831−1. 異文化交流術 10



異文化交流術 10 文化を荷なう者 ー 天上天下唯我独尊

男と女がいた。二人の(もしかすると片方だけの)生殖本能が刺激
され、交合が行われ、男の精液が女の体内に注ぎ込まれる。願わく
ばそこに愛。

無数の精子たちの中から、ひときわ元気で、ひときわ幸運なものが
、ひとつだけ卵子の殻を破って細胞内に突入し、受精が起きる。
そのときの宇宙は、地球と、月と、太陽と、あまたの星たちと、
それらの上に住む生命体たちは、必ずしもその受精を感知してはい
なかったかもしれないが、受け入れていたことだけは確かだ。
なぜならば、宇宙が拒絶するときには、受精は起こらないから。
宇宙の沈黙の祝福あるいは肯定。

受精卵は、子宮中(胎盤上?)に着床し、そのまま順調に細胞分裂
をくり返す。それはかつてこの惑星上に生まれた生命体が、何百万
年、何億年とかけてたどった進化の過程のおさらい作業でもある。
「胎児の世界」(中公新書)に描かれている通りに、「個体発生は
系統発生をくり返す」。これはあるひとつの生命体が、この惑星上
に生まれるにあたっての通過儀礼、たいせつな儀式である。

生命は海から生まれたという言葉の通り、胎児ははじめの二ヶ月間
は魚のような顔をしている。それが陸上生物へと進化するときが、
一番つわりの重い三ヶ月目の時期と重なる。いったん陸上に上がれ
ば、それからは安定期となる。母の胎内のあたたかく居心地のよい
環境の中で、母の鼓動や内臓のたてる音を静かに聞いて、成長する。

そして、胎児が十分に成長し外の環境の中でも生きていけるように
なったとき、大宇宙は絶対的な祝福とともにその誕生を許可する。
おおらかな断定。「生まれ来よ」と。
願わくばそこに愛を、産んだ女と、孕ませた男の愛を。

だが心配するには及ばない。たとえそこにひとかけらの愛がなくて
も、生まれたきたという事実が、大宇宙の祝福であるのだから。
この惑星上で進化をとげてきたありとあらゆる生命の祝福が、同じ
プロセスを経て誕生した人類同胞たちの祝福があるのだから。
この事実を忘れてはならない。

こうして人間は生まれるまでの過程において大宇宙の祝福を受けつ
づけ、そのことによって生まれながらにして大宇宙の法則につなが
る何かを自分の中にもつのである。
孟子の性善説は、このようにして説明づけられる。

人は生まれながらにして、宇宙に愛されている。自分自身の心を
のぞきこんでごらん。
そこには美しいものがある。すばらしいものがある。それが孟子の
いう良心であり、四つの心である。おもいやりの心、悪を憎む心、
譲り合いの心、善悪を判別する心。
これらの心は生まれながらにして、人間の中に備わっている。

それに気づいて、それを発展させれば、あなたは宇宙の法則と一体
化することができ、天命にしたがった人生を歩むことができるのだ。
寿命が長いか短いかなんて考える必要もない。ひたすら四つの心を
活性化して、天命にしたがって生きるだけでいいのだ。

その事実に生まれながらにして気づいていたお釈迦様は、生まれた
ときに「天上天下唯我独尊」と叫んだといわれている。我々凡人は
、学んでこれを知る者、あるいは困(くる)しんでこれを知る者で
あろう。大切なことは、その事実を知ることだ。残念ながら知らな
いままに死んでいく人も多い。いかにももったいない人生である。

孟子曰く、その心を尽くす者は、その性を知るべし。その性を知ら
ば、則ち天を知らん。その心を存し、その性を養うは、天に事(つ
か)ふる所以なり。妖寿弐(うたが)はず。身を修めて以てこれを
待つは、命を立つるゆえんなり。(尽心上・首章)

生まれながらにしてこれを知るものは上なり。学んでこれを知る者
は次なり。困しみてこれを学ぶはまたその次なり。困しみて学ばざ
るは民にしてこれを下となす。
(論語・季氏篇)

