819−2.異文化交流術7〜9



異文化交流術 7 異文化は見えない?
・ 見えているものを見ている冬鏡 岡本眸
 ものを見るという行為は、目で行っているのではなく、もっぱら
脳で行っている。

 まぶたを開けると、対象から反射された光のうちの可視光線が、
眼球レンズを透過して網膜上で結像し、それが視神経によって脳に
運ばれていく。このプロセスには、焦点調節機能や信号伝送能力な
どの物理的制約があるために、目が機能していること、あるいはき
ちんと補正されていることも重要である。

 視神経は、信号伝送能力に限界があるために、脳に送る信号の量
を自律的に制限する。その際、どの情報を選択して脳に送るかは、
おそらく脳のそれまでの経験や動物としての本能や第六感によって
決まってくるのではないか。

 だが本質的には私たちはものを見るときに、目で見るのではなく
、脳で、意識(心)で見ている。意識が文化的に作られるとしたら
、見るという行為は極めて文化的な行為ということになる。

・ 知っているものしか見えない
 列車やバスの窓から外を眺めている人が、どんなことを口走ってい
るかを聞いてみるといい。彼らが口にするのは、「あっ、○○があっ
た」、「△△がいっぱい」、「大きな□□だね」といったものがほと
んどだ。

 何かを見ているというより、過去に見た何かの記憶が外界から呼
び起こされる経験といったほうが適切かもしれない。

 知のパラドックス「人間は自分がすでに知っているものしか、あ
らたに知ることはできない」というとなんとも救いのない命題がと
りあえず正しいことが確認できる。

 ためしに、ルーブル美術館に行ってみるといい。毎日毎日世界中
から何万人もの観光客が訪れるこの美術館で人々がぜひとも見よう
とするのは、ミロのヴィーナス像と、レオナルド・ダヴィンチの「
モナリザ」だ。

 日常生活から解き放たれたはずの観光旅行においても時間の制約
があるのか、途中に所狭しと飾ってある絵画や像には見向きもせず
に、まっしぐらにそれらの有名な展示のところへ向かう人もいる。
そこで教科書やガイドブックにある写真と同じものがあることを確
認すると、本物(のはずだ。しかし、そもそも本物とは何だろう)
を見たことで安心し、美術館を後にする。

 こうしてほとんどの観光旅行は、旅行会社のパンフレットや旅行
ガイドブックに書いてある事物を、指示通りに追体験するだけとな
る。驚きや不満や喜びや怒りも、自分たちの文化・価値体系から一
歩もふみ出ることはない。

・ 観光ガイドは異文化プロテクタ
 観光旅行で見て回るものは、昔の王様が住んでいたお城とそこの
調度品や家宝、歴史的建造物、美術館や博物館、眺めのいい塔や場
所などの景観スポット、そして土産物店。現地の生活の匂いのする
ところといえば、せいぜい市場や町中のレストランかカフェくらい。

 観光旅行に決定的に欠けているのは、現地の人との出会いや触れ
あいだ。観光客相手を商売とするガイドさんは、客が自文化の枠組
みから一歩も足を踏み外さないことを前提に接してくれる。客がで
きるだけ満足した気持ちで旅を続けられるよう配慮してくれる。
ガイドさんはむしろ客が異文化との出会いによって混乱したり、
カルチャーショックを感じないようにするのが仕事だ。そもそもた
かだか一週間か二週間の観光旅行で、カルチャーショックを感じて
いては、観光客の身がもたない。そうなると誰も観光なんてしなく
なるだろう。

・ 見えなかったものが見えてくる
 毎日毎日、ご近所の八百屋や魚屋で買い物をしていれば、今日の
野菜や魚が新鮮かどうか、安いかどうかが一目でわかる。毎日毎日
、同じことをくり返していれば、その道の目利きになる。経験によ
って、時間とともに、見る者は作られる。

 かつて私は青山の根津美術館で、江戸時代の「誰が袖美人図屏風
」を観たことがある。最初は「ふーん」と思って1分もしないうち
に通り過ぎたのだが、全部の絵を観終わって何気なくまたその絵の
前に戻ってきて観ていると、着物の図柄、屏風の中に描かれている
屏風の絵が実に多様であることに気づいてしばらく眺めていた。

