1020.国際状況の概観(山岡)



件名:インド、パキスタンの情勢  
 ▲インド
1999年10月に発足したインド人民党(BJP)を中核とする連立政権
は、 BJP自身が穏健路線へと傾きつつあり、一応安定多数を確保し
ています。

2000年8月の党大会で、 90年代前半までのヒンドゥー色の強い右
派政党からの脱却を図り、 より穏健な政党とのイメージを作り上
げようとしました。 政権党として、地域、社会階層、異なる宗教
集団から まんべんなく支持を集めるためには穏健路線をとらざる
を得ないのでしょう。

しかし、インドのナショナリズムは、強いインドを目指して これ
までにないほどに高まっています。 目下の標的はパキスタンで、
その敵に対して国民が一致団結して当たろうということです。

2000年1月にカシミール州政権を担当する民族協議会(NC)が 「
州自治委員会報告」を中央政府に提出しました。 内容は国防、外
交、通信を除く事項を州の管轄とするというもので、 同州への
大幅な自治権付与を要求するものです。

これに対して州議会の野党やムスリム・グループはそれぞれ別の理
由で反対しましたが、州の自治権拡大については前向きの姿勢をみ
せました。

また、カシミール州内の23のムスリム・グループからなる政治組
織、 全党自由会議(APHC)が立場を軟化させました。 政府も2月
以降にこの組織の活動家を次々と釈放しました。

7月24日には、パキスタン併合派の最強武装グループ、 ヒズブル・
ムジャヒディンのダール司令官が、インド政府と話し合う用意があ
るとして、 インド治安部隊に対して翌日から三ヶ月の停戦を宣言し
、 政府側にも停戦に応じるよう求めました。

パキスタンをいれた三者会談を要求するヒズブルと、 あくまでイン
ド憲法の枠内での二者会談を条件とする政府が入口で対立したため
、 会談は決裂、停戦二週間で戦闘は再開されました。 
しかし1989年にカシミール問題が再燃して以来、 インド政府が過激
派グループとの話し合いに応じたのは初めてであり、 新たな動きと
して注目されます。

 ▲パキスタン
ムシャラフ軍政下のパキスタンでは、 軍事政権が民主化の第一歩と
位置づける地方自治体選挙が予定どおり 2000年12月31日から、全国
106の行政区のうち18地区をかわきりに開始されました。 選挙は非
政党ベースで行われ、女性、労働者、農民、少数派などに 議席が割
り当てられます。 

地方自治体選挙が予定どおり開始されたことや 2002年10月を民政移
管の最終期限として確認したこと、 インドとの対話再開への努力を
続けていること、 アジア各国との積極的な外交活動の展開など、 
軍事政権といえども民主化への意思が明確にあることを表明してい
ます。また、投資や旅行の促進のためのビザ緩和も実施しました。

2000年8月にタラル大統領が、 議員資格を失った者や有罪判決を受
けた者が政党を率いることを禁止する大統領令を出したことにより
、 パキスタン・ムスリム連盟(PML)党首のシャリフ前首相と、 パ
キスタン人民党(PPP)党首のブット元首相は、 ともに党首の資格
を失いました。

民政移管といっても、受け皿となる政党が指導者を失い、組織も壊
滅状態で、 その行方には不安材料が多いのは事実です。

2001年6月20日ムシャラフ行政長官は、突如タラル大統領を解任し
、 自ら大統領に就任しました。 また地方自治体選挙が進むなかで
、軍事クーデター以降、休止状態になっていた 下院と四つの州議会
を正式に解散しました。

8月14日の独立記念日に発表された民政復帰への具体的プロセスは
、 2002年10月に総選挙、11月に国会召集、続いて連邦レベルの権力
を民政に移管、 という内容です。
Kenzo Yamaoka
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件名:環境は人を造らない  
シンガポールの始まりは、トーマス・S・ラッフルズがここに上陸
したときだとこの国の歴史書は書いている。米国でいえばピルグリ
ム・ファーザーみたいな書き方で、英国統治を懐かしむ李光耀(リ
ー・クアンユー)も折に触れ、そう誇らしげに語る。 
 偉大な始祖にちなんで、だからここのホテルも沖の灯台もラッフ
ルズの名が冠され、通りやビルの名には彼のファーストネームや
ミドルネームがこれでもかというほど使われる。 

