1041.異文化交流術



ヨハネスブルグ・サミットのおかげでしばらく中断していた異文化
交流術を、再開したい。まずは、その必要性について考えてみよう。

異文化交流術21

異文化交流術の必要性

・ グローバリゼーションの第三段階
 ヨハネスブルグで余った時間と、帰りの飛行機の乗り継ぎの時間
を利用して、島崎藤村の「夜明け前」を読破して、今の時代はグロ
ーバリゼーションの第三段階にあたるのではないかと思った。

 第一段階は、この小説の舞台となった時期。つまり200年以上に
わたる鎖国を解かれ、開国を迫られた江戸末期から明治維新前後。
第二段階は、この小説が執筆された昭和初期。満州国成立のあと、
国際的に孤立して戦争に破れ、アメリカによる占領を受けた時期。

 今が第三段階というのは、流通輸送システムが発達して、それま
では原材料や工業製品が中心であった貿易品の中に生鮮食料品が含
まれはじめ、新鮮野菜や魚肉類をはじめとする世界の物資が日本に
送られてくるようになったこと。また、世界的にみても人口の国際
移動が増加し、日本の中にも出稼ぎや国際結婚によって外国人が多
数住むようになったこと。

 さらに、ついにウォルフレンら欧米知識人が、日本国内限りの
経営システムとしてこっそり生き延びてきた「ケーレツ」や「護送
船団方式」の存在に気づき、それらのメカニズムが槍玉にあげられ
解体されて、会社や個人が国際化の荒波にさらされるようになった
こと。

 なぜ、グローバルスタンダードという名の弱肉強食が押し付けら
れなければならないのか、という疑問は残るが、いずれにせよ、押
し切られてしまった感がある。

・ 異文化の遍在性 : 異文化はどこにでもある
 このような時代には、当然、外国に出かける日本人も増えている
。短期、長期で住み着く人も増えている。彼らが、少しでも、短い
時間で、楽に、異文化と馴染むための指南書が必要だ。

 また、人口移動が少ない時代に異文化は、外国に行ってはじめて
出会うものであったが、今や下手をすると隣人が外国人という時代
になった。もちろん、同じ日本人同士でも近所付き合いが減ってい
るご時世に、積極的に外国人と付き合う人もいないだろうが、いざ
という時になって、コミュニケーションが通じなかったり、誤解が
生まれて大事に至るということのないように、普段から気を付けて
おくべきだろう。

 異文化経験を語る本は、ほとんどが個人の体験談であり、一般化
して、どこの国でも使えるようになっているものは、少ない。それ
に、そもそも、文化とは何かというところの議論が不十分だから、
異文化というタイトルが付いていたとしても、それがどこまで個々
の人間の参考になるものかわからない。

 はじめて異文化の中で暮らす人間やそれまで異文化というものに
出会ったことのない人間が、参考にしうる一般解説書が必要である
。

・ 人間というハードウエアにインストールするソフトウエアとし
    ての文化
 得丸流異文化交流術では、ひとりひとりの人間を一台一台のパソ
コン・ハードウエアとしてとらえ、文化はそのハードウエア上に構
築するソフトウエア体系として考える。

 もちろんソフトウエアといっても、マシン語、OS,  アプリケー
ションといろいろあり、アプリケーションの中にも、言語表現、冠
婚葬祭の儀礼、衣食住、遊びなどの種類がある。文化とは、それく
らい多岐にわたっていて、多様なのである。

 OSを複数インストールしておれば、必要に応じてOSを切り替えて
使うことができる。あるいは、世の中にはOSが複数あるということ
を知っているだけで、他のOS上で読み取り可能なファイル形式であ
るかどうかという配慮することができる。

 文化とは、人間だけが身につけるものである。文化は本能と違っ
て、後天的に獲得される。これを身に付けてはじめて一人前の人間
として振る舞うことができる。文化が身に付いてないと、半人前あ
るいは動物以下となる。最近の青少年犯罪、いや青少年に限らず残
忍でおぞましい犯罪が増加しているが、これは文化の習得が不十分
な人たちによると考えることができる。

 実際、21世紀は、文化習得がより難しい時代になった。異文化の
みならず、自文化の習得もおぼつかないことがある。文化を習得で
きなかった人間が、そのことに気づいたときに、どうすれば自力で
文化を身につけやすいかということも議論したい。