 売店で、「あの絵はなかなか面白いですね」というと、「よろし
かったら単眼鏡をお貸ししましょうか」という。お言葉に甘えて単
眼鏡を手に再び絵の前に戻り、拡大してみてみると、たとえば着物
をかけてある衣桁がいくつかあるのだが、それぞれが漆だったり白
木だったり竹だったりと、実に味わい深いことに気づいた。それか
ら一時間ばかり絵の前で釘付けになったのだった。

 時間をかけて、じっくり眺めることによって、それまで見えてこ
なかったことも見えてくる。これは大事なことだ。

・ 異文化交流は心と心の交流
 自文化が、経験や学習によって築き上げられる自分の心だとした
ら、他人の心が異文化だ。他人の心と触れあったり、ぶつかりあっ
たりすることを通じてしか、異文化と出会うことはない。生まれ育
った風土環境や言語が違うと、文化の違いは大きいが、同じ社会に
属していて同じ言葉を使っている人間同士でも文化の違いはある。
これらは程度の問題に過ぎない。

 相手の心と触れあったり、ぶつかったりする経験は、いっしょに
仕事をしたり(たとえば契約相手方としてでも)、いっしょに生活
しないと(近隣に住むという関係であっても)生まれない。同じ地
域に住んで、同じ言葉を話していても、付き合いがなければ、文化
の違いを感じることもない。

 人間の防衛本能によるのか、「人を見たら泥棒と思え」という諺
にみられるような教育のたまものか、人間は自分に近付いてくる相
手をまず排除する傾向にある。お互いが前向きであっても、文化の
違いのために意思疎通がうまくいかないこともある。
本来理解し合えた者同士が対立してしまったり疎遠になったり、
無駄な時間を費やすのは、できるだけ避けるようにしたい。

 どうすれば短い時間で相手の心に触れることができるだろうか。
どうすれば誤解なく相手とうまく心を通わせることができるだろう
か。何も知らないでぶっつけ本番でやるより、あらかじめ勉強して
心構えしておくと少しはうまく心を通わせられるのではないだろう
か。それが異文化交流術だ。異文化交流術とは、それまで知らなか
った人と、なるべく早くうまく心を通わせるための技術なのである。
(得丸久文、2002.02.19)
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異文化交流術 8 異文化に切り替える?
・ 阿倍仲麿の心
 天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

 阿倍仲麿は西暦717年、弱冠19才で第八次遣唐使として唐に
渡った。科挙に合格して、朝廷の役人となり玄宗皇帝に使えた仲麿
は、渡航16年目のときに第九次遣唐使の帰国とともに日本にかえる
ことを皇帝に上奏するも、却下される。それほど篤く登用されたの
だ。

 753年に第十次遣唐使が帰国するときに、唐の朝廷の使者とい
う名目で帰国が許可され、その船の待つ明州海岸で李白や王維らと
別れを惜しんだ。その夜に詠まれたのが、この歌である。

 通常これは、「大陸で大空を振り仰ぎ月を見ると、三笠の山にか
かっているのと同じだ。(月は同じなのに私はこんなに遠いところに
いるものだ)」という意味で、月を見て故郷を懐かしむ望郷の歌だと
解される。

 しかし、どうして明日日本に向けて船が出るという晩に、わざわ
ざ望郷の思いを歌にする必要があったのだろうか。慨嘆する必要は
ないではないか。それともこの歌は新作ではなく、仲麿が長い中国
生活の間に何度も何度も口ずさんだ歌として友人たちに紹介したの
だろうか。そうも思えない。

 仲麿の本心は、36年間の中国生活で仰ぎ見ていた月は、故郷で
見た月と同じに見えなかったのに、なぜだか今夜の月は、故郷で見
たときと同じように見える、というものではなかったか。その驚き
を歌にしたのだとは考えられないか。遠く故郷を離れ、唐朝廷の
高級官僚として厳しく自己を律して生きてきた仲麿が、はじめて心
の緊張をほぐして故郷を懐かしんだその時に、月の姿も故郷で見た
ものと同じに見えた。

