984.ヨハネスブルグサミットについて



皆様、ごぶさたしております。  得丸

−1− 私とヨハネスブルグサミット

8月26日から南アフリカのヨハネスブルグで、「持続可能な開発の
ための地球サミット」が開かれます。

1972年のストックホルムでの国連人間環境会議、1992年のリオデジ
ャネイロでの国連・環境開発会議の続きとして、環境サミットの意
味をもつべき会議なのですが、まだその性格が色濃く出ているわけ
ではありません。

私は、大学時代以来の南アへの興味の延長で、このヨハネスブルグ
サミット提言フォーラムというNGOの一会員でしたが、ある事件を
きっかけとして現地ロジ担当幹事として深く関わるようになりまし
た。

そのあたりの経緯は、「ヨハネスブルグ・サミット提言フォーラム
準備ノート」で報告しておりますので、ご覧ください。
http://www.asahi-net.or.jp/~ug5m-ibsk/mlmem/jbmlindex.html
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/index-t.htm

−2− 水俣へのカンパのお願い
ロジ担当の立場で、日本からどのようなNGOが行くのだろうかと思っ
ていましたら、水俣病患者さんと支援者の方々が参加されることを
知りました。

水俣からは、1972年のストックホルム会議にも参加されており
、ストックホルム・アピールを出しておられます。
そのときは、どちらかというと、水俣の叫びを世界に発信したかた
ちでの参加でした。

今回は、30年たって、地球規模で進む海洋汚染への警鐘を鳴らす
という意味もあっての参加です。
詳しくは水俣病センター相思社のHPをご覧ください。
彼らがどれほど一生懸命にこのイベントに参加しているかがわかり
ます。

しかしながら、この相思社は、「直接収入に結びつく事業は少なく
、長い間行政と対峙してきたこともあり、公的な補助もなく、毎年
赤字に頭を悩ませながら、個人の方々からの寄付と自ら行う事業と
で、経営を続けて」おられます。

今回のサミットの参加も、環境事業団からの助成頼みだったのです
が、目標の3分の1も助成を受けられませんでした。にもかかわら
ず、「水俣には発信すべきことは多く、非常に意味のあることであ
り、お金がないからと言って縮小すべきではない。他の組織(具体
的には、ヨハネスブルグ・サミット提言フォーラム)の協力を得る
こともできるだろうから、まずはお金のことを考えずに、何をすべ
きか、何ができるかを追求するべきだ」という趣旨の助言をした人
がいて、今のところ財政的な裏付けのないままに企画が進んでいま
す。

皆様、ぜひ一度相思社のHPを訪問して、今回の準備の状況をご覧く
ださい。
また、今回のために新たに記事を集め、編集しているパンフレット
「水俣からのメッセージ」(栗原彬氏、吉井正純氏、緒方正人氏、
佐々木清登氏、杉本栄子さん、C.W.ニコル氏、土本典昭氏、
開田理巳子さん、原田正純氏、宇井純氏、ティモシ−・ジョージ氏
、カレン・コリガンさん、それに弘津敏男のメッセージを日本文と
英文で並記したもの)の作成状況をご覧ください。

水俣から世界へのメッセージにお目とおしいただき、もしできれば
、カンパを相思社に送ってください。よろしくお願いします。
いつも勝手なお願いばかりで申し訳ありません。
得丸久文

相思社のHP
http://www.fsinet.or.jp/~soshisha/index.htm
カンパの振込先
郵便振替 : 01990−8−25341 口座名「水俣病セン
ター相思社」
郵振用紙に「ヨハネスブルグ・カンパ」とご記入下さい。
==============================
ヨハネスブルグ・サミットに向けて 水俣からのメッセージ

得丸です。水俣病センター相思社の方が、ヨハネスブルグサミット
提言フォーラム幹事会のMLに流したメッセージが実に心を打つ内容
でしたので、お願いして内容を一部手直しして、国際戦略コラムMM
で紹介させていただくことにしました。

