835−1.異文化交流術 11



異文化交流術 11  文化の発生
・ 文化が脳を創った
 お釈迦様のように、生まれながらにして自分は大宇宙と一体のも
のであるということを知っている人間は稀である。ほとんどの人間
は、そのことに気づかないまま死んでいく。きちんとした教育を受
けて学んだもの、苦難に出会って発奮して学び知りえたものが、わ
ずかにそれを知る。

 どうしてそうなのか。どうしてものごとの本質をわからない人間
が多いのだろうか。
それは人間の発生と過去の環境適応の歴史と密接に結びついている。

 ダビッド・ジョナス、ドリス・クライン著「マン・チャイルド 
人間幼稚化の構造」(竹内書店新社、1984年、英語版は1970年)は、
ニューヨークで精神科医を開業する夫と、科学評論家の妻が、自分
達の専門分野に加えて解剖学、大脳生理学、動物生態学、文化人類
学、社会学などのさまざまな分野の研究業績を総合して得た結論を
本にしたものである。

 私たちは、人間は万物の霊長である、人間は動物が最高に進化し
た状態であると習ったし、思ってはいないだろうか。「マン・チャ
イルド」によれば、それは誤った考えである。最高に進化したので
あれば、どうして人間の運動能力は鈍いのか。目は特定の0.4-0.7μ
帯の光にしか対応せず(人間は勝手にこの波長帯の光を可視光線とよ
ぶがそれはあくまで人間にとっての可視光線にすぎない)、耳は特定
の周波数しか聞き取れない。他の動物たちに比べて、人間はトロく
て、鈍いのだ。どうしてそれで進化の最高形態といえるのか。

 人間には知恵がある。言葉がある。文化があるではないか。人間
の肉体や感覚機能が劣っていることを指摘されると、おそらく頭脳
や知的活動を進化の証左としてあげるだろう。それらの機能を可能
ならしめる大きな脳があるではないかと。

 ジョナス/クラインはいう、「人間の脳には他の哺乳類にないよ
うな新しい構造はなんら見出されない」と。「高等な霊長類と下等
な霊長類との違いは、累進的な複雑精巧化と分化とにある。」わか
りやすくいうと、人間の脳は他の霊長類の脳と同じ構造なのだが、
使っているうちに発達した。機能的によく使う部分が大きくなった
のである。
 
「例えば、手を支配する部分は足を支配する部分よりもはるかに大
きくなっているが、これは、脳の容積の増大が道具を使いはじめて
から起こったもので、巧みな道具の使用に対する自然淘汰の結果、
手と手を支配する脳の部分との比重の変化を倍化した」。
つまり、「私たちの脳はただ大きくなったのではなくて、その容積
の増大は道具の使用、言語の使用、増大する記憶および計画化など
に直接関係しているのである。」

「その基本的なパターンについては人間の脳も他の霊長類の脳と大
差はない。人間の脳のユニークな点はその厖大な容積にあるのでは
なくて、特定の部分が大きくなっているということにある。この点
から見れば、この人間の脳のおかげで文化というものがあるのであ
る。しかし長い目で、進化論的に見るならば、人間の脳を創ったの
は文化なのである。」

 文化が人間の脳を創ったのだとすると、どのようにして人間は文
化をもったのかということをまず明らかにしなければならなくなる。

・ 木から落ちたサル
 オランウータンは両腕で木にぶら下がることができない。人間は
できる。このことは、人間のほうが遅くまで樹上生活を送っていた
ということの状況証拠となる。

 人間は驚くべき速さで、樹上生活者から地上生活者となった。こ
れをダーウィン流進化論の突然変異と自然淘汰によって説明するこ
とはできない。偶然の変異を待っていては間に合わないのだ。

 ウィルス性の病気が種族を襲った結果、多くが死に、少数が生き
残って適応したと考える以外にないとジョナス/クラインはいう。
ウィルスが遺伝子にも影響し、それが新しい環境での生活に適応し
た変種の子孫を産みだした。

「答は、脳炎やポリオの流行が樹上生活をしていた霊長類を襲った
時どういうことが起こるかを想像してみることによってはじめて見
出される。当然その多くは死ぬ。少数の生き残ったものはその巧み
な運動能力を失うか、脳の打撃の結果体の一部が麻痺することにな
る。これらの猿にとっては樹を棄てて新しい生活様式に自分たちを
合わせていく以外にない。これは情けない考え方であるが、しかし
こうした病める霊長類がわが人類の先駆者であることは確かである
。」

