901.得丸コラム



コロボックル用原稿ですが、よろしければご一読ください。
得丸

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生きている芸術、、、それは自然

 週末に東京で人工衛星による地球観測の学会があったので
五月十一日土曜日は東京で過ごした。

 朝九時半から二時間、自由が丘道場で合気道の稽古。富山では稽
古していないので体はガチガチに硬いナマクラになっている。自宅
に帰って昼食をとり、その後再び自由が丘道場に戻って三月に新設
された合気道小学生教室に通う次男の稽古風景を見て、四時から
外苑前にあるワタリウム美術館で、五月十二日から展覧会のはじま
るカールステン・ニコライと、かの有名な浅田彰の対談を聞く。

 カールステン・ニコライという名前は、それまで聞いたことがな
かったのだけど、ちょうどその一週間前に砧公園を散歩してお茶を
いっしょに飲んだ若い芸術家たちが話題にしていたので、行ってみ
ることにしたもの。

 ワタリウムの和多利館長には昨年日本海にちなんだシンポジウム
でお目にかかっていたので、案内状はいただいていた。浅田彰が
どれくらい芸術のことを語るのかにも、ちょっぴり興味はあった。

 カールステン・ニコライの作品は、飛行機の窓からカメラで撮影
した雲の写真と、水槽の中を泳ぐ生きたクラゲと、ちょっとおおぶ
りのガラスの試験管の中に細いテグスを垂らし、それをドライアイ
スで冷やした容器の中に入れて、試験管の中で雪が結晶するのを見
る装置。一番ゆったりとした気分にさせてくれるのは、やっぱり
本物のクラゲだった。

 私の理解力が不足していたために対談はあまり記憶に残らなかっ
た。ニコライも、浅田も。とくに浅田は、なんだか難しい概念を
ふりかざして説明していて、老化の著しい私の頭脳では消化しきれ
なかった。一時間半ほどして、質問の時間になったので、最初に手
を上げた。

「私は毎日、人工衛星の撮影した日本列島周辺の画像を処理するこ
とを仕事にしている。アメリカと中国の気象衛星だが、2000km x 
5000kmほどの領域を一日に20回ほど撮影している。衛星は、いくつ
かの電磁波の帯域ごとにセンサーがあり、可視光線だけではなく、
赤外線の反射や放射も観測している。

 最近試している処理手法だが、近赤外線である0.9ミクロン帯の
データに赤い光を、中間赤外線である1.6ミクロン帯のデータに緑の
光を、そして熱赤外放射である11ミクロンのデータに青の光をあて
て色合成画像をつくっている。すると、肉眼では白くしか見えない
雲が、温度の違い、水か氷かの違い、粒子の大きさの違いなどに
よって、白、レモン色、オレンジ色、黄緑色、黒といったさまざま
な色に色分けされる。また流氷や氷はピンク色や赤紫に見え、まる
でオーディロン・ルドンの絵のようにカラフルで幻想的な色合いに
なる。

 最初の質問は、あなたは何枚かの写真にして雲を切り取っている
が、あなたの取らなかったところで、もっと美しくもっと面白い形
の雲があるかもしれないという思いにかられることはないか、とい
うもの。

 第二の質問は、岐阜県に養老天命反転地という公園がある。ここ
にはまっすぐな線は一本もない。人工でありながら、自然の形に造
っている。あなたはこの公園に行ったことがあるか、というもの。」

 やや時間を節約して第二の質問を短くしたのは、正解だったか
失敗だったか。カールステンは、第一の質問に対して「展示しなか
ったけど、京都の石庭のような形をした雲の写真も取っていたこと
を思い出した。思い出させてくれてありがとう」といった。浅田は
「すべてを記録することはできない」というふうなことを言った。

 また、浅田はそのまま、「荒川修作とマドリン・ギンズは、『私
たちは死なないことに決めた』といっているけど、彼らは絶対に死
にますよ、、、」といったことをしゃべった。浅田は反転地をさま
よったことがあるのだろうか。