 おそらくこの時、仲麿の心はひと足先に故郷に帰りついていたの
だろう。心構えが故郷モードに切り替わったために、故郷と同じ月
に見えたのではないか。現実には仲麿の乗った船は難破して安南に
漂着し、仲麿は結局死ぬまで日本に帰らず長安で暮らした。この夜
に月を見た間だけ、仲麿は故郷を味わったのかもしれない。

・ 離日の朝のクロワッサン
 私がロンドンに駐在して1年半たったときに、はじめて日本に出
張することがあった。九泊十日の出張で都心のホテルに宿泊したが
、そこの朝食は和風と洋風が選べるバイキング方式だった。私は滞
在中ずっと和風を選んでいたのだが、離日する日に限って洋風を食
べていた。バタークロワッサンがおいしく二つ食べたと当時友人あ
てに送付していた個人通信に記録が残っている。(地球浪漫1702) 

 再び海外に出発する日の朝だったから、異文化に対応する心構え
になっていたのかもしれない。阿倍仲麿の心模様の推察は、自らの
経験に基づいている。

・ バイリンガルは心も切り替える
 鍋倉健悦著「異文化間コミュニケーション入門」(丸善ライブラリ
)の第六章では、「バイリンガルという人々(ここでは日・英の)が、
同一の状況をそれぞれの言語で体験した際、その心理状態と行動に
も違いが見られるのか」ということが論じられている。

 実際にバイリンガルの人を使って調査を行った結果、「バイリン
ガルが使用言語を変える時、彼らの心理状態にも、変化が起こる(
略)。つまり、日本語・英語による彼らの反応の仕方は、それぞれ
の文化に適応したかたちで示される」ということが明らかになった。

 本章の最後に紹介されているある被験者の言葉が、文化と言語の
関係について多くを物語っている。「もし日本語で『奥さんは美人
ですね』と言われたら、『いやいや、とんでもありませんよ』と即
座に否定しますが、英語で同じことを言われたら、『だから彼女と
結婚したんです』と答えるでしょうね」バイリンガルの人々は、言
語を切り替えるときに、心も切り替えているのだ。

 われわれも相手の属する文化や話す言語によっては、ものの言い
方や考え方を改めたほうがいい場合もあることを覚えておこう。言
葉を覚えることはそう簡単ではないけれども、通訳をしてもらう人
に、「こうこうこういうことを伝えたいのだけれど、どう言えば相
手の方に一番わかってもらえるでしょうか」、という質問をするだ
けでも効果は上がるだろう。

・ 「あなたは知らない」
 パリに住んで二年になろうとしていた頃、まもなく四歳になる長
男と二人でアパートの近所を歩いていた。すると、突然、アルジェ
リア人風の若い男性が、私の少し先を歩いていた長男を抱き上げて
、とても流暢な日本語で、「おはようございます。元気ですか」と
話し掛けた。

 それまで、日本人風の顔をしていれば日本語で話しかけ、そうで
ない顔をしている人に対してはフランス語で話すものだと自分なり
のルールを持っていた長男にとっては、まさにカルチャーショック
だったようだ。一瞬顔が引きつって、それから日本語で、「あなた
は知らない」と冷たく言い放った。私はあなたを知らないといいた
かったのだろうが、あせって言い方が変になったのかもしれない。

 文化は心にインストールされるソフトウエアだから、顔や髪の毛
や肌の色といった外見では判断できないということをそろそろ肝に
銘じておく必要があるようだ。それが可能だったのは、人々があま
り移動をしなかった時代だ。これからは、言葉は必要に応じて切り
替えざるをえないが、礼節や信義は相手が誰であっても切り替えな
い不変のものとして、自分の中で大切に育みたい。

 これは人から聞いた話だが、ロンドンの地下鉄の中で、何かロン
ドンの不便な事情について、日本語で不満不平を言いつのっていた
日本人主婦たちに向けて、「壁に耳あり」と日本語で言いおいて電
車を降りた紳士がいたそうだ。イギリス紳士らしい行動だが、当の
主婦たちは、「穴があったら入りたかった」のではないか。相手の
国や人のことを悪し様に口にするといった礼儀にかなわないことは
、何語であろうとしてはいけないということだ。

