829−1. 信用社会・日本の抱える問題



Fさんのコラム
信用社会・日本の抱える問題を、興味深く拝読いたしました。
非常に共感するものがありました。

まったく、この件に関しては国内にいるときより海外に出たときに
、非常に痛感します。
もちろん、日本人といってもいろいろいるわけで、人によっては、
「やっぱり、同朋は有難い」と思うような心配りのできる方もいら
っしゃるので一概には言えませんが、それでも、人によっては、
いい歳で大学教授というような名誉職であるにもかかわらず、常に
尊大な態度で、まともな会話もできず、たった一言の「ありがとう
」も言えないような、本当に、どうしようもない人もいます。

ほとんど情けないというより、この年齢でこの態度ということは、
つまり、いかにどうしようもない人間でも、地位さえあれば、偉そ
うにできるか?
という日本の大学の「いびつさ」を見た気がしました。

一般的に、若い世代の方が礼儀に欠くと思われていますが、必ずし
もそうでもありません。
考え方によっては、まだ彼らなら、その悪いところを直すチャンス
はある、と思うのですが、問題はかえって、懲りもしない地位と金
だけに物を言わせ、実力もなければ、若い世代に伝えるほどのもの
もなく、財産と名誉にしがみつくような、老年の害だと思います。

いわゆる、戦争捕虜の人体実験をしても、アメリカに情報を売って
、悠々と逃げ延びた先生方をはじめとして、戦後になって、責任を
取ることをやめ、ずるさばかりを身につけて、常に曖昧な学問とか
、言論に逃げてきた知識人。

また、ソ連崩壊後に、一切それまで信奉してきた共産主義に近い路
線の教育システムを支持していたのにもかかわらず、それがいかに
おかしかったかという、追求も半端なままに、だらだらと同じ形態
で生息し続けるおかしな、日本の左翼(政治家・大学教授)も、
よく考えると、非常に無責任、嘘吐き、世間を欺いた、詐欺師のよ
うなもんでしょう。

そういうあっぱれな方々がいろいろな要所に、健在しておられるも
んで、いまだに北朝鮮も安心して、金を配り、それを頂く関係が温
存されて、脈々と繋がっているのかもしれません。

また、昨今も明らかになった東大の例を見ても、高齢にも関わらず、
自分たちが要職、高給職、名誉職から追放されないことばかり考え、
日本の国立大学に、しぶとく居座っている教授、先生方の見事なば
かりの、エゴイズムは、まさに悪い日本人の見本でしょう。

儒教社会の、目上を敬う精神は非常に尊いものではありますが、
それに乗っかって、次の世代を潰すようなことをやっている年寄り
には、恥じを知ってもらいたいものです。
本当に、若い世代はもっと、この閉塞的な日本の学問環境や、社会
制度の不条理さに、怒ってもいいと思うくらいです。

定年制度なども、もっと実力主義に変更してどんどん自分の論文な
どで成果を出さなければ、いかなる名誉職であれ、さっさとやめて
もらうなどの、厳しいやり方も採用すべきです。
名前だけの教授、名前だけの法人、名前だけの大学のために、無駄
な金を使うなら、もっと、優秀でも無名な若い世代を助ける根本的
な若手優遇策を取るべきです。

また、受験人口も減少しているにも関わらず、いまだに、大学入学
試験制度で、コンピューター試験を取り入れている現状は、こうい
った老齢の方々と大学関係者の無責任な、職務執行態度を露骨に示
しているとしか思えません。

彼らは、おそらく日本の将来にどんな人物が輩出されるかよりも、
自らの勤労時間の短縮とそれでいて、安定した給料の確保くらいし
か考えておいででないように、見えます。

もし、本格的に個々の人間の才能を見抜き、教育できる制度を導入
する意志が、今の大学にあるならば、即刻あのような無意味な試験
制度は改革し、もっと、厳密に個人のその学問に対する適応性を測
れるような試験を目指して、努力すべきではないでしょうか。

