949.南ア事前調査報告



ムボンゲニ・ンゲマの言葉 

提言フォーラム 南ア事前調査報告 南ア人種事情編

今回の南ア事前調査の期間中、私は毎日できるだけ多くの新聞を購
入し、そこに書かれている記事を読むようにこころがけた。

2002年6月19日から26日までの南アの英字新聞Star, Sowetan, 
Citizen,Mail&Guardian, Business Day, Sunday Star, Sunday Times
などの記事の中で、もっとも多く登場したのは、劇作家で歌手の
ムボンゲニ・ンゲマが最近リリースしたCDの中でうたっている「ア
マンディヤ(インド人が多すぎる)」が放送禁止になったという事件
であった。

南アフリカ放送苦情委員会がムボンゲニ・ンゲマのアマンディヤと
いう曲を放送禁止にしたのだった。

今回訪れた南アは、アパルトヘイトが終わって黒人政権が誕生して
丸8年がたったにも関わらず、むしろ人種の壁は人々の心の中で高く
なったような印象をもつ。
今回南アに一週間ほどたが、とうとう一度も白人と黒人の男女の
カップルはみないままだった。白人たちの高級住宅街は、警備会社
によって24時間警備されており、付近の通りは遮断機や柵によって
、通り抜け不能になっていた。一方で、黒人はいまだに砂漠の中に
とつぜん沸いたような殺伐とした黒人居住区に住んでいる。

南アは、南北問題を内在化した国だ。

その背景には、アパルトヘイトという植民地体制によって分断され
、構築した貧富の差がまずある。そして、1994年の黒人政権誕生に
おいても、それらの格差を一切是正しないまま、新体制を始めてし
まったことにより、土地利用や社会階層といった現実の社会に存在
する分断に適応する形で、人種間の分断が意識の上に焼き付けら続
けるという事態が起きているという印象をもった。

Sowetan 6月21日号に、歌の意味とンゲマの特別寄稿が掲載されてい
たので、以下で翻訳を紹介する。

-1- 歌詞説明
まず、アマンディヤの歌は、
「おい、友達よ、インド人問題をなんとかしてくれる勇気ある奴が
必要だ。男たちによって議論されなければならない込み入った話な
のだ。インド人には改悛の意志がない。マンデラですら、(彼らを
改めることが)できなかった。
白人との問題のほうがまだましだ。土地をめぐっての争いだってこ
とがわかっているから。

政治家さんよ、この問題から顔を背けてるね。
インド人は選挙で投票しない。投票する場合でも、白人に一票入れ
る。なのに、彼らは議会にいるし、政府にもいる。
ブテレジさん、どうして黙ってるの?

ングケンゲレレとムニャマナの子供たちは、インド人からひどい扱
いを受けてる。ズールー人は、金がないから、掘っ立て小屋に住ん
でいる。
ドラミニがインド人を相手にするところは見たことない。でも、ダ
ーバンのグメデには眠るところがない。
ダーバンの状況はひどいものだ。なんでもかんでもインド人が手に
入れてしまっちまった。
彼らは手のひらを返したように、俺たちを抑圧する。
ムキゼは泣いている。ウェスト通りで商売がしてえんだ。
インド人は、どこにも賃貸物件がありませんとかなんとかいって、
場所を貸そうとしない。
ムベキ、インド人が俺たちをおちょくっているときに、どうして何
も言わないんだ。

(以下は英語で)どうしてアフリカの大義を支持しないんだ。
お前たちの手にする金はアフリカ人からきてるんじゃないか。
イシピンゴで、クレールウッドで、テクウィニで、ヴェルラムで、
人びとはインド人からものを買ってる。
インド人は黒人のために学校を作りたがらない。黒人の子供に学校
にきて欲しくないんだ。
ドラミニが、インドのボンベイに行くってのは見たことない。でも
、インド人はダーバンに毎日毎日やってきて、空港を占領しちまっ
てる。」

