879−2.北朝鮮拉致リスト更新



★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2002.4.19) 

(拉致問題に関する参考文献)

横田早紀江著『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』
                                         (草思社・1500円)
安明進著『北朝鮮拉致工作員』(徳間書店・1500円)
石高健次著『金正日の拉致指令』(朝日文庫・660円)
石高健次著『これでもシラを切るのか北朝鮮』(光文社・848円)
高世仁著『娘をかえせ 息子をかえせ』(旬報社・1500円)
高沢皓司著『宿命 「よど号」亡命者たちの秘密工作』
                                        (新潮文庫・857円)
恵谷治著『金正日大図鑑』(小学館・1800円)
ジン・ネット北朝鮮問題取材班著『追跡!北朝鮮工作船』
                                      (小学館文庫・495円)
西岡力著『暴走する国家・北朝鮮』(徳間文庫・495円)
西岡力著『闇に挑む』(徳間文庫・590円)
張 龍雲『朝鮮総連工作員――「黒い蛇」の遺言状』
                                      (小学館文庫・495円)
寺越友枝著『北朝鮮にいる息子よわが胸に帰れ』
                                        (徳間書店・1500円)
佐藤勝巳著『日本外交はなぜ朝鮮半島に弱いのか』
                                          (草思社・1400円)


★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
発行:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会
TEL 03-3946-5780/FAX 03-3944-5692 
http://www.asahi-net.or.jp/~lj7k-ark
〒112-0015 東京都文京区目白台3-25-13
担当:事務局長 荒木和博
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

■拉致リスト更新・松木薫さん氏名公開

 このたび、スペインからよど号グループに騙されて拉致された松
木薫さんの氏名を公開することになりました。

 松木さんについてはすでに一部マスコミで写真が出たものの、
氏名はイニシャルのままでしたが、熊本の会の加納会長が親族に会
うことができ、公開についての了解を得、熊本の会の理事会で決定
したことにより、こちらのリストも実名を掲載して更新することに
したものです。すでに熊本の会では11日、実名を出して街頭署名活
動を行っています。

 松木さんと札幌出身のIさんについては警察も北朝鮮による拉致
と認定する可能性のあることを示唆しており、今後はその方向に向
けてこちらも働き掛けていくことになると思います。

★拉致事件関連資料
(救う会全国協議会作成・平成14年4月19日改定)

政府が北朝鮮による拉致と特定している「8件11人」
 
(1)久米裕さん
 昭和52(1977)年9月19日、東京都三鷹市役所で警備員をしていた
久米裕さん(当時52歳)は、能登半島の宇出津海岸から北朝鮮に拉
致されている。久米さんの足どりは宇出津海岸の旅館で途絶えてお
り、久米さんをその旅館まで連れていった在日朝鮮人Rが外国人登
録法違反で逮捕され、次のように自白した。
 「北朝鮮工作員から『52,3歳の日本人男性で身寄りのない者を北
朝鮮に拉致すること。頭の程度は問わない。戸籍謄本を取らせて
9月19日夜、能登町宇出津海岸で待っている工作員に引き渡せ』と指
令を受け、金に困っていた久米さんに近づき、密貿易を手伝わない
かとだまして、戸籍謄本をとらせて宇出津海岸の旅館まで連れて行
き、昨夜、海岸で待っていた北朝鮮の工作員に久米さんを渡した」
 東京のRの自宅から乱数表、暗号解読表等の証拠も押収されてい
るが、Rは「出国時の意思」を久米裕さんから確認できないことを
理由に起訴は見送られ、外国人登録法違反でも不処分のまま釈放さ
れている。

(2)横田めぐみさん
 昭和52(1977)年11月15日夕刻、新潟市の中学校から帰宅する途中
で拉致された。この事件は平成8年10月号『現代コリア』に朝日放送
の石高健次氏が寄稿した論文で言及されていた「中学校一年生の少
女拉致」が端緒となり、同年末その少女が横田めぐみさんであるこ
とが判明、翌平成9(1997)年1月23日西村真悟衆議院議員(現自由)
が政府に質問書を提出、さらに2月3日には予算委員会で質問し、
橋本総理も調査中であると答弁した。
 政府は平成9年5月1日の参議院決算委員会の吉川芳男議員(自民)
の質問への答弁を通じ北朝鮮による拉致事件として認定したことを
明らかにした。アベック拉致と同様無線傍受などの情報によって特
定したものと考えられる。この事件は当初工作員が海岸に来ためぐ
みさんに見つかり、工作活動が発覚するのを恐れて拉致したと言わ
れていた(当初この情報をもたらした亡命工作員及び亡命工作員安
明進氏が聞いた話)が、その後現場の状況の調査などから、遭遇で
はなく自宅近くで待ち伏せされて(個人名を特定しない、「若い女
性」などの指示による)拉致されたものと思われる。安明進氏の
情報は北朝鮮の工作員養成機関「金正日政治軍事大学校」の教官か
ら伝えられたものだが、安氏によれば、「想像だが暗くて年齢が分
からず、拉致してみたら子供だったので、『見つけられたので拉致
した』ということにしたのではないか」とのことである。
 
