978.得丸コラム



ロジ担当幹事 得丸です。

5月25日に、私は「まつりごと(祭・政)としての環境サミット ―
 あるものではなく、つくりだすものとしての祝祭」というタイト
ルで、ヨハネスブルグサミットをお祭りにしなければならないとい
うことを書きました。

政治=祭事です。祭りというのは、祈りを伴うわけで、そこで決定
することや、議論することの効力を高めるためにも、祭りに仕立て
る必要があるのです。

7月22日に、水俣で緒方正人さんにお目にかかり、緒方さんたち「本
願の会」が8月24日に水俣の水銀ヘドロ埋立地(水俣湾埋立地先端の
親水護岸)で、イオマンテンのお祭りを計画しておられることを伺い
ました。

そして、緒方さんから、君たちもヨハネスブルグで同じ晩に月を見
ないかと呼び掛けられました。

水俣の「1995政府最終解決策」と、南アフリカの「1994民主化」は
、ともに、長い苦しい戦いを形式的には集結させたという意味で、
大きな事件でした。しかし、水俣病の病理や海洋汚染という現実、
南アフリカの黒人たちが今もなお強制移住先の居住区に住んでいて
、仕事は低賃金長時間の奴隷のような仕事のままであるという現実
は、まったく変わっていません。

どれだけの人々に呼び掛けられるかわかりませんが、8月24日にヨハ
ネスブルグで現地の人たちも交えていっしょに月を見上げて語り合
う会を開けたらいいなと思います。

これから実行委員会を組織したいと思います。ご興味のある方、
賛同される方は、得丸( tokumaru@pp.iij4u.or.jp) までご連絡くだ
さい。

それと、これは水俣病センター 相思社の弘津さんにひとつ質問。
お亡くなりになった水俣病患者の遺影をヨハネスブルグにもってい
くことはできないでしょうか。かなり大きいのですか。今どこに保
管されているのですか。

以下は、緒方さんから伺った話のメモと、「あるものではなく、つ
くりだすものとしての祝祭」(再掲載)です。

ー1ー
緒方正人さんより伺った話の骨子

満天の魚のために祈ろう

1 まず人間が自らを批判しなければならない
30年前には「公害」という言葉がキーワードだったが、今はそれが
「環境」にシフトした。だが、その言葉は上滑りしていて、表層的
にしか使われていない。言葉が精神作用の一部となっていない。言
葉が思想化されていない。

環境教育やエコツーリズムが、当面の課題として持ち出されるのは
わかる。だが、これらの言葉も、人間中心主義から脱しきれていな
い。商業主義や市場原理からも自由でない。

これらの言葉に決定的に足りないのは、過去の人類の所業について
の自白であり、真の詫びである。自白や詫びがあって、はじめて
持続可能な開発とは何かと模索できる。人間は自らを批判する視点
をもたなければならない。

2 自らをひとつの生命体として認識する
人間は、ひとりひとりに立ち返らなければならない。自分の職業や
性別や国籍といった肩書きや区分は全部忘れることだ。
必要以上の金にとらわれてもいけない。やれ水俣病患者だの、支援
者だのといった関係性もすべて取り去る。

自分を成り立たせている基盤や、当たり前だと思ってきたことを疑
う必要がある。そのような帰属や基盤があるために、人間は自分自
身がひとつの生命体であることを忘れ、ひとつの生命体として帰属
する世界を見失ってしまったのだ。

国籍なんていい加減なものだ。グローバル化なんて所詮国境が前提
なわけでまったく意味がない。今、自分の目の前にある世界の深み
に着目するのだ。

私は17年前に、水俣病の患者認定の申請を取り下げてから、一時期
気が狂い、自分の中で大転換が起こった。そのときこの生まれ育っ
た海山の世界を再確認した。いや、生まれて初めて確認した。そし
て自ら、その世界に帰依した。