−2− ンゲマの言葉
以下、ンゲマの寄稿から。

ムボンゲニ・ンゲマ ”私は人々の苦境について語り続ける”
(Sowetan Friday, June 21 2002 特別寄稿)

イエスは言った。「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。
火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願ったことか。」
(ルカによる福音書、12章49)

キリスト教やその他の宗教は、我々は真実とともに生きなければな
らないと教える。もし傷を本当に癒したいのであれば、傷口を開い
て傷を洗わなければならないと教えられる。

私たちは、真実を語らないで、宗教やアフリカの教えに背くわけに
はいかない。もし私たちが真実を語りたくないのだとしたら、私た
ちの聖書やコーランは、1961年にシャープビルで燃やしたあの糞い
まいましいパスとおんなじくらい無用だ。

聖書やコーランは燃しちまって、真実なんて金輪際破壊しちまうが
いい。

われらの仲間である人びとの苦しい状況を、見たまま、もっとも虐
げられた者たちが感じたままに歌にすることは罪だろうか。

今日、加害者たちは、加害を否認しており、俺たちの問題をどう扱
えばいいかを教えてくれようとしている。この状況は、偉大なる
指導者スティーブン・バンツー・ビコの言葉を思い起こさせる。
「彼らは我々に痛みを与えながら、我々がどうやってその痛みとと
もに生きるかの処方を教えてくれる」

ビコの言葉は、まさしく今の状況にあてはまる。
アフリカの伝統において、怒りに震える兄弟の前で真実を語るのは
愛である。だから、私の「アマンディヤ(インド人が多すぎる)」
を憎しみのスピーチであるという人がいるけれど、私は愛のスピー
チだとよぶ。

我々アフリカ人は、何世紀にもわたって、痛みとともに生きてきた。
とくにわれわれズールー人は、1800年代にインド人がやってきたと
きのことを証言できる。

彼らは我々のように黒かったのだけど、我々はインド人がナタール
の砂糖プランテーションで働くためにイギリス人が連れてきた奴隷
であるということにすぐに気付いた。
我々は、彼らと戦ったことなど一度もない。

1906年のバンバタの反乱のときに、我々はインド人たちが我々の側
に立ってくれるものだと思っていた。
なぜなら、彼らも我々同様抑圧されていたからだ。
その代わりに、彼らは堕落したイギリス人を助けたのだった。

1914年にガンジーが行った行進のときにも、同じことが起きた。

同じ体制によって抑圧されたもの同士であるはずなのに、我々アフ
リカ人とインド人の関係は、それ以来難しいものになった。

1949年に起きたアフリカ人とインド人の間の悲惨な戦いについては
、みんな覚えている。そのとき、アフリカ人はインド人共同体を
ほとんど駆逐したのだった。
抑圧者がわれわれを分断するために火をつけたのだということを、
我々は知っていた。

それから、悪名高きフェアウールトの時代の、集団地域法
(Group Area Act)が導入され、我々は永久に分断されたのだった。
アフリカ人はタウンシップとへき地に追いやられた。
我々は生まれた国で、第四身分の市民として扱われたのだ。

わたしはヴェルレムで生まれ育ち、インド人の友達といっしょに
映画を観にいった。ある日、映画の切符を買ったあとで、友達は中
に入ることができたのに、入り口にいたインド人が「バンツー人入
場禁止」と書いたサインを示したとき、わたしは驚いた。

これがわたしにとって最初の差別体験だった。

白人はインド人に、インド人はアフリカ人より優秀であると教え、
インド人はそのように振舞ったのだった。
だが、解放闘争においては違っていた。何人かのインド人が闘争に
参加し、わたしたちはその人たちが誰だかを覚えている。

わたしたちと同一視してくれたこと、わたしたちの一部となってく
れたことで、わたしたちは彼らに敬意を示す。
ジエイ・ナイドゥー、アーメド・カタラダ、ヴァリ・モーサ、ファ
ティマ・メール、プラヴィン・ゴルダン、その他の人びとを尊敬す
る。

