1166.得丸コラム



悲劇の終焉、そして劇的なるものの消滅

 今日、富山県高岡市にある高岡文化ホールで、鈴木忠志演出の
「リア王」の公演を観てきた。8年前にロンドンのバービカンセンタ
ーで観て以来、二度目だった。

 演出も、演技も、8年前と同様、実にすばらしかった。日本の演劇
人あるいは劇団で、鈴木忠志以上に洗練され様式化された演技を見
ることは不可能だろう。

 しかし、観客の反応は鈍かった。シェイクスピアを何十本も観て
いるロンドンの観客に比べて、富山の観客がそもそも演劇に不慣れ
だということもあったろう。私には、現代人は概して悲劇に対して
不感症になっているように思える。

 愛人との性交のために前立腺癌の手術を受けなかったために亡く
なった老人や、引き籠りの息子と無理心中した定年後の老人とか、
これまでに聞いたこともなかったような老人の悲劇は巷にあふれか
えっている。リア王なんて、何はともあれ娘が三人もいてまだ恵ま
れているほうだ、という印象を与えるのかもしれない。

 じゃあ、喜劇ならば受け付けるのかというと、それも疑問だ。
シェイクスピアの喜劇「恋の空騒ぎ」や「冬物語」のようなほのぼ
のとした作品や、あるいは「真夏の夜の夢」のような幻想的な作品
が、今の日本人の心にしみ入るとは思えない。そもそも演目に上が
っていないことからも明らかだ。

 おそらく今の平均的な日本人が受け入れることができるのは、
テレビでよくある再現ビデオなのではないか。劇的なるものを徹底
的に排除し、カタストロフ(感情の浄化)ともポエジー(詩心)とも無
縁な、まるでハンバーガーショップのマニュアルのような演技しか
、受け付けないのではないだろうか。
 
 劇的なものも詩的なものもなく、末法の世を私たちは生きている
。いや、末法の世だからこそ、劇的なものも詩的なものも、どこを
探しても見つからないのかもしれない。
(得丸久文、2003.01.31)
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司馬遼太郎にしても、プロジェクトXにしても、おじさんの好むもの
は、どこか間違っているんじゃないかと思います。少なくともおじ
さん臭が漂っている。
 
プロジェクトXの場合は、エンジンのトラブルで車が止まりかかって
いるから、本来であればブレーキをかけて、止めて点検する勇気が
必要とされるときに、逆にどんどんアクセルをふかせとけしかけて
いるような気がします。
 
そこんところがおじさん的な時代錯誤なんですね。大衆のノスタル
ジーに安易に迎合しているというか。
 
おじさんの問題は、自分の生き方をなんとか肯定しようとすること
。向上心がないこと。司馬遼やプロジェクトXにのめりこんでいると
ころは、なんか胡散臭いんだな。
 
得丸
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得丸様へ
『人間は、本能が壊れていますから、お腹一杯になれば鷹揚になると
いうわけではない。
いくらでも所有しておくことができるから、持てば持つほど、がめ
つくなるのでは。
むしろ、何も持たない人のほうが、鷹揚に生きているのではありま
せんか。』
 
同感です。仏教的に言うと「地獄、餓鬼、畜生」の世界でしょうね。
お金持ち程、お金に汚い。あの大金持の田中真紀子さん、何十億と
か何百億とかの節税をしたとか、秘書給与を“ピンハネ”したとか。
何も田中さんに限ったことではありません。 
  しかし、田中さんを責める資格のある人がどの位いるでしょう。
同じ程度の人が同じ程度の人を選ぶのでしょうね。  
 お金で幸せになりっこない。それでもお金を尚も求めて止まない。
こんな世界を抜け出さなくては。本能を取り戻す訓練が必要ですね。

『もちろん、本来は我欲はないのだが、持つという体験によって、我
欲が芽生えるという言い方もできるかもしれませんが。
たくさん食べたい、たくさん子供を作りたい、お金がたくさんほし
い、といった感情は、何も訓練しなくても、人間が陥る本来的な落
とし穴だと思います。それを抑えるには、厳しい掟が必要なのかも。』
 
;訓練して、人間が陥る落とし穴に陥らない様な努力なり、システ
ム作りが必要ではないでしょうか。
> しかし、身体は、公害、薬害によって、先天性の異常で生まれる赤
> ちゃんが少なからずいるのじゃないでしょうか。臓器移植で対応し
> ていますが、環境問題としての公害(食品汚染、添加物も含む)、
> 薬害を人類が自身の問題として、対応すべきではないでしょうか。