話によると、「京大の二次数学試験では、試験後に、それぞれの学
生の計算用紙を回収し、採点時には、その計算用紙を透かして、
そこに書いてある問題を解く、考え方の筋道を確かめ、その過程に
よっては、間違っていても、数学的な発想に見込みがある場合、
合格にすることもあった」そうです。

つまり、この試験において重要なのは、単に、暗記力などの頭の良
さを比較するようなことでなく、数学的な素質を見ていたというこ
とになります。

よって、発想によっては、点数は低くても、合格したその学生の存
在が、在学中に、他の学生に刺激になって、新しい発想が生まれた
りする・・・という、可能性はいちかばちかでも、かなり遠大な計
画によるものであり、「たまに、できへん学生がおる方がええんよ。
無駄なことが世の中大事なんよ」とのこと。
そのような非効率入試制度のお蔭もあって、京大から、ノーベル賞
学者を多く輩出しているのではないか?と森毅氏は著書の中で、
おっしゃっていました。

まさに、そういう意外な発想も含めて、日本の教育の閉塞感からの
脱出には、今までとは、根本的に違う価値観や評価が必要ではない
かと思います。
そのためには、今の古い頭の先生方は(森毅さんは、それを承知で
とっくに退官)ほとんど変革を恐れる以外のことは、できないし、
なさらないのでしょう。
(それで、日本の大学はいつまでもマンネリ化)

もちろん、その学生たちの知識教育以前の、基本となるべきなのは、
Fさんが指摘されていましたように、初期の(3歳くらいから、始
めると効果的かも)基本的な道徳教育(論語、仏教や神道の宗教と
してではなく精神・道徳論としての教え)であることに、疑いの余
地はありません。
まず、善悪判断ができないまま、成人し、社会もそれを野放しにし
ているような、今の教育システムの異常性を認識すれば、当然の帰
結でしょう。

また、思春期くらいの年齢になれば、悩みも増え、社会に対しても
敏感になってくる時期なので、そこで世界の歴史と照らし、具体的
に、同じ悩みを多くの偉人が感じ、それを肥やしにして、成長した
ことを教えるべきではないかと思います。
その過程で、単に一番身近な教師だけでなく社会の第一線で活躍す
る人々の、現場の声を子供たちに伝えることも、刺激になるはずで
す。
今の教育現場は、あまりにも世界を狭め過ぎ、子供の可能性を奪っ
ているような・・・

また、「なんのために、人は生きるのか?」という哲学論を、さま
ざまな角度から教える。
あるいは、一緒に考える。
また、その集大成である論語、漢詩、古典、古今東西の哲学者の編
み出した思考法、その遍歴なども、最低の知識として、一般教養、
あるいは、倫理か道徳の授業に必修科目として、導入するべきでし
ょう。
(高校では遅い気がする、小学高学年くらいから取り入れても、今
の子供ならちょうどよいかもしれない)

「ゆとりの教育」などと悠長なことをいう前に、むしろ、「精神を
正しく鍛える教育」として、教師も生徒も、もっと気合を入れ、熱
いうちにしか打てない鉄、を錆付かないようにする、心身を鍛練す
る道、柔道、剣道、茶道、華道、書道など、伝統の精神的な素養を
身に付けることを、余暇に取り入れることを、奨励し、評価すると
よいかもしれません。

今だからこそ、古きに学び、昔の藩校のように郷土の偉人を尊敬し
、当たり前のこととして、先の戦争を含め、国のために戦った先人
を尊び、やたらめったら、外国文化に媚びる傾向を助長させぬよう
にするべきです。
まずなにより、自分の生まれた国を誇りにし、日々の生活に感謝で
きるような、そういう教育をしなければ、本当にこのままでは、
世界の潮流から乗り遅れ、日本の経済どころか、後100年の計、
病みつつある国民の精神的な基盤の改革に間に合わないのではない
かと、危惧します。

やはり、この改革のためには、当然ながら、教育の世界も、政治の
世界も、トップから痛みを伴って、首を飛ばしてでも、その犠牲に
なってもらわねばなりますまい。

大先輩方には、立派に引退の花道、有終の美を飾って欲しいもので
す。

CHOCO

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