白人優越主義者たちが、いかに我々を分断しようとしても、この
コムラド(戦友)たちは、わたしたちの側にいてくれた。
何人かは死んだし、何人かは牢獄に入れられた。

アパルトヘイト体制は、アフリカ人とインド人を分断することに執
念を燃やし、インド人をアフリカ人にとっての第二抑圧者とするこ
とで、白人と黒人の間の緩衝地帯として利用したのだった。

1983年にPW ボタがはじめた三院制議会には、わたしの新しい友人の
アミチャンド・ラジバンシも関わっていたのだが、まさしくインド人
とアフリカ人の亀裂を深めるためだった。

インド人の大多数は、これを受け入れた。なぜなら、彼らはのちの
ちよりよい教育、保健衛生、スポーツ施設、ビジネスチャンスを得
ることができたからだ。
しかし、それらの便益はアフリカ人の犠牲の上でだった。

もちろん、多数のインド人が、ナタールインド人会議や、統一民主
戦線(UDF)に参加することによって、闘争において重要な役目を果
たした。

工場のフロアや、学校や、大学や、その他の場所での分断は、今で
も明瞭である。

今日、ダーバンのウェスト通り、その他の多くの場所では、アフリ
カ人が誰一人として商売に関わっていない。

黒人居住区の駄菓子屋ですら、品物の仕入れはインド人から行って
いる。わたしたちのこどもたちは、タクシーやバスに乗って、イン
ド人の学校に行っているが、アフリカ人居住区の学校に来ているイ
ンド人は皆無だ。

こどもたちにふたつの共同体の間の人種関係について話すことをど
う思う?
もし両親が家に帰るなり、工場ではたらいているインド人の悪口ば
かりぶつくさ愚痴っていたら、こどもたちの心はどうなると思う?

インド人は、エテクウェニ地方政府の地方行政の70%以上を占有し
ている。アフリカ人が奴隷のように扱われる個人商店でものごころ
ついたインド人のこどもの心の中では何が起きるだろう。
アフリカ人の子供たちといっしょに学校に行きながら、アフリカ人
は2時に帰されて、インド人が技術を習得する4時半からの必修では
ない選択科目の授業には戻ってこないとしたら、インド人のこども
たちの心の中には何が起きるだろう。

これは最悪の毒薬だ。でも、歌や芝居を書いている以上、検閲や
禁止処分には出会うのだから、これに文句をいえる筋合いじゃない。
われわれの唯一のなぐさめは、われわれの心の奥底では、誰もアフ
リカの神が歌うのを禁止できないということだ。

われわれアフリカ人は、幸せであろうと、悲しかろうと、音楽とと
もに生きている。

われわれが何について歌うべきか、どのようにして自分たちを表現
すればよいのかについて、誰がわざわざ当局にお伺いをたてるであ
ろうか。

解放闘争華やかなりしころ、多くのインド人は1906年のときのよう
に、敵側についていると思われていた。

そんなことをするのは、インド人の中でも少数派であるという人も
いる。だったら、どうしてインド人の大多数は1994年以降、白人政
党に投票しつづけているのか。

タボ・ムベキ大統領が、この国の中には二つの国家があるというと
き、インド人はどっちの側だとみなされているのだろうか。

これらの例を見るかぎり、インド人の大多数は、われわれと自己同
一化していないと結論づけざるをえない。
多くのインド人がわれわれ同様に貧しいかもしれないのだが、彼ら
の投票行動から判断するに、彼らはまだ自分自身を黒人の一部であ
るとは認めてない。

わたしは真空の状態で描いたことはない。ウォザ・アルバートから
、最新のCDアルバムまで、私のすべての戯曲と音楽において、私は
もっとも被害を蒙っている人びとの問題を代弁しつづけてきた。
たまたまそれはいつもアフリカ人であるのだが。