 カールステンは、反転地には行ったことがないという。その公園
のことは知らないが、、、、と何か思い出したことを語ったが私は
忘れてしまった。私はカールステンには、こう聞き返してほしかっ
た。「僕はその公園には行ったことがないが、行かなければならな
いだろうか」と。そうすれば対話が生まれ、私はこう答えただろう。

「人間が、真直ぐでないものや左右対象でないものを設計すること
は大変に難しいことであり、より高度な設計といえる。反転地では
それが実現している。芸術というものが、人間の営為を神の営為に
近付けたいというのであれば、反転地には大いに学ぶところがある
はずだ。

 実は私はひと月半ほど前に、たぶん五回目か六回目の反転地を訪
れたが、まるでしばらくぶりで親戚の子供に出会ったかのような印
象を受けた。つまり、『まあ、しばらく見ないうちに随分おおきく
なったものだね』という印象だ。それというのも、反転地の公園の
中には、たくさんの種類の薬草や木が植わっていて、それが開園し
た頃にくらべて、それぞれに育っているからだ。

 あなたの雪の結晶を作るという試みは面白いが、現実の雪の造形
の多様性やランダムさには負ける。また、植物のような生命体を取
り込んでいないので、無機的でさびしい印象を受ける。何年かして
同じ作品を見ても、それはちっとも成長していないだろう。

 荒川修作は、かつて、「彫刻なんて、木一本にも負けるんだ」と
人間の芸術を否定した。その否定を、公園の中に植物園、それも薬
草園を作ることによって乗り越えたところはすごいと思う」くらい
のことは言えたかもしれない。

 私たちは、どうすれば人間が自然に近く生きられるかを考えてみ
るべきではないか。
そうして、自分たち自身を、個性的でありながら没我的な自然の造
形のように輝かせなければならない。

 講演会の後、レセプションがあった。私は中谷宇吉郎さんの娘さ
んから雲画像のことでご助言をいただき、岡本敏子さんを反転地再
訪にいざなった。たまにはヴェルニサージ(展覧会の前夜祭)にいく
のもいい。

 もう少し遊びたい気分を抑えて自宅に帰ると、遊びについての
ホイジンガの著作『ホモ・ルーデンス』に触発されて、文化と遊び
について、筆が進んだ。
(2002.05.13)
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異文化交流術の中でも触れたバナキュラという概念を僕が獲得した
ときの記録です。
概念との付き合い方としても読んでいただければ幸いです。

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1998年の夏に私はマレーシアとシンガポールでひらかれた建築家た
ちのワークショップに参加した。そのときに感じたこと、考えたこ
とを「思想の源流への旅 ー バナキュラ:伝統乖離下の適応行動
」としてワークショップの報告書のためにまとめた。
ご批判を賜れば幸いである。

思想の源流への旅 ー バナキュラ:伝統乖離下の適応行動

A Travel to the Source of Philosophy :
   Vernacular = Adaptation in Displacement
       得丸 久文  (Kumon TOKUMARU)

Through the visit and the dialogue with the local architects
 in KL, the author, the only non-architect in the workshop 
members, concluded that the composition (or definition) of 
Vernacular could be (1) Displacement from tradition, and 
(2) Adaptation to the new environment.  Using this definition,
 in Singapore, he found out various Displacement (historical,
 cultural, social, self, moral) and proposed a trial cultural 
Adaptation, to hang out gods from wash-line poles extending 
from walls of appartment buildings and to organize one's own 
festival.

