1145.文化と地球環境危機



文化と地球環境危機

1 人類は、地球環境危機を自覚できない

 地球温暖化や地球規模海洋汚染、絶滅する生物種の増加といった
地球環境の危機的な変化が30年以上も前から指摘されているにも
かかわらず、人類は経済成長追求・資源消費増加型の文明にしがみ
ついている。

 昨年、ヨハネスブルグで開かれた「持続可能な開発のための地球
サミット」は、1972年の国連人間環境会議の30周年を記念すべきも
のであったが、経済成長路線の方針転換や人口問題には一切触れず
、持続可能な開発という怪しげな概念をもてあそび、概念に振り回
されて終わってしまった感がある。

 持続可能な開発というのは、「現在の豊かさを捨てることなく、
未来の世代に豊かな地球を残そう」という、魅力的な考え方である
。そんなことが本当に可能なのだろうかという素朴な疑問がわいて
しかるべきであるが、可能かどうかの議論は一切行わなれなかった
。大切なことは、現在の豊かさを捨てなくてもよろしいという部分
であって、未来のことなんて誰も考えていなかったのである。

 私は、この3年あまり、地球環境問題にかかわることによって生
計を立てていたので、人類がどうしてそのように無自覚であり、無
責任な行動をとるのかについても考えてみた。
 
2 縮尺のあまりの違い

 地球環境問題とは、そもそも何なのだろうか。

 たとえば海岸に行くと、プラスチックごみが打ち上げられている
。その量は、毎年増加している。一方で、今だに漁師さんたちの中
には、食べ終わった弁当や空き缶や使えなくなった魚網を、そのま
ま海中に投げ捨てている人がいる。一般の市民でも、海の中にごみ
を捨てて平気な人がいる。

 たしかに、大海原を前にすれば、ちょっとくらいごみを捨てても
、なんとかなるような気分になる。海の中にごみを捨てるのが、た
った一人だけならば、おそらくごみは問題にならない。地球上に
60億の人類がいて、60億人の経済活動によって有害物質やごみ
が海中に流入するから問題なのである。

 ここに地球環境問題の本質がある。地球環境問題とは、人口問題
であったのだ。1億人の人間が自動車に乗って、二酸化炭素を排出
するかぎりにおいては、問題にならなかったことが、その10倍、
20倍の人間が同じことを行うと問題を生じるのだ。

 ポール・エーリックのI=PAT(環境破壊インパクト=人口x豊かさx
技術力)の式を思い出すまでもなく、環境破壊インパクトは、汚染
物質の排出量に比例するのであり、つまり人口に比例するのである。

 そして、問題は、ひとりひとりの人間にとっては、地球は無限に
大きいため、60億人が起こしている地球環境問題の深刻さを、生
身の人間が認識できないところにある。地球環境問題をわがことと
して実感するためには、1:6,000,000,000 という対比を実感する
想像力が必要とされる。一人と10人、100人の違いくらいなら
、ある程度の想像力でまにあうだろうが、それがさらに100万倍
以上の60億のインパクトを想像するとなると、ほとんど不可能で
ある。

 政治家や官僚というプロの政策立案者たちであっても、60億の
もつインパクトを実感できる人は、世界中探しても存在していない
のではないだろうか。仮にいたとしても、彼(彼女)は、自分の認
識に忠実な政策実現をできていないことは確かである。

3 なぜ地球環境問題は起きたか

 地球環境問題は、人類の文明の発展の必然的な帰結として起きた
のである。

 古代都市文明は、黄河文明を除いてことごとく環境問題によって
消滅してしまった。アラビア半島やサハラ砂漠が砂漠化したのも、
人類の所業によるものらしい。

 大航海時代以降は、ヨーロッパ人たちが、世界の他地域を植民地
化した。アジアやアフリカやラテンアメリカの人々を奴隷化し、そ
の土地を自分の思い通りに開発した。その精神の延長として、地球
規模の環境危機はすでに予定されていた。

