811−2.紀元節について



神武天皇陵
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mizutani/gr001.htm
 紀元節  
 作詞 高崎正風  作曲 伊沢修二
http://www2.ktarn.or.jp/~miho-k/kigensetu.html
雲に聳(そび)ゆる 高千穂の 
高根おろしに草も木も 
なびきふしけん 大御世(おおみよ)を 
仰ぐ今日こそ たのしけれ 

海原なせる 埴安(はにやす)の 
池のおもより 猶ひろき 
めぐみの波に 浴(あ)みし世を 
仰ぐ今日こそ たのしけれ 

天(あま)のひつぎの 高みくら 
千代よろずよに 動きなき 
もとい定めし そのかみを 
仰ぐ今日こそ たのしけれ 

空にかがやく 日のもとの 
よろずの国に たぐいなき 
国のみはしら たてし世を 
仰ぐ今日こそ たのしけれ

紀元二千六百年の勅語

(正式には、時難克服の詔書)
注:1
勅語の文体は、濁点、句読点の無いカタカナ混じり文ですが、読み
にくいので句読点、段落を加えました。
注:2
難しい言葉には、括弧内に読み方と意味を入れました。
注:3
勅語、詔書、詔勅はいずれも同じで、天皇が国民に対して発表する
意思表示の言葉や文書の意味です。

神武天皇惟神(イシン、神ヲ思う)ノ大道(ダイドウ、人としての
正しい道)ニ遵(シタガ)ヒ、一系無窮(イッケイムキュウ、同じ
血統ガ永遠ニ続く)ノ宝祚(ホウソ、天皇の位)ヲ継キ、万世不易
(バンセイフエキ、永久に変わりのない)ノ丕基(ヒキ、大きい基
礎)ヲ定メ、以テ天業(天皇が国を治める事業)ヲ経綸(ケイリン
、国を治め整え)シタマヘリ。
歴朝(歴代ノ朝廷)相承(アイウ)ケ、上(カミ、天皇)仁愛ノ化
(カ、徳による教え導き)ヲ以テ下(シモ、臣民)ニ及ホシ、下(
シモ)忠厚(チュウコウ、忠義ニ厚い)ノ俗(ゾク、習慣)ヲ以テ
上(カミ)ニ奉シ、君民一体以テ朕(チン、天皇の一人称)カ世ニ逮
(オヨ、及び)ヒ、茲(ココ)ニ紀元二千六百年ヲ迎フ。
今や非常の世局(セイキョク、世上のなりゆき)ニ際シ、斯(コ)
ノ紀元ノ佳節(カセツ、めでたい日)ニ当ル、爾(ナンジ)臣民、
宜シク思(オモイ)ヲ神武天皇ノ創業ニ騁(ハ、馳せ)セ、皇図(
コウト、天皇ノ意図)ノ高遠ニシテ皇謨(コウボ、天皇の計画)ノ
雄深(ユウシン、大きく深い)ナルヲ念(オモ)ヒ、和衷(ワチュ
ウ、心の底からうち解ける)戮力(リクリョク、協力)益々国体の
精華(セイカ、最も優れている所)ヲ発輝シ、以テ時難(ジナン、
困難な時)ノ克服ヲ致シ、以テ国威ノ昂揚ニ勗(ツト)メ、祖宗(
ソソウ、代々の天皇)ノ心霊ニ対(コタ)ヘンコトヲ期スヘシ。

御名御璽(ギョメイギョジ、天皇の署名と天皇の印鑑)
昭和15年2月11日
各大臣副書
http://village.infoweb.ne.jp/~fwhy1010/chokugo-3.htm

四大節(よんだいせつ)
敗戦まで、四方拝、紀元節、明治節、天長節の四つの主な祭日のこ
とを、このように呼びました。

文部省が定めた後述の国民学校令施行規則によれば、
第十四条
「祭日祝日等ニ於ケル唱歌ニ付テハ周到ナル指導ヲ為シ、敬虔(け
いけん、深く敬いつつしむ)ノ念ヲ養ヒ愛国ノ精神ヲ高揚スルニ力
(りき)ムベシ。(後略)」。

第四十七条
紀元節、天長節、明治節及一月一日ニ於テハ、職員及児童学校ニ参
集シテ以下ノ式ヲ行フベシ。
1.  職員及児童「君ガ代」ヲ合唱ス。
2.  職員及児童ハ天皇陛下、皇后陛下ノ御影ニ対シ奉リ、最敬礼ヲ
  行フ。
3.  学校長ハ教育ニ関スル勅語ヲ奉読ス。
4.  学校長ハ教育ニ関スル勅語ニ基キ聖旨(せいし、天皇の考え)
  ノ在ル所ヲ誨告(かいこく、教え告げる)ス。
5.  職員及児童ハ、其ノ祝日ニ相当スル唱歌ヲ合唱ス。 
と定められていました。

式日には児童も先生も晴れ着を着て登校し、校長先生が読む教育勅
語を聞き、式歌を歌い、紅白のまんじゅう、あるいは菊の模様の落
雁を貰い、喜んで下校したものです。(戦争開始後、菓子は貰えな
くなりました。)
http://village.infoweb.ne.jp/~fwhy1010/kouki.htm#chokugo-3

◎今日は何の日・http://www.nnh.pos.to/
明治 22年 「大日本帝国憲法」発布
明治 22年 「皇室典範」制定
昭和 15年 皇紀2600年紀元節の詔書発布。全国の神社で祭礼が行わ
     れる

