歴史随想 明治大帝の歌 秋好 修 壬午の今年、ご生誕150年となる。 そのご趣味が短歌と旅と琵琶で、特にお歌は9万首を越える、とい う。まずは最初に大日本帝国に敬意を表してやって来た、大英帝国 の王子に乞われての御製-----。 ♪ 世を治め 人を恵まば 天地の ともに久しく あるべかりけり これは、エジンバラ公アルフレッド王子が「母君にお土産の一首を 」と頼んだもの。 王子の母はかの女王ヴィクトリアであります。 王子の来朝は1869 年といいますから、明治2年-----出来たばかりの極東の島帝国にい ち早く表敬訪問とは、さすが外交巧者の女王です。 むろん、サムライたちの革命ぶりを見て、日本人に尊敬の念を懐い たアーネスト・サトウなどからの報告による王室外交だったのでし ょう。 ♪ もののふの せめ戦いし 田原坂 松もおひ木に なりにけるかな 明治維新という革命から丁度10年後、旧薩摩藩士が反革命に立ち上 がった西南戦争。 革命政府軍つまり官軍はかつての同志:サツマハヤトを討伐するこ ととなる。その激戦地が田原坂だった。 明治3年の佩刀禁止令で、武士の魂である刀を禁じられて、九州武士 は方々で暴発したが、その総仕上げが西郷どんを担いだ隼人軍団だ った。西郷は朝鮮を隼人どもの死に場所と考え、征韓論を唱えたが 、大久保らに反対され下野しての反乱だった。 ♪ 若きよに おもひさだめし まごころは 年をふれども まよはざりけり ペリー訪日の1年前----1852年に生まれた大帝は幼名を祐宮(サチ ノミヤ)とされ、立太子されて睦仁(ムツヒト)殿下となる。 竜馬の活躍で薩長同盟が成った1866年に、攘夷論者だった父帝の 孝明天皇が崩御して践祚。 即位の礼では、先例を破られ大地球儀 を据えて、日本の国際化を目指された少年天皇であった----おん年 、14才の青春の気概だった。 ♪ よもの海 みなはらからと おもふ世に など波風の たちさわぐらむ 平和を願う大帝は日清・日露の戦争では、開戦には慎重だったが、 「許可した以上は、知らぬとは言わぬ。 開戦の責任は朕にある」 と、明言された。 清帝国もロシア帝国も大国で、必勝を確信できなかったのだ。 「眠れる獅子」といわれた清国と違い、ロシアは欧亜(ユーラシア )に跨る強大な白人帝国である。 日英同盟は結んでいたが、英軍の援助は仰がず、結局独力で陸戦 と海戦とを勝ち抜き、米国の調停で勝利のうちに矛を収めたのだっ た。アジアのほとんどが白人の支配に苦しんでいた帝国主義の時代 -----有色人種として初めて白人を打ち破ったのだった。今度はこっ ちに向ってくるだろう、と米国が警戒を始めたのも、この1905年か らである。 帝国政府が米国に追い詰められて、開戦に迷っている時、午前会議 で孫の昭和天皇が2度もこの歌を詠まれて、避戦を促されたことは よく知られている。 ドイツの勝利に期待した陸軍の主戦論に引きずられる形で、緒戦 の勝利をものにした海軍-----結局、先帝は海軍部と組んで国民を本 土決戦の一億玉砕から救ってくれたのだった。 ♪ おもふこと 思ふがままに いひてみむ 歌のしらべに なりもならずも 大帝の歌論である。 「思うがままに歌うことが大切で、技巧などは二の次なのだ」 と、いう短歌づくりの心得を詠まれている。 短歌、俳句のような定型詩もまた自由詩も、巧緻よりも詩情が第一 。まず「思うがままに、言ってみること」とは至言であります。 表現を妨げるのは(こんなことを言っては、こんなものを書いて は、笑われないだろうか)といった遠慮である。 書くことは、恥じをかくこと! と、開き直れば、人は書けるものだ。 元来、血の通った人というものは多感な生き物なのだから。 ♪ なの花や 月は東に 日は西に この俳句なども、見たまんま、である。 見たまま、感じたまま歌うこと、書くことから始まる-----。 ♪ なすことの なくて終らば 世に長き よはひをたもつ かひやなからむ 「よはひ」は齢、「かひ」は甲斐である。 言うまでもなく、「為すべきこともなく、 漫然と長生きするのは生き甲斐のないことだなア」と、歌っておら れる。このお歌が最後の作品らしい。 大帝は孫文が清帝国を倒した1912年の7月29日の夜、崩御された ----61才だった。ヤマト民族が非白人で初めて近代国家を建設し、 わずか30年ばかりで白人帝国のロシアと戦うほどになった時の元首 -----ゆえに大帝、と尊称してきた。 孝明帝の時には、陰で「玉を取られたら負けだ」などと、天皇を 革命の道具扱いした薩長の策士が藩閥首脳となったが----明治帝は 彼らに踊らされることがなく、革命を生き抜いた海千山千の伊藤博 文などは心底、若き帝を尊敬した。 乃木希典などは尊敬する余り、大喪の日には細君ともども殉死し てしまった。 明治時代には大帝のお誕生日は天長節として祝い、昭和に入って 明治節となった-----11月3日。 満州を占領し、朝鮮にまで魔手を伸ばしてきたロシアの野望を断 固として打ち砕いた偉大な大日本帝国。 その最高指導者:明治大帝こと天皇ムツヒトは18世紀に日本語学習 所を作り、カムチャッカまで領有したロシアのピュ―トル大帝や インドを領有したヴィクトリア女王などに並ぶ偉大な君主であった 、と言えよう。 なお、そのうえに歌人でもあり、彼らにはない詩情の持ち主:真の 文化人であった。帝国滅んだあとも、大帝を偲んで、その誕生日を 「文化の日」としたのは新日本の為政者の英知であったろうか。 「明治の精神は天皇に始まって、天皇に終ったような気がする」 と、明治の文豪:夏目漱石は"こころ"のなかに書いている。 また 、昭和の文豪:司馬遼太郎は"坂の上の雲"などで、好んで明治を描 き、「昭和はとても書く気になれない」と、軍部の横暴を憎んだ。 昭和は終わり、いま我々は平成の中に居る。 そして、明治の日英 同盟に似た日米同盟を堅持して、有色人種でただひとり、7大先進国 の一員となっている-----。 2002.12