843.『私のグローバリズム』



『私のグローバリズム』
2002.3.11MN
 何も、偉そうなことをいうのではない。ただ、我々は「である」
世界を濁りなく見つめながら、「あるべき」世界を清らかに創りだ
すことに常に最大の愛情を注ぐものだと思うのである。

■ アメリカの役割
 我々は「歴史」を見ている。それは、実に巨大な時間の歯車なの
である。『9.11』から、半年。この50年間、我々は世界に君
臨する大国の中枢部があれほどの人的被害を受けた例を見たことが
ない。私はあの事件が起きたとき、市場関係者からある一言を聞い
た「ドルの時代は終わった」・・・。
 一体、『9.11』は、歴史という時間軸の一体何を突き動かし
たのであろうか。
秒針か、分針か、それともコンマにも満たなかったのか。
 『大国の興亡』、アレクサンダー大帝国、ローマ、イスラム、モ
ンゴル、・・・、過去様々な帝国がこの地球の文明社会に躍り出た。
国家は常にエゴを持つ。自らの国家という細胞を増殖させるエゴだ。
アメーバとたいして変わりはないし、帝国を率いる頭目に『平家物
語』の一読を勧めても目の前で焚書されるのが落ちだろう。アメリ
カとて同じである。今から、400年前、自らを育んだ母国を捨て
、信仰の自由と平等を求め、この新天地の大地に降り立った「清教
徒」の末裔がいま、大義名分を建て、石油という覇権のためにイス
ラム教徒の地に今日も新型爆弾を落としている。
 私は相場の中にいる。相場とは、無味乾燥である。「あるべき」
姿などどこにもなく、ただ、「時」の流れの中で潮目を見て、その
潮目に乗るか乗らないかである。浜際の波を見ていては、沖の波に
は取り残され、沖の波ばかりでは海流の流れに飲み込まれる。 
 アレクサンダー帝国は、ヘレニズム文化を生み出した。ローマは
、鉄器文明を広め、イスラムは和洋折衷による近代科学の基礎を築
き、元帝国は証書による金融取引を広め、ナポレオン帝国は、東欧
の地に民主・独立の革命の嵐を巻き起こし、ナチス・ドイツは、
大国のナショナリズムを最高潮に高め、いかにユダヤ人が資本主義
社会にピッタリかを皮肉った。文明社会の進歩の陰に大国の増長が
あった。さて、アメリカは何を広め、そして、それが我々の世界を
どう変化させるのだろう。
 つまり、グローバリズムが良いか悪いかではなく、アメリカとい
う20世紀後半を率いてきた巨大な文明国家が果たす過渡期的な役
割とその変遷を我々は同時にしっかりと見ておきべきだと言うこと
である。
 私は、歴史は過渡期の繰り返しだと思う。歴史という物語は終わ
りを持たないのである。
 一昔前、CIAが東を出し抜くために駆使した最先端の軍事技術・
インターネットは、いまやグローバル・ブレインを創り出し、環境
問題や南北問題への価値の共有化を図っている。英語はいまどきの
日本のお母様方が、子供が『平家物語』の冒頭文を覚える前に習熟
させたいと願う程になった国際共通語だが、それがあるが故に私た
ちは肌で触れたこともない異文化と相互理解をすることができてい
る。
 生態学派の権威、梅棹忠夫氏は、「現代は『商売』の時代である
」と言っている。
いかにこの商売を上手にやるかである。国家は、武力行使という要
素を除いたらほとんど国益という名の利益のために奔走する株式会
社と変わらない。故に無駄があればリストラするのも時代の要請と
いえる。通貨は株価であり、国債が社債である。グローバル企業に
とっては、そこにこそ投資に的確かどうかの尺度になる。保護も規
制もない自由で透明な市場原理を凡ての世界と地域に適合させるこ
とこそを至上とするグローバリズムであるが、我々はその幸せも
不幸せも見ている。
 ただ、それは「歴史の必然」ではないだろうか。つまり、今から
10年前、一通り、「東と西のあいだ」の隔たりが消失し、今、「
南と北のあいだ」、未曾有の経済発展と福祉社会の充実により、
飽食と少子化に悩む先進国群と大国の谷間で食糧難と人口爆発にあ
えぐ途上国が共存しているのが現代社会なのであり、私たちは、
福祉社会の導出が人口爆発を防ぐことを目にしている。南と北の間
を埋めるのが東と西の間の時、修正資本主義と同様、「修正=妥協
」であって欲しいと願う。これと同様に量的工業化から質的工業化
への変貌が先進国の次なる課題である。帳簿を真っ黒にすることが
これからの巨大企業のお仕事ではないのである。また、我々は既に
巨大となり得た大国が更に力によってその巨体を前に進ませようと
して、飛躍した例を過去一度も見たことがない。
 さて、そこに今回、彼のアメリカをブッシュ政権という方々が率
いておられる。
 実は、今年は干支学による「壬午」という干支になる。壬の年は
、特に「人事に要注意」とある。壬は、任と通じ、担い、妊に通じ
、孕む(はらむ)。更に、任の下に木と書く文字があり、これは、
柔軟な木で、しなやかで弱い世の中にこび、へつらうの意がある。
更に午は、さからうの意がある。干支から見れば、反目勢力が育つ
年であり、同時に混乱に乗じる不当な輩が多くでる年になる。還暦
の小泉さんや更迭された田中さんには耳の痛い話であろう。
 そして、干支は、易経の陰陽五行と一つでその役目を得るわけだ
が、壬午もうまく乗り切れば次の年に陽転するし、乗りきれんと陰
転する。
 今から60年前の1942年は、周知の通り、前年、1941年
12月8日の真珠湾奇襲をもって、日本が太平戦争へとすすんだ時
代であった。さて、どうみる?
 
