恋愛を挟み込んだだ
けの活劇で、1970年代から文化の香りの高い作品はない。これ
はベトナム戦争の敗戦から精神的に立ち直っていないからだと思わ
れる。この頃に、公民権運動があり有色人種は表面上人種差別から
解放された。しかし公民権をようやく黒人に与えたまではよかった
が、その反作用で、アメリカ建国はインディアンの虐殺と土地の簒
奪といわれ、奴隷解放はアメリカこそ文明国で最も遅くまで奴隷制
度を温存した国といわれ、WASP支配階級の理想は崩壊し、その
反発心は益々先鋭化してきている。

 自信をなくした精神風土に文化の薫り高い、ジャズやデキシーや
ウエスタンは生まれてこない。西部劇も戦争映画も“風と共に去り
ぬ”もアメリカ人にとっては「建国の叙事詩」的な意味合いがあり
自己陶酔型の映画であったのだろう。彼らは今、悪酔いをしている。
彼らに残っているものは、結局スーパーマン的な軍事力だ。「心の
病」と言われようとイラク戦争をして自己確認をしたい衝動に駆ら
れてしまうのだ。娯楽映画張りのバイオレンス活劇を現実世界を相
手に始めるというのはどう考えても不健康だ。おまけにキリスト教
文明は宗教的寛容を全く持っていないので、異文明を取り込んで成
功した世界統治をするのは悲観的で、必ず文明間闘争になる。

 アメリカにそれなりの目標があり、そのプログラム通りに行動し
ているだけだと言われる向きもあるだろうが、ヒスパニアにしろ、
大英帝国にしろ、ソビエト連邦にしろプログラム通りに行動してい
て没落の憂き目にあってしまったのは事実である。どこかを読み違
えているのだ。自分から没落する馬鹿はいない。我々が見るのはそ
の読み違えであり、歴史の大きな流れである。
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          魂の分裂         Mond  
   
日本国内の意見の傾向は、非武装中立を標榜する意見が後退し、保
守的な意見が大きくなって来た途端、保守の中では親米と反米に分
かれてきており、親米保守をポチ保守と罵る始末である。基本的な
傾向はどうしても親米か反米になってしまう。現在、日本は前方展
開していた南洋群島も後方展開していた満州も全て身ぐるみ剥がさ
れて、大阪城で例えると、外堀も内堀も埋められて裸城にされた状
態である。おまけに航空母艦、ミサイル、原子力潜水艦なども一切
持てないように陰に陽に圧力がかかっており、航空機産業も全く育
てられないでいる。

 軍事外交面ではまったく力が出せない状態に置かれている。こう
いう状態を世に属国という。これは間違いのないところだ。こんな
状態が60年近く過ぎ、社会は退廃し、やる気をなくした国民たち
は大量破壊兵器を積んだミサイルが今にも飛んでこようというのに
、「あの自己愛性人格障害野郎もそんな馬鹿はしないだろう」と
タカをくくって慌てふためく素振りもない。余程出来ているのか、
感受性が鈍麻してしまったのかどちらかだ。

 日本ではまだまだ意見が先鋭化しているわけではないが、暴力的
か非暴力的か、未来主義的にか復古主義的にか、精神主義的にか享
楽主義的にか段々先鋭化していくのではないだろうか。
A・トインビーの「歴史の研究」を紐解けば、社会の解体期に於け
る魂の分裂には@受動的、とA能動的なものに分けて考えることが
出来る。個人的行動様式では@放縦A自制、社会的行動様式では
@脱落A殉教、個人的感情様式では@漂流感A罪悪感、社会的感情
様式(形式に対する感受性)では@混交様式A統一様式である。
生活面では暴力的(社会変革派)では@復古主義A未来主義、非暴
力的(自己変革派)では@超脱A変貌となる。(表にせられよ! 
議論を整理できる)

(引用開始)========================
 変貌と超脱とがともに、未来主義と復古主義の方法と異なる点は
、文明の成長を示す規準である、あの活動の場のマクロコスモス(
外面的世界)からミクロコスモス(内面的世界)への転換を、単な
る時間の次元における転移で置き換えるのではなくて、真の精神的
風土の変化によって置き換えようとする点にある。…
我々が「超脱」と名付けた生活態度は、種々の流派の哲人から種々
の名称を与えられている。解体期のヘレニック文明世界から身を引
いたストア学派は「アパテイア」〈無感動〉のなかに退き、エピク
ロス学派は、「たとえこの世が崩れ落ち、粉々になっても、わたし
はびくともしない」(詩人ホラチウス)の「アタラクシア」〈不動
〉のなかに退いた。解体期のインド文明世界から身を引いた仏教徒
たちは「ニルバーナ」〈静寂〉のなかに退いた。

 超脱は「この世」から出て行く道であり、その行き先は避難所で
ある。そして、その避難所が「この世」を除外している点が、それ
を魅力のあるものにしている特色である。
 超脱の目標であるこの不可知で中立的な「ニルバーナ」もしくは
「ゼウスの都」は、変貌という宗教的体験を経由してはいる「天国
」と全く正反対のものである。哲学者を「あの世」が、要するに、
地上の我々の世界を除外した世界であるのに対して、神の「あの世
」は、現世の生活を超越しながらも、依然としてそれをうちに包含
するものである。超脱の道が引退一方であるのにたいして、変貌の
道は、さきに我々が「引退−復帰」と名付けたところの運動である。
 …
 以上我々は、解体期の社会のなかで生きる運命を担わされた人間
の魂に現れる六組の二者択一的な行動を、感情、および生活の様式
を簡単に説明した。
 …我々は、四通りの個人的な行動ならびに感情の様式――受動的
な放縦と能動的な自制、受動的な漂流意識と能動的な罪悪意識――
はすべて、支配的少数者の成員にも内的プロレタリアートの成員に
も等しく認められることを発見するであろう。
 ところが、これに反し、社会的な行動ならびに感情の様式になる
と、我々の当面の目的に沿うためには、受動的な組と能動的な組を
区分しなければならなくなる。二通りの受動的な社会的現象――
脱落への堕落と混淆意識への屈服とは、まず最初にプロレタリアー
トの間に現れ、そこから、通例「プロレタリアート化」という病気
にかかる支配的少数者の間に波及してよく場合が多い。逆に、二通
りの能動的な社会的現象――殉教の追求と統一意識の覚醒は、まず
最初に支配的少数者の間に現れ、そこからプロレタリアートの間に
波及していく場合が多い。