(3)田口八重子さん
 昭和53(1978)年6月に東京高田馬場のベビーホテルに3歳と1歳の
幼児を預けたまま拉致された。朝鮮語や政治の教育を受けた後、
昭和56(1981)年7月から58(1983)年3月まで大韓航空機爆破事件の
犯人金賢姫の日本人化教育係を勤める。北朝鮮では「李恩恵」と呼
ばれた。
 昭和63(1988)年1月、金賢姫がソウルで行った記者会見によって
その存在があきらかになったが、事件後2人の子供を養子として育
てていた田口さんの兄と姉が子供への影響を考えて申し出ず、特定
するのに時間がかかった。
 平成3(1991)年5月15日、埼玉県警は記者会見をして、匿名での
報道を条件に「李恩恵」は埼玉県出身の田口八重子さんと判明した
と発表し、「李恩恵が船で日本から引っ張られたと金賢姫に言って
いることから、拉致の可能性も含め、刑事事件として捜査を行なう
」と述べた。その5日後の5月20日から北京で開かれた第3回日朝国
交正常化交渉の日本側は「李恩恵」の消息調査を求めたが、北朝鮮
側は激しく反発した。第4回から第8回までの日朝交渉では日本側は
本交渉ではなく次席代表同士の実務協議の場で持ち出し、真相の究
明を求めた続けた。北朝鮮側はこれを不満として第8回交渉でその
ことに言及すること自体認められないとして会談は決裂し現在に至
っている。
 
(4)地村保志さん(5)浜本富貴恵さん
 昭和53(1978)年7月7日午後7時40分頃、福井県小浜市の海岸に近
い国道沿いのレストランを出た後、拉致された。地村さんは当時23
歳の大工見習い、浜本さんは当時22歳。海岸を見下ろす展望台に
地村さんの乗っていた軽トラックが鍵のかかったままで残されてい
た。2人は9日前に結納を済ませたばかりで、自らの意志で失踪すべ
き理由はない。金賢姫は招待所(拉致された日本人から工作員教育
を受けた秘密施設)の世話係の女性から「ある招待所に日本人で
大工仕事を上手にこなす男性がいた」と聞いたと証言しているが、
地村さんではないかと推測される。
 
(6)蓮池薫さん(7)奥土祐木子さん
 昭和53(1978)年7月31日、午後6時に新潟県柏崎市の海岸から250
メートル離れた図書館で待ち合わせをした後拉致された。蓮池さん
は当時20歳で帰省中の中央大学の学生、奥土さんは当時22歳の美容
指導員。蓮池さんは夏休み後に提出するレポートを書き上げたばか
りで、奥土さんは職場の店長に「コーヒーを一杯飲んだら帰るわ」
といって出かけており自らの意志で失踪すべき理由はない。海岸近
くに林があり、そのあたりで拉致されてゴムボートのある地点まで
移送されたものと思われる。
 
(8)市川修一さん(9)増元るみ子さん
 昭和53(1978)年8月12日、鹿児島県日置郡吹上町の吹上浜に自家用
車を残したまま拉致された。市川さんは当時23歳で鹿児島市の電電
公社(現NTT)職員、増元さんは当時24歳で事務員。車はロック
され、助手席には増元さんの手提げバックとカメラが置いてあった
。バックの中にはサングラス・財布・化粧道具などがそのまま残さ
れ、車内はまったく荒らされた形跡がなかった。なお、市川さんに
ついては安明進氏が金正日政治軍事大学で何回も目撃し話をしたこ
ともあると証言している。