もはや私に二心はない。アメリカにも、ヨーロッパにも、東京にも
目もくれない。東京にも年に二回以上でかけないことにしている。
私は土地にへばりついたインディアンでいい。

人間はどうせいつかは死ぬなどとわかったような口をきくやつもい
るが、私は自分の命を、自然から授かったものとして、それを全う
して見事に死にたい。畳の上で、家族に看取られながら死にたいと
切実に思う。

3 海山や他の動物の視点で人間を見返す
ヨハネスブルグに行く人々に伝えたいのは、海、山、森、川、他の
動物たちが人間を見たらどう見えるかと考えてみてほしいというこ
とだ。これまではすべての評価が人間同士の評価にすぎなかった。科
学も、宗教も、哲学も。

しかし、人間の知恵はもはや尽きた。他の生き物たちの知恵を借り
ないといけない。海水から見ると、海の生き物から見ると、人間の
所業はどう見えるか、と考えなければならない。

自然を再生するには、人間が滅ぶしかないのだが、それはするつも
りがない。その選択肢については、かたくなに口を閉ざす。渡辺京
二のいうように、人類が生き延びないといけない論拠はどこにもな
いのに。

この不知火海も、有明海も、魚が住まなくなり、漁獲高は激減して
いる。それを数字として漁獲高の推移として示すこともできるが、
私は違った見方をしている。

魚は人間に愛想をつかしたんじゃないだろうか。いつ気づくかなと
がまんしてきたけど、もうこの馬鹿たれと空に上ったんじゃないだ
ろうか。猟師も魚を商品としてしか見てこなかった。バチあたりな
ことだ。

そう思って、魚満天(イオマンテン)の夜という祭りを、今年の
8月24日に開くことにした。イヨマンテというのは、アイヌの神送り
の儀式だ。イヨマンテとも、イオマンテともいうらしい。人間に見
切りをつけて空に上って泳いでいる魚たちのために祈る祭りだ。

この祭りは何年も前から開きたかったのだが、今年やっと実現した
。魚を呼び戻すために、対症療法もあるかもしれないが、それ以上
に人間の魂が入れ替わらないことには何も変わらない。魚に帰って
きてもらうには、人間の側が変わらないと思いが通じないのではな
いかと思う。

8月24日は、旧暦7月16日で十六夜だ。夕日が西に沈むころ、満月が
東に上ってくる。太陽と月のもと、それぞれの身をおいて、夏の
一夜をひたすら祈りながら過ごす。そうして言葉を超えるのだ。超
えなければいけない。

ヨハネスブルグに行かれる皆さん、同じ日に同じ月をみていっしょ
に祈りましょう。
(2002.07.22, 緒方さんのお話をもとに、得丸がまとめたもので文
責は得丸です)

ー2ー
まつりごと(祭・政)としての環境サミット
― あるものではなく、つくりだすものとしての祝祭

1 祭の楽しさ
今日、5月25日は次男が通っている小学校の運動会だった。次男は
小学校4年で、4度目の運動会。昨年と一昨年は雨で順延になったの
で、保護者としては3年ぶりの晴天のもとでの運動会だった。

この学校は、いわゆる実験校で、教科書を使った学習はあまりしな
いかわりに、子供たちの自主性を最大限生かした教育を目指してい
る。その最たるものが運動会である。

運動会は、企画も実行も子供たちが主体だ。じつにのびのびとして
いて、なおかつきちんと統率の取れた振舞いは見ていて気持ちいい
。一学年三クラスあるので、白・青・橙の三色に分かれて得点を競
い合う。競技種目は、毎年ほとんど変わりがない。

ところが、そのどれもが参加している子供たちが実に楽しそうにし
ているし、見ている親たちも興奮して引き込まれる。

ちなみに今年のプログラムにある競技と演技を見ると、学年ごとに
行われる全員参加の障害物リレー、団体競技(1,2年が玉入れ、3,4年
がタイフーンという4人一組でものほし棹をもって回るリレー、5,6
年が女子の騎馬戦と男子の棒倒しをミックスした城取り合戦)、全校
綱引き、踊り(1,2年、3,4年、5,6年と二学年いっしょになってそれ
ぞれ創作ダンスを踊る)である。

