1091.異文化交流術 23



異文化交流術 23 聖地=銭湯で生まれた異文化摩擦

・ 聖地としての銭湯

 休日の午後、まだ日があるうちに近所の銭湯に行って、ゆっくり
と体を洗い、湯舟で体を暖める。紅葉が風に揺れ、はらはらと葉が
散っていく姿の見える露天風呂があれば最高だが、露天風呂でない
室内の、ごく普通の銭湯であっても体も心も暖まり休まることこの
うえない。

 お湯の中では、重力が陸上の6分の1しかかからないから、湯舟
につかっているだけで骨が休まる。直立二足歩行をしている人類に
とって、重力はけっこうな負担なのだ。

 重力だけのせいではない。銭湯という空間それ自体が不思議な力
をもっている。銭湯はまずなによりも暖かい。母の胎内のように私
たちを包み込む。にじり口から入る茶室の中では誰もが平等なよう
に、脱衣所で誰もが生まれたままの姿に戻り、何の飾りも肩書きも
ない文字どおり裸の存在になる。

 湯舟と洗い場には、水が流れる。私たちの体の70%は水である
。多くの滝が聖地であるように、水の流れには私たちを引き付ける
霊力が宿っている。

 そして水の音がある。そこでは、タイル張りの床と壁に反射する
音が、水蒸気によって少しばかりくぐもって独特の音響効果があら
われる。ザーとお湯をかぶる音、蛇口からジャーと洗面器にお湯を
注ぐ音。湯舟のジャグジーの泡の音。水音だけではない。
洗面器を床に置くときのカタン、カランコロンという音。人々の交
わす世間話、子供のはしゃぎ声、壁越しに女湯から「お父さん、も
うあがりますよ」と一声。ランダムなノイズが、私たちの心をやさ
しく包み込む。これも胎内にいたときの記憶だろうか。
 
 湯舟につかっている人、湯舟から上がる人。歩いている人。座っ
て体を洗っている人、せっけんを流している人。ランダムな動きを
、ぼーっと見ているだけで心がなごむ。

・ 言葉の通じない狼藉者=異文化

 「ああ、ここは天国だ、聖地だわい」とゆったりと銭湯の気分を
味わっているところへ、突如として理解不能なロシア語らしき言葉
をワイワイしゃべりながら五、六人の大男が入ってくる。

 おかげで異文化とは何かを実感できる。異文化とは、ひと言でい
うと、言葉が通じないことだ。

 正直にいおう。彼らは、その不可解な言語と銭湯の建物や湯舟の
間尺に合わない大きな図体だけで、秩序を乱している。

 それでも、少しでも周りの雰囲気を壊さないように、きちんと体
を洗ってから湯舟につかるとか、湯舟の中でジッとしているとか、
してくれればいい。それくらいの気づかい、心配りをするのが礼儀
ではなかろうか。

 だがその代わりに彼らは、異文化体験とは当然守られるべきルー
ルが通用しないことだと教えてくれる。次の瞬間、我々は思っても
みないような衝撃を受ける。

 なんと彼らは体中にせっけんを塗りたくったまま湯舟の中に飛び
込むのだ。そんなこと、暴走族であろうと殺人鬼であろうと、日本
人だったら絶対に絶対にしないことだ。これを異文化ショックと呼
ばずに、何と呼べばいいのだろう。

 続いて彼らは湯舟の中でウォッカの回し飲みをはじめてしまった
。僕たちだって温泉旅館の露天風呂でなら、軽く一杯飲むこともあ
る。だけど、町中の銭湯では、湯上がりにオロナミンCかコーヒー牛
乳を飲むものと相場は決まっている。信じられない!

 ああ、どうすればいいのだろう? 彼らを即刻たしなめる。番台
に言って注意してもらう。ロシア語が話せなければ、日本語で注意
すべきだ。湯舟は聖地なのだ。決してお湯を汚してはならない、
ここで酒を飲むことは禁止されている、周りの人たちのことも考え
ろと。

 狼藉者たちが現れたときに、その場にいた日本人が、きちんと対
応していれば、大きな問題に発展することはなかったのかもしれな
い。うるさい一言で、秩序が回復できていたかもしれない。

 それがないままに、ロシア人の入場を許していたがために日本人
客の客足が遠のいて廃業にいたった公衆浴場があったという。
そして、「外国人お断り」という看板を出して、人種差別で裁判に
訴えられ、つい最近敗訴した公衆浴場もあった。

