1112.お経と憲法



お経と憲法

 文明の周辺に位置付けられている日本においては、お経とは「な
んだか意味がよくわからないもの」、「あえて意味を問わないもの
」の代名詞であった。

 海外からもたらされてものは、なんだかわからないけれどありが
たいと神棚に飾っておく。あえてそこに書かれていることの中味は
確かめない。日本国憲法もそのような扱われ方をしてきたのではな
いか。

1 色即是空
 10月に中国・寧波の天童寺を訪れたとき、お経は中国人にとっ
ては母国語で書かれた文章であるということに気づいた。お経が
チンプンカンプンなのは日本人にとってだけであって、中国人に
とってはそれほど縁遠いものではないのかもしれない。

 昨年、道元の著作をいつくか読み(「正法眼蔵随聞記」、「寺田
透訳 道元和尚広録」)、福井の永平寺、横浜の総持寺で参禅する
経験を得た。

 そのときに、般若心経の「色即是空」にいう空とは、時間、ある
いは時間の最小変化量冲ではないかと思った。 「色即是空、空即
是色」は、「空間は時間であり、時間は空間となる。」といった意
味になる。

 一般の般若心経の解説書においては、「空とは存在しないこと」
といった説明が多い。色即是空空即是色を「存在するものは、存在
しない。存在しないものが存在する」と説明されても、いまひとつ
ピンとこないと思っていた。どうしてみんなこんな説明を受け入れ
ることができるのだろうかと不思議な思いでいたのだ。

 今年になって、西原克成先生の「内臓が生みだす心」、「生物は
重力が進化させた」などの一連の著作を読んだところ、そこでは「
空とはエネルギー(生命エネルギー)」であると説明されていた。

 色即是空空即是色は、物質はエネルギーになり、エネルギーは物
質を生む、というエネルギー保存の法則になるのだという。大栗道
栄「願いがかなう般若心経」(講談社+α新書)でも、同じ説明が
されている。現役の和尚さんも西原説に従っているところがすごい。

 実際に空を生命エネルギーとしてとらえるこちらの説明のほうが
、すっきりとしていていい説明だと思う。私はこの明快な説明に出
会えたこと自体がうれしかったが、それ以上に、お経に具体的な意
味を求める人たちに出会ったことが、うれしかった。

 日本は、中国語のお経を海の向こうから輸入していたので、深く
意味を求めない体質ができているのではないか。それは現代におい
て、海外の思想の流行を表面的にだけ受け入れる体質として引き継
がれている。

 「まるでお経だ」とは、「なんだかさっぱり意味がわからない」
という意味で使われる。私たちは日々生活をしているときも、契約
書や請求書の中味を吟味することなく、めくら判を押すことが多い
。社会が安定しているときには、それで実害は多くないかもしれな
いが、社会構造や経済システムが変革しているときには、大きな
混乱を招きかねない。

2 日本国憲法を生きることはできるか
 輸入ものの思想や哲学が、しばしば流行り言葉や記号としての言
葉だけの流通にとどまり、それぞれの思想の中味や日本における
その思想の適用可能性といった具体論に立ち入らないのも、私たち
の海外の思想や哲学の受容の仕方が、お経にならっているからでは
ないか。日本国憲法をめぐる議論が、しばしば混迷し、不毛に終わ
ることのひとつの原因もこのあたりにある。

 日本国憲法を改憲する立場の人たちも、護憲する立場の人たちも
、そもそも日本国憲法とは何をせよと言っているのか、約100条
の条文には具体的にどんなことが書かれていて、それらのどこが妥
当で、どこが不適切なのかといった議論が行われてこなかったよう
に思う。

 護憲派であろうと改憲派であろうと、実際は似たような生活をし
ているわけで、日常生活のレベルに落とし込めば、考え方の違いは
ほとんどない。思想の違いを議論すること自体、意味がないのかも
しれない。

 たとえば日本国憲法を、具体的な日々の生活のレベルに落とし込
んで説明することはできるのだろうか。日本国憲法というコード(
法)を、抽象概念を排してできるだけ具体的な言葉で書き直すこと
はできるのだろうか。

 憲法条文の言葉にこだわるとか溺れるにも至らない。内容以前の
問題として、条文の言葉の意味を探らない、意味を求めないという
日本人の体質が、今日の憲法論議の不毛さ、政界や思想界の混迷を
いっそう深刻にしている気がする。

(得丸久文、2002.12.07)
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夢ひろがるまち大宮 市報おおみや No.1
得丸@東京です。

昨日、大宮のソニックシティーで開かれた「ヨハネスブルグサミッ
ト報告会イン埼玉」に参加するために大宮に行きました。
報告会は、参加者30名のうち主催者側が6,7人、主催者のひと
りが講義をしている日本工業大学の学生が「試験に出るから」と
なかば強制で参加していたのが15,6人、ほかに別の主催者の学
生・院生が2,3人と、一般の参加者は3,4人というさびしいも
のでした。

ヨハネスブルグサミットが惨憺たる結果であったこと、それに参加
したNGOが会計報告もまともにできないほどのひどい状況であること
も問題ですが、一般市民が地球環境問題に無関心であることも問題
かもしれません。

ソニックシティーの前でチラシを配っていたのでもらったら、浅山
さんが問題にしていた旧大宮市の区名問題でした。「夢ひろがるま
ち大宮 市報おおみやNo.1」というのを市民がばらまくのは何か変
だなと感じたのですが、そうか市名は「さいたま」だから市報おお
みやを市民が使っても問題にはならないのかと、後で納得。

「私たちの故郷はやっぱり大宮! 新しい「ふるさと」のおしつけ
はゴメンです」

「許せません! 住民無視の大宮4分割 旧大宮市はすべての地域
を『大宮区』に!」 というスローガン。

http://geocities.co.jp/WallStreet-Stock/9297/

市の名前なんて単なる概念。もっと大切なのは、そこがやすらぎを
与えてくれるか、緑豊かか、人々が助け合って生きているか、とい
ったことだと思うのですが。

大宮の区名問題を超えた、市民生活や環境に関する話に発展したり
すると面白いのだけど。

サミット報告会への参加者が3,4人というこだわりのない数字と
、区名へのこだわりのアンバランスをどう受け止めればいいのかな
と、思いました。


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