889−2. 異文化交流術 20



異文化交流術 20 ソフトウエア・アナロジー

 異文化交流術は、文化というソフトウエアを異にする人間同士が
、いかにすれば不要な誤解なく交流できるかについての術である。
そのためにはまず、文化とは何かをきちんと理解しておかねばなら
ない。

 この異文化交流術では、文化は一貫して「人間というハードウエ
アの中にある心(意識)にインストールされるソフトウエア」として
扱う。私たちは、どのようなソフトウエアを、どのようにしてイン
ストールしなければならないのか、インストールした後は何をしな
ければならないのか、そもそも文化ソフトウエアとは何かについて
、もっとよく知っておかなければならない。

・ 時空間による制約
 これまで文化と時間、文化と空間について、論じてきた理由は、
まず第一に、文化を自分の身につけるにあたって、今私たちはどの
ような時代の、どのような環境の中に生きていて、どのような文化
を身につけること、獲得することが必要であるのかを意識しなけれ
ばならないからである。

 第二には、私たちが何か文化を身につけようとするときには、
必ずどこかの具体的な環境(空間)の中で行なわれなければならない
ということ、そして、それぞれ獲得するためには時間を要すること
を確認しておきたかったからだ。

 つまり文化は、たとえば学校、家庭、地域社会、職場、外国、大
自然、大海原といった具体的な場所で獲得される。それぞれの文化
によって、獲得するのに最適の場所がありうる。また、文化は一瞬
にして身につけられるものではない。たとえば、英語を覚えるとき
に、英語という丸薬を飲めば覚えられるというものではない。かな
らず時間をかけて身につけていくものである。

・ 運命ではなく環境と選択
 文化はしばしば国民国家のイデオロギーを補強するために使われ
てきた。民族主義者たちは「運命愛としてのナショナリズム」など
というスローガンを臆面もなく使うので、文化も運命的なもの、
運命決定論的なものとして誤ってとらえられることがある。

 たしかに生まれてくる国や家庭を選べないという点では、運命的
なところがないわけではないが、文化はあくまで後天的に獲得する
ものである。同じ国の同じ町で同じ日に生まれ落ちたとしても、
それぞれ家庭の事情や本人の好き嫌いや得手不得手によって違った
文化獲得をしていく。

 論語に、「我は生まれながらにしてこれを知るものに非ず。古を
好み、敏にして以てこれを求めし者なり」とあるように、文化は
先天的なものではなく、本人が主体的に求めて獲得するものである。

・ 文化はソフトウエア、だから軽い
 青木保氏は、「異文化理解」(岩波新書、2001年)の中で、「文化
はハード」だと言われる。

「これまで文化は、どちらかというと軽いもの、ソフトなものとし
て考えられてきました。けれども、現実には人間の生き方は文化に
よって深く規定されます。少なくとも日本国内で一般的に日本人と
して生まれた以上、生まれたときから日本語と日本文
化という世界に浸っているわけですし、そこではいろいろな異文化
の影響を受けると同時に、日本的な価値観とか、人間社会や社会関
係、組織や制度のあり方から衣食住にわたって、簡単に消しさるこ
とはできない日本文化を背負って存在しなければなりません。日本
人として日本文化の影響が食べ物から何から想像異常に深く自分の
体内にしみ込んでいることは、少しでも外国で生活してみれば、明
らかになります。このグローバルな時代にあってこそ、いまや文化
は実は非常に重いものであると、認識し直さなければならないよう
に思えるのです。(略)
 文化を重いものとして捉え、その姿をきちんと見据えていかなけ
ればならない時代になったといまさらのように感じます」

 青木氏は、文化はハードであってソフトではない、軽くなくて重
いと言っておられる。これが、文化は人間の生き方を「深く」規定
するということを意味しているならば、紛らわしく、混乱を引き起
こす可能性のある表現ではないだろうか。なぜならば、コンピュー
タの場合でも、コンピュータの機能や性能を深く規定するのは、
ハードウエアでもあり、ソフトウエアでもあるからだ。コンピュー
タが動かない時、それがハードの問題なのか、ソフトの問題なのか
、切り分けることが重要である。

 もし「深い」ということが言いたければ、deepとか、profoundと
いうべきだ。反対語もソフトではなく、shallow とかsuperfacialで
はないか。

 人間の場合でも、ハードウエアとソフトウエアの問題を切り分け
ることができる。
たとえば人間の目は0.4マイクロメータから0.7マイクロメータまで
の光線しか見えない。動物のように毛皮がないので、裸で岩山や草
原に寝泊まりすることはできない。
これらはハードウエア上の制約、限界である。

 しかし、たとえば、日本人は家の中で靴を脱ぐが、アメリカ人は
靴を脱がないとか、日本人は釣り銭を引き算して渡すが、フランス
人は足し算して渡す(物の値段をまず数えて、それに客が差し出した
金額になるまで釣り銭を足していく)というのは、ソフトウエアの問
題である。

 なぜこれがハードウエアではなくて、ソフトウエアかというと、
長らくフランスに住んだ日本人は、そのようにして釣り銭を数える
こともできるようになるからだ。最初のうちは、相手が何をぶつぶ
つ言っているのかさっぱりわからない、なぜ釣り銭を小出しにする
のかチンプンカンプンだったのが、慣れてくると、相手の声が耳に
入り、相手が何を数えているのかがわかるようになる。あるいは、
靴のまま家に上がり込んでくる現地のアメリカ人に、どうすれば靴
を脱いでもらえるかを知るようになり、何度もその家を訪れるアメ
リカ人は、そこでは靴を脱ぐものだということを理解する。