わたしはいつもわたしの人々の側に立ち、彼らが苦しみ、無視され
たと感じるたびに、彼らの希望の炎を灯したことを謝罪するつもり
はない。

わたしは、クワズールーナタール地方のすべての男性および女性が
、まったくひどい彼らの取り扱われ方と戦うときに使える火を起こ
したのだ。

わたしは、ウタタ・ウマンデラに逢って、わたしのプログラムが
インド人とアフリカ人の間に真実の和解をもたらすであろうことを
説得しきった。そして彼は、彼の最大限の支援を私の機関にしてく
れることを約束した。

IDESA(南アフリカ民主主義代替研究所)は、有名な市民活動の組織で
あるが、この演劇、歌、本、シンポジウムなどなどの20年のキャン
ペーンに参加してくれた。

わたしは政治には興味がない。私は芸術家であり、残りの生涯もそ
うであり続けたい。わたしはひとびとの苦境について書き続けたい。
私は人種主義者でなはい。わたしは第一にアフリカ人であり、つい
で南アフリカ人である。
(2002.06.30)


*** ヨハネスブルグ・サミット提言フォーラムでは、会員を募集
しています。***
会員は、会員専用のメーリングリストに参加することができます。
南アから、随時送られてくるサミットの準備状況や、現地報告を受
けられます。今回の事前調査の報告も、会員用に配布されたもので
す。

事務局 teigen@bj.wakwak.com あてにお名前と所属、電話番号、
連絡先をご連絡のうえ、下記の口座に会費3000円をお振込みくださ
い。会費は運営資金として使わせていただきます。

今、資金ショートが起きています。皆様のご理解とご協力をお願い
切にお願い申し上げます。

振込先: 
銀行 東京三菱銀行 赤坂支店 普通口座 1466622
郵便局 記号10110 番号 75712011

名義はいずれも「ヨハネスブルグ・サミット提言フォーラム事務局
 米田明人」です。
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ヨハネスブルグ・サミット NGO ロジ担日記(by 提言フォーラム
 得丸久文)

南北問題と環境問題

1 まだ踏みもみず、南アフリカ
 今年の早春にNHK特集で南アが取り上げられたらしく、そのときの
取材内容が「アフリカ21世紀」という題でひと月ほど前に出版され
ていた。南アは本の中で3分の1ほどを占めるのだが、そこに描か
れていた南アは、犯罪が日常的に行われ、黒人居住区では頻繁に
発砲銃撃事件が起き、黒人の3人に一人はエイズに感染し、農村地
帯の白人は黒人たちに襲撃されている、といったおぞましいものだ
った。

 NGOでヨハネスブルグ・サミットに参加する人たちは、ほとんど
南アのことを知らない。また、不思議なくらい興味ももたない。
だから、その人たちの頭にインプットされるのは、強盗、強姦、
エイズといった悲惨な姿だ。

 私は1980年と1997年に南アを旅し、黒人居住区の中に立ち入り、
そこで寝泊りさせてもらったこともあるので、NHKの出した本の内容
には、正直言って驚いた。いったいいつの間にそんな凶悪犯罪の渦
巻く空間になったのだろう、何がそこまで南ア社会を破滅的にした
のだろうか、といぶかった。

 今回、事前調査を提案し、実行したのは、なによりもまず、NGO
参加者(女性も多い)たちの安全を確保するためであった。外国の
イベントに参加するにあたっては、何の心配もなくぐっすりと眠れ
る宿舎、短い時間で安全に会場へアクセスできる交通手段を確保し
ないことには、参加者にとって大変な負担となる。その負担が大き
すぎると、事故や失敗につながりかねない。

 会場に近いところに宿を取ることのメリットは、はかり知れない
。まず何よりも会場に滞在する時間を長くとることができる。荷物
が多くなりすぎたら、いったん宿に戻っておいてくればいいし、疲
れたらひと休みできる。それだけではない。ちょっとした買い物や
、近所のレストランでの食事や、散歩のときに、他の国の参加者と
ばったり顔を合わせて、その場で情報交換ができたりもする。