得丸久文(2002.02.06)
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各位、
昨日の毎日新聞夕刊に官僚に論語を読ませるといった内容の記事が
あったそうです。
なにも官僚でなくとも、論語を読むといいと思います。尭曰第二十
の言葉を紹介いたします。
得丸久文

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民に重んずる所は、食、喪、祭なり。(尭曰)

これは論語の尭曰(ぎょうえつ)第20章の首章の言葉である。尭曰章
は、論語を全体で20というきりのいい数字にするために後からつけ
られた章と言われていて、わずか3つの章からなる。

ひとりで読むと、なんだどこかに書いてあったことのくり返しかと
読み飛ばしてしまいそうな言葉だが、誰かが声に出して朗読し、
その後みんなで味わいつつ読むと、当たり前のような言葉をあえて
最後においてあることの意味を感じてしまう。

尭は、中国古代の聖王、すなわち完全な道徳者。その尭が、自らの
後継者として選んだ舜に、平和的に帝位を譲り渡したときの言葉で
あるとされる。

「政治の原理は、人民に大切なことは、食物、葬式、祭礼であるこ
とを知って、不自由させぬにある」という意味。はたして現代の
わたしたちの生活において、食、喪、祭は大切にされているだろう
か。

ー1ー 食
狂牛病騒動のときの日本の農水省の対応をここでとやかく言うつも
りはない。霞ヶ関の官僚たちだけの責任ではないと思うからだ。

いったい私たちは、自分たちが食べるものを大切にしているだろう
か。巷にあふれるファーストフードの店、コンビニの弁当やおにぎ
りやパン、電子レンジで加熱するだけの冷凍食品。そういったもの
があふれている。それらの食品の中には、ことごとく防腐剤や化学
調味料が食べる側の健康を配慮することなく、売る側の都合だけで
入れられている。

野菜も肉も魚も、いったいどこで採れたのかわからないままに、
スーパーマーケットという原則対人販売でない売り方で店頭に並べ
られる。小売店であれば、まだ店主のモラルが働く余地もあるだろ
うが、対面しないスーパーでは虚偽表示が日常的に行われる。ここ
でも売る側の論理が、買う側の健康を無視しがちである。

遠く、海外で採れた野菜や肉や魚は、その鮮度を保つために、ポス
トハーベスト農薬やさまざまな処理を行ったのちに、日本に到着す
る。長距離輸送で鮮度を保持するためには、安全性が犠牲にならざ
るをえない。

現代日本人の食卓は、実に不幸な状態になっているといえないだろ
うか。

ー2ー 喪
しかし、それにもまして不幸は、喪と祭である。
私が住んでいる富山県では、葬式はセレモニーホールと呼ばれる
民間の葬祭場(結婚式も葬式も請け負う)で行われるのが常になった
。かつては近所のおばさんたちが共同で炊事して、自宅の仏間を使
って葬式や法事を営んでいたから、家には広い仏間が残っているの
だが。手間と暇をかけなくなったのだ。

論語・八イツ第三に、「子曰く、賜や、爾(なんじ)はその羊を愛(お
し)む。我はその礼を愛む」とあるが、人の死が軽んじられるように
なったものだ。実に惜しまれる状況である。

セレモニーホールでの葬式は、お坊さんもアルバイトで、もちろん
故人とは一面識もない。だから説教にもお経にも心がこもらない。
形だけお経を読んで、その後は「早く終わらないかな」といった面
持ちだったりする。なんともやるせない。

とはいえ故人にしろ、遺族にしろ、ふだんからお寺さんとの付き合
いがあるわけではないので、いざ葬式のときにお願いするお坊さん
を知らないのだ。遺族は、あたふたして、とりあえず形だけでも葬
式をあげなければ近所の手前格好がつかないと、無難なセレモニー
ホールに頼む。その結果、まったく無味乾燥なわびしい味気ない葬
式となる。

論語・子張第19に「子遊曰く、喪は哀を致して止む」(喪は悲哀を究
極まで推しつめればそれでよろしい)とある。また、論語・八イツ第
3には、「礼はその奢らんよりは寧ろ倹せよ。喪はその易(ととの)は
んよりは、寧ろ戚(いた)め」とある。