 近代市民革命の時代の啓蒙思想は、この地球上で一番えらいのは
人間であるという誤った考えを人類に植え付けた。自然に対する畏
敬を失った人類は、他の動植物の生命をも自分の都合で奴隷化(家
畜化)し、あるいは大量捕獲し抹殺したのである。

 20世紀には、人類は、科学技術の発展により、自然界には存在
しない石油化学製品、重金属、さらに放射性物質を日常的に利用す
るようになった。おろかな人類は、それらが環境中に投入されたと
きにどのような悪影響を与えるかについてまったく配慮することな
く、大量に廃棄・投棄して環境放出したのだった。

 また、第二次世界大戦のあと、アジアやアフリカの植民地が独立
すると、新興国の人々も、豊かな文明生活をめざすようになった。
新興諸国の人々に文明生活を否定することは、先進国の文明生活に
ついても見直しをすることが求められるから、先進国の人間たちは
、地球人類すべてが豊かさな文明生活を追い求めることの危険性を
考えることをやめたのだ。そして刹那的な文明享受に甘んじること
にしたのだ。「持続可能な開発」概念も、この路線上にある。

 先進国や発展途上国の指導者は、経済成長や化石燃料消費が増え
続けることが、地球環境にどのような影響を及ぼすかを知っていた
かもしれないが、それを口にすることは損になると思ったのだ。
結局誰も文明を反省することがなく、あらゆるつけは自然環境に回
されて、環境危機は意外と早く現実の問題となったのである。

4 文明の暴走に対応する文化を創出する

 地球環境問題は、人類文明のあり方と、急激な人口増加に起因する。

 では、人類はどうすれば、よいのだろうか。

 ひとりひとりの人間が、環境を汚染する物質をできるかぎり出さ
ないようにすること、化石燃料をできるだけ使わないようにするこ
と、自然環境を換金することを禁止すること。

 生分解性ではない物質は製造しない、使わないこと。「燃えない
ごみ」が存在すること自体が間違いなのだ。羽のない人間が、飛行
機で空を飛んで移動することも間違いなのだ。もっとローカルな生
活圏の中で、経済が完結するように、人類文明のあり方を設計変更
しなければならない。

 やるべきことはいくらでもある。だが、どのようないい対策も、
人間が環境問題を現実のものとして理解していないかぎり、実行で
きない。

 人間は、無垢な状態で生まれてくるのであり、地球環境問題とい
う状況に対応する文化をもっていないことが問題なのだ。地球環境
問題は、生身の人間には実感できないところが問題なのだ。我欲が
あるために、やってはいけないといわれても、禁を犯してしまうの
だ。

 地球環境の危機を教育や宣伝によって無理やりにでもわからせる
こと。わからない人間がいても、絶対に環境悪化につながる行動を
取らせないために、厳重に処罰するシステムを作りだすこと。宗教
的規範に類した絶対的な規範によって、有無を言わせず、有害な行
動を抑制すること。

 求められているのは新たな文化の創出なのである。文明の暴走に
よって、20世紀後半以降、人類は未曾有の危機に直面している。
その危機に対応するための新しい文化が産み出され、全人類に規範
力を及ぼして行動を規制しなければならない。

 21世紀に、われわれは地球環境危機に対応する文化を身につけ
なければならないのだ。

得丸久文(2003.01.12)
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文化と地球環境危機(その2)

1 永平寺での参禅 「答はここにはありません」

富山に住んでいると、永平寺のある福井までJRの特急でなら1時間
ちょっとで行ける。私は、一昨年の夏、一泊二日の参篭を行い、昨
年2月には三泊四日の参禅を行った。

参禅研修の初日の夜、控え室で、老若男女17名の参禅者は、自己
紹介をすることになった。なぜ参禅するのかも言わなければならな
いという。私の自己紹介は以下のようなものだった。