 よその国のこととはいえ、こういう植民地主義者をそこまであり
がたがるのはちょっと妙な気がする。だいたい、この島には結構い
ろんな人物が行き来している。 

 日本からは九世紀に高岳(たかおか)皇子が訪れ、この地で病を
得て亡くなった。皇子は藤原薬子の変にかかわって俗世を捨て、
天竺に向かう途中だった。 

 それでも李光耀がラッフルズにこだわるのは、別の政治的な意味
合いがあるといわれる。

 シンガポールは戦後、英国植民地からマレーシアの一州として独
立する。しかし、地元マレー人にしてみれば、華人は英国人と同じ
にマレー人を搾取する側に立っていた。両者がうまくいくわけもな
く一九六五年、李光耀ら華人はシンガポールに拠って新国家をつく
ることになる。 

 李は二つの政策を打ち出す。一つは「公用語は英語、国歌はマレ
ー語、休日はイスラム、キリスト、仏教の祭日」という無国籍風国
家の建設だった。「マレー人の海に浮かぶ中国人の島」というイメ
ージを拭い去るためだ。国の始祖もそうなるとラッフルズの方が都
合よかったのだろう。 

 そしてもう一つが「英国の国際感覚と日本の企業精神と儒教の心
とジャワの礼儀」をもった「シンガポール人」の育成だった。 

 そのころのシンガポールの印象をいうと、路地のうす暗がりに
娼婦が立ち、足元はまるでアンツーカー敷きのように赤かった。 

 檳榔樹の実に生石灰をはさみ甘草で巻く。ある種の興奮剤で、噛
んで、赤いつばを吐く。それで道が染め上げられていたのだ。 

 そして屋台の食い物屋。香辛料と油のこげたにおいが悪徳と退廃
を包みあげていた。 

 それを李光耀はやめさせた。街路を整え、貧民街を取り払い、
屋台は街角に専用ビルを作ってそこに収容した。マナーを守らせる
ためにつばを吐けば罰金、ゴミを捨てても罰金を科した。 

 街がきれいになると、さらなる国際人のマナーが課せられた。禁
煙である。役所もレストランもオフィスも禁煙になった。日本人が
深夜、オフィスでこっそりたばこを吸い、密告されて十二万円の罰
金を食ったなんて話もあった。まさに「ホワット・ア・ファイン(
罰金の意)・シティ」だった。 

 そして九〇年代、美しくなった街並みを、自信に満ちた市民が携
帯を耳に英語でまくしたてる時代がやってきた。 

 国民一人当たりのGNPも米国をしのいで三万ドルを超え、「
もはや日本から学ぶことはない」と政府高官が胸を張った。 

 世界一のシンガポール航空が世界に先駆け、国際線をすべて禁煙
にしたのもこのころだった。 

 妙な話を聞いたのはそのころだった。新生シンガポールを象徴す
る高層コンドミニアムのエレベーターが大小の用で汚される事件が
しょっちゅうだという。 

 シンガポール航空の子会社、シルクエア機がインドネシアで墜落
したのも同じころで、原因は羽田沖の日航機事故と同じ、「精神的
に疲れた操縦士」のとっぴな行動だったという。 

 生活の隅々まで規律と罰金で縛られた「閉塞感と疲労感がこうい
うとっぴな行動を取らせる」という解説も聞いた。 

 同じころ、ロスのプラザホテルで不思議な光景を見た。これから
搭乗するシンガポール航空の更紗のスチュワーデスたちが盛大に
たばこをふかし出したのだ。それも三本、四本と立て続けに。 

 マナー最高、禁煙当たり前みたいに見える彼らもまた人の子だっ
たんだなあという感慨と同時に、あれではしばらくぼーっとして、
まともに行動できないのではという心配も心をかすめた。 

 世界一安全なはずのシンガポール航空機が台湾で大きな事故を起
こした。それだけでもびっくりだったが、助かった乗客の証言には
もっと驚かされた。「誘導もなく暗やみの中をもがいてやっと脱出
した。ずいぶん先まで逃げたら乗員たちがその先に何人もいた。
彼らはとっくに脱出してた」 

 事故原因はパイロットが滑走路を間違えたためという。乗客の誘
導がなかったのもあわせて、彼らもまた疲れていたのか、あるいは
搭乗前のたばこの吸い過ぎが影響したのか。優等生にしては少し不
出来な印象が残る。 