 今回、ヨハネスブルグ・サミットで、NGOグローバル・フォーラム
が開かれるNASREC展示場は、ヨハネスブルグを取り囲む環状高速道
路の南西端出口の内側に位置する。高速道路をはさんで外側には、
人口400万人といわれる南ア最大の黒人居住区ソエト(South West 
Township)が広がる。

 NGOグローバル・フォーラムに参加するNGOにとって、ベストな
宿泊地はソエトなのである。

 しかし、もし、NHK特集取材班が本に描いたように、ソエトで連日
のように流血事件がおきていて、道を歩いていると必ず暴行される
というのであれば、そこにNGOの人を泊めるわけにはいかない。この
点を見極めるために、ヨハネスブルグに行ったのだった。

 だから、私はできるだけ長い時間ソエトにいたし、現地の黒人た
ちから治安状況について率直な話を聞いた。そして、ズバリ我々の
行った調査の結論は、NHKの出した本に書いてあることは、まったく
信用のならない誇張であるということだった。

 おそらく、南アが黒人国家になったことによって、治安が悪化し
た、黒人たちには統治能力がないという宣伝をする意味もあって、
あえて誇張した数字が流布されているのではないか。NHKはそれを鵜
呑みにしたのかもしれない。私自身、1997年当時とくらべて、治安
は改善されていると感じた。私の場合は、いつも、いちども危ない
目に遭わないので、町の様子や人の表情から判断するだけなのだが。

 いったいどうしてあのような書き方ができるのかと、あきれるく
らいひどい本だと思う。南アを訪れた日本人はけっして多くなく、
本や雑誌記事で南ア事情について書かれたものが少ないだけに、
いたずらに大げさな表現をして読むものの心を惑わすこの手の本こ
そ「犯罪」的である。

 ジャーナリストたちの不勉強と心なさに、真実を見る目を曇らせ
てはいけない。実際に自分の足で歩き、自分の心で感じ取り、自分
の心で南アと対話してこなければならない、とあらためて思った
次第である。

 ちなみに、今回の事前調査では、何人かの提言フォーラム会員か
ら、「私の予約してきたホテルを見てきて」という依頼を受けた。
その中で、旧市街の真ん中にあるホテルは、付近の路上に暇を持て
余した人々がたむろしており、ホテル自体も売春宿と化しているら
しく、絶対にお勧めできないものだったので、会員に対して予約を
変更するよう提案した。それ以外のホテルは、治安上は問題なさそ
うだったが、遠くて通うのに時間がかかりすぎることが懸念された。

 そんなところに泊まるよりは、黒人居住区のホームステイが一番
だと、あらためておもった。黒人居住区に泊まれば、黒人たちの
生活も垣間見ることができる。彼らがどんな仕事をしていて、何を
喜びとし、何を考えて生きているかも語り合ってほしいと思う。
それが南ア・ウォッチャーの本心である。そして多少部屋は狭くて
も、家具が安っぽくても、仕事の効率性からいうと、それが最適な
のである。

2  道を歩いてはいけない
 日本を出る前に、日本政府代表団で事前調査を行ってこられた
方々からも、情報をいただいた。そのときに伺った話では、ヨハネ
スブルグでは治安が悪いので、「道路を絶対に歩いてはいけない」
というのだ。

 これには参った。一休さんなら「この橋通ってなりません」と言
われて、「真ん中通ってきました」と澄ましていられるが、「この
道歩いてなりません」といわれたら、どうすればいいのか。「戸口
から戸口へ」(国鉄コンテナ、古いか)リムジンを手配するなんて
、NGOにはできない。リムジンやハイヤーを予約するにも、会議のと
きは政府や国連が借り上げていて予約できないだろうし、仮に予約
できても、運転手が道を知っているかどうか、運転手としての資質
に富んでいるかどうか、わからない。