(10)原敕晁(ただあき)さん
 昭和55(1980)年6月、北朝鮮工作員辛光洙らによって宮崎県青島
海岸から北朝鮮に拉致された。原さんは当時49歳で、李三俊・在日
朝鮮人大阪府商工会理事長の経営する中華料理店「宝海楼」の店員
をしていた。その後辛は原さんになりすまし日本に入国。パスポー
ト、運転免許証、国民健康保険証まで取得し、海外にも出て対南工
作を続けていた。辛は昭和60(1985)年2月、原さん名義の旅券を持
って韓国に入国し逮捕され、韓国当局の取り調べによって原さん拉
致事件が明らかにされた。辛は平成11(1999)年12月31日恩赦で釈放
され、金大中政権の「非転向長期囚送還」によって翌12年9月2日
北朝鮮に送られた。

(11)有本恵子さん
 有本さんは昭和58(1983)年8月9日、ロンドンでの語学留学から
帰国する予定の当日実家に「仕事が見つかる 帰国遅れる 恵子」
という電報が実家に届いた。その後10月中旬にコペンハーゲンから
手紙が届いたのを最後に音信が途絶える。有本さんが北朝鮮にいる
ことは札幌市出身のIさん(男性・下記18)から昭和63(1988)年
9月6日に実家に届いた手紙で分かった。手紙には有本さん・Iさんの
写真や住所と松木薫さん(男性・下記19)の名前などが書かれてい
たという。手紙はポーランドから送られており、封筒の裏には「I
より 平壌にて」と書かれていた。最近になってこの手紙に有本恵
子さんとIさんの間にできた子供と推定される乳児の写真が添えら
れていたことが分かった。有本さんの事件は実行犯の1人八尾恵氏の
証言に基づき政府が平成14年3月11日北朝鮮による拉致事件と認めた
が、Iさん、松木さんについてはまだ政府は拉致事件と認定してい
ない。

政府が北朝鮮による拉致未遂事件としている事件 
富山のアベック拉致未遂事件
 昭和53(1978)年8月15日、富山県高岡市の雨晴海岸で、アベックが
4人組の男に襲われた。2人は捉えられ、縛られた上、頭から布袋を
被せられた。その状態で寝かされていたが、犬の鳴き声が聞こえた
後、男たちはその場を離れ、2人は逃げ出して難を逃れた。袋や猿ぐ
つわ、手錠などの遺留品は日本のものではなかった。この事件以後
アベック拉致は行われていない。

政府がまだ認定していない拉致事件

(12)寺越昭二さん(13)寺越外雄さん(14)寺越武志さん
 昭和38(1963)年5月11日、石川県志賀町に住む寺越昭二さん
(当時36歳)、外雄さん(同24歳)、武志さん(同13歳)は漁に出
て行方不明となり、船だけが沖合いで発見された。昭二さんは寺越
嘉太郎さんの二男、外雄さんは四男、武志さんは長男太左衛門さん
・友枝さん夫婦の息子。
 失踪から24年後の 昭和62(1987)年1月22日、外雄さんから姉に北
朝鮮で生活している旨の手紙が届いた。太左衛門さんと友枝さんは
8月、平壌を訪れ外雄さんと武志さんに会った。昭二さんについては
このとき昭和43(1968)年に病気で亡くなったと伝えられた。友枝
さんはこのとき以来度々北朝鮮を訪問、武志さんに会っている。
外雄さんは平成6年秋に亡くなった。
 安明進氏はこの事件と推定される事件について先輩工作員から聞
いており、それによると昭二さんと思われる人物は拉致の現場で
抵抗して射殺され海に沈められたとのこと。また、安氏は武志さん
と思われる人物が金正日政治軍事大学の中(物資の集積をする基地
)で働いているところを直接見たと言っている。