ひとりの子供は、リレー、団体競技、綱引き、創作演技の4つに参加
することになっている。選抜された選手による競技や、個人が競う
競技はない。

この運動会が楽しい理由は、
1) まず子供たちが自主的に運営している。
2) すべて全員参加の競技と演技である。リレーも障害物リレーにす
ることによって、予想外の結果が生まれやすく常にハラハラする。
3) 踊りや団体競技は、2学年ずつ行なわれるので、偶数学年の生徒
が奇数学年の生徒を指導する役目を果たす。隔年で教える側、教わ
る側が入れ替わる。
4) 毎年同じ種目が行なわれているため、個々の生徒にとっては、
だんだんと上の学年の種目をこなすことで、成長を実感することが
できる。

上記の特徴は、それぞれ自主性、全員性、文化伝達性、通過儀礼性
であり、伝統的なお祭りと極めて類似した特長をもっている。だか
ら楽しいのだ。

2 まつりごととしての環境サミット
さて、ヨハネスブルグ提言フォーラムであるが、どうも盛り上がら
ない、まだ十分には楽しくない。議論が徹底的に不足している。
たまに聞こえてくるのが、小難しい原理原則論だったりすると、
まさに興ざめである。

NGOによる自主的な運動であるはずなのだが、全員で一致団結してい
る気がしない。

文化伝達や通過儀礼の機能も果たしているようには見えない。

環境問題は、政治問題であるから、NGOよりも政府首脳の責任が大き
いとはじめからあきらめているのだろうか。そんな考えはとっとと
捨てたほうがいい。NGOだからこそ、従来の「国益」に縛られて硬直
した発想を突き破って新しい考えを広めることができるのだ。NGOだ
からこそ、楽しい会議を、お祭り気分の会議をつくりだすことがで
きるのだ。NGOには、環境サミットをお祭りに仕立てる責任があると
、むしろ考えるべきだ。

もともと政治は祭事である。祭りとして盛り上げることができれば
、政治的にも成功するに違いない。もっともっと、我を忘れて打ち
込むことができるような楽しい内容を考えて、ヨハネスブルグで実
行してみたい。

このMLには、水俣におられた柳田さんも参加しておられるようだが
、柳田さんならどうお考えになるだろう。たとえば水俣病患者さん
やなくなられた方のお位牌といっしょに南アに出かけて、とびっき
り楽しいお祭りを実行するなんてことはできないか。

水俣に限らず、公害病によって死んでいったものたちと、心の交流
を行なうためのフェスティバル。絶滅した鳥獣でもいい。彼らの心
と交流するための、お祭りはできないか。

まじめくさって、頭の上で環境問題を論ずるのではなく、まず第一
に楽しくて人々の心を引き付け、第二に、おごそかさや祈りの気持
ちを込めることによって、参加するものたちひとりひとりの心に響
くお祭りを行なう。それこそが、人類の住む世界を持続可能な状態
に引き戻す力をもつのではないか。

日本のNGOは、提言フォーラムは、そんなことをできないだろうか。
今からでも遅くはない。
(得丸久文、2002.05.25)
==============================
有機水銀のきけん  
拝啓
貴紙をいつもよませていただいている者です。
現在アマゾンの上流で金鉱が発見されて、水銀法で精錬している
模様です。
つまり、アマゾン川流域で大量の有機水銀が生態系を通じてヒトに
摂取される訳です。かの地の政府、健康管理行政機構は危険に気が
付いていない様子です。

大水俣障害がとてつもない社会現象にならなければ良いのですが。
また、金かヒトの、儲け話になりそうです。

まずは垂れ込みメールまで
伴正巳 拝


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