 今回の事前調査のときには、白人3人、黒人1人の運転手のお世
話になったが、白人の2人目の運転手は、運転が荒いうえに、土地勘
や方向感覚がほとんどなく、往生した。午前中で代わってもらおう
かとも思ったが、それも可哀想に思って翌日をキャンセルして別の
運転手にきてもらった。おかげで運転手の質の違いによって、どれ
くらい仕事の効率が変わるかを同行した事務局員の鷲田さんに見て
もらうことができた。だけど、サミット本番のときにはこんな悠長
なことをやっている暇もゆとりもない。

 サミット関連のロジを行うJOWSCO/DMCには、NGOグローバル・フォ
ーラム参加者から一人あたり60ドルが交通費として上納される仕組
みとなっていて、その分、空港送迎、ホテルから会場までのシャト
ルバスサービスなどが保証されることになっている。この制度が、
うたい文句の通りに実現するのであれば、我々が心配する必要はな
い。問題は、それが実現するかどうか、わからないところにある。

 NGOグローバル・フォーラム主催者や、ホテルや、学生寮を民宿と
して提供する学校の関係者など、さまざまな人にシャトルバスの運
行計画について話を聞いてみたが、6月下旬の時点では、何も確かな
ことはわからないということだけがわかったのだった。

 現地日本人会と日本商工会の会長が日商岩井の武田店長で、やは
り治安についてのお話を2時間近くも伺うことができた。そのときに
も、道路を歩いてはいけないという話になった。日商岩井の入村氏
(私と日商岩井83年同期入社)が、「近くの店に買い物にいくとき
など、走るんだよ」と教えてくれて、答が得られた。

 道を歩いてはいけないのなら、道を走ればいいではないか。ジョ
ギング姿の人などは、強盗にも狙われないのだそうだ。

 これがわかってから、私は夜の道を黒装束に身を固め、宿舎にほ
ど近い毎日新聞の支局でパソコンやファックスを借りるために夜な
夜な、ガソリンスタンドで新聞を買うために早朝、道を歩き走った
のだった。

3 南北問題がみえてくる
 
 さすがに夜中歩いているもの好きは、私くらいで、誰ともすれ違
うことはなかった。一度、警備会社の車に呼び止められて誰何され
たくらいだ。

 朝日が昇る時間、世界でもっとも緑が多い都市ヨハネスブルグの
町はすてきだ。真冬の朝の冷たい大気と、だんだんと明るくなって
いく空と、歩道をひとり歩いている自分が存在している。

 歩いていたのは、私ひとりではない。午前6時台、黒人たちの通勤
はすでに始まっている。彼らはおそらく最寄の大きな道路までミニ
バスという乗合タクシーにのって、そこから先は勤務先まで歩いて
いるのだ。

 歩いている者同士の連帯感というものもある。すれ違い様に、
「おはよう」とか「ハロー」とか声をかけると、目も顔もにっこり
笑ってあいさつが返って来る。「おはよう、今朝は冷えるね」と、
ひと言かけてくれる人もいる。道の反対側を歩いている人に手を振
ると、あいさつが返ってくる。まるでずっと前から顔なじみである
かのように、心安く、素直な笑顔。こんなコミュニケーションが朝
からできるなんて、気持ちいい、心がやすらぐ。

 車にのってすっ飛ばしていたら、誰とも挨拶ができない、さびし
いなあと思う。

 おそらく日本から来る人たちは、車に乗って宿舎と会場を往復し
て、NGOグローバル・フォーラムの会場で先進国のNGOと意見交換し
、各国政府に提言をして、国連の配布する資料を読んで議論をする
のだろう。あまった時間は日本のNGO同士の情報交換や飲み会になる
かもしれない。

 もしかすると、南アの黒人とマトモに一度も挨拶しないまま、
ひとことも言葉を交わさないまま帰国する人もいるかもしれない。
おそらくそれで誰も疑問を感じないだろう。少なくとも今のNGOの
議論を聞くかぎりは、そう思う。