 異文化だからどうする、自文化だからこうするといった切り替え
が難しい時代になってきた。相手が、自文化であろうと、異文化で
あろうと、気にする必要はない。相手が誰であっても失礼のない礼
儀を身につけることが、異文化交流の基本かもしれない。

 論語にいう。「言葉に誠意があり、行為に誠実のあることだ。
それなら世界中、たとえ夷狄の国へ行っても妥当する。(子曰く、言
うこと忠信にして、行い篤敬ならば、蛮ぱくの邦といえども行われ
ん。衛霊公)」同じ人間であるのだ。全人類にユニバーサルに通用す
る文化を模索し、身につけようではないか。
(得丸久文、2002.02.19)
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異文化交流術 9 異文化は浮き彫りにする
・ 外国で暮らす経験
 もし私が外国で生活をしたことがなかったら、これほどまでに文
化や異文化について考えることもなかっただろう。
 外国にはフランス語学研修生、ユネスコ・パリ本部でのアソシエ
ートエキスパート、ロンドンでの商社の駐在員として、それぞれ1年
、2年、4年住んだ。一気に7年住んだのではなく、3回に分けて途切
れ途切れに住んだこともよかったし、イギリスとフランスという
ヨーロッパの中では対照的な国に住んだのもよかったかもしれない。
 外国に住んでよかったことのひとつは、日本社会や会社からまっ
たく切り離されて、孤立無援で裸一貫の自分を見つめる機会がもて
たこと。自分が実際に身に付けている技能と、単なる頭の中の思い
込みでなんお役に立たないものとを峻別することができた。ユネス
コ勤務中に自分というものを確かなものにするために、何か日本の
武道を始めようと思い立ち、フランス人の中に混じって合気道の稽
古をはじめた。
 もうひとつよかったのは、仕事や交友関係を通じて、日本人とは
違ったものの見方や考え方を聞くことができたことだ。取引先との
食事や喫茶のときの話もよかったが、とくにユネスコ時代やロンド
ン駐在員時代の秘書たちとは、毎日のように軽いおしゃべりから政
治や文化のことまで議論した。ゆったりとしたおしゃべりの時間を
持てたことが幸運だった。

・ 日本社会を逆照射する
 仕事でいっしょに日本の街を歩いた外国人の日本についての生の
声も参考になった。
「どうしてこの国には国旗が掲揚されていないのだ」というのが、
デンマーク工科大学教授が日本について感じた違和感だった。たし
かにヨーロッパの街には、もっとたくさん国旗とEU旗とが平日でも
掲揚されている。日本ではまったくといっていいほど目にしない。
でも、この教授の感性はすばらしい。普通人はそこにあるものを見
て取るが、彼はそこにないものを感じ取った。
 フランス人のエンジニアが感じた日本は、「お巡りさんが少ない
ね」(これもないものを語っている)、「どうして男同士ばかりで
飲み屋にいるの」(これも女がいないということを感じ取ったのか
?)
 イギリス人技術者は、日本に来ることを会社の副会長に報告した
ところ、「日本、いいね、私はまだ赤道を超えたことがないんだ」
と言われたそうだ。博士号ももつこの副会長は、日本が南半球のオ
ーストラリアかニュージーランドの近くにあると思い込んでいた。
フランス人の場合、アジアはベトナムが中心だから、日本はその近
くだろうと思うらしい。どうしても自分が知っているものに近付け
て受け止めがちになるようだ。