(15)福留貴美子さん
 昭和45(1970)年3月に起きた赤軍派グループによる日航機ハイジ
ャック、いわゆる「よど号事件」の犯人の一人、岡本武の夫人であ
る。独身だった犯人たちを結婚させるため、色々な手段が使われた
が、福留さん以外(いわゆる「よど号の妻たち」は結婚は考えてい
なかったとしても全員が主体思想研究会などの親朝団体の会員ない
し何らかの関係を持っており、少なくとも北朝鮮までは自分の意志
で行った人々である。福留さんだけはモンゴルにあこがれて渡航の
方法を調べていたことなどを利用され、騙されて出国し、拉致され
た上で無理矢理結婚させられた。昭和51(1976)年のことである。
 その後岡本と福留さんは北朝鮮からの脱出を企て逮捕され、収容
所に送られたという。もともと岡本の妻は現地の女性ということに
なっていた。それをジャーナリストの高沢皓司氏の得た情報をもと
に朝日新聞の記者が日本人福留貴美子であるとつきとめ、平成8
(1996)年8月7日付で報じたが、その2日後によど号グループが流し
た情報と思われる「福留さんは岡本と共に昭和63(1988)年頃事故
死した」との報道が各紙に報じられた。本当の生死はまだ分からな
い。なお、福留さんは昭和55(1980)年に一度帰国し、3月に横浜の
友人の家に立ち寄ったことがある。何らかの工作活動に利用された
ものと推定される。政府は福留さんがこの年6月に出国したとしてい
る。これと高沢皓司氏の著書『宿命』の記述その他の情報を総合す
ると、家族や知友人との接触を厳禁されていたのを無視して友人に
会い、その後高知の実家に帰ろうとして監視者に捕まり6月まで監禁
された上で北朝鮮に帰された(あるいは福留さんは工作船などで北
朝鮮に送られ、6月に福留さんを擬装した別人が出国した)ものと
思われる。
 
(16)田中実さん
 田中さんは昭和24(1949)年生まれ、神戸市東灘区に住む身寄り
のないラーメン屋店員だった。店を経営していた韓という朝鮮人が
工作員で、「海外旅行に行く」と言って誘われ、昭和53(1978)年
6月6日に成田を出国、ウィーンに向かった後消息を断っている。
ウィーンで拉致されモスクワを経由して平壌に至ったと思われる。
 田中氏については、北朝鮮工作員の指導の下日本国内で活動して
いた地下工作員、張龍雲氏の証言によって明らかにされた(後掲参考
図書参照)。また、この事件については平成8(1996)年12月12日の
兵庫県議会警察常任委員会で大前繁雄県議が質問しており、大橋県
警警備部長は「当該人物の行方については、拉致された可能性も含
めて慎重に調査をしている」と答弁している。
 
(17)小住健蔵さん
 小住さんは北海道出身で昭和36(1961)年に行方不明になってい
た。昭和55(1980)年頃北朝鮮に拉致されたと推定されている。
昭和55年6月、朴という工作員が小住健蔵名義のパスポートを取得、
海外に6回にわたって渡航していた。朴は昭和60(1985)年に指名
手配されたが、現在も逮捕されていない。
朴は小住さんに成り代わる前、小熊和也さんという男性を拉致しよ
うとし、この男性が病死したため小住さんをターゲットにしたとさ
れている。
 
(18)Iさん(19)松木薫さん
 (17)有本さんの事件で出てくる2人の男性。有本さんは平成14年
3月11日政府が北朝鮮による拉致と認めたが2人はまだ認められてい
ない。
 Iさんは札幌市出身、ヨーロッパ旅行中の昭和55(1980)年に
消息を絶ち、昭和63(1988)年9月6日に実家に手紙が届いた。
そこには有本さんの写真や住所と熊本市出身の留学生(京都外大大
学院生)松木薫さん(男性)の名前などが書かれていたという。
手紙はポーランドから送られており、封筒の裏には「Iより 平壌
にて」と書かれていた。最近になってこの手紙に有本恵子さんとI
さんの間にできた子供と推定される乳児の写真が添えられていたこ
とが分かった。

※以下の氏名未詳者については、氏名の記載されている被拉致者、
あるいは後掲の「可能性のある事件」の失踪者と重複している可能
性もあります。
 
(20)Aさん
 安明進氏の証言で何人かの新たな日本人被拉致者が明らかになっ
たが、そのうちの一人。男性で時期は1970年代末から80年代初め。
北海道で電気製品を配達する仕事をしており、その仕事の途中で拉
致された。届けた荷物の領収書に拉致する対象であるとする符丁が
書いてあったという。身長は160センチ弱。
 
(21)Bさん(22)Cさん
 安明進氏が金正日政治軍事大学で見かけた女性の日本人教官。二
人とも現在の年齢で40代後半ぐらい。Bさんは髪が肩くらいまでの
長さ。色白、少し老けて見えた。Cさんは横田めぐみさんより少し
背が低い。後述Dさんとよく話をしているのを見かけた。
 