 それでいいのだろうか。

 それを仕事優先というのだろうか。

 治安が悪いから仕方ないのか。

 黒人は教育水準が低いから話ができないのだろうか。

 環境の会議だから、現地の黒人は関係ないというのかもしれない
が、そんなことでいいのだろうか。

 ほかにたくさん話をする相手がいるから、黒人なんぞの相手をし
ている暇はないというのだろうか。政府代表団がそれならわかる。
NGOも同じか。

 なにかとてもさびしい。とても不思議な気がする。

 そんな精神で環境問題と取り組むことなどできるのだろうか。目
の前にいる人間と対話できないでいて、自然環境を思いやることは
できるのか。

 貧困撲滅を口にしているが、南アの現実を見ないで、現実に目を
向けないで、口にする貧困撲滅とは何ぞや。

 北と南という一線は、思っている以上に根深く、乗り越えがたい
ものなのかもしれない。

 1972年のストックホルム会議以降の国連の環境会議が、ほとんど
具体的な成果を生まないできて、とくに環境負荷削減という点では
まったく無益であったこと。そのことの背景には、南北問題があっ
た。

 ストックホルムで、北が人口爆発を問題にしたことに対して、南
は先進国のぜいたくな生活こそ見直せという反論に出たのだ。その
結果、みんな豊かになりましょう、持続可能という看板のついた
開発をしっかりやりましょう、人口問題については環境とは別に扱
いましょうという暗黙の了解となった。

 1982年のストックホルム+10年の会議は、結局開かれなかった。
1992年のリオデジャネイロの会議では、人口という言葉が削り取ら
れた。2002年のヨハネスブルグサミットでは、ついに環境という
言葉すらなくなってしまった。

 これは、北が自分たちの物質的豊かさは絶対に見直さないぞとい
う断固とした態度をとっているからだ。その断固とした態度こそが
、地球環境をここまで危機的状況に追いやったのではなかったか。

 南からぜいたくな生活の批判を受けたくない北の世界のエゴイズ
ムが、環境問題を解決するカギを隠してしまった。北と南の対立構
造に責任を押し付けて、自分たちが生活スタイルを改めるきっかけ
を自ら放棄している。

 たしかに、北と南は明確な対立構造にある。南アフリカを見れば
、それがわかる。

 南北問題は解消されなければならない。環境問題と真正面から取
り組むためにも。
少なくとも、その問題を意識化しないことには、解決は得られない。

 南アフリカではアパルトヘイト体制という名前の植民地支配が、
今もなお続いている。NGOは、その社会に足を踏み入れながら、植民
地支配者の側に安住してもよいのだろうか。どうにも安住できない
NGOは、ないだろうか。

 北、南、あなたはどっちですか?
(2002.07.03)
==============================
得丸久文様の意見へ反論

『持続可能な開発』とは矛盾概念で実現不可能であろうか?
私は矛盾概念として固定的に考えるべきだはないと思う。
私は、次の発展をもたらす原動力と考えます。

すでに低公害型のコーゼネレーションシステムの開発など、次の時
代を支える技術が確立されつつあります。
「循環型社会」を目指すEUをはじめとする国際的な動きにも目を
向けるべきです。今、「京都議定書」をめぐる動きが暗礁に乗り上
げたりしているよう見えますが、水面下の潮流は確実に『持続可能
な開発』に向かっていると思われます。

酸化と還元 http://jimbo.tanakanews.com/232.htmlなどは、革命的
な技術であると思っています。

従来の技術に基く産業に大きな利権を持つ人たちも、新しい技術に
利権を求めなければ生きていけなくなるのです。今まさに歴史的転
換期に差し掛かっていることは、表面にあらわれた国際的政治状況
をみても理解できると思います。
けっしてカオスの時代ではないのです。

tanaka


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