・ 相違点と類似点が照らすもの
 二人のイギリス人技術者は、一九九六年一月に二週間東京に滞在
した。
 到着の翌日、赤坂にあるホテルのレストランから窓の外の首都高
を見ながら、「どうして日本は車が正しい(英国と同じ左)側を走っ
ているの」と質問した。私は「おそらく英国に学んだのだろう。た
だ人口が一億二千五百万人おり、島国だから、たいていの規格は日
本独自であっても問題はない」と答えると、「えっ、英国より人口
が多いの!?」と二人ともひどく驚いていた。ちなみに英国の人口
は約五千万人で日本の五分の二。
 英国では地理の授業で日本は教えないそうだ。おそらく旧植民地
について勉強することが山ほどあるのだろう。英国の会社から年末
にもらう手帳には、ロンドン地下鉄路線図と、世界地図が数頁にわ
たって挟み込まれている。「日没せざる帝国」のなごりかもしれな
い。
 数日して、ひとりの技術者が、「東京の大気汚染はたいへんひど
い」という。ロンドンよりはマシのはずだと思っていた私は意外に
思って「どうしてそう思うの?」と問い返すと、「地下鉄の中で白
いマスクをしている人を何人も見かけた。彼らは汚染した空気を吸
わないようにしているのだろう」という。
 当時ロンドンでは、旧型のバスやトラックがすさまじい排気ガス
を出して走っていたため、オートバイや自転車乗りがマスクで排ガ
スから身を守っていた姿をよく目にした。彼は東京でもマスクを見
たために、それは悪い空気から身を守るためである、東京の空気は
よほど汚染されているに違いないと一気に結論づけたのだ。
 私は、「風邪をひいている人が、公共の場で風邪の菌をまき散ら
さないようにマスクをしているんだ。」と彼の誤解を解いてあげた
。もしかすると、花粉症の人も混じっていたかもしれないが。
 この技術者のうち、ひとりは日本がまったくはじめてだった。も
うひとりは二回目だった。朝食を食べながら、はじめての方が「や
っぱり英国とは違うなあ」というと、二回目の方は「そうかなあ、
僕はけっこう似ていると思うよ」という。彼は二度目だから、少し
目が慣れてきて、類似点に目が移ってきたのかもしれない。
 通常、異国の文化に接するときに私たちが用いる形容詞は、似て
いるか違うかのどちらかだ。
 似ているも、違うも、相対的な評価である。つまり私たちは、自
分があらかじめ持っている価値基準や常識に照らして、異文化の現
実を見ている。その基準や常識に似も違いもしない現実は、まった
く見えない。
 観察者は評価によって自分自身を表現する。自分が持っていない
ものは目に映らない、意識されない。自分の心が何かにとらわれて
いればそれにばかり目がいく。
 つまり、正しい異文化理解をするためには、幅広い見識と、何も
のにもとらわれない心をもつ必要があるということだ。

・ 考えるための時間
 海外生活のよさは、ものを考える時間が豊富にあることだった。
現地のテレビは大して面白くなかった。もしかすると面白いと思う
だけの語学力がなかったということかもしれないが。
 テレビ番組で唯一記憶に残っているのは、語学研修でフランスに
いた一九八六年当時、TF1で放送されていたミッシェル・ポラック司
会の「ドロワ・ド・レポンス(反論する権利)」という討論番組だ。
毎週土曜日の夜、あるテーマをもとに視聴者も参加して熱い議論を
行うものだが、人々が相手の話の腰を途中で折るためにかぶせるよ
うに議論に介入する姿は文化だなと思った。「第一に、、、、第二
に、、、、第三に、、、」と箇条書き的に話を進める姿も、頭に焼
き付いているが、今思えば合理主義の国ならではの文化だと思う。
 結局お互いが言いたいことを言い合うだけで、なんら意味のある
結論がでないことが多かったのも印象深い。なんのための議論なの
だろうと思ったものだ。
 あとの時間は、ひたすら本を読んだ。ソルジェニーツィンの「収
容所群島」全六巻を読んだもの、時間が自由な海外生活だからでき
たことだった。
 一九八六年は日本国憲法公布四十周年ということで、持参してい
た小六法の日本国憲法の条文を一条から百条まで何度も読んだ。そ
の過程で、憲法第十二条に「この憲法が国民に保障する権利および
自由は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない
」という言葉を見つけ、いったい私たちはどのような努力をしてき
ただろうかと、反省した。