(23)Dさん
 安明進氏が金正日政治軍事大学で見かけた男性の日本人教官。
めがねをかけていた。30代前半に見えた。身長170センチ位。体格
がいい。
 
(24)Eさん
 安明進氏が平成2(1990)年10月頃爆破訓練用の模擬放送局で見
かけた女性。身長160センチ以上で、当時30代半ばに見えた。タバ
コを吸っていた。
 
(25)Fさん
 1991年8月、安明進氏が訓練中にけがをして入院した915病院で会
った。同じ入院患者の女性。当時30代半ばに見えた。
 
(26)Gさん
 安明進氏が915病院で盲腸手術を受けようとしていたとき見かけた
男性。70歳近くに見えた。
 
(27)Hさん
 田口八重子さんが、1979年頃平壌市内の大聖山遊園地の食堂でお
見合いさせられた相手。当時40歳ぐらいに見え背が低かった。田口
さんは入り口から入ってくるその男性を見てそのまま席を立ってし
まったという。金賢姫が石高健次氏に証言している。
 
(28)〜(44)
 よど号関係者のかなり確実な情報によると、よど号グループが
ヨーロッパ等で拉致した日本人は上記(17)〜(19)を含む合計20人だ
という。すなわち残り17人の被拉致者が存在することになる。 

(45)Iさん
 1999(平成11)年3月14日付産経新聞朝刊及び週刊朝日3月26日号
に掲載された。韓国に亡命した元労働党調査部工作員が拉致を実行
した工作員と親しい教官から聞いた話。1980 年代の中ごろ西日本の
海岸から、柔道と思われる格闘技にかなり熟達した男性が3人がかり
で拉致された。
 
(46)Jさん
 (45)と同じ産経及び週刊朝日に掲載された。亡命した元労働党作
戦部工作員((45)の亡命者とは別人)の証言による。1979(昭和54)
年から1980年に海岸の公園で午後7時から8時頃、20代の男性がデート
をしていた女性と別れた直後に拉致された。
 
(47)Kさん
 韓国に亡命した元工作員車成根氏が工作員指導員から聞いた話。
海岸から日本に潜入した工作員が公園を散歩していた20代の男性1人
を襲い麻酔をかけて清津に運んだという。
 
北朝鮮による拉致の可能性のある事件(順番は失踪時期の順による)
 
 以下の事件はあくまで「拉致の可能性のある失踪事件」であり、
前に述べたような確定的事件ではありません。北朝鮮による拉致で
なく、日本国内で無事見つかればそれにこしたことはありません。
その意味で北朝鮮に関係ないものでも構いませんので以下の方々に
ついて何か情報がありましたらご連絡下さい。
なお、救う会関係者のところには他にも多数の拉致の可能性のある
失踪事件についての情報が寄せられていますが、ここでは一定の
拉致可能性が推定される事件のうち、ご家族がリストに載せること
を承諾されたもののみを掲載してあります。
 
(1)森洋子さん
 函館市に近い道南の町に居住していた森洋子さん(昭和19年5月
15日生まれ)は昭和38(1963)年9月20日夜函館市内で行方不明に
なった。他の拉致と時期は離れているが寺越事件と同年である。
 
(2)Mさん
 昭和42(1967)年2月、当時18歳の高校3年生で、自宅(富山県A
町)近くの海岸にバットの素振りをしてくる、と出かけたまま行方
不明になった。海岸にバットと履いていた下駄が並べておいてあっ
た。その日は海はベタ凪で、水島さんは遠泳の名手であり、溺れた
可能性はない。拉致されたとすれば、時期的に考えると寺越事件と
同様工作員の出入りに遭遇したことによって連れ去られたケースで
あると思われる。
 この事件については元参議院議員秘書で拉致問題に取り組んでき
た兵本達吉氏に家族から相談があった。兵本氏は多数の拉致及び
拉致疑惑事件を取り扱ってきた経験から本件が拉致の可能性が高い
として月刊「正論」平成11(1999)年1月号に寄稿した論文「私が
直感した拉致疑惑『新たな二件』」で明らかにした。
 
(3)新木章さん
 この事件も前述兵本氏が「正論」の論文の中で明らかにしたもの
。新木さんは埼玉県川口市に住む銀行員だった。昭和52(1977)年
5月21日(当時29歳)外出して以来行方不明。自殺、家出の原因等
は全く存在しない。
 