 唐突だが、わが編集局は今日かぎりで隣の新社屋に移る。 

 今度の職場はシンガポールの街並みみたいにきれいで、ここでは
コーヒーも出前も、ましてたばこも厳禁。仕事に打ち込める理想の
環境が待っている。エレベーターがいつまできれいか、ちょっと不
安が残るが…。 

産経新聞から抜粋
Kenzo Yamaoka
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愚直な日本とあこぎな米国 
産経新聞編集委員 高山 正之

歴史、とくに近代史を見ると、日本人というのは本当に愚直な、
それも「愚」にアクセントがくる印象を与える。 

例えば、数年の間隔で起きた日露戦争と米西戦争だ。二つの戦争の
動機は同じだった。日露戦争(1904年)は、日本の脇腹に位置
する朝鮮半島をロシアが取ろうとした。そんなところに掠奪と強姦
の代名詞みたいな連中が来た日には、日本の安全など消し飛んでし
まう。だから日本は「わが国の安全保障のために」宣戦布告して戦
った。 

一八九八年の米西戦争も同じように、北米大陸の脇腹にあるスペイ
ン領キューバが米国の不安材料だった。「いつか敵対国の手にわた
ったら」という危惧は、実際に六十年後、あのキューバ危機で現実
のものになったが、米国はそれを先読みして戦端を切った。ただ、
自国の安全保障という直截な言い方はしなかった。「植民地支配に
あえぐ人々の自立のために」、米市民が立ち上がった、と。 

このとき海軍次官だったのがセオドア・ルーズベルトだった。彼は
友人のアルフレッド・マハンの言葉を入れ、太平洋戦略の基地とし
てスペイン領フィリピンの奪取作戦も取り込んだ。そしてスペイン
に抵抗していたアギナルド将軍に、独立支援を餌にマニラ攻略の共
同戦線を張った。 

米西戦争はスペインがさっさと降伏して翌一八九九年には終わった
が、ロサンゼルスにあるこの戦争記念碑には「一九〇二年」とある
。これは、アメリカに裏切られて抵抗するアギナルド将軍とその一
派を、米軍が完全に掃討し終わった年を意味している。 

米上院へのレポートでは、サマール島で三十八人の米兵が殺された
報復に、この島とレイテ島の住民二万余人が虐殺されるなど、
二十万人が殺された。 

この中には拷問死も多く、アギナルド・シンパとされた市民が逮捕
され、「ウォーター・キュア(水療法)」の拷問を受けたと報告書は
伝える。これはあの魔女裁判と同じに数ガロンの水を飲ませ、それ
でも白状しないと「膨れた腹の上に尋問の米兵が飛びおりる。彼ら
は口から数フィートの水を吹き上げ、多くは内臓損傷で死んだ。」
(同報告書) 

そうやって平定したことを記念する前述の碑には、「植民地支配に
あえぐ人々に自由の手を差し伸べた米軍兵士たちに」と記す。 

よく言うぜ、と思う。だからあの国は力はあるけれど、いまだに
信頼感の低いままなのかもしれない。 

策士、ルーズベルトに踊らされた日本
さて、その策士、ルーズベルトが大統領になったとき、日露戦争が
起き、東洋の小さく貧しい日本が勝った。日本海海戦の勝利が伝わ
ると、ニューヨーク・タイムズは「制海権を握った日本はウラジオ
ストックを取って、この戦争を終わる。ロシアはシベリアの半分を
割譲するだろう」と伝えた。それぐらいが近代戦争の相場だった。 

しかし、その記事の出た翌日、ルーズベルトは日露講和の斡旋を名
乗り出る。そしてポーツマス条約にいたるが、彼はこの時期、フィ
リピン領有の次の太平洋戦略の手を打っていた。コロンビアの一州
を煽動して、反政府独立運動を起こさせる。彼はそれをキューバの
ときと同じように、「自由を求める人々に」手を差し伸べて独立支
援をする。独立した州に、米国はその返礼として運河用地の租借を
要求する。これが、大西洋艦隊が太平洋にすぐ回航できるためのパ
ナマ運河である。 

そして彼はもう一つ、大きな戦略プランを立てる。日本を仮想敵と
した「オレンジ作戦」である。 

そんな人物が、真剣に日本のためになる講和をやるだろうか。しか
し、日本は愚直にも彼の善意を信じた。その結果が、賠償金は一銭
もなし、領土割譲もシベリアなどとんでもない、わずかにロシアが
もっていた満州の権益だけに終わった。 