ヨハネスブルグ環境サミットがあるというのに、世論はちっとも盛
り上がらず、準備会議の動向も、あやふやな状況だ。環境NGOや政府
のお役人たちの話を聞いても、具体的なことは起こりそうにない。
その一方で、温暖化、海洋汚染、生物種絶滅など、環境破壊はどん
どん進んでいる。このような状況において、どうすればいいのか何
かヒントが得られないかと思って、参禅することにした。

全員の自己紹介が終わると、雲水がきっぱりと言った。「環境問題
の答を求めてこられた方がおられるようですが、答はここにはあり
ません。」

その言葉を聞いたそのときは、ちょっとがっかりした。いくら修行
をしても、世界のことに通じてなければ、意味がないのではないか
と、おこがましくも思ったりした。

だが、実は答は用意されていたのである。

2 食事作法との格闘

参禅者たちが永平寺で過ごすのは、座禅の合間にくつろいだり、男
女別に雑魚寝する控えの間と、食事や座禅するための禅堂である。
ほかに、朝の勤行のときには法堂(はっとう)、食事をとりにいく
台所、浴場や東司(手洗い)に出入りする。

ちなみに、永平寺に到着するなり教えられる最初の注意は、三黙道
場である。禅堂、東司、浴場においては、絶対に話をしてはならな
いと教えられる。静かに自己と対面できる貴重な時間に、余計なこ
とを考えたり、無駄話をしたりすることがないようにとの配慮であ
ろう。

禅堂においては、めいめいに畳半畳ほどの場所が与えられ、そこで
一回40分の座禅を一日に何回か行う。通路に近い側は、板張りに
なっていて、そこは神聖であるために足をついてはならないことに
なっている。三度の食事はこの板張りの上で食べる。

食器は、応量器と呼ばれる四重に重ねられている黒い大小の鉢と、
箸、さじ、先端を布で包んでいるへらである。箸、さじ、へらは、
紙の袋に入れられて、食器拭きと鉢といっしょに、布巾に包まれて
いる。

食事のたびに、この食器の包みを、頭上に拝して禅堂に入り、まず
食器を畳の奥のほうにおき、お祈りを唱える。すると台拭き係りが
各畳を回って板張りのところを拭いてくれる。

それから包みを手前に引き寄せて布巾を解いて、食器を並べる作業
にとりかかる。

布巾を解いてから、箸の袋やふくさを手前に置き、それから四つの
鉢を並べる作業は、並べるだけでも作業数は60から70もあるの
だが、それらの順番と細かいやり方を覚えるのに大変苦労した。
ややこしいのは、朝、昼、晩で食事のメニューが違っているために
、食器の並べ方も微妙に違うのだ。

食器が並ぶと、ご飯、味噌汁、おかずの配膳が始まる。配膳を受け
るにも、作法がある。配膳が終わって、さらにお祈りを唱え、食べ
始める。途中で、ご飯と味噌汁のお代わりが配膳される。そのとき
の作法も、また、ある。

全員が食べ終わると、今度は、お湯が配られ、そのお湯とへらを使
って、使用したすべての食器を洗い、洗い終わったら、そのお湯の
一部も飲み干し、最後に食器拭きを使って食器を拭く。

それから、食器を重ねて、箸袋と食器拭きといっしょに、布巾に包
み込むのである。

なんと、食器洗剤も使わず、残飯も汚水もまったくといっていいほ
ど出さずに食事をしているのである。これ以上に環境に配慮した食
事作法は、ありえない。

そして、こと細かに規定されている食器の展開方法は、後片付けと
見事に対応しており、食後の包みは、食前と寸分たがわぬ状態にな
っている。見事だ。

3 地球環境危機に対応した文化創造の必要性

三泊四日の場合、初日の夕飯に始まって、四日目の朝食まで8回の
食事を、応量器を使っていただくことになっている。

最初は、何がなんだかわからなかった応量器作法であったが、さす
がに8回繰り返すと、だんだん間違えずに食器を展開できるように
なった。

どんな難しいことでも、何回も繰り返せば、覚えられないことはな
いのだということに気づかされた。

これが文化なのだと思う。どんなに難しい文化でも、根気よく、真
剣に植付ければ、人間をしつけることができる。

人間は、地球環境を破壊し、汚染する文明を作り上げてしまった。
文明の破壊力や汚染力を、押さえつけるための新しい文化が創造さ
れなければならない。

これが永平寺で学んだことであった。

化石燃料消費、毒性が強く容易に分解しない有機化学物質の製造と
使用、重金属や放射性物質の環境放出、森林の伐採、緑地を宅地開
発して販売すること、燃えないごみの大量投棄、、、。