(4)前上昌輝さん
 前上昌輝(まえがみ・まさてる)さんは実家が京都市にあり、北
海道を旅行中の昭和52(1977)年9月22日、旭川駅の荷物一時預かり
にザックを預け、以来消息を絶っている。11月初旬、実家に男性の
声で電話が入った。声の主は低い声で「前上昌輝の家の者か」とだ
け尋ねた。電話に出た母親が「昌輝のことを知っているお方ですか
」と数回叫んだが、それには答えず「また電話する」と言って電話
を切った。以来手がかりは全くない。昭和32(1957)年7月16日生ま
れ、身長173cm。
 この事件には北朝鮮による拉致と思われる要素は現在のところ見
つかっていない。ただ、時期が久米裕さんの拉致(9月19日)とほと
んど同じであり、この時期から拉致事件が頻発している点からする
と可能性も否定できない。
 
(5)松本京子さん
 松本京子さんは事件当時29歳。昭和52(1977)年10月21日夜8時頃
、自宅近くの編み物教室に行くといって家を出て以来行方不明。普
段着で現金も持っていなかったとのこと。この夜、自宅から約200メ
ートル離れた松林で松本さんと2人の男が話をしているのを近くの人
が目撃、「何をしている」と声をかけると男がこの人を殴り、その
直後、片方のサンダルを残したまま2人の男と松本さんは姿を消した
。兄の孟さんは、事件の暫く後から北朝鮮に拉致されたと認識して
いたが、警察には取合ってもらえないと思い、北朝鮮による拉致と
いうことは口に出さなかった。
 事件の現場は北朝鮮の拠点の一つでもある境港市との市境に近く
、地理的条件、環境など色々な条件は横田めぐみさんのものとよく
似ている。時期は横田さんの事件の一ヶ月前である。
 
本人の特定されない拉致の情報
 
 以下の情報は全国協議会が入手したものですが、今のところ本人
を特定するに至っていません。何かお気づきの情報がありましたら
全国協議会までご連絡いただければ幸いです。
 
(1)仲村春彦さん (2)金田一美さん
 北朝鮮で東北弁の教師をさせられている。出身は青森と岩手。
1977年10月3日頃、清津港から入国。被拉致時、24歳と23歳。1978年
に男の子が産まれている。両者は三沢基地工作員の教師をさせられ
ている。金田さんはコンタクトを使っている。仲村さんは酒が飲め
ない。

(3)前田勇さん
 1978年6月頃北朝鮮に入る。兵庫県出身。被拉致時32歳。化学関係
の専門家。平安北道寧辺地区の研究所勤務。本人が了解した上で北
朝鮮にわたっている可能性もある。夫人は日本人。
 
(4)五十嵐進さん
 1978年8月北朝鮮に入る。当時28歳、東京出身。肥料関係の専門家
。咸鏡南道咸興の工場副責任者。平成12年9月末までの確認事項。
本人が了解した上で北朝鮮にわたっている可能性もある。

それ以外の事件
高敬美さん・剛さん
 敬美さんは昭和42年生まれ、剛さんは昭和45年生まれの朝鮮籍の
兄弟。父親の高大基が北朝鮮工作員で、昭和48年失踪したのを母親
の渡辺秀子さんが探しに上京し、勤めていた北朝鮮工作機関のダミ
ー会社であるユニバーストレーディングを訪ねた。既に高は北朝鮮
に行っていたが、発覚するのを恐れた工作員が母子を監禁、秀子さ
んを殺害し、二人の子供を北朝鮮に拉致した事件。これについては
月刊「文藝春秋」平成12年12月号に掲載された朝日放送石高健次氏
の論文「母子『拉致・殺害』北朝鮮工作組織を暴く」に詳しい。
 
※拉致された人々の総数は約70名と推定されている。これは警察庁
に国内からの拉致48人が挙げられていると言われ、これにヨーロッ
パルート20人を加えると68人という数、元朝鮮総連工作員張龍雲氏
が北朝鮮の当局者と話していて受けた感触などを元にしている。
人を特定して拉致する場合、身寄りのない人を選ぶ場合も多いから
失踪届すら出ない場合もあると考えられる。日本に侵入する工作員
の基地は清津・咸興の2カ所あり、また色々な機関が動いているので
、被拉致者の総数は北朝鮮でも金正日などごく一部の人間しか分か
らないだろう。
以上
図越


コラム目次に戻る
トップページに戻る