 つまり、私がハードウエアかソフトウエアかというのは、物理的
に可能かどうかがハードウエア上の問題であり、発想の転換や教育
によってソフト的にそれができるようになれば、ソフトウエアの問
題である。そして、文化的な問題はほとんどがソフト的に解決可能
な問題である。

 たとえば、日本人はLとRの発音を聞き分けられないし、発せられ
ない人が多いので、これはハード的な問題ともとれるが、日本人で
も幼少の時にそれらの発音を強制されれば、「耳ができて」ちゃん
と使い分けられるようになることを考えると、やはりソフト的な問
題といえる。日本でもおけいこごとをする際に、6才で始めなけれ
ばならないといった言い伝えはある。(「風姿花伝」) LやRの発音
も先天的な問題でないことは確かだ。それらは後天的に獲得するも
のなのだ。

 日本的な価値観を身に付けた人間であっても、外国のルールを理
解し、それに従って行動することができるのである。フランスの匂
いのきついチーズが食べられなかった人が、何年か住むうちにそれ
が大好きになった例も多い。外国人であっても、日本の味噌や納豆
を好きになった人(もともと好きでなくても、時間とともにだんだん
と好きになるのである)はいる。

 自分の生まれた国の文化を身につけるのも一苦労なのだから、他
の国や地域の文化を身につけるのはもっと大変である。しかし、今
の日本にはフラメンコやフラダンスのグループが実にたくさんある
。彼女たちはそれを楽しみながらやっている。異文化も楽しめば、
早く身につくというものだ。

 論語にいう。「これを知る者は、これを好む者に如かず。これを
好む者は、これを楽しむ者に如かず」と。これも文化獲得にあたっ
てあてはまることである。

・ コンピュータソフトウエアとの類似点
 文化はコンピュータソフトウエアみたいなものだという以上、
コンピュータソフトウエアと文化の類似点を整理してみたい。

1) マシン語からOS、さらにアプリケーションに至る垂直構造
 文化の場合も、普段はまったく意識されない無意識に近い部分が
ある。これがマシン語。OSというのは、時代時代によって、バージ
ョンが異なっている。人によって、オプションをオンにしている場
合と、オフにしている場合がある。そして、茶の湯、俳句、武道、
日本料理、活け花、米づくり、庭師や畳職人などがアプリケーショ
ンに該当するのではないか。

2) バージョン管理
 OSの場合、どの時代に文化獲得したかで、多少異なっている。い
わゆる世代である。
教科書墨塗り世代、ベビーブーム世代、高度成長世代、バブル世代
などなど、あまり安易な世代論はよくないが、それでもなおかつ
世代の問題はある。
 たとえば、高度成長期に育ったが、小学生のときに浅間山荘事件
をテレビで見た我々の世代は、戦後民主主義Version3.1ではないだ
ろうか。学生運動でゲバ棒を振り回して暴れることにはまったく興
味がなかった。

3) フリーソフトからライセンス料を取るものまで
 いわゆる家庭の味とか、おばあちゃんの知恵袋といったフリーソ
フトから、草月流や合気会のように級や段位のライセンスを与える
ものまで、文化にはいろいろある。

4) インストール後のトレーニングとオペレーションも大切
 コンピュータのソフトウエアはこのところ自動的にインストール
できるものが増えたが、人間の文化はそれほど簡単ではない。だが
、むしろ問題は、インストールしたあとに、その文化を使いこなし
て行くことである。使いこなして行くうちに、だんだんと自分の技
や裏技も身につけることができる。 

5) 複数のOSやアプリケーションを切り替えて使うこと可能
 自分が複数のOSやアプリケーションをインストールしておれば、
相手のソフトウエアに応じることができる。たとえば、外国語を知
っていれば、その言葉を話す外国人とコミュニケーションすること
ができる。完全にバイリンガルの人の場合には、今自分がいる場所
や相手の人の使っている言葉に応じて、OSを切り替えて使うことが
できる。

・ 何が文化か、何がソフトウエアか
 さて、どのようなものが文化なのだろうか。羅列してみた。
1) コミュニケーション(言語、苗字と名前の語順、表情やしぐさ、
敬語、詩や絵画や彫刻)
2) 生産、ものづくり
3) 儀礼・冠婚葬祭・宗教、
4) 法・道徳、道、
5) 家事(料理、衣食住
6) 遊び、スポーツ、武道
7) 医療
8) 計算
9) 政治文化、歴史(?)、イデオロギー(?)
10) 思想
 歴史やイデオロギーは単なる概念であって、文化と呼べないかも知
れない。

・ コンピュータとの最大の相違点:ハードウエアの退化、インス
トールの難しさ
 コンピュータとの最大の相違点は、人間のハードウエアはどんど
ん退化していることだ。走る早さも、噛む力も、自然治癒力も、
どんどん弱くなって、座敷犬のようになっていっている。そこに
ソフトウエアをインストールするときに、退化したハードウエア上
で昔と同じソフトウエアが走るのかという疑問もわく。

 また、かつては、村単位での共同作業もあったし、大家族や同年
の仲間といっしょに意識形成していたから、文化獲得が比較的容易
であった。今は、共同作業の必要もないし、多くのコツを必要とす
ることも家電製品に自動化されてしまった。また核家族ごとにバラ
バラに住んでいるし、兄弟の人数もへってしまって、子供たちが
文化を獲得する場面が減ってきている。

 過保護な環境に暮らすと、何も文化を身につけなくても生きて行
ける。そのため文化のインストールがきちんと行なわれない、文化
的に空白の子供たちが育つ可能性がある。ゆゆしき事態である。
(2002.04.30)


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