828−2. ユダヤ系の知的発想能力について



ユダヤ系の知的発想能力について。        azuma 
いつも興味深く拝見しています。
ところで、今回のFさんのご意見:

>ユダヤ人たちの発想は、
>そのユダヤ教の厳しい戒律から出てくるようだ。
>思想的な背景が無いと、効果的な発想が
>出ないのかもしれない。
>現代日本の発想の無さは、あまりにも
>思想的な素養がないためではにでしょうか?

まさに、賛成です。そのとおりだと思います。日本人の哲学音痴は
、なんとかしなければ、まるで東洋の論理もなければ、西洋の論理
も中途半端になっている気がします。

ジャーナリズムのレベルの低さも、まず、教養段階の問題なのでは
ないかという気がします。哲学、宗教は学問として、また教養・歴
史として、もっと重視されるべきでしょう。
ロシアに関しては、ほとんどあらゆる学部で哲学が必修のようです。

実はロシアでは、革命の指導者、レーニン然り、トロツキー、また
、他の上層部もほとんどが、ユダヤ系であったということが、一部
で、まことしやかに話されています。

そして、その反動でスターリンが、徹底的にユダヤ系を弾圧したも
のの、それでも尚、現在に至るまで、政治・経済・文化・娯楽に至
るまで、ロシアの中枢部を占めるのがユダヤ系であるというのは、
明白な事実です。

これは、単なる縁者を優遇するとか、同人種を引き合うだけの理由
では説明しきれない、なにか民族的な、教育の秘訣があるように思
えます。

実際に、ロシアの中のユダヤ系の人々は、たいてい子供の数は少な
く、教育熱心で、離婚率は低く、ある意味で非常に真面目、勤勉な
人が多いです。

こちらのユダヤ人が全部、シナゴーグに通うという様子はないもの
の、根本的に自分の民族に、与えられた歴史的な経緯の上で、自分
の位置を見て、考え、行動するというのが彼らの常識でしょう。

また、それを戦略的に利用する感覚も鋭く、他人と論争するのを厭
わず、自己主張がはっきりしていて、かつ理論的にそれを発言し、
実行していく能力が、たいていのユダヤ人に、あるように思えます。

それは、特に最近になって細かいところまでわかり始めたユダヤ・
ジョークなど、彼ら自身が自分たちの同朋をネタに取っては、笑っ
てきたそのしたたかさは、大変なものです。

あるユダヤ人などに言わせると、ヒトラーも、ジリノフスキーも実
はユダヤの血が入っているからこそ、あそこまで反動的にユダヤを
弾圧したり、あるいは、徹底的に扱き下ろしたりしてしまう、それ
もまたユダヤの特徴なのだ・・・ということで、もしそれが事実だ
としたら、(確認しておりませんが)下手をすると、身内まで平気
で売り飛ばす過激なところに発展するような場合があるのかもしれ
ません。

それでいて、一般的に思われているよりも、ユダヤ系だからといっ
て、知性だけで、冷血ということはありません。
芸術家などを見ても、非常に情熱的ですし、(メイエルホリド、エ
イゼンシュタイン、シャガール、ルービンシュタイン、他多数)
文化的には、非常に個性(オリジナルな才能)というものを重視す
るようです。

だから、子供に対して比較的寛容で、自由を与える一方、もしも、
他人に迷惑をかけたり、不愉快な思いをさせる、生き物を殺すなど
のことをした場合、手をあげ、殴ってでも教える、という話もあり
ました。

ただ盲目的に、なにかを押し付けるような、そういう教育とは違い
、子供を、個人として理解しようとする、その立場は、なかなかの
ものだと思いました。
また、独特の家族理解、またその家族内の結束があるように思います。

特に、今ロシアで噴出している浮浪児問題の根本にも、家庭崩壊が
あります。
やはり、残念なことに収容されている子供たちの親のほとんどは、
幼児虐待を行うような親か、それとも育児放棄をしているようで、
ひどい場合は両親ともにアルコール中毒、薬物中毒など、とにかく
、そんな状態では教育もなにもあったもんじゃありません。

その点、仮に社会的に少数派でも、それがゆえに結束の強い民族は
、やはり第一に子供の教育、躾などに厳しく、しっかりと育ててい
るような印象を受けます。
まず、なにはともあれ、家庭こそが、民族の基盤にあることを、
非常に認識しているからではないでしょうか。

ところで、聞くところによると、ユダヤの信仰では、単に神を信じ
ることより、常に思考しながら、自分の行動や思考の正統性を、
経典を読み理解することで学んでいく、というような立場を取るよ
うです。

したがって、信仰というのは、かなり個人的な行為でもあるのかも
しれません。また、経典はひとつでも、それぞれの解釈の範囲が広
い可能性もあります。

キリスト教の神父のような立場でなく、経典(タルムード)を解釈
し、正しく伝えるというような宣教師(ラビ)的立場の人がいて、
そこに一般人も相談に行くようです。

そして、そこで相手と納得するまで話し合う。
つまり、相手に完全に頼りきることを、信仰の上でもしないようで
す。

そういう意味では、彼らの弁舌が磨かれ、論理的な思考が促進され
るのは、単に丸暗記するものでもなく、対話によって、自らの思考
を研ぎ澄ます作業を、民族宗教的な立場からも、自然にやってきて
いるから、といえるのかもしれませんね。

CHOCO


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