・ 個体の上にインストールする文化と、リソースとしての文化
 文化を論じるときに、よく混同するのは、個々の人間が身につけ
るという次元の話と、たとえば日本語、華道、合気道、料理といっ
た文化のカテゴリーあるいはリソースである。

 俳句という文芸はひとつの文化といえる。もともとは連歌に端を
発したものを、松尾芭蕉が独立した文芸にまで高めた。しかし、
それを具体的に誰かが嗜む、楽しむ、上達するというのは、また別
の話である。

 これもソフトウエアのアナロジーで、マイクロソフトのワードと
いう商標のワードプロセッサのソフトウエアの開発やサポートと、
個々のユーザーがそのソフトウエアをパソコンにインストールする
かどうかの問題と考えるといい。

 文化ジャンル、文化カテゴリーとして存在することと、個人が
その文化を実践することは、まったく別問題である。この点をよく
よくわきまえておかないと、議論が混乱する。

・ 文化という誤解をまき散らす概念
 文化は、実体のない概念である。「ほらほら、これを見て」とい
うように人に示すことができない。だから、同じ文化という言葉を
使っていても、まったく違った意味に使われている場合がある。
あるいは、本来それは文化現象や文化行為ではないのに、文化とい
う言葉が使われている場合もある。

 私なりの文化の定義をきっちり行ない、その定義から外れるもの
は、どう外れるのかも、別途提示したい。

・ ハウツー異文化交流
 異文化交流術は、異文化と交流し、自文化を広げるためのハウツ
ー本をめざす。

「論語」に「生まれながらにしてこれを知る者は上なり。学んでこ
れを知る者は次なり。困(くるし)んでこれを学ぶは、又た其の次な
り。困んで学ばず、ここに於いて下と為す。」(429)とある。

 異文化は我々の常識の盲点に存在するものだ。それを生まれなが
らにして知るものは、ほとんどいない。学ぼうとしても、学べるも
のでもない。私の場合は、苦しんで、悩んで、やっとわずかながら
、その存在を探り当てたといえるほどだ。

 私の探り当てたことを、伝えることによって、読者が少しでも無
駄な時間や費用をかけずに異文化交流のコツを学べることを願う。
わずかでも、得したという気分になってもらえれば、本望である。

 孔子ですら、「我は生まれながらにしてこれを知る者に非ず。古
を好み、敏にして以てこれを求めし者なり」といっている。まずは
、虚心に読んでみて下さい。
(得丸2002.09.29)
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得丸です。

異文化交流術22 文化を伝える をお届けします。

異文化交流術 22 文化を伝える
・ しつける人がいるから、しつけられる
 身が美しいと書いて、躾(しつけ)という字になる。この漢字に
めったに出会わなくなった。
 最近の若者はしつけがなっていない、などという台詞すら、もは
や聞かれなくなった。しつけは死語化したと言えようか。
 しかし、あえて言いたい。しつけがなっていないのは、しつける
大人や親の責任であって、しつけられる子供や若者の側は受け身で
しかない、ということを。

 いつのころから躾がすたれたかと思い起こせば、日本の近現代史
においては、やはり敗戦がひとつの大きな契機であった。
 それまでの価値観がことごとく否定され、教科書が墨塗りされる
という象徴的事件によって、子供心に深い傷がつけられた。終戦当
時小学生であった子たちが戦後民主主義第一世代であり、この子た
ちの時代から躾は衰え、途絶えはじめたといっていい。
 もちろん、古い時代を生きた親たちの中には、どんなに世界観が
ひっくりかえっても、きちんと子供らをしつけた人たちはいた。
問題は、戦後民主主義世代が、しつけをしなくなったことだ。彼ら
が親になり、祖父母になった三世代の間に、日本のしつけは滅びた
のではないか。
 (こういう私も、きちんとしつけられた記憶がない。もちろん本人
の問題でもあるのだろうが)

 しつけは、文化である。身の処し方、日常生活のあり方、礼儀作法
。自分の身体をどのように動かすか、自分の行動をどのように律す
るかのプログラムが、基本OSかマシン語のプログラムのように、
意識的無意識的に身体にすりこまれる。
 躾がなされていない人間は、ある意味で、基本ソフトが欠落してい
るパソコンのようなもので、不安定になるのだ。