・ 異文化の戸惑いを超えなければならない時代

 銭湯でおきた異文化摩擦。大都会では、銭湯はあらかた宅地かマ
ンションに場を譲り姿を消してしまったから、そして都会の人々は
自宅の小さな内湯に入るしかないから、事件が起きたのは、北海道
の小樽市でのこと。地図で確かめるまでもなく、彼の地はなるほど
ロシアに近い。

 11月13日付の毎日新聞の余録によれば、「『外国人』の入浴拒否
をめぐる損害賠償訴訟で北海道小樽市の入浴施設経営会社が敗訴し
た。人種差別とされた。(略)酒を飲んで騒いだりした(略)一部ロシ
ア人の入浴マナーの問題がなぜ『外国人』拒否になってしまったの
か」と問う。

 そして余録子は、日本で家探しをして苦労した韓国人の話も引き
合いに出しながら、小樽の銭湯で入浴を拒否されたロシア人の話を
「日本社会が共有する『外国人』への不寛容」と意味付け、「異質
な存在には誰もが戸惑う。だが、この戸惑いは超えなくてはならな
い。私たちの周りに『外国人』がふつうに生活する時代がもう来て
いる。」と結んでいる。

 国境なんて概念だけで実体はない。21世紀のグローバル社会、地
球環境危機の時代に、もはや鎖国は続けられない。モノや金だけで
はなく、情報も人も、病気も犯罪も汚染物質も、がんがん国境を超
える時代となった。国境なんて物理的には存在しないのだから、当
然である。

 そして、ちょっと周囲を見回すだけで、街で目にする外国人の数
は増えている。サービス業の接客係りや洗い場の仕事、道路工事現
場や運送助手など、生活の様々な局面で接する外国人も増えている
。見えないところにはもっとたくさん暮らしていることだろう。

 私たちの周りに外国人はふつうに生活しはじめている。いちいち
顔の色の違いや街角で耳にする外国語に驚いている時代ではない。
でも、どうすれば異質な文化への戸惑いを超えることができるのだ
ろう。

 それに銭湯の湯舟にせっけんを付けたまま飛び込むのは、ふつう
ですか。どう考えたってふつうじゃないでしょう。どうすりゃいい
んだ。余録子は問題は提示しれくれたものの、その答えは用意して
いない。無責任かも。彼もまだ回答を見つけていないのか。

 実は「外国人お断り」の張り紙を出して外国人にお引き取りいた
だくというのも、消極的な対応ではあるが、戸惑わないための防護
策であった。排他的な表現がよくなかったので問題化したが、これ
は一種の住み分けである。外国人の人は別の入浴施設に行って下さ
い、ここは地元の人たちがルールを守って静かに入浴するところで
すから、というわけだ。

 だから、仮に住み分けが行なわれていたとしても、しつけのよい
、マナーのよい外国人であったら、おそらく番台は受け入れてくれ
たかもしれない。そもそも「外国人」という概念も、ボーダーレス
時代においては、あまり意味のない無力な概念である。

・ 人種差別なんて持ち出すなよ

 裁判を起こした有道出人氏は、日本国籍に帰化しておられたそう
だ。彼がせっけんを付けたまま湯舟に飛び込むとは思えない。彼は
、入浴作法を守るから入れてくれと嘆願したのだろうか。それとも
、裁判をしたいがために相手が拒否することを期待していて、むし
ろ挑発的に振る舞ったのであろうか。

 番台の担当者の融通がよほどきかなさすぎたのだろうか。外見は
何であれ、帰化して日本人であれば、入浴を許可してもよかったで
はないか。よほど杓子定規にしかものを考えられない人間だったの
だろうか。

 裁判にして争うためには、損害賠償を請求することが必要だった
のかもしれないが、「『外国人お断り』は人種差別だ(だから金を払
え)」、と主張して争ったのは、ちょっと野暮というか野卑に感じる
。

 そのような論調で番台のおじさん(あるいはおばさん)に挑むの
は、文明の作法を知らない野蛮人で、暴力的、反文明的である。浴
場関係者や他の客の気持もちっとは考えてもらいたい。相手の気持
も考えずに、グローバル・スタンダードを押し付けてくるのは、心
無い。