1  調査:バナキュラを心に写しとる
「バナキュラ」をテーマとした今回のワークショップに、私は唯一
の非建築家として参加した。「バナキュラ」自体も耳慣れない言葉
だったから、いざ成田空港を出発する段になっても、六泊七日の旅
がどう展開するのか全く予想もつかなかった。何の基礎知識も準備
もない私は、そこで起きること、遭遇することにひたすら自分の心
を開いて、何かを感じ取り、心に焼き付いたことを手掛かりとして
考察しようと思った。

  クアラルンプル(KL)には初日の晩に到着した。翌2日目のKL市内
見学では、朝一番に建築家ジミー・リム氏の自宅を訪れ、設計者自
身に家の中を案内してもらった。拾い集めた廃材を利用し、増築に
つぐ増築を重ねた空間の居心地はよく、長く住めば住むほど家への
愛着が増すだろうと思った。また、大きな犬や魚も同居しており、
彼らの住み心地も配慮されていた。

  KL郊外の古びたマレーハウスの建つ集落では、家それ自体よりも
むしろ家の周囲にあるディテール、風雨にさらされて白くしみのつ
いた家の板壁、放し飼いのにわとりの水飲み場にもなっている無蓋
の排水溝、バス停の近くに「放置」されていた台所椅子などに不思
議と心を惹かれた。

  夕方から自由行動となった。驟雨の中、男性車掌がリズムと張り
のある声で客を呼び込んでいた路線バス(が市中心部へと向かうこと
を確かめて)に乗った。ほとんどの客が降りた繁華街で私もバスを降
りる。あえて地図は開かず、街角ごとに周囲を見回してよりおもし
ろそうな方角へ、自分の心の赴くままにさ迷い歩く。

 たどりついたのはチャイナタウン(のようだった)。道の両側も商
店街だが、歩行者天国になっている車道にも、TシャツやCDなど
を並べた露店がひしめきあっていた。
歩道脇のそば屋のテントは雨で天井が下がりぎみ。簡素ないすと
テーブルには、買い物途中か仕事帰りの軽食に、汁麺を食べる人々
がいた。

 そば屋のならびに健康茶屋が店を構えており、老若男女がお茶を
飲んで団欒していた。日本の焼き鳥屋やロンドンのパブだとアルコ
ールが主体となるので老人や子供を交えてというわけにはいかない
が、健康茶なら世代を越えて集うことができる。

  しばらく付近をさ迷ってから、主催者の連氏や現地の建築家フラ
ンク・リー夫妻と夕食を一緒にするバンサルバルの海鮮料理店に向
かう。ちょうどきたバスの行き先表示にバンサルがあったので乗る
。バスはだんだんと市の中心部から離れ、人影も灯かりもまばらな
暗い夜道を走る。少しずつ乗客が降りるが、私はどこで降りればい
いのかわからない。近くの男が「ここで降りな」と教えてくれたと
ころでバスを降りたが、目当てのレストランはない。しばらく付近
をへめぐり歩いて、結局タクシーを拾って行った。1kmほど早まって
バスを降車していた。

  バンサルバルの青空市は賑やかで、食料品・花から日用品、電化
製品、音楽CDなどが販売台に並ぶ。白熱燈や蛍光燈に照らされた
野菜や果物や生花、買い物客の雑踏、売り子たちの呼び声。新鮮で
安い食料品の買い出しができる青空市場には、世界中どこに行って
も同様の活気や緊張がある。

  夕食が終わるころジミー・リムが現われて、一杯飲もうとクラブ
に連れていってくれた。旧植民地総督府のあった広場に面しており
、広場を散策する人々の姿と照明された旧植民地総督部の建物を見
ながら、食事し酒を飲める会員制施設。壁にはセピア色した植民地
時代の写真が飾ってある。写っているのはイギリス人。注文の取り
方や給仕の仕方も、ロンドンをほうふつとさせる。

  ジミーを囲んで、クラブの営業時間午前0時を大幅にすぎる深夜
1時過ぎまで(これも英国風なのだが、クラブ側は決して追い出しを
しないので、客はいつまでも座っていられる)、ジミーの斬新なアイ
デアにあふれる力強い話に耳を傾けていた。

  帰りしなに、翌朝一緒に朝食を取らないかと誘われた。KLに来た
客を必ず一度は案内する特別の場所があるという。

  ジミーの暖かいお誘いに乗った我々は旅程3日めの朝8時前に
ホテルに向かえにきたジミーの車で彼のお勧めの朝食に出かけた。
行きしなの車の中でジミーは「バナキュラとインディジャネス
(indigenous)の違いをどう思うか」聞いてきた。正直なところ我々
はその二つの概念の違いを、さっぱり理解していなかった。