現代文明において、環境に悪影響を与えている人間活動を列挙して
、それらがこれ以上環境に負荷を与えないように対策をたて、違反
をかたく取り締まる法規範を作り、それが実施されるよう厳しい取
り締まりが行われなければならないのだ。

夜影に隠れてごみを捨てる人を取り締まるのは難しいという人もい
るが、全員を取り締まれなくても、抜き打ち的に取り締まって、厳
罰に処しておれば、そのうちに誰も法に触れることはしなくなるだ
ろう。(酒気帯び運転の取り締まり強化と同じようなものだ)

21世紀の地球においては、環境危機を食い止めるための新しい文
化の創造と全人類への植付けが求められている。

得丸久文(2003.01.13)
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得丸@東京です。

夕べは、鷹揚の会という読書会で、西原克成著「内臓が生みだす心
」を読みました。著者に読書会のことをご連絡差し上げたところ、
読書会にも二次会にも参加くださり、久々にとても楽しい会でした。

さて、

言葉を使って行うコミュニケーションの難しさは、人によって、状
況によって、言葉に与えられる意味が違うということです。

言葉の意味はひとそれぞれ違いますし、同じ言葉でも話し手の表情
や声や置かれた状況によって違ってきます。

それでも、共通の定義を求めるのは、言葉によるコミュニケーショ
ンが大切であると思うから。

「文化」という言葉と、「文明」という言葉は、それこそたくさん
の定義があり、それ以上に無数の意味が人それぞれあります。

しかし、だからお互いに好きな意味を込めましょうといってしまう
と、語り合う意味がなくなります。

以下では、それぞれの言葉が実際にどのように使われているか、
どのように使い分けられているかということに注目して、定義(あ
るいはコミュニケーションが成り立つ最大公約数)を浮き彫りにし
てみようと試みます。

***** 文化と文明の帰納法的定義について *****

1 「文化」と「文明」はどのように使われているか

「文化」や「文明」は、いろいろな言葉と一体化して、言葉を構成
する。ふたつの言葉は、同じ意味だと口にする人もいるけれど、
実際には私たちは「文化」と「文明」をきちんと使い分けているこ
とが、複合語を列挙してみると、わかる。

まず、文化と複合語を構成しているものとしては、

1) 若者文化、町人文化、貴族文化、日本文化、民族文化、縄文
文化、、、など。
特定の世代や階級や言語集団や国民国家構成員の人集団をあらわす
言葉と複合し、その集団の生活スタイル(衣食住のあり方)、法規
範、娯楽文芸活動など、生活や意識のあり方を総合的・包括的に示
す。通常は集団ごとの2)のさまざまな文化を垂直的に包含して用
いられる。

2) 住文化、食文化、台所文化、政治文化、贈答文化、葬祭文化
、風呂文化、、、など。
人間活動の中のある特定の分野の活動のあり方、やり方や特徴を総
合的・包括的に示す。
ある集団の文化の構成要素として「日本人の食文化」、「縄文人の
葬祭文化」、「18世紀オランダの政治文化」といった使われ方が
される。
また、「世界の台所文化」というように、ある特定の分野や活動を
切り口にして、世界中のさまざまな人間集団のやり方やあり方を水
平的に概観することもできる。

3) 異文化、文化ショック、文化適応、文化革命、文化産業、
文化人、文化会館、文化財、、、など。
人間の精神活動・意識活動にかかわる現象を示す。
それらの言葉を簡単に言い換えると、たとえば、「異文化」とは「
言葉が通じない世界・相手」、「文化ショック」とは「生まれてこ
のかた想像したこともないような激しい驚き」、「文化適応」とは
「その環境になじむ」、「文化革命」とは「意識革命・意識改革」
のことをさす。