・ お前の好きな生き方をしなさいという無責任
 教科書黒塗りを経験した世代、つまり終戦直後に小中学生だった
人たちが戦後民主主義の第一世代だとすれば、戦後生まれたベビー
ブーマーたちは、戦後民主主義第二世代といえよう。
 人口ピラミッドにも顕著な団塊の世代は、親になっても、実にも
のわかりがいいことをいう。「お前の好きなように生きろ」と、一
見子供の自由意志を尊重するかのような発言を行なう。
 でも、実際には、彼らは無責任なだけではないか。
 きちんとしたしつけを受けていない彼らは、自分たちが子供を
しつける責任があるという自覚にも乏しい。また、子供たちに、
このように生きろと、だまって自分の背中を見せるほどの気骨のあ
る生き方をしているわけでもない。
 「お前の好きな人生を歩め」と言われた子供たちが哀れである。
人間として最低限これだけは守っておかなければならないルールや
常識も与えられることなく、自由の大切さだけを教わった子供は苦
労することになる。
 孔子のいうように、「困しんでこれを学」べばよい。だが、困し
んで学ばなかったら、悲劇である。

 「人の迷惑にならないように生きなさい」というのは、実に消極
的、非生産的な生き方だ。人の役に立つわけでもなく、人に頼られ
るわけでもなく、邪魔にならないでいなさいなんて、、、、。
 それに、顔が広く、様々な人と付き合って世間が広い人ならば、
「人の迷惑にならない」ように配慮する必要もあるだろうが、人付
き合いも親戚付き合いも近所付き合いもどんどん切り捨てて、引き
こもって生活する人間にとっては、出会う人出会う人すべて「赤の
他人」ということになり、何をやっても人に迷惑をかけることにな
らない。日本では「人」とは、他人様のことであるからだ。他所も
のや赤の他人は、古くから「旅の恥は掻き捨て」と諺にもいわれて
きた。
 引きこもってビデオゲームやパソコンばかりやっている人が増え
た今日、「人の迷惑にならない生き方」とは、誰も見ていない孤独
な空間で、欲望のおもむくままに生きることを意味する。あなおそ
ろしや。

・ 伝えるべきものとしての文化
 文化とは、習うもの、身につけるものであるが、人間の寿命に限
りがあることから、同時にそれは、教えるもの、伝えるもの、しつ
けるものでなければならない。そうでなければ、文化なき世代とい
うものが生まれることになるからだ。

 習ったら、教えることで、お返しをしなければならない。それが
文化だ。

 最近では、生涯学習ということが言われるが、これなども、学び
習う局面ばかりが注目されていて、教え導く面が軽視されているの
で、片手落ちである。
 文化センターやカルチャースクールなども、一方的に習いつづけ
る人々を前提にしているきらいがある。これらはとくに文化を消費
財のようにあつかっているため、習った人が教えるという文化の
循環型社会をめざしにくいところがある。
 もちろん、何かを習うため、身につけるためには、それなりの時
間と費用が必要となることは間違いない。ただ、なにかひとつ学ぶ
以上は、できればその道を極めて、いつか人に教えるほどになるこ
とを目指すべきだ。そうでなければ、いつまでも、一方的に学んで
いるだけの「文化の消費者」から抜けきれないもどかしさを感じ続
けるだろう。

 伝える人、教える人が育たなければ、文化は途絶える。このダイ
ナミズムを、よく肝に銘じておかなければならない。
(2002.10.05)
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僕も画像処理の仕事をしているけど、けっこう難しいのです。
気軽にガン告知をする医者たちは、まったく無責任ですね。
相手の気持ちを感じられない、思いやれないのでしょうか。

国際戦略とはあまり関係ないけど、同様に情報判断を誤っている人
は多いと思います。
人工衛星の画像が手元にあっても、正しい判断ができなければ、無
用の長物どころか、百害あって一利なし、きちがいに刃物、杞憂、
心配事の種が増えるだけです。

そんな間違った判断をするくらいなら、偵察衛星も、CTスキャン
もないほうがいい。

得丸


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