827−1. 異文化交流術(チヨコ流)



得丸さんの異文化交流術、興味深く読ませて頂いています。

なかなか、同じ日本人とはいえ、海外に出ると余計感じるのは、
出身地によってかなり異文化交流の仕方や受け取り方に、違いがあ
るなあという気がします。

私はどちらかというと、もろに関西人として、父親が大阪の北河内
出身のバリバリの大阪人、母が神戸の洋風文化に染まった画家、と
いう家庭で育ったせいか、あまり異文化交流といっても、構えた感
覚がないまま、ずっと神戸で育ちました。常に海の向こうにいる人
が隣人だと思っていましたし、今もそうです。

子供のときから、漠然と、ずっと外国に行って、住もうと思ってい
ました。
でも、大学のときには中途半端に1ヶ月くらい留学するのが馬鹿らし
く、しかも留学ブームのようになってしまっていたので、なんとな
く時期を待っていたのです。

そうするうちに、卒業後、転機がきました。
ロシア貿易という、かなりユニークな分野で働かせて頂く機会を得
たのです。その頃から、ぼちぼちロシア語をやり始め、怪しくロシ
ア人の船員たちと渡り合い、彼らの素朴さに惹かれました。

そして、ええ加減関西流の実践会話に加え、スパルタ式、一年目の
ロシア語学習で、とにかく、チェーホフを読ませる強行軍を乗りき
り、ドストエフスキーに開眼させられて、なにがなんでもロシアに
行こうという気になりました。

モスクワでは一年目から、無謀にも、冬の単独シベリア遠征も行い
、ほとんどのモスクワのドラマ劇場を制覇し、やがて、それだけで
は飽き足りず、演劇大学の門を叩くことになり、気がついてみると
、3年以上軽くたってしまいました。

もちろん、ロシアといえば当然ながらソ連時代のイメージを引きず
ったまま、いまだに外国人に対して、警戒心を持っている人もいれ
ば、いちいち、パスポートにいちゃもんを付けては罰金を取ろうと
いう厄介な警察官もいれば、有色人種を狙って、集団暴行するよう
なネオナチもいるので、決して必ずしも安心して生活できる場所と
はいえません。

にもかかわらず、モスクワに最初に来た旅行の時点で、私は、ここ
で十分住めるだろうし、ここに、また必ず帰ってくるだろうと、
直感してしまいました。
たしかに、この感覚は普通じゃありません。
親には、勘当すると言われたくらいです。

初日から、ホテルのエスカレーターは故障して動かない、部屋の電
気は全部つかない、(電話したら、5分もせずに愛想ないおじさん
がのそっとやって来て、修繕)
空港までのバスが脱輪する、トイレの便座がなくて(足型付き)
トイレットペーパーなんてあるわけない、水が流れただけで、おめ
でとう状態だった、4年ほど前のモスクワ。

それでも、なんだか、ここが気に入ったのです。
この不思議な感じ。
不便で、どことなく原始的で、放任主義で、無責任な共産主義のと
きのまんまみたいな、この雰囲気。
一方で、マヤコフスキー、メイエルホリド、エイゼンシュタインな
どの芸術家が闊歩していた足跡をどことなく感じる街の、100年
前とも、あんまり変わらない様子。

移り変わりの激しい、気まぐれな天候。
いきなり、晴れたかと思えば雨になる。
そして、あの天に歯向かうような、巨大なスターリン建築。
まるで、宮殿のような装飾が「これでもか!」と施された地下鉄。

そこでは、人生の混沌を垣間見るような、強烈な日々の営みがあり
、ジプシーや物乞い、負傷軍人・・・
それを放っておけなくて、つい小銭をあげてしまう優しい人たち。

山ほど名画のある美術館には、ピカソもマティスも、ゴーギャンも
当然のように、常設展にさり気なく並び、ロシア名画は圧倒的な迫
力と気迫で、毎回見るたびに、電撃的に歴史の瞬間を伝え続ける。
そして、道端の花屋では、惜しみもせずに、一輪一輪が巨大な薔薇
の花束を、どんどん気前よく買っていく、でっかいからのロシア人
たち。

そして、あのロシア人の愛想の悪さも、ぴくりともしないような、
冷たく見える顔も、芝居を見ているときだけは、生き生きいていて
、好きな友達といるときは、遠慮せず、よく笑い、よく飲み、よく
食べる。

彼らには、子供みたいに単純なところがある。
馬鹿正直とでもいうのか。どことなく、なにか損なことばっかりし
て、表現下手で厚かましさばっかり目立つロシア人。
でも、ときどき信じられないくらいの純粋さで人を受け入れるとこ
ろがあったりして・・・

もちろん、ずっといいところばっかり見ているわけじゃないから、
欠点もたくさん知っています。
簡単に信用できないところも、たしかにあります。
遅刻、約束違反、間違い電話、詐欺、強盗、火事、殺人なども、
日本と比較できないほど多いし、政治の制度的な欠陥による、社会
の弊害もいまだに、山ほどあって解決されそうにもない。

にもかかわらず、ロシアの良さは、その大らかさとか、寛容さ、
恐れを知らぬ大胆さ、他の国では味わえない野性的、民族的な血の
濃さ、そしてなにより、芸術や文化・学問にかける情熱でしょう。