■ 通貨と「信用」
 つい先日、読売新聞が、一面に豪農の屋敷跡から江戸末期から明
治初期にかけての小判と金貨が発見されたことを大体的に報じてい
た。時価にすると4000万円近くという。
 最近、日本で金が売れている。それを理由に海外ファンド筋が
ロング(買い)を取るぐらいである。
 我々、日本は戦後、アメリカがベトナム戦争をやっている間やイ
ギリスがフォークランド紛争に明け暮れている間も必死になって戦
争で潤わない経済システムを創り出し、見事、世界に始めての手法
でそれを証明した。故に現代日本は、未曾有の巨大な信用社会であ
り、その点は、海外生活の経験のある私としては大変な実感の湧く
ところである。円は、丸くあり、結果、平和の象徴としての通貨に
なったとも言える。
 その円が最近売られている。残念ながら、今後も売られるだろう
。バブル崩壊後も10年間上がり続けた国債相場をみれば深く理解
ができる。通貨は、信用から成り立つ。つまり、信じるか信じない
かである。その信用がなくなれば、通貨の価値はなくなる。
 元来、通貨に塩や宝石、金・銀が用いられたのは、それそのもの
に価値があり、信用があったからである。また、戦争がそこら中で
頻発する社会おいては当然、紙幣は通貨としてその価値を見いだせ
ないだろう。それを我々は旧ソ崩壊時にたばこが通貨代わりになっ
たり、、世界中の政情不安定な国でドルが使われているのに見てい
る。
「平和」は、いまや現代社会にとって一つの重要な要素になってい
る。情報化社会も信用がなければ成り立たない。つまるところ、金
が売れては逆効果である。
 資本主義、「商売」の時代を通じて、創り出された信用社会はそ
の維持に対し、いまや紙幣はなくてはならないものになっている。
ここに「地域通貨」の価値が出てくるのである。
 歴史を通じて、通貨は、富の蓄積、支配の道具、流通効果などの
役割があった。
我々は、今、循環型経済の一つとして流通効果のみを有する通貨の
登場を必要としている。
 担保は、愛である。

■ 「よき社会」と「個」の確立
 根本から問う。憎しみは憎しみしか生まず、疑心は疑心を生むが
、優しさは優しさを生むのである。率直に言うならば、世の中、性
善説に立つか、性悪説に立つかであるが、誰かが始めなければなら
ず、誰かが始めれば、案外うまくいくものである。そうとしか言え
ない自分がもどかしくもあるが、「よき社会」は100年かかろう
が200年かかろうが教育からと言いたいし、特に徳育を施したい。
繰り返すが、時代はもはや西洋医学の学んだ医者が行う「ガンにな
ったら手術」のような事故処理的な処方せんを求めているのではな
く、東洋医学のように「如何に病まないか」、未然療法的な発想・
処方せんを求めている。
 『個にして全、全にして個』、「個」の確立、これが私のグロー
バリズムである。

うーん、誰かが言ったようなことばかり書いてしまった。まあ、改
めてということで。


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