長いですが、ぜひともご一読ください。現代を生きるものとして、
知っておくべき内容だと思います。

(「2002ヨハネスブルグサミット提言フォーラム準備ノート」
もご覧ください。
http://www.asahi-net.or.jp/~ug5m-ibsk/mlmem/jbmlindex.html)

1 水俣病センター相思社 弘津敏男さんの呼びかけ文 その2から
(2002.08.06)

ストックホルムの第一回国連人間環境会議から30年の時が過ぎま
した。

ストックホルムの民間会議(今で言うNGO)へ、日本からは水俣
病患者、イタイイタイ病患者、カネミ油症患者の他、志布志湾の運
動をしておられる方たちが参加されました。

水俣病患者が参加したのは宇井純先生の要請だったそうです。
水俣病患者の浜本二徳さん、胎児性水俣病患者の坂本しのぶさん、
宇井先生、原田正純先生、映像作家の土本典昭さん、カメラマンの
塩田武史さんたちが参加されたました。

ストックホルム会議は1972年6月4日から2週間開催されまし
た。6月5日が日本デーでとされ、日本代表は会議の開催を記念し
て毎年6月5日からの1週間を「世界環境週間」とすることを提案
しました。
国連はそれを受けて、6月5日を「世界環境デー」と定めました。
日本でも、6月5日を「環境の日」と定め、その日から1週間を「
環境週間」、6月を「環境月間」と定めました。

この1972年6月5日に水俣病患者の浜本二徳さん、坂本しのぶ
さんのお母さんのフジエさんが世界中からストックホルムに集まっ
た方たちに訴えました。
大きなホールで話されたそうですが、ものすごく大きな反響があっ
たとのことです。
そのときの、浜本二徳さんの訴えの一部を引用します。

「今晩はみなさん、私はいま紹介にあずかりました二徳・浜元です
。私は19歳の時にこの水俣病になりました。というのも、チッソ
廃液による汚水におかされた魚をとってたべ、こういう体になりま
した。
 現在38歳です。それより先に両親とも僕が20歳のときに水俣
病になり、すでに命を奪われたので・・・あります。
 まだまだ自分だけでなく、自分の家族だけでなく、水俣にはいっ
ぱいこういう患者が、数え切れない程おります。現在、ここストッ
クホルムに来たのも人類の・・人類の生命を大切に・・してもらう
がためにやって参りました。
 (中略)
 私たちはこのように恐ろしい公害病、更に、本人をはじめとする
家族の苦しみ・・・多くの人にさせたくないと、その意味をもって
ここまできたのであります。どうかみなさんも公害に対する、さら
に人間の生命・・・生命がいかに尊いものであるかということを
非常に認識されたいと思います。
 (中略)
 この体は元にかえらず、死んだ生命は帰らず、そういうままに、
何で幸せと言えましょうか! みなさん! 世界のみなさんととも
に、全地球・・・この地球が・・・破壊されつつある地球をみなさ
んの手でともに、これ以上破壊されないように、やっていこうでは
ありませんか・・・運動していこうではありませんか!」
 会場からの拍手はいつまでも鳴りやまなかったそうです。
 
 その三日後、場所を中央広場に移し、水俣病センターの設立を訴
えるアピールを行いました。それに呼応し、スウェーデンの自然を
守る会の会長から7,000クローネ(約14万円)のカンパがあ
ったそうです。そのカンパを出発点として、その後全国のみなさま
から約3,300万円のカンパが寄せられ、1974年に水俣病セ
ンター相思社が設立されました。
 
 設立以来28年になりますが、相思社は患者運動を支えるために
チッソや行政との直接交渉を組織し、10以上の訴訟の事務局とし
て、また、数百に及ぶ人たちの行政不服審査請求のお手伝いをして
きました。
 
 相思社の資料室には訴訟関係だけでも約1000ファイル、1万
点以上の資料があります。患者個々のファイルも1000冊近くあ
るでしょう。それ以外の資料を加えると、8万点、あるいは10万
点にも及ぶかも知れません。それとは別に、水俣病間関連の新聞記
事資料も点数だけで言えば15万点を越えると思われます。