 最後に、四通りの二者択一的な生活態度を眺めてみると、上とは
反対に、受動的な組、すなわち復古主義と超脱は、まず最初に支配
的少数者のなかから生まれ、能動的な組、すなわち未来主義と変貌
はプロレタリアートのなかから生まれることがわかる。
 復古主義と未来主義、超脱と変貌はいずれも、いままで慣れ親し
んできた、成長期の文明における安楽な生活ならびに行動の習慣に
変わる、実行可能な生き方を探求する試みである。社会の衰退とい
う破局によって安楽な道が無慈悲に閉ざされたときに、この四通り
の生活態度がそれに変わる迂回路として姿を現す。…
(仏陀の悟りの境地はニルバーナであったが、彼は一度迷った後に
「引退→復帰」の通り、衆生救済に向かった。それは超脱にも一方
通行ではない出口が用意されているということである。【引用者注】)

 …未来主義は悪魔主義という形を取る。
「この信念の本質は、世界秩序は悪と虚偽であり、善と真理は迫害
を受ける反逆者である、と見なす点にある。・・・・・この信念は多くの
キリスト教聖者や殉教者、とりわけ黙示録筆者の抱いた信念である。
しかし、この信念が、ほとんどすべての偉大な道徳哲学者の教説と
、真っ向から対立することである。善とはこの秩序と調和するもの
、悪とはそれと調和しないものであると主張し、もしくはそう仮定
している。
 例えば、シリア社会では、メシア思想の形を取って現れた未来主
義は、最初は明らかに非暴力の道をたどる企てとして出発した。
イスラエル人は、アッシリアの軍国主義の攻撃に抵抗し、いまここ
に、自己の政治的独立を維持しようとする、有害無益な企てを固執
する代わりに、現在の政治的権力におとなしく従い、そのすべての
政治的価値を、やがて将来いつの日にか出現し、滅亡したイスラエ
ル王国を再興する救世主たる王の待望に託することによって、この
耐え難い忍従に甘んじたのである。(やがてポチ保守はこう言い出
すだろう、「アメリカの軍国主義の攻撃に…有害無益…おとなしく
従い…日本を再興する救世主を待望しよう」と。:引用者注)
ユダヤ民族の間における、このメシア待望の歴史をたどってゆくと
、バビロンの捕囚となった紀元前586年から、ヘレニズム化の迫
害を受けた紀元前186年に至る四百年以上の間は、非暴力主義に
有利に進行していったことがわかる。ところが、耐えがたい苦しみ
を与える現在の生活との間の不一致が、最後には暴力のうちに解決
を求めるようになった。

 エレアザルと七人兄弟の殉教から二年経たないうちに、ユダス・
マッカバイオスの武装蜂起が起こった。そして、このマカベヤ一族
の武力反抗を皮切りとして、その後続々と、ますます熱狂の度を加
えてよく戦闘的なユダヤ熱心党員〈ゼロト〉――無数のチウダやガ
リラヤのユダに類する連中――が出現し、その暴力は紀元66年か
ら七十年、115年から17年および132年から35年の悪魔的
なユダヤ人反乱において絶頂に達した。(非暴力的未来主義から暴
力的未来主義へ変化:また、ゼロト主義を攘夷主義、サロメの父、
ヘロデ大王主義を開国主義とみなす事も出来る。尊皇攘夷と開国派
の争いは何も日本だけのことではない。:引用者注)
 未来主義も、一見それと正反対の道ををたどる復古主義もやはり
、結局最後に同じように凶暴な暴力行為になる。ヘレニック社会の
政治的解体の歴史において、復古主義の道を選んだ最初の為政者は
スパルタ王アギス四世とローマの護民官ティベリウス・グラックス
であった。この二人はともに、まれにみる感受性と穏やかさの持ち
主であり、またともに、すでに半ば伝説化されている、衰退期以前
の「黄金時代」における彼等の国家の古制と彼等が信じている状態
に復帰することによって、社会的悪弊を是正し、社会的破局を回避
しようとした。彼等の目標は協調の回復であった。
ところが、彼等の復古主義的政策は社会生活の流れをを逆行させよ
うとする試みであったから、どうしても暴力の道を選ばなければな
らない破目に陥った。そして、彼等の不本意な暴力が挑発した暴力
的反抗と戦うに当たって、極端な手段に出ることをしないで、むし
ろ自己の生命を犠牲にする道を選ばせた彼等の精神の穏和さも、
いったん心ならずも動き出させた暴力の雪崩を防ぎ止める役には立
たなかった。
(引用終わり)=======================
 歴史の教訓はどちらに転んでもロクナコトにはなりそうにない事
を示している。さも分け知り顔のエリートさんも歴史の大海に出れ
ば雑魚同然ということか。それとも単に、今はあまりにアメリカが
強すぎるから、しばらくは対米従属に甘んじておこうというだけか。
それとも近々、エピクロス学徒に変身し、何を言われても全く動じ
ないなどと…


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