『自分の子供が、自分自身がそうなって生まれて初めて、その痛みが
わかるのが人間。
他人の痛みを感じ取る能力は、ないみたいです。最近、文学がます
ます低調であるのも、他人の痛みや苦しみを理解する能力が衰えて
きているからではないかと思います。』
 
;良いことも悪いことも皆、“人の為せる業”あまり他者を責める
ことを慎まないと・・・
  まぁ難しいですけどね。皆で、苦しみを分かち合えるシステム、
教育が必要ではないでしょうか。

『しかし、環境教育を突き詰めれば、人類の存在自体をある程度否定
してしまわなければならないのでは。だから、環境教育のほとんど
が、小手先のことを教育するという欺瞞的な教育に甘んじています。』

;人間は、息をしているだけで二酸化炭素を出しているのですから
、存在そのものが公害?と言えます。存在そのものを自覚する必要
があります。いつか自身は、土に還えって行くのですから。自然の
中のほんの1部分であること、そんな自覚を持つこと、そんな真実
を知ることが大事ではないでしょうか。これが最初の1っ歩ではな
いでしょうか。欺瞞的な教育から脱出する術を見つけていかなけれ
ばならないでしょう。
  自然保護、これは自身を保護することでもあります。そんな事か
ら始めて行っては如何なのでしょうか。
 
  引きこもりをすることも大事ですよね。そして静かに自身を見つ
める必要があります。私も同感です。引きこもりを大切にしていく
こと、マイナスに捕らえる世間の風潮を糾すべきです。
  
  世間的な尺度で何事も判断する。勉強ばかり出来る子がいい大学
と言われる大学に行って、キャリア官僚になって、公害や薬害を起
こさせ、国を財政赤字にして人々を地獄陥れるのです。
  國井明子
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得丸氏は、コラムに「千と千尋の神隠し」のことについて、書いて
おられた。

宮崎アニメが、あらゆる層に評価が高いのは、複層的な哲学を作品
の中に込め、その上で、高い叙情性を持ち、アニメとしての動きの
面白さと、色彩やテンポ気持ち良さを、実に高度なレベルで実現し
ているからだろう。見る哲学と言っても過言ではない。

宮崎氏の、関心の軸一つが、環境であることはいうまでもない。
それは、あらゆる作品の、水と緑の表現の中に立ち現れる。
「千と千尋」では、くされ神として見間違えられた、汚泥の神が、
実は、不法投棄という人の手で汚された、名のある河の神であった
、というのが、一番解かりやすい形だろう。
顔ナシは、<欲の力>の化身なのか?色々考えるのが楽しみな、
キャラである。

また、宮崎アニメの中でも、一番環境問題にストレートなのは、「
もののけ姫」かもしれない。
「もののけ姫」では、<神>はまさに<水>の化身というべき性格
を持っていて、傷つけられた(首をとられた)とたん、汚染された
毒水として人間を襲った。
そして<たたら>=製鉄<文明化>や、自然破壊が<たたり神>を
生み、若武者の体を蝕んだ。そしてそれを癒したのも、
<清浄な水>=神に他ならなかったのである。

そして、宮崎氏自身、今の段階で、おそらく答えが出せていないの
が、「環境と、持続可能な開発」という、相反しそうな、テーゼに
ついてであるに違いない。
彼は、主人公の二人に、ここではいったん、別々の道を歩かせている。
また、それが、人類社会の、答えに至っていない、現代の姿なのだ。

「風の谷のナウシカ」をご覧になった方も多いいだろうが、実は、
原作が大判のマンガ本で、7巻本で出ているのをご存知だろうか?
その1巻目の一部をアレンジしたものが、アニメ版に過ぎないのである。
宮崎氏の哲学の根底に流れるものに興味がおありの方は、ぜひ、
古本屋ででも全巻買って読まれることをお勧めする。

宮崎アニメは、今や、人の目では見えなくなった、精霊や神を視覚
化している。そして、超越する存在に対し、あたたかい息遣いと、
その存在する理由について、子供たちに深い共感を与え続けている
。それは、情操という以上の、深い精神形成を与えている。

世界を生きる戦略を練るとき、構成する世界に対して、あらゆる事
象への哲学的考察無しでは、皮相で、場当たり的な戦略にしかなら
ないのは言うまでもない。
戦略とは、限定的な事象に対する、目的達成の為の戦術とは違う。
ましてや、どの選択が自分の得か?などという話ではすまないのだ。
それは、日常から立ち上がっており、特殊なことだけに立脚しない
、根本を見据えた思考から選び取られるべきものなのだ。

世界が(違いを乗り越えて)共感できるということ。それが、進む
べき方向を示している。
                      まとり


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