・ 戦後民主主義ヴァージョン3・1
 しかし、なんといっても、国連機関であるユネスコで二年勤務し
たことほど、大きな影響を与えてくれたものはなかった。
 私は昭和三十四年に生まれた。子供時代は安定した高度成長期で
あり、幼稚園のころ潮干狩りした郷里大分の浜辺がどんどん埋め立
てられて工場用地になっていった。
友達と遊んでいた近所の空き地がどんどんビルに変わった。
 小学校六年のときに、連合赤軍浅間山荘事件があり、教室のテレ
ビで最後の場面を見た。東アジア反日武装戦線による連続企業爆破
事件や三島由紀夫の自決が高校一年のときだった。
 学校で習ったことや、マスコミの報道を信じれば、反日武装戦線
や連合赤軍の主張も理解できるのだが、あのような暴力はどう考え
ても意味がないし、明らかに間違っているという思いが子供心に植
え付けられた。
 今思えば、連合赤軍や連続企業爆破犯たちは、日本の戦後教育の
中に込められていた日本を否定する要素を、そのまま受け入れて暴
走させてしまったのではないか、と思う。彼らの行ったことは明確
に犯罪を構成するが、そもそもの動機形成は戦後教育のたまものだ
と思う。
 教科書墨塗り世代をヴァージョン1、ベビーブーム世代がヴァー
ジョン2、高度成長世代がヴァージョン3という世代区分で考えて
みる。すると、私たちの世代の戦後民主主義は、七十年代初頭に起
きた事件によって日本を暴力的に否定する牙は抜かれた、戦後民主
主義のヴァージョン3.1という実に安定したものだった。その行き着
く先は、国連による平和の実現という国連主義になる。私の小学校
の卒業文集には、将来国連で働きたいと書いてあった。
 その夢がかなったのは、外務省のアソシエートエキスパート制度
である。面接官の方に「あなたほど英語のできない人もいない」と
言われながらも採用していただいたことには感謝している。
 自分の専門分野である人工衛星による地球観測技術を生かせる職
場として、国連環境計画(UNEP)、食料農業機関(FAO)を希望したのだ
が、結局国連教育科学文化機関(UNESCO)の自然科学セクターと文化
セクターの両方で勤務することができた。

・ 国連幻想を体験
 国連の抱えるさまざまな問題については、たくさん本も出ている
ので、あえてここでは書かない。ただ私は自分自身の個人的な体験
と、日本の学校や社会に教わったこととの乖離に悩んだ。その乖離
をうめるために、手探りで本を読み、ひたすら考えた。
国連のことも学んだし、日本のことも学んだ。
 その結果思い知ったことは、漫然と国連に任せておけば世界は平
和になるという国連信仰は幻想であるということだった。国連
(United Nations)とはそもそも日本に対して戦争をするための大西
洋憲章に署名した連合国(United Nations)のことだったということ
だ。日本にいるときには、そこまで思いもしなかった。それがその
まま戦後の安全保障を保持するための機関になっているのだ。
 そうはいっても、連合国と現在の国連では加盟国もやっているこ
とも、全然違うではないかという人もいるだろう。でも、質的転換
は行われていないのである。たとえば中国語ではいまだに連合国と
されている。また国連憲章の中には、旧敵国条項も残っているので
ある。

・ 自分の文化を問う
 岡倉天心や内村鑑三が百年前に書いた日本紹介の本に、自分の知
らない日本の姿を発見した。
 異文化を問うことは、自文化を問うことでもある。自文化とは何
か、自文化ははたしてきちんと機能するソフトウエアなのか。バグ
やコマンドの欠落はないか。古いヴァージョンのOSと比べて、新し
いヴァージョンはどのように進歩しているのか、あるいは後退して
いるのか。
 そもそも文化とは何なのか。文化のインストールはどのように行
えばいいのか。バグや欠落したコマンドを発見した場合、どのよう
に処置するのがよいのか。

 異文化交流術は、次章で文化一般論について論じ、さらに日本の
戦後民主主義というOSの構造的欠陥、および21世紀の文明の中で
私たちはどのようなソフトウエアを組み込まなければならないかに
ついて論じることにする。
(得丸久文、2002.02.20)


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