 現在、そういった資料を整理し、データベース化し、一般公開す
る準備を整えつつあります。今年中にはその第1段として約3万点
の「水俣病関連資料データベース」をインターネット上に公開する
予定です。
 
 1995年に水俣病未認定患者の補償問題に一応の区切りがつけ
られました。

 現在、相思社は「患者とのつき合い」「水俣病を伝える」「水俣
病の教訓を活かした地域づくり」を三本の柱として活動を続けてい
ます。その中でも特に力を入れているのは「水俣病を伝える」活動
です。
 
 ほとんどの方は信じられないかと思いますが、「水俣病とはどの
ような病気か」(水俣病病像論と呼んでいますが)、「水俣病患者
は何人いるのか」、「水俣病の被害はどの地域まで広がっているの
か」、「健康被害以外の被害はどのようなものがあり、今どのよう
な状況にあるのか」など、基本的なことでさえまだ確定していない
、明確になっていないのです。
 
 「水俣病事件でさえ」と私は思っています。相思社だけでさえ、
これだけの資料があるにも関わらず、です。

 水銀中毒事件だけをとってもカナダ、中国、ブラジル、フィリピ
ン、・・・等々報告があり、一定の調査、研究はなされてはいるも
のの、その被害の全貌、構造、等明らかになったものはありません
。他の公害事件しかり、薬害事件しかり、何もかもが明確にならな
いまま、多くの事件は記憶からも、記録からも忘れ去られようとし
ています。
 
 再度、水俣から訴えたいのです。
 水俣病は過去の事件ではなく、今も、今起きている事件、これか
ら起こるであろう事件の多くが水俣病と同じ根っこを持つことを。
 
 もし、様々な問題、課題を抱えている人たちが、水俣病事件を知
れば、深く知れば知るほど、自分の抱えている問題と共通の課題を
抱えていることを知るであろうと思っています。
 
 手前勝手な意見と思われる方もあろうかと思いますが、私は、
水俣病事件をそのようにとらえています。
 
 「助成金が申請額より少なかったから規模を縮小する」という
選択は現実的なものではありますが(事実、頭を抱え込み、そうす
るしかないと思った時期もありました)、できる限り、多くの人び
とに水俣病事件を伝えることは、水俣病に関わっている私の義務で
あり、人間としての義務であろうと思いなおし、ほぼ、最初の計画
通りに、事業を進めています。(2002.08.06)

2 水俣病センター相思社 弘津敏男さんの呼びかけ文 その1から
(2002.07.31)
1972年の第1回国連人間環境会議において、水俣病患者、研究
者がストックホルムにおもむき、「水俣アピール」を発表しました。

「水俣アピール」において、「水俣病センター」の設立を訴え、
その2年後に設立されたのが水俣病センター相思社です。

今回のヨハネスブルグサミットは水俣病事件を世界に訴えた、国連
人間環境会議から30年目の会議という事になります。

私たちは水俣病に関わり続けている者として、再度水俣からの訴え
=水俣病事件の事実を伝え、30年間の苦しみの歴史とその中から
得られた教訓(まだまだ十分なものではなく、教訓化の作業は今も
続いているのですが)を世界に向けて発信しようと、考えました。

相思社は水俣病患者運動の中で生まれ、患者運動を支えながら、
水俣病を伝えることを続けてきました。公益事業を目的としていま
すから、直接収入に結びつく事業は少なく、長い間行政と対峙して
きたこともあり、公的な補助もなく、毎年赤字に頭を悩ませながら
、個人の方々からの寄付と自ら行う事業とで、経営を続けています。

ヨハネスブルグに行こうにも資金の裏付けがあるわけではなく、
環境事業団の助成を申請するしか資金のメドがなかったのです。

1 患者や研究者にヨハネスブルグに行っていただき、経験してき
たこと、経験から得られた教訓、などを話していただく。
2 水俣病写真展、ビデオ上映会、パネル展などの開催。
3 水俣病関連書籍の販売
4 パンフレットの作成と配布
等を計画し、その費用として980万円を事業団に助成申請しまし
た。