「そもそもその二つはどう違うの」と尋ねたところジミーは、「俺
の考えでは、インディジャネスは、原始以来同じ文化を発展継承し
てきたもの。アボリジニなんかはそうだ。バナキュラは原始的なも
のから断絶しており、伝統を失った人間が苦労して作り上げたもの
」と説明してくれた。おりしもマレーハウスの集落が左手に見え、
「これらはバナキュラだ」という。

  10分足らずで着いたのはインビという地域にある「肉骨茶肉乾肉
」(と店の看板にあった)のレストラン。屋内にもテーブルはたくさ
んあったが、我々は店から道ひとつ隔てて、大木が木陰をなす広場
の丸テーブルとプラスチックの丸椅子に陣取った。

  料理は、ブタの骨周りや臓物を白菜や湯葉や茸などと一緒に中国
茶(?)で煮込んだ鍋だった。ブタのありとあらゆる部位が投げ込まれ
ている感じだった。直径22cmほどの土鍋二つを5人でつついて、白
いご飯と一緒に食べた。

  ジミーによれば、華僑は最初錫鉱山の人夫としてマレーシアに渡
って来たが、ひどい食べ物ばかりあてがわれていた。彼らの生活は
、とにかく貧しかった。その中でこの料理が生まれたという。

  この料理は世界的にも珍しくマレーにしかないそうだ。我々が食
べている間にも観光バスが何台も着いて、そのたびに海外からと
おぼしき中国人団体客がレストランに入って来ていた。

「これはバナキュラだね」と問うと、「そうだ」とにこにこ答えて
くれた。グルメな料理ではないが、朝の涼しい大気の中、大木の下
でテーブルを囲みながらの朝食は文句なしに楽しかった。

2  チュートリアル:バナキュラを理解する糸口
  3日めの午後はジミーやリー夫妻の前で講評会である。午前中は
製作途中のコラージュについて個別指導(チュートリアル)を受ける
。朝食から帰ると眠気に襲われた私は部屋で少し寝、KLで撮影した
10数枚のポラロイド写真だけ持ってチュートリアルに臨んだ。

  ホテルのラウンジに座っていた田島氏とフランクの前のテーブル
に、私は写真を広げた。それらは、ホテルの向いにある中国系の観
音寺。ジミーが自宅を案内しているところ。マレーの特別料理ブタ
の臓物鍋。マレーハウス、風雨がしみを作ったその板壁、地面を掘
っただけで草が覆う排水溝。無人となったマレーハウス、バス停付
近にぽつんとひとつ放置されていた椅子。市場の花屋と花売りの
おじさん。中華街のラーメン屋、健康茶屋。

  私はなぜそれら光景に心を惹かれたのか説明を求められた。私が
「この板壁のしみは、板壁が風雨から人間の身を守ってくれた証し
であり、建物が住人とともに過ごした時間の長さを物語る」という
とフランクは「君は素材のテキスチャを問題にしているね」と建築
家的な分析をしてくれた。

  フランクは、バナキュラの語源を語った。「古代ローマの時代に
、奴隷がローマに連れてこられる。その奴隷がローマで生んだ子供
たちは生まれながらにして奴隷だったが、彼らがバナキュラと呼ば
れていた」そうだ。朝食前のジミーとの会話の中でバナキュラと
インディジャネスの違いが話題となったが、元来バナキュラは「
先祖伝来の土地を離れ」た環境で生まれるものらしい。

  私の提示した脈絡のない写真をどのような形でコラージュに仕上
げるか、田島さんもフランクもちょっと悩んだ。結局、「君は自分
の見た光景を順番に並べ、それぞれについて君の感想を書き、さら
に君の知っている日本の風景とどう結びつくかを書くといい。そう
すればこれまでに見えなかった風景の意味が見えてくるかもしれな
い。
まだ少し時間がある。外へ行ってもう少し写真を撮ってきなさい」
と助言をもらった。