4) 文化鍋、文化住宅、サバの文化干し、
上記以外の範疇に入らないが、「文化」という言葉の魅力を装飾的
・販売促進的に利用したと思われる例がある。

つぎに文明と複合語を構成しているものとしては、

5) エジプト文明、ミケネ文明、黄河文明、江戸文明、現代文明
、地球文明、都市文明、古代文明、、、など。
ひとまとまりの時間(時代)や空間(地域)、あるいはその両方(
時空間)によって規定される人間活動の総体。

6) 巨石文明、家畜文明、石油文明、機械文明、自動車文明、消
費文明、大量消費文明、物質文明、、、など。
ある特定の技術や資源が利用できることが条件づけられた環境にお
ける人間活動の総体。


2 文化と文明を定義する

1) 文化と文明は入れ替え不可能

1に列挙した「文化」と「文明」の複合語において、文化を文明と
言い換えたり、文明を文化と言い換えることはできない。
可能な事例としては、「日本文化」と「日本文明」、「消費文化」
と「消費文明」などがありうるが、それぞれの言葉は違った意味を
もっていると考えられる。
すなわち「日本文化」は、「日本人の生活や意識のあり方」であり
、「日本文明」は「四季があり、海山に恵まれた日本列島という空
間で発展した人間の活動」という意味になる。
また、「消費文化」は「消費者の購買意識や動向」を問題にしてお
り、「消費文明」は「金さえ出せばなんでも買える環境、なにごと
も消費活動を通じてしか行われなくなった環境」をさす。
つまり、これらの文化と文明の両方の単語と結びついて複合語がで
きる場合も、それは文化と文明が入れ替えが可能なのではなく、ふ
たつの異なった意味の言葉を構成しているのである。

2) 文化と文明の人類的意味

では、ズバリ、「文化」と「文明」は、どのように定義することが
できるのだろうか。

やや大胆であるが、私は以下のように定義可能であると思う。

文化: 本能を欠損した動物であるヒトが、生命を維持したり、種
族を未来に残すために、産み出し、身に付け、伝える技。(人間と
いうハードウエアにとってのソフトウエア)

文明: 文化的共通性が認められるあるひとまとまりの時空間。文
化をもった人間集団の活動環境であり、活動の総体。

上記定義は、人類全体にとっての「文化」と「文明」の意味合いで
ある。

3) 文化と文明の個体にとっての意味

個別の人間にとっては、文化とは「自分の身につけ、次世代に伝え
る知恵」であり、芭蕉や世阿弥や千利休などの文化の創造者にとっ
ては、「創造するもの」という意味がある。
また、この場合に「文明」とは、「生あるいは生活を営む環境」と
いう意味になる。

3 文化と文明の相互作用

文化と文明の間には相互作用がはたらく。

・ 文明は文化の培養器。個人は社会に作られる。
・ 文明は文化の総和(シグマ関数)。個人の総体が社会。

・ 新しい文明の技術は、それ以前の文化を滅ぼすことがある。
・ 文化が滅びることによって、環境破壊が起きることもある。

・ 新たな環境=文明は、新たな文化を求める。
・ 文化が文明に対応しきれないと、病理現象(文明病)が生まれる。
・ 文化の伝承に失敗すると、子孫が滅び、結果的に文明が滅びる。

4 21世紀の文明と文化

21世紀においては、通信や運輸の発達や環境問題によって、21
世紀・地球文明という時空間して一括せざるをえない環境を私たち
は生きている。
また、従来の文化(祭礼、宗教、法規範、神話、言語、文芸、遊び
、闘技、衣食住、家族制度、国家制度)モジュールにはない、異文
化交流術と地球環境危機対応モジュールという、新しい文化モジュ
ールが新たに創造され、われわれの行動規範となる必要がある。

以上
得丸久文(2003.01.11)


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