 この「病気の霊長類は、不慣れな不利な場所で生き延びようとし
た際、どんな動物でもきびしい強制の下ではそうであるが、一層原
始的な適応様式へと退行することになった。いいかえると、幼児時
代の行動に逆戻りしたのである。彼らの中で、それができるものは
萌芽的な新皮質を利用するという形で過剰補償を行ったであろうし
、幼児の本性である探究好きの好奇心は新しい状況の中でやってい
ける見込みを増大させた」。

 人間は生まれてから1年以上も歯がはえそろわない。役に立たず単
に抜歯するための歯である親知らずのように大人の歯もどんどん退
化している。人間の体は成熟してもほとんど毛がない。だから自分
自身では温度調節ができず、母親の胎内のような洞窟を住みかとし
、さらには火を発見し母親の肌のぬくもりと同じものをつくり出し
た。
自然そのままのものはほとんど食べずに、煮たり焼いたりして消化
しやすくして食べる。これらはすべて人間が幼児化をとげている事
実の一部である。大人になってもミルクを飲み続けているのは、動
物界広しといえども人間だけである。

 会社帰りにスナックのカウンターでママさん(女性店主)相手に
くだくだと酒を飲むお父さんたちは、いつまでたっても子供のよう
に甘えたいのだ、母親の胎内に戻れるものなら戻りたいと思ってい
るのだ。

 人間は大人になっても幼児なのである。これを幼形成熟とよぶ。
幼形成熟することによって、新しい環境には適応しやすくなる。
大人になっても遊び心を失わないことは活力である。人間が達成し
た最高の成果は、子供っぽい学習能力とか発見の喜びとか創造的な
好奇心とかのおかげである。

・ 幼児性が文化を産んだ
 しかしながら、人間の社会的未成熟やひろく現代世界を覆ってい
る無秩序状態は、種の保存をも脅かしかねない大問題である。これ
も人間の幼児性に起因している。自分がしてもらいたいことの要求
はするし、人からサービスを受けることを期待もするが、自分は何
もしない、好き勝手な振る舞いをとるというのは、幼児の行動パタ
ーンである。

「どんな種についても、成熟した動物は、その集団の維持を強制す
るような本能を持っているのに対して、動物の子供は、直接充たす
べき自分だけの必要を別にすれば、集団全体のことなど一切関知し
ていない。実際、子供は全体としての集団など知りもしない。」

 人間は幼児化によって新しい環境に対応して生き延びてきた。
しかし幼児化はもろ刃の刃で、無責任な行動、無秩序、遊んでばか
りいてちっとも仕事をしない人間、好き勝手に振る舞う人間をつく
り出す。自分の好き嫌いで同種の動物を殺す動物は人間だけである。

 幼児化した人間を、秩序へと引き戻すため、社会的な責任に目覚
めさせるために文化は生まれた。

「最低ぎりぎり、まずこれを禁止しないと群れの秩序が保てないと
最初に考えた禁止事項が、人肉食と近親相姦と殺人であった。この
瞬間に人類の文化は始まったのだと、フロイトは言う。」(福田宏
年「時が紡ぐ幻 近代藝術観批判」)

「由来人間は、舌鼓を打って長い間食べてきたに違いない人肉を食
べることを禁じ、父親をあれほど蠱惑し自らも恋い焦れる母を犯す
ことを禁じ、他人を殺してその女や財宝を奪うことを、自らに禁じ
てきたのである。「暴力的に禁じた」という言い方をフロイトはし
ている。暴力的に禁じるとは、禁を破ったものは即座に殺すという
ことである。未成年だから保護観察にしておこうなどと、のどかな
ことを言っている余裕はない。」

「人間はひとりひとりの人間の自然な生物的発露である欲望を無理
無体に抑えつけ、排除して、いわばわが身を切り刻むような苦痛を
味わいながら文化を築き、保持してきたのである。その甲斐あって
、欲望は無意識という地下倉庫の中に閉じこめられ、意識には上ら
なくなった、というのがフロイトの無意識の概念である。」

 文化は個々人の欲望を抑えこむことによって成立し保持される、
ものだと福田宏年はいう。福田は、この西欧近代の啓蒙思想以来、
この封印を解き放ち、人間は個人の欲望を思うがままに発散させて
よいということになったことを「私には不可解である」という。

 私もそう思う。文化や文明を考察し論じるときの、最大の混乱は
、近代啓蒙思想以来の、国民国家が誕生して以来の、「文化」や「
文明」の概念が、現在の議論の暗黙の前提になっているところにあ
る。近代以降の「文化」・「文明」概念にとらわれないようにして
、これからの議論を進めていきたい。
(得丸久文、2002.03.12)


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