孟子・尽心上篇首章に「その心を尽くす」という言葉があるが、
普段から自分の心のかぎりを尽くしておらなければ、哀悼の心すら
浮かんでこないのではないか。普段からの生き方が問われているの
だ。

それにしても、お坊さんたちも、アルバイトで形だけお経を読むと
いうことを恥じてほしい。孟子・尽心上篇の第五に「終身之に由る
も其の道を知らざる者衆(おお)し」とあるが、今のお坊さんたちに
ぴったりあてはまる言葉だ。庶民のみならず仏教者たちも退廃して
いるというべきか。

今のような形式的な葬式なら、しないほうがいい。葬式はせずに、
自宅に遺体を安置して、心ゆくまで故人の思い出にひたり、故人と
の惜別を行うのが望ましいというのが先だって開かれた読書会(立山
止観の会)での結論だった。

ー3ー 祭
喪は、自分と自分の親兄弟の関係性だから、本人の心掛け次第でい
くぶんでも改善することができる。問題は、祭である。祭りは共同
体単位で行うものだから、一人や二人ががんばっても、執り行なえ
るものではない。

今の日本において、心から祭を行うことのできる共同体はいったい
いくつ残っているのか。そもそも春の到来を祝う気持ち、夏の好天
を祈る気持ち、秋の収穫を感謝する気持ちを、誰かと共有してとも
に表現する必然性がなくなってしまったのではないだろうか。

農村において祭りには、共同で農作業を行うにあたって、お互いの
呼吸を合わせるという意味もあった。機械化によってその必要性も
なくなった。

必要性のないところで、祭りは形骸化する。たまたま生き延びた祭
りは逆に観光化する。観光化した祭りとして越中八尾の風の盆(おわ
ら)があるが、老人観光客たちが日本中から集まってきて道路にあふ
れ、踊りを踊ることすら難しくなった。無惨である。

数年前、和歌山の新興住宅地の夏祭りで、カレーライスに毒が混入
されていた事件があった。あのとき、マスコミもずいぶん騒いだが
、祭りのときにそのような事件が発生したこと自体を問題にする人
たちはほとんどいなかった。さびしいかぎりである。

あの和歌山の新興住宅地に住んでいる人も、そこに住んでいない人
も、ひとしなみに日本人は祭りの心を失ってしまったのだと思う。
「祭りの食事に毒が!」という事実の重さを、感じた人が少なかっ
たという事実が悲しい。

ー4ー 心の再活性化
どうすればいいのか。
論語に書いてあることは、古いことであり現代に通用させる必要は
ないと思う方もおられるかもしれない。私はそうは思わない。

人間というハードウエアは何千年も前からほとんど変わっていない
。その心の仕組み、つまりソフトウエアの構造だって変わっていな
いのだ。だから、論語の「民に重んずる所は食・喪・祭なり」とい
う言葉は、今も通用すると思う。孔子は、礼の重要な部分は変わら
ないから、百世代後の時代でも変わらないと言っている。(論語・
為政第二)

「そんなことを言っても、なかなか忙しくて」という言い訳をする
人が多い。でもそのような人に限って、ワイドショー化したニュー
ス番組や下らないテレビ番組を見ていたりする。まずはテレビを消
してみよう。そうすると、ものを考える時間ができる。

永平寺には三黙道場というのがある。東司(トイレ)と浴室と禅堂(食
事や坐禅を行う場)では、言葉を発してはいけないことになっている
。実際に言葉を発しないでいると、私たちが普段口にしている言葉
の多くが、まったく意味のない言葉であることがわかる。たまたま
目にしたものを言葉にしていたり、不勉強な自分が知らないことで
騒いだり。

テレビというのは、私たちの前にさまざまな映像や音を送り込んで
くることによって、私たちの言葉を奪い、心の対話を止めるはたら
きをもっているようだ。まずはテレビを消すことだ。

言葉を発しない。ひたすら沈黙を守る。すると心の中で対話が始ま
る。何かを感じるようになるかもしれない。まずはそこから、心の
再活性化からはじめるほかはない。

得丸久文(2002.03.07)


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