 裁判の結果「外国人お断り」の張り紙がなくなっても、根本的な
異文化摩擦の問題は一向に解決しないのに。

・ 異文化と文明の関係

 文明とは、一定の時空間で営まれる人間の生活スタイルである、
と定義しよう。実際に、これまで文明を呼ぶときには、「古代エジ
プト」文明、「黄河」文明、「近代西洋」文明、「江戸徳川」文明
など、時間と空間によってそれを定義してきたのである。

 文明という空間の中に、人々が長い年月をかけて培ってきた知恵
や技があり、人間はそれを後天的に獲得する。そして、それが人か
ら人へと伝えられていく。これを文化と呼ぶ。

 歴史をマクロに眺めると、文明は時空間といえるが、生命の期間
が限られている個々の人間にとっては、文明とは生活環境そのもの
である。文化を身に付け、文化を伝える場として文明は存在する。

 本来は相手が異邦人であっても、同邦人であっても、社会に統合
力・社会化力(=文明力)があれば、きちんとその社会のルールを
教えて、社会の一員とすることはできる。異文化交流などと難しい
ことを考える必要はない。子供をしつけるように野蛮人を文明に取
り込めばよろしい。

 ただ、日本の場合には、地域ごとに四季折々にさまざまな行事や
祭りや共同作業があって、地域共同体内の関係が濃密であったもの
だから、外部から来た人間は、たとえ同じ日本語を話す人間であっ
たとしても、なかなか社会の中に溶け込むことができないでいた。
日本社会は、農耕社会の伝統があり、江戸時代の厳しい人口移動制
限の影響もあって、もともとあまり移動しない社会だった。

 京極純一氏によれば、日本の共同体には元来「拝外と排外」の習
慣があって、外から来る強い者は、あつくもてなして早々にお引き
取り願い、弱い者はまったく受け付けないで排除してきた。異質な
ものを排除する伝統は、社会の免疫システムであるので、日本社会
に限った話でもないだろう。そしてその習慣はそんなに簡単に変わ
るとは思えない。

 本来であれば、日本社会は、きちんとした礼儀作法によって運営
されていて、排除された新参者の中で、気力と実力のある者は礼儀
作法を学んで文明社会に入ればよかった。ところが最近はそれが通
用しないのだ。

・摩擦が顕在化していないのは、社会がバラバラで凝集していない
  ため

 問題をより複雑にするのは、日本の農耕社会も、濃密な地域社会
も、今やほとんど破壊されつくしていて、もはや社会として機能し
ていないのだ。日本人の多くが敗戦の心の傷から立ち直っていない
ことも大きい。さらに核家族化や生活スタイルの個人主義化によっ
て、家族すら機能していないのが昨今の日本である。

 テレビは双方向だったコミュニケーションを、一方的に宣伝に毒
されるか、せいぜい独り言を言うくらいに変えてしまい、インター
ネットや携帯電話やメールといったコミュニケーションツールは社
会生活をリアルなものからよりヴァーチャルなものへと転換してい
る。

 日本国内で現在起きている中高年の自殺や、若者の犯罪や引きこ
もりや無能化などの悲惨な社会現象も、日本社会それ自体の求心力
が弱まってきたことと無縁ではないだろう。このまま社会はどんど
んバラバラになり、一方で外国人や常識を身につけることのないま
ま大人になる国籍だけ日本人が増加する。社会性がなく、非常識な
日本人の増加のほうが、外国人よりよほど恐ろしい。

 このバラバラな希望のない社会を我々はどうすればいいのだろう
。ちりぢりばらばらにフラングメント化してしまった社会に、外国
人の文化を反転させるだけのパワーはない。日本人として生まれて
きた若者すら教育できていないのだから。

 小樽の異文化摩擦は銭湯で起きたが、いったいどれだけの銭湯が
残っているか考えてみるといい。本来であれば、銭湯のない街や、
銭湯の外の町内会や憩いの場でも、さまざまな異文化摩擦が起きて
しかるべきなのに、社会がスカスカで機能していないから、人間関
係が空洞化して希薄だから、摩擦が起きていないのだ。この点では
、張り紙を問題視して裁判を起こした人たちには感謝するべきだ。

 異文化摩擦は、文明の中に飛び込んできた少数の闖入者と、社会
を構成する多数者との、相互作用である。一方だけでは摩擦という
ものは絶対に生まれない。異文化の問題を考えることは、私たちの
社会をどのように構築するのかという問題と一体である。
(2002.11.22得丸久文)
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異文化交流術 24 異文化摩擦は回避できる

