871−1.「ゆとり教育」について



 国際戦略コラムno.864-2「ゆとり教育」について
ゆとりの教育と、初期教育の問題。

ゆとりの教育問題に関して、みなさんの討論を読みながら、思い出
すことがいくつかありました。

ロシアの学校教育も、一般的な義務教育に関しては、まさに「ゆと
りの教育」といっていいでしょう。
日本に比べても、格段に休みも長く、自由奔放で、当然制服もなけ
れば、校則なんてあるのだろうか?といった感じです。

もちろん、こういう環境でも親が熱心な場合、それなりに補充教育
を行うなりして、立派に大学に進学しています。
しかし、特に都市部を見る場合、家庭によって極端な二極化が進ん
でいるのもたしかです。

つまり、親が熱心で、またそれなりの資産家である場合、もし、子
供のレベルが足りなくても、大学はなんらかの裏口手段を使ってで
も、必ず進学させる。なぜなら、男子の場合、特に徴兵制にかかる
という問題もあり、こうなってくると、お金より命の問題になるか
らもあるでしょう。

しかし、一方の一般庶民、あるいは、経済的に豊かでない層は、も
ちろん、特別に子供が優秀であれば可能性がないことはないにせよ
、ぐっと大学進学率が落ちてくるようです。

それどころか、ひどい場合、親の教育熱意どころか、親自体の教育
程度が低いために、自分の母国語の発音を矯正することすらしない
ままに、10歳くらいまで放ったらかしにしていることまであるそ
うです。この極端な格差は、明らかに大きな社会問題に発展してい
ます。

というのは、もっとひどい親、アルコール中毒、薬物中毒の場合、
ほとんど育児放棄してしまって、子供たちが親から逃げ出す、とい
う悲劇に発展するのです。

信じられないことですが、実際に、何万人もの浮浪児たちが、そう
いう風に大事な教育を受ける時期、チャンスを失っているのです。
路上生活に慣れてしまった子供たちは仮にその後、養護施設に入る
、あるいは一般家庭で養子縁組してもらう、等によって、家庭生活
に戻る機会を得ても、また路上に自分から戻ってしまうらしい。

この恐ろしい例が、示しているひとつのことは、子供がまともな教
育を受けるべき時期に、放任して、勝手な状態に置いてしまった場
合、最悪のケースを示しているのではないでしょうか。

このように子供が成長する段階において、一番必要な時期に生活の
リズム、学習の反復習慣をつけないで大事な時期を逃した場合、き
っちりした一般生活に戻れない一種の半野生児のようになってしま
い、一切の義務や束縛、一定の生活上の規則や規範に対して、順応
するすべをなくしてしまうということなのです。

つまり、日本の「ゆとりの教育」の前提に、もし熱心な親と経済的
に裕福な層は、勝手に別途、お金を払ってでも他の場所で教育を受
けさせて下さい、ということになれば、その前提からもれる層、
母子家庭、あるいは、両親がいても、経済的に豊かでない、あるい
は、教育の必要性を認めないようであれば、まともな教育を受けら
れるはずの、同等の機会を失うことにならないか、ということなの
です。私はそこに、非常に危機感を持ちます。

CHOCO
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(Fのコメント)
CHOCOさんの言う通りですね。賛成です。
今後の日本社会も、欧米と同様に新しい事や、物を生み出さないと
生きていけないことになる。このためには、論理力やデザイン力な
ど、秀でた能力が必要になり、この力をつける必要がある。しかし、
だからと言って、基礎学力も必要であり、ゆとり教育の問題点は、
この基礎学力部分を疎かにすることです。

分からない子には何遍でも、基礎部分を復習してもらいながら、
できる子はどんどん前に進むようにするべきです。このように教育
に国家は金を掛けるべきですよ。教育を疎かにしてはダメだ。
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e: 国際戦略コラムno.864-2「ゆとり教育」について
ken@千葉です。公立中学校の教員です。

Fさんの意見に賛成です。
>教育を考える時に、子供の能力差をどう考えるかがキーポイントの
>はずです。この議論をしない。ということは全員を平等に扱えと言
>っていることになる。私はこの根底に問題があると思っている。

まったくそのとおりです。
国際社会に通用する人材を育成するには、「能力差に応じた教育」
をするしかありません。それでないと、外国の大学を出た優秀な人
材に社会・会社が独占されてしまいます。まあ、それでもいいのか
もしれませんが。
それを阻むのは、「子ども全員に同じ処遇をすること」が平等であ
り、やさしさであるという親・社会・教師の思いこみです。これを
捨て去らなければなりません。大変むずかしいことですが。

できない子には、補習をし、できる子にはどんどん先の勉強をさせ
るしかない。やりかたにはいろいろあるでしょうが。

しかし、今の教師は「子どもの処遇を同じにすること」しか頭にあ
りません。「できない生徒」に補習をしてやることもなく、ただ「
できない生徒」の成績を甘くつけ(五段階評価の1はつけないとか
)、それがやさしさと考えています。
「成績の差をできるだけつけない」という何ともおかしな「処遇の
平等」を目指しています。小学校は1から3の三段階評価なのです
が、「1はできるだけつけない」という内規があるようです。実質
上二段階評価になっている。これを脱却するしかありません。ただ
あと何年か時間がかかると思います。
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(Fのコメント)
構造改革の学校版が必要なのですね。機会の平等は必要であるが、
結果の平等はありえない。学力もない生徒を世に送り出すのは、
学校が怠慢ですよね。しかし、微分・積分や論理数学を本当に分か
るのは全人口の5%と言われているから、その5%を見つける必要
があるのです。そして、この子が次の日本の技術をを導くのです。


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