ドイツの駐北京大使の報告書がある。日露戦争のあと、中国は日本
の勝利を両国民が手をとって喜び合い、さらに多くの若者が日本に
留学している傾向を伝え、彼は、「中国の日本化が進めば欧米諸国
の権益がそこなわれる。英米共に協力して日本を抑え込むようにす
べきだ」と提案している。日本が中国と手を携えれば、、「大いな
る脅威」だと、古くはロシアのゴローブニンがいい、その後ムッソ
リーニも、スチムソンも言葉を変えていっている。 

中国領の満州を日本に与えれば将来どうなるかは、容易に想像がつ
く。事実、満州を巡る日中間のトラブルはそのわずか二十年後に火
を噴き、欧米の脅威だった「日・中が手を握れば」は夢と消えてし
まった。 

しかし、何度もいうように、日本はあまりにも真正直で、愚直だっ
た。この偉大なる策士の策を見抜けなかった。 

日中間の紛争は欧米の蒋介石支援という形で泥沼化し、そして真珠
湾、東南アジアへの戦火拡大へと進むが、これもルーズベルトの戦
略の最終ステージだとみればよい。 

問題はなぜ、欧米がここまでだまされやすい日本を煙たがるのか、
ということだ。 

他人をだます、"大義" ではなく、行動で示した日本の生き方
もちろん、その背景には白人キリスト教国家の世界支配にとって、
考えられる唯一の脅威だったこともある。 

実際、この小さく貧しい黄色人種は、植民地の住民の前で三百年も
君臨してきた白人を苦もなく追い散らし、白旗を掲げさせた。それ
は彼ら植民地の民に自立を促す大きな刺激となり、永遠と思われた
植民地帝国主義を「ある意味で慈悲深く速やかに終わらせて」(ク
リストファー・ソーン)しまった。 

しかし、最も重要なことは、例えば米国がフィリピンでやったよう
なまやかしを、あるいはアヘン禁止のハーグ条約を締結しながら、
英・仏などが「自国植民地では留保」をつけてベトナムで、マレー
半島でアヘンを住民に売りつける背信行為を、さらには「後進地域
の福利教育を促すのが神聖な使命」(国際連盟条約)と神の名までか
たって実際は愚民化政策と搾取を続ける非道を、日本は一切やらな
かったことにある。 

その真正直さゆえに、だから、日本がやってきたことは多くの被支
配国の人々を揺さぶれたのだと思う。東南アジア諸国が独立したの
も、前述したような日本兵士の強さに触発されただけでなく、それ
以上のものがあったことは、独立後に示した脅威の経済発展にもう
かがわれる。あるいは最近、解禁された米国公文書には、黒人民権
運動の底流が日露戦争によって生まれたことを示してもいる。 

日本と深くかかわった台湾の人が今、リップンチェンシン(日本精
神)こそ「上に媚びへつらい、下にいばり散らす偏狭な民族性と
カネしか信用しない中国人の悪性から台湾人を解放した」(蔡焜燦
氏)とも。 

米国は大声で「正義」を語る。自由のためにともいう。それが米国
の大義だと。それがどんなものかは歴史が証明している。しかし
日本は他人をだますための大義を口にはしなかった。行動で示して
きた。日本の生き方は今も歴史を動かしている。 
Kenzo Yamaoka
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件名:トルコと日本の共通点  
二次大戦後、日本が再び国際社会に出ていったのは、昭和三十九年
(一九六四年)の東京オリンピック以降といわれる。 
 それまでは、例えば「米国にいく」のも大仕事で、観光旅行なん
てトボけた渡航は認められず、学術研究とか公務でなければ旅券も
おりなかった。 

 ビザ取得も大変で、申請前にまず東京・福生の「海星病院」にい
く。ここでトラコーマなど眼病や結核にかかっていないか、回虫な
どの寄生虫をもっていないかの検査を受け、それを証明する診断書
をとって初めて米国大使館にビザ申請をしたものである。 

 しかし、関門はまだある。 

 羽田から飛行機に乗ってハワイに着くと、日本人だけは空港の
隔離施設に入れられる。
 ここで再び海星病院の診断書と持参した胸部レントゲン写真を提
出し、米国人医師の問診と診断を受ける。 