・ 聖地=温泉を満喫した外国人たち

「聖地=銭湯で生まれた異文化摩擦」を書き終わったあとで、近所
の銭湯の湯舟につかっていると、突然疑問がわいてきた。

「まてよ、どうしてロシア人船員たちは、せっけんの付いたままで
湯舟に飛び込み、僕が今までいっしょに日本で温泉に案内したロシ
ア人、アメリカ人、イギリス人、フランス人、インド人、デンマー
ク人、シンガポール人たちは、誰一人としてそんな狼藉を働かなか
ったのだろうか」

 ルース・ベネディクトが、「菊と刀」の中で日本人がゆっくりと
湯舟に漬かる様を描いているように、日本人は他の民族にくらべる
とことのほかお風呂が大好きな民族であるといえる。小樽で起きた
異文化摩擦は、まさに日本人の心の核心にせまる事件であった。
議論をもう少し続けよう。

 当然のことながら私も温泉や銭湯は大好きだ。だから、私は、日
本にやってきた取引先や友人と休みがとれれば、できるだけ温泉に
行くようにしている。箱根、伊豆、秋保温泉、東山温泉、、、。
そして、いざ温泉に行けば、国籍や民族に関わりなく、みんなが
みんな温泉を楽しむ。その証拠に、みんな夕食前、就寝前、そして
朝飯前の三度お風呂に入るのである。

 とくに露天風呂は格別だ。銭湯の聖地性は露天風呂に極まる。水
の流れと水の音、湯舟から外を仰ぎ見る視線、ランダムなノイズ、
ランダムな動きに加えて、露天風呂には、空(明るかろうと暗かろう
と)、様々な大きさと種類の木々、外気と風がある。
露天風呂の気持よさは、誰も否定できない。

 露天風呂の魅力は、言葉や生活経験の違いなどおかまいなく、
直接私たちの体と五官に訴えかけてくる。当然のことながら、私が
案内した外国人はみんな露天風呂が大好きだった。

 そして、私が温泉に案内した外国人の中で、一人としてせっけん
のまま湯舟に漬かろうとした人はいなかった。きちんとマナーを守
っていたので、周りの日本人が顔をしかめたことも一度としてなか
った。

 一度だけ、失敗に付き合った。インド人がまるでターバンのよう
にバスタオルを頭に巻いて湯舟に漬かったのだ。それ以外で、して
はいけないこと、普通日本人がしないことをした人間はいなかった。

 このインド人はぐしょぐしょに濡れたバスタオルを、一生懸命絞
ってから部屋に戻った。彼が偉いのは、そのあとすぐにフロントに
電話して、新しいバスタオルを部屋に持ってこさせたことだ。(実は
フロントに英語をしゃべる人がいなかったので、たまたまフロント
近くにいた私がその電話を受けたのだった。)そして二度目からは
バスタオルは脱衣所において、手ぬぐいだけで洗い場に向かったこ
と。実に学習能力の高い人間であった。

 ではどうして私の友人たちは、きちんと入浴マナーを守れたか。
それは事前にどのように入浴すればいいかという作法を私が教えて
いたからだ。さすがにバスタオルを頭に巻いて湯舟には入るもので
はないという注意は怠ったが。

 マナーを教えたか、教えなかったか、ただそれだけの違いで、
かたや温泉を満喫し、かたや周囲の日本人から総スカンを食らい、
今後一切の外国人は入浴禁止という処置を招いてしまった。

・ とりあえず基本ルールを伝えればいい

 異文化摩擦は事前に回避できる。日本語が理解できない人間であ
っても、風呂の入り方さえきちんと教えれば、周囲に迷惑をかけず
に入浴できるのだ。

 脱衣所で服を脱いだら、小さいタオルだけ持って洗い場に行って
ください。後からまだ何人もの人が同じ湯舟のお湯をつかいますし
、日本人は湯舟のお湯を神聖視していますから、けっして汚さない
ように、せっけんがついたまま湯舟に入ったりしないように、注意
してください。

 たったこれだけ言ってあげればいいのだ。有道さんには、おとり
捜査のようにして相手をひっかけて裁判で闘うよりは、むしろロシ
ア人船員たちに入浴マナーを教えるボランティアでも組織してもら
いたかった。

 いや、こういうことを考えるきっかけを作ってくれたことだけで
も、有道さんたちには感謝すべきだ。これからは彼らといっしょに
この日本社会をよくしていくのが、僕たちの責務なのだと思う。
(2002.11.22 得丸久文)

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