申請自体は認められましたが、助成額は300万円で、大幅に計画
を縮小するしかないと頭を悩ませていました。

そんなとき、ある方から、「水俣には発信すべきことは多く、非常
に意味のあることであり、お金がないからと言って縮小すべきでは
ない。提言フォーラムの協力を得ることもできるだろうから、まず
はお金のことを考えずに、何をすべきか、何ができるかを追求する
べきだ」という趣旨の助言をいただきました。

その方の助言に従い、資金のメドはないまま当初の計画に沿って
目一杯なすべきこと、できることをしてきました。

正直に言いますが、私は水俣病以外のことはあまりわかりません。

ただ、17年あまり、水俣に住み、相思社の職員として活動を続け
てきて、水俣病事件が単に一地方に起きた公害事件ではないと確信
を持つようになりました。

例えば、水俣病は貧困と差別の問題でもあります。
産業構造の問題でもあります。
日本の近代化の根元を問う事件でもあります。
人間の生き方を考えさせる問題でもあります。
政治のあり方を問う事件でもあります。
教育を問う問題でもあります。

等々、あげれば切りのないくらいの切り口が水俣病事件にはあります。

ひとつの例として貧困と差別を切り口として、私なりの考えを延べ
させていただきます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
水俣病患者が差別されてきたことを知る人は多いと思いますが、実
は水俣病発生以前から差別があったことはあまり知られていません。

水俣の漁民は「天草流れ」として、被差別者であったといえます。
天草の島々は平地も少なく、海に囲まれていますから、当然漁業が
盛んなわけですが、次男坊、三男坊は島に住むには家を建てる土地
もなく、新しいすみかを求めて、水俣へ、熊本へ、福岡へと移住を
余儀なくされました。

水俣へ住み着いた漁民は旧住民やチッソの求心力によって集まった
住民とはほとんど交流もなく(今も普通の水俣市民は漁村には足を
踏み入れません)、そういった人たちから一段下に見られてきまし
た。(「天草流れ」という言葉自体にさげすみのニュアンスが感じ
られると思います)

漁村に水俣病が発生したとき、多くの水俣市民は「貧乏人が腐った
魚を食べたから変な病気になったのだ」と思い込みました(今も
そう思っている人がいます)。

水俣病患者(被害者)がチッソに補償を求めたとき、会社だけでな
く、一般住民も労働組合の人たちでさえ、相手にしませんでした。
それどころか、患者たちがやむにやまれずチッソを相手取って裁判
を起こしたとき、原告患者たちは地域から完全に疎外されました。
(例えばあいさつをしてもフンとそっぽを向かれるとか、近所で
結婚式があっても原告患者だけは声もかけられないとか、村八分以
上に差別されました)

苦しい裁判闘争に勝っても患者たちに安住の場は生まれませんでし
た。
水俣はチッソが存在することによって大きくなった町です。住民の
多くが(7割ともそれ以上ともいわれますが)チッソと直接、間接
的に結びついています。

患者たちが勝訴し、チッソが賠償金を支払うことになったとき、多
くの人びとは「水俣病患者のためにおらがチッソが苦しくなった」
と感じました。「自分たちが被害者で、患者たちが加害者だ」とい
う、普通では考えられない状況が生まれました。

しかし、このように感じたのは特別な人ではなく、ごく当たり前に
生活している人びとなのです。

もしかしたら、私が水俣の住民であったなら、同じ感覚を持ってい
たかも知れません。

明治の終わりにチッソが水俣にやってきて(これは先見の明があっ
た地元有志が誘致したのです)、水俣の「近代化」が始まりました
。水俣はチッソのおかげで「輝ける都市」となりました。
南九州で最も「豊かな」町となりました。住民たちはチッソを誇り
にしていました。(今もそういう人は多い)