 審査をパスして次にやっとパスポート、ビザのチェックという
順番だった。 

 当時、日本では世界に誇る新幹線が走り出していた。名神に次い
で東名高速道路もできていた。学校の寄生虫検査もなくなり、結核
が国民病だったなんていうのも昔話になろうとしていたころだ。
まして渡航者は前述したように出稼ぎや季節労働者ではないことを
考えれば、こういう扱いは「ほとんど屈辱に感じた」と、米国国立
衛生研究所主任研究員も務めた畑中正一元京大教授はいう。 

 それでも米国がレントゲン写真付き入国を頑固に主張したのは
公衆衛生上の要請という建前もあるけれど、もう一つ「フランクリ
ン・ルーズベルトの遺言の実践」という見方もある。 

 この大統領は日本人に特別な見解をもっていた。「日本人が極東
で悪行を重ねるのは頭がい骨が未発達で白人に比べ二千年も遅れて
いる」ためで、日本に戦勝した暁には「日本人は元の四つの島に隔
離し、衰亡させるのがいい」(サー・ロナルド・キャンベル駐米英
公使の書簡)と考えていた。 

 だから敗戦後、海外に土着していた人々を含め、邦人のほとんど
が本土に引き揚げさせられた。隔離の第一段階である。 

 そして第二段階が事実上の渡航禁止で、以後、東京五輪までの
二十年間続けられた。 

 もっとも、ルーズベルトの思惑とは違って日本は滅びなかった。
逆にアジアで初めてオリンピックを開催し、一般の人の渡航の機会
も飛躍的に増えていった。 

 そうなればそうなったで、戦前のような大国にならないよう、
できうる限りの屈辱を与え、身の程を知らせてひれ伏させようと威
圧したのは当然の対応だったのかもしれない。
  
 面白いもので、本紙の古森義久北京総局長が、中国も今、ビザ発
給に当たって「日本人に対してコレラ、チフスから、肝炎、結核、
梅毒、エイズにいたるまで中国の指定した診療所で検査を受けるよ
う」条件を付けている(二十八日付本紙夕刊)という。 

 これもおそらく昔の米国と同じに、屈辱を与え、威圧し倒そうと
いうねらいかもしれない。 

 話をもどして、さてそういうわけで戦後、再び鎖国を強いられた
日本人はどうなったか。

 国際情勢にうとくなるのは当たり前として、もっと卑近な現象と
して「英語下手になった」と岸田秀・和光大教授はいう。 

 「日本は米国に二度レイプされた。一度は黒船と、そして今度の
敗戦」で、その結果、日本は前者によって開国を、後者によって
民主化を選択した。 

 しかし、これはうわべ(外的な自己)は自らの意思で選択したと
思い込もうとしても、意識の下の内的な自己は屈辱感としてうずき
、この二つが親米から反米までの振幅を生み出しているという。 

 そしてこれがそのまま「英語をしゃべる」という行為にも当ては
まるのではないかという。彼らの言葉を彼ら風に流暢にしゃべろう
としても、どうしても内的な自己の屈辱感が「心理的なブレーキを
かける」と。 

 もっとも明石家さんまの「からくりファニー・イングリッシュ」
をみると、そういう内的な屈辱感とは無縁そうな若者も結構、苦労
している。むしろ国際社会から隔離され、英語に接する機会が広げ
られなかった環境こそ英語下手の原因という見方もある。 

 しかし、例えばミャンマーをみると、この国は戦後の大半の時期
、ネ・ウイン首相の下で同じように鎖国をし、旧宗主国・英国を嫌
うあまり、ヤンゴン外国語大学ですら英語の科目がなかった。英語
を話す環境は日本より悪かったが、八〇年代後半に英語を解禁して
今は市場の売り子にいたるまで屈託なく英語をしゃべっている。 

 では、何が日本人を英語下手にしているのか。かつての強国、
トルコのH・ビナイ文部次官の言葉がヒントになるかもしれない。 

 トルコもまた「ほとんど日本と同じくらい英語に弱い。で、九三
年度から小学校でも英語教育を始めた」が、成果は上がらない。 

 で、英語の上手な近隣諸国とどう違うかを調査した結果、「弱い
国、つまり他国の支配が長いほど外国語には強くなる傾向がある」。 

 だから今は英語下手はむしろ誇らしいと理解しているのだと。 
  産経新聞から抜粋です。
Kenzo Yamaoka


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