  私はその足でホテルを出て、道端の木陰のブロックの上で昼寝し
ている男、ホテルの脇から裏へと発展する静かで緑豊かな小道の
写真を撮って来た。ホテルに戻ると講評会まであと二時間。

  写真を模造紙に貼らなければならないが、模造紙を買いにいく時
間がない。たまたま部屋にあった現地英字紙を広げて上に写真を並
べてみた。いけそうだ。新聞紙4枚に写真を各4枚づつドラフティ
ング・テープで張り付け、タイトルやコメントは別の紙に書いて
発表のときに張りつけることにした。

3  講評会:試みにバナキュラを定義する
  夕方4時すぎに始まった講評会で、最後の発表者の私が発表を始
めたのはすでに夜7時すぎであった。

「私は建築家ではないので、バナキュラについて思想的考察をする
」と始めた。

「私たちは生まれてから死ぬまでずっと建築空間の中で過ごす。
もし建築空間に思想があるならば、それは必ず私達の意識に影響を
与える。私たちは個別の建築空間のもつ思想が一体どんなものか、
知っておく必要がある。建築家が社会や時代の必要に応える一方で
、私たち市民にも私たちの必要としている建築とその思想を選びと
る能力が求められている」

「バナキュラとは何か。どこにもその定義はない。もしかすると
建築家の読んでいる新聞に何かヒントでもあるかも」と言ってから
、脇の机の上にたたんで置いていた新聞紙をやおら手にとり、その
中の一枚をホワイトボードの上に貼り付けた。赤いマグネットを、
話題にしている写真の横に移動させながら話をした。

1)  建築は人間の身体や意識と作用する
(写真1:草むらにぽつんとひとつある椅子)  これは椅子だ。誰かの
家で使われていたのが、要らなくなって捨てられたのか。バス停で
バスを待つ人のために誰かがおいたものか。かつては誰かの所有物
だった椅子は、今は誰のものでもなく、みんなのもの。

  これは椅子だ、もしその上に腰掛ければ。しかし、人はその上で
ヴァイオリンを演奏することもできれば、演説をぶつこともでき、
ものを売ることもできる。人間の働きかけ次第で、椅子は単なる
椅子でなくなる。椅子のおかげで行動の選択肢が広がる。

(2:道端の木陰の下のブロックの上で昼寝する労働者)  これは道路
。でも木陰とブロックがあれば、寝る場所になる。

(3:ホテルの裏にある緑あふれる裏道)  人間が楽しく暮らせる街へ
とKLを再開発するための鍵だとジミーがいう裏通り。下水のない時
代に、おしっこを捨てる場所として発達した。今はあまり利用され
ていないが、静かで緑あふれる空間であり、近道にもなり、食堂も
店を出す。

(4:闇の中に食堂の明かりが浮かぶ、ほとんど真っ黒な写真)  この
裏通りのレストランは昨晩深夜1時を過ぎてまだ賑わっていた。

2) 建築と人間の精神的な結び付き
(2枚目の新聞紙を、1枚めの新聞紙の上に20cmほど右にずらして張付
ける。1枚めの写真はすべて見え残る。以下3,4枚めも同様に)

(5: マレーハウス)  バナキュラな建築は、手に入る素材の質や最大
長、経済的制約など時代時代の様々な制約の中で発展した。

(6: 誰も住んでおらず封印されたマレーハウス)  時代が変わり、
この家には今はもう誰も住んでいない。

(7: 風雨によって変色したマレーハウスの板壁)  そこに誰もすま
なくなれば、家は取り壊されるだけだろうか。しかしこの変色した
板壁に愛着を感じないか。この壁が人間を雨や風から守ってきたの
であり、人間はこの壁の中で起居し呼吸していた。ノスタルジーは
時間の函数だ。

(8: 覆いのない排水溝)  衛生的には好ましくないかもしれないが、
地面に露出している排水溝。私が子供の頃は日本にもあった。そこ
はニワトリの水飲み場であり、草花が生えている。