「善意」の人びとが「努力」することによって、被害者が生まれ、
増え続け、被害者は「善意」の人びとから蔑まれ、「加害者」とし
て疎まれたのです。

水俣病患者の多くは「加害者」であることを恥じるかのように、
自らの病を隠し、患者であることを悟られまいとしました。(今も
9割以上の患者は患者であることを隠しています)

水俣病という病に苦しみ、もがき続ける中で自らの精神を昇華させ
た患者が生まれました。自らの身に降りかかった不幸を、不幸とし
てではなく、そのままに受け入れ、ある意味では「人間を超越した
」存在となりました。(もちろんごく少数の人びとですが)

彼らの発する言葉は聞く人びとの心の奥底にしみ込んでいきます。
(ある語り部患者は講話を終えるとエネルギーを使い果たしたよう
に寝込むこともあります)

頭だけで理解しようとしても理解できない部分があります。

「感じる」と言ったらよいでしょうか、「祈り」という言葉で表現
するしかないような部分もあります。

人間が近代合理主義の中で見失ってきたものを呼び覚ますと言えば
よいのでしょうか。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

水俣病事件はどのような切り口から入っても、深く考えさせられる
事件であると思っています。
どのような切り口から入っても、出口の見えない迷路のような問題
であろうと思います。

何をどのように伝えるのがベストなのか、私に確信があるわけでは
ありません。
ただ、今、できる限りの努力をするしかないと思っています。

水俣病問題は、水俣病問題に終わらず、あらゆる問題、課題に結び
つくであろうことをご理解いただきたいと思います。

そして、「水俣からの情報発信」、「水俣からのメッセージ」を
ヨハネスブルグ・サミットにおいて、世界に発信することの意味を
理解していただき、この活動にご支援をいただきたいと思います。

カンパの振込先
郵便振替 : 01990−8−25341 口座名「水俣病セン
ター相思社」
郵振用紙に「ヨハネスブルグ・カンパ」とご記入下さい。
==============================
相思社がまとめている「水俣から世界へのメッセージ」によせられ
た緒方正人さんの言葉です。

こういう「持続可能性」になら、私も同感します。

******************************
生命の記憶よ甦れ〜水俣から

水俣は、現代の世界に対して予言的な事件でした。欲望の20世紀
に動員された人間達は、その「病みし文明」による痛ましい姿とし
て水俣病を引き起こしてしまいました。

そして半世紀の今日、さまざまな環境破壊が地球全体で出現し、
人類のみならず生命世界総体の重大な危機に直面しています。
 
あるいは、私達はすでに誰しもが「その加害性と被害性」を持ち合
わせざるを得ない存在となっており、人間存在の根本問題として「
ひとり一人に問い返されている」のだと思います。
 
そこには、便利さ豊かさを求め続けた「経済開発、その様な近代化
」が欲望の価値構造として人々を支配してきたのではなかったでし
ょうか。また海山川の自然環境、そのいのちを、商品資源として市
場経済システムに組み込んできた。

その人間達はなおも「自らのいのちすらシステム社会の市場で流通
する商品としてしまったのです。
ここにおいて、悠久の遙かなる「生命の記憶(魂)を喪失し、人と
しての生命感覚すら失ってしまった」のです。もはや命の迷い子に
なった私達は、これまでの様な人間中心主義による浅智慧ではどう
にもなりません。

人類のこれからについて、それぞれの私達は生命世界に向き合い、
心から対話し、その有り様を尋ね聞かねばなりません。

近代化の歴史における罪深さを詫び入れし、大いなるいのちを祀り
(祭)、いのちの願いを我らが身体に記憶することを祈りの表現と
したいと思います。

それは、命の不思議な世界、その緑に還り「生かされて生きること
が出来る」存在の意味的な甦りへの道であろうと信じています。
 
そのことによってのみ、人類の存在が許されて持続可能であり、欲
望による開発や環境商品化による市場経済システム化であってはな
りません。

水俣から呼びかける
−世界の人間達よ 記憶に目覚めよ!−
緒方正人


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