ロシア全体で見たら、たしかにひどい。
でも、こういう良さがあるから、他のことはなにがあっても
許されてしまう。しかしまさに、そういうところがあるからこそ、
ロシアなのです。

おそらく、冷静に損得感情を入れて考えれば、欠点の方が数量とし
ては、圧倒的に多いにもかかわらず、あまりに魅力的な一点のため
に、他のすべては、犠牲にしてしまえるという感覚。
資本主義や、合理主義では到底理解できないなにか不条理だけど、
深みのある世界なのです。

そういう一点主義の世界。
ほとんど、頑固一徹。不器用過ぎる生き方。
250年先くらいには、もしかすると、こんなロシアだって
よくなっているかもしれないじゃないか!という
チェーホフみたいな、長い長い時間感覚。

こういうところは、絶対日本にも学んで欲しいところです。
というより、政府や大学にまったくそれを期待できないので
個人的に、その必要性を感じ、現在、それを学んでいるところです
が。

その場凌ぎで、文化は形成されません。
その国独自の文化的魅力を衰退させ、完全に失ってしまってからで
は、個々の文化的な独自性によって、発揮できるはずの、その国の
歴史的価値、国際的な威信や尊厳までも失いかねないという気がし
ます。
仮にいくら、経済的な優越感があったとしても。

すごく不思議ですが、ロシアは経済的にボロボロになっても、
どこか国の威信に賭ける、情熱はまだ強く残っている気がします。

もちろん、そういう人が全体の中に占める割合は極めて低く、有能
で立派な人格の人ほど、苦労させられる現実ですが。
また、それに立ち向かって行ける強さも彼らの中にたびたび見るこ
とが多いです。(逆境に強い人たちなのでしょう)

日本人だということは、非常にこちらにいると誇りにできるし、周
りもたいてい、それを非常に素直に認めてくれます。
有難いことです。先人の知恵と努力によるものと思います。

歴史的なことだけでなく、ロシア人の多くは、不思議なくらい純粋
な憧れを持って、日本の短歌や俳句について思いを馳せている人も
少なくありませんし、「サムライにいかにしたら、なれるものか?
」と真剣に悩むおじさんたちや、芸者に憧れて、サークルを作って
しまうお嬢さんたちもいるくらいです。

草月の生け花展があるときは、行列を作って見にいきます。彼らに
とって、多分アバンギャルドに近い感覚の芸術なのでしょうか。

おかしなもんですが、ロシア人から見ると、日本人は、とてもかわ
いいらしいですが、私から見ると、ロシア人のめったに見えない
素朴な素顔というのも、なんともとても愛嬌があって、憎めない
ところもあります。
(なんとなく、西洋人にない間抜けさがあって、よく観察するとロ
シア人は面白いです)

多分、私以外でも、関西の人間はたいていモスクワに来て平気で、
「モスクワって、神戸に似てるやん」
「ロシア人って、関西人に似てるんとちゃうん?」
「ここ、梅田の泉の広場みたいやん」
と言うし、まあ考え方によってはそんなもんじゃないかと思うんです。
たしかに、ロシア人は関西人と感覚が近いです。
うちの父親なんかは、カラマーゾフ兄弟の登場人物に、性格がそっ
くりなくらいです。

世の中、たしかに違いを見れば違うけど、同じところを見れば、同
じで、人間なんてそんなに変わらないもんじゃないかと。
イタリアに行っても、やっぱり、イタリア人が関西人と、感覚的に
すごく共通するものがある気がしましたが。

だから、私には特別な交流術はありません。
とりあえず、みんな私にとっては、同じ人間です。
肌の色も、国籍も、人種も、もし違っても、感覚的に、「同じだ」
という観点で受け入れて、付き合い始めれば、別になんの違和感も
なく、自然に馴染んでしまうのです。

言葉はもちろん、できたらできたで結構なことです。
でも、どこに行っても得意の英語で通そうとする日本人、というの
も逆にあんまり美しいものでもありません。

喋るなら、片言であろうと、現地語で喋る努力もしてみる、それが
、相手文化への敬意の払い方でもあるし、また旅の醍醐味でもある
と思います。

しかし、言葉ができなかったら、できなかったで、それを補う努力
があれば、旅行程度なら、なんとかすることも、できると思います。

相手がどこの国の人であれ、通じさせる気があれば、通じるもので
す。要するに、これはほとんど、気合と度胸の問題です。

それよりも、嫌な雰囲気とか、以心伝心でなんとなく伝わる嫌悪感
や、軽蔑・侮辱・拒否する感情の方が、ずっと人間関係を損なうよ
うな気がします。
その国に住みながら、そこの悪口ばかり言っていていいことは、
まず起きないと思います。

そういう意味でも、自分の感情に素直であること、(人を傷つける
ようなことは、例外として、喜怒哀楽を表現できるのも、人間の能
力のうち)普段から、嘘をつかない誠実な生き方をすること、
そういう当たり前のことを徹底することが、遠回りなようで、実は
、あらゆる国の人と対等に付き合うための、最低の常識なのではな
いでしょうか。

CHOCO

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