3) 迷走モードで居心地良さを求める旅
(3枚目の新聞紙、写真9:バンサルバルの花屋の露台)  通常私たちの
移動には目的地があり、まっすぐそこに向かう。(「巡航モード」)

  目的地を定めず、心の赴くままに、居心地のいいところを求めて
さ迷い歩くのを「迷走モード」と呼ぶ。迷走モードの時は、バスか
歩くに限る。街の雰囲気を見ながら、気に入ったところに足を向け
、気のすむまでいればいい。

(10:花屋の売り子が客に向かって叫んでいる光景)  バンサルバルの
市場は夜遅くまで活気にあふれる。これは世界のどの国にもある光
景。人間が生きていく上で大切な場所だ。

(11: 中華街のラーメン屋、バスの切符付き)  ここは中華街だ、と
思う。地図なしで歩いていて私はここに迷いこんだ。迷走モードの
時は、概念としての街である地図は見ないほうがいい。目の前の
原寸大の生身の街を直視し見回して、街との対話を試みる。曲がり
角では自分を誘う方向を感じとる。

  人々のおいしそうな表情と匂いに誘われてラーメンを食べた。

(12: 中華街の健康茶屋)  健康茶屋。おとなも子供も入れ、家族一
緒に同じメニューを楽しめる。これは中国ならでは光景だろうか。
日本だと普通は子連れで喫茶店に入らないし、入ってもおとなと
子供で違うメニューを頼む。

4) 伝統乖離の中で適応を試みる全ての人のためのバナキュラ

(13: 中国系の観音寺)  華僑の移民は錫鉱山の鉱夫として始まった
。人間には食料、寝る家、着る衣服が必要だが、人間は機械ではな
いので、心や意識の世話をしてくれるものが要る。

  華僑は中国から観音寺をKLに輸入した。朝早くこの寺を訪れると
、出勤前の人々が線香をあげに来ていた。

(14: ブタの臓物鍋)  これは今朝ジミーと食べた朝食。ブタのあり
とあらゆる部位が入っている、錫鉱山ではたらく華僑が考案した料
理。ジミーによれば、これはバナキュラである。

  結局バナキュラとは、伝統的な環境から乖離し、隔絶してしまっ
た状況に生まれた人間が、少しでも居心地よく暮らしていくために
生活スタイルを適応させていくことではないか。式にすれば、

     バナキュラ=(伝統からの)乖離+適応(の意志と技術)

となり乖離・隔絶の中で適応する行為にバナキュラの本髄がある。
バナキュラは民族性や地理に従属する概念ではない。

(15,16: ジミー・リムとその家)  フランクは、ジミーの家をバナキ
ュラと呼ぶ。ジミーは、自分の家はバナキュラではないと言う。
ともに正しいとすれば、どうしてか。まるで禅問答だが。

  答え。バナキュラは生活スタイルである。一個人(建築家)は「バ
ナキュラに生きる」ことはできるが、「バナキュラになる」・「バ
ナキュラである」わけではない。バナキュラは目標(主観概念)では
なく、生じた結果がバナキュラになる(客観概念)。ジミー本人は自
分自身がバナキュラであることを自覚する必要もないし自覚できな
いが、彼の仕事を客観的に観察するフランクはジミーと彼の仕事を
バナキュラと評価できる。

(実はジミー本人は、「俺はオーストラリアで西洋の学問をやって
きた。バナキュラというのは地元に根付いた人間が模索して生み出
すものだから、俺はバナキュラではない」と言っていた。私は、
バナキュラは民族・地理概念から独立した概念だと思う。
海外で勉強したからバナキュラでないということはないのではない
か)

4 バナキュラを提案する敷地探し:乖離はどこに?
  4日めの朝到着したシンガポールで最初に驚いたのは、空港で乗
ったエレベータにG(地上階)のボタンがないことだった。元英領植民
地なのに、どうしてだろうといぶかった。パーティーの時に現地建
築家に聞くと、もともとはGがあったのだが10年ほど前にアメリカ式
に地上階を1階と呼ぶように改めたそうだ。

  空港から市内へと向かうバスの中で、ガイドさんが「シンガポー
ルは罰金の国(Fine Country)」だと教えてくれた。どうしてチュー
イングガムを食べることまで法律で禁止しないといけないのだろう
。法律で禁止されない限り何をしてもいいと国民が信じているのか
。国民の倫理・道徳を政府が信用していないだけなのか。

  昼すぎにウィリアム・リムの事務所を訪れ、スライドを交えなが
らシンガポールの建築の歴史の講義を受けた。初期の公団住宅に、
銭湯の下足入れに似た形状のものがあった。

  ペダン広場に面して旧植民地総督府時代からの最高裁判所、市庁
舎がある。「今何の用途で使っているのですか」と質問すると、
リム氏は「韓国では日本の植民地政府の建物を取り壊したが、ここ
では昔のまま使っている」とやや弁解がましく言った。
後で若手の建築家たちに、市庁舎はどのように利用されているのか
聞いたところ、「生まれてから一度も入ったことがない。どんな
用途で使われているのか全く知らない」そうだ。そんなわけのわか
らない建物が保存の対象になっている。

  夜の交流パーティーでは、シンガポールの若手建築家が手掛けた
いくつかの住宅の紹介が行われた。家の設計コンセプトに、透明性
、開放性と、シェード(覆い)、プライヴァシーという一見対立・矛
盾する概念が併存しているにもかかわらず、その超克なり調整は誰
も問題にしなかった。

  翌5日めはバスで郊外の住宅団地を見学した。道路に面したマンシ
ョンの壁には、独立記念日を祝うための国旗が張り付けられていた
が、その画一的で創意工夫のなさはむしろ白々しかった。

  道路から見えにくい建物の裏手の壁では、物干竿が壁からニョキ
ニョキまっすぐに突き出していた。多いところでは、ひとつの窓か
ら物干竿が30cmくらいの間隔で5,6本突き出ている。不揃いな鯉のぼ
り、あるいは大きさにばらつきのある万国旗といった風情で、ちょ
っとお祭り気分になれる。この光景に興味をもった私は、リム氏が
設計したコミュニティーセンターの見学をさぼって、近くの団地の
裏庭で洗濯物干しの現場を見て回った。

  その後、我々はインド人街を駆け足で通り抜け、中華街で解散し
自由行動となった。
私は中華街からペダン広場まで歩いたが、くつろげる場所が少ない
のに驚いた。どこもかしこも古い建物を壊して新しく人工的な環境
を作っているという印象を受けた。
中華街の外れにあった古壁(修繕の後がなまなましい)のほかには、
孔子廟や寺にしか興味はわかなかった。

  ペダン広場の両端には、シンガポール・クリケット・クラブと
シンガポール・リクリエーション・クラブが陣取っていたが、とも
に金持ち以外の人を寄せ付けない排他性を体現していた。街の真ん
中の広場なのに、散策する人影もなく、広場は死んでいた。

5 バナキュラの提案:どのような適応が可能か
1)  6日めは朝から提案発表の準備だった。何を提案するかを決める
ためには、何が問題かを探りあてる必要がある。私がシンガポール
で感じた乖離(疎外)は以下のものである。
・植民地時代のまま市庁舎や裁判所が厳然と残る歴史的乖離
・市中心の広場に一般市民を寄せ付けない排他的なクラブが陣取る
  社会的乖離
・寺など心を癒すものがない住宅団地における文化的乖離
・人工国家の独立記念日を形式的に祝う自己からの乖離
・開放性と秘密性という矛盾する建築コンセプトの共存
・ささいな道徳を法律化しなければならない道徳的乖離

  上記それぞれへの適応提案を検討しようとしたが、どれも一筋縄
にはいかない。植民地や階級といった歴史的・社会的現実や国民の
深層心理に直接係わるからだ。

  一方で、シンガポールで面白かったのは、
・建物の階数表示を英国式から米国式に改めた実績
・団地での洗濯物の干し方
・中華街に孔子廟や寺を持ち込んでいる(KLと同じ)

2)  バナキュラ建築では手元にある素材を有効利用する。私が集め
たもののうち素材として使えそうなのは、階数表示の変更の実績、
団地の洗濯物干し、中国寺くらい。
物干し竿と中国の神様を融合させて団地の文化乖離に適応すること
を提案することにした。

  発表はラサールギャラリーで午後2時半から、ウィリアム・リム氏
と現地の学生を前にして行われた。私が最初の発表者だった。

  私はまずKLでの経験を説明し(3の発表の繰り返し)、「世界初」の
バナキュラの定義を披露した。ついでシンガポールで見つけ感じた
様々な乖離を説明し(6. 1))、最後に以下の適応提案を披露した。

3) (適応提案) 物干し竿は宗教と家を結ぶ絆となるか
ー 文化的乖離や道徳的乖離を乗り越えるために
  画用紙上には、赤や緑の派手な色づかいの中に鎮座する孔子像、
竜や舟に覆われた寺の屋根の写真を左上部に、色とりどりでありと
あらゆる衣類を釣り下げて団地の壁から突き出す物干し竿の写真を
左下部に並べた。そして両写真の右側に線をひいて結び付け(融合さ
せ)、「あなたの神様をアパートから吊るそう! 何が起きるかな?
」、「あなた自身の物干竿をあなたの神様で作れるかい?  あなた
自身のお祭りをやってみよう!」と注釈を書いた。

6  終わりに: 現代思想の源流への旅
  無事東京に帰って成田空港の手荷物引き取り所の近くで、最後の
打ち合わせをしていたら、空港の警備の人から「すぐに立ち去るよ
うに」と二回も注意されてしまった。
都内に向かうリムジンバスからの眺めは、少しもくつろぎを与えて
くれなかった。

  この旅で、私は「バナキュラ」というツールを獲得したのかもし
れない。バナキュラとは、概念にとらわれず、あるがままの現実を
見つめ、さまざまな制約の中で手元にある素材を有効利用して、少
しでも居心地のいい環境へと作り変えていく生活スタイルだ。東京
でより人間らしく生きていくために、まずそこにどのような居心地
悪さ(乖離・疎外)があるかを理解し、ついで自分の手元にどんな材
料があるかと探してみる必要があるのではないか。

  帰国を待ちうけるかのようにジミーからメールが入っていた。
「(略)建築ってのは、終わりがない問題だ。私自身今でも建築とは
何かを求めかつ学び続けている。宗教は何かって聞かれると、私は
『建築だ』と答えるんだが、みんな驚くね。(略)」(23July)

「(略)私は解決を求めている人たちに、まずおばあちゃんの台所を
覗いてみることだと言っている。忘れていたり、存在すら知らなか
ったたくさんの面白いものが見つかるはずさ。それから台所の戸棚
の中を覗いてごらん。きっとびっくりするから」(26July)

  構造主義やモダン、ポストモダンなど現代思想に建築が与えた影
響は大きい。ジミーのメールを読んだ後で私は、もしかするとバナ
キュラこそが人種や国籍に関係なく共通に現代の人類が求めている
思想ではないか、と思った。もしそうだとすれば、今回の旅は新し
い現代思想の潮流の水源を訪ねた旅だったということになるのだろ
う。(8Aug 1998)
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得丸さんの、異文化にあこがれる〜のコラムを拝見しました。私は夫の
海外赴任でこの夏、フランスに行くことになりました。赴任が近づ
くにつれ、異文化のなかで、うまくやっていけるのか。。等々、
不安な気持ちでいっぱいになっていました。そんな時、ネットで検
索していたらこのコラムが見つかりました。異文化に対する考え方など
、とても参考になると同時に肩の力を抜き自然に過ごしてみようと
思いました。実際行ってみると、どう感じるか分かりませんが、
その国の良いところも悪いところも、自然に受け止め、社会的に
大人になれればと思います。大した意見ではありませんが、コラム
を読んで、少し嬉しくなったので、感想をお送りしました。。
COO


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