◇過去の産経新聞から【古代からの伝言】八木荘司(463)第5
部 日本建国(79) 
[2001年11月16日] 

▽橿原に即位して
神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)が、橿原宮(か
しはらのみや)で即位するときがきた。日本書紀にいう辛酉(しん
ゆう)年の一月一日である。
 いまの日本人の多くは、神武(じんむ)天皇による建国の伝承が
古事記、日本書紀に記載されていることを知っている。日本書紀の
伝える即位の日を太陽暦に直せば、「建国記念の日」(紀元節)の
二月十一日になるらしいといったことも、いちおう常識になってい
る。しかし、神武天皇の即位のようすがどのように古事記、日本書
紀に描かれているのかとなると、実際にたしかめた人はまれにしか
いないと思われるので、そのくだりを引用してみたい。

 まず、古事記である。
−かくて、荒ぶる神どもを平定し、伏(ふく)せぬ者どもを撃退し
て、畝傍(うねび)の白梼(かし)原宮(はらのみや)にあって天
下を治められた。
 これが大和の平定と治世にかんする記事のすべてである。ここに
は即位のもようを伝える記述はなく、治世についても原文では、
 −坐畝火之白梼原宮、治天下也
と、漢字で十二字という、素っ気ないほどの扱いになっている。
 古事記はよく知られているように、稗田(ひえだの)阿礼(あれ
)が勅命によって暗記した帝紀や旧辞(きゅうじ)を、太安万侶(
おおのやすまろ)が筆録して完成させた歴史書だが、神武天皇の即
位については、もとの資料にもほとんど伝わっていなかったものと
思われる。
 日本書紀は少し詳しくなっているが、即位の記述は、やはりきわ
めて短い。
−辛酉年の春正月元日に天皇(すめらみこと)、橿原宮に即位す。
この歳を天皇の元年とす。

原文では、わずか二十五字である。
もし、いわれているように日本書紀が皇国史観の聖典であって、天
皇制を賛美し、国民の崇拝を皇室のもとにあつめる意図をもってつ
くられたのであれば、初代天皇の即位のもようをもっと荘厳に、重
々しく華麗にうたいあげているはずである。しかし、事実は右のと
おりである。

 つまり、古事記、日本書紀ともに神武天皇の即位というもっとも
重要なできごとに対して、ほとんど粉飾していないということであ
る。伝承をそのままに、短ければ短いまま、あるいは大伴(おおと
も)や久米(くめ)などの氏族に伝わるものがあれば、それを援用
して、できるだけ正確に建国のもようを伝えようとしたのではない
か。古事記、日本書紀を編纂した当時の学者たちの歴史、あるいは
伝承に対する誠意を感じ取るべきであろう。

 ただし、神武天皇即位の年が辛酉年だったとする日本書紀の紀年
(きねん)については、なんどもふれたとおり、そのまま受け入れ
ることはできない。
 この即位の年以降、日本書紀は歴代天皇の治世年数でもって年代
を記録しているのだが、それらを累計していけば、神武天皇の即位
は最初の女帝である推古(すいこ)天皇の九年(西紀六〇一年)か
らさかのぼること千二百六十年、西紀でいえば紀元前六六〇年とい
う途方もなく遠い昔のことになってしまう。

 日本書紀はなぜ、神武即位の年を辛酉年にしたのかという点につ
いては、明治大正期の歴史学者、那珂(なか)通世(みちよ)によ
る仮説があって、中国古代の俗信である讖緯説(しんいせつ)によ
れば、千二百六十年(干支(かんし)二十一巡目)ごとの辛酉の年
に大革命が起きるとされている。推古九年は辛酉年にあたるので、
そこから千二百六十年まえの辛酉年を日本の紀元とした、というの
である。

 もしこの説が正しいとすれば、推古九年には王朝が転覆するよう
な大変革がなければならないのだが、この年は聖徳太子が斑鳩(い
かるが)に宮を建てたぐらいのことで何事も起きていない。だいた
い、万世一系の天皇制を記録している日本書紀が、王朝転覆を予言
するような中国の俗信によって皇紀を定めることがありうるのか、
といった疑問はここでは問題にならず、那珂通世の推論がいまでは
、すっかり定説化してしまっているのである。

 結局、日本書紀の記述でどうしても現実にあわないのは年代と、
それに関係があるのかどうか、なぞめいた天皇長寿の問題だけとい
っていい。たとえば、神武天皇は百二十七歳(古事記では百三十七
歳)、ずっとのちの第二十一代雄略(ゆうりゃく)天皇でさえ百二
十四歳で亡くなったことになっている。

 それはともかく初代天皇、磐余彦尊はこうして橿原宮に即位した
。大和民族の歴史の原点が、ここに印(しる)されたのである。

 (編集特別委員)
【神社のいわれ】橿原神宮 初代天皇が都定める 
[1997年02月04日 産経夕刊] 

 奈良県橿原(かしはら)市久米町に鎮座。神武天皇と皇后の媛踏
鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祭る。
 天孫降臨以来三代をへて、日向の地にあった神武天皇は、天下を
治めるに適当なところを東方に求められ、現在の宮崎県を発ち東征
の旅に出られた。瀬戸内海を東上し、大阪湾から大和川をさかのぼ
り、大和の地に入ろうとするが、賊にはばまれてしまう。そこで南
にう回し、熊野から八咫烏(やたがらす)の導きにより、山中を越
えて大和平野に入り、ついに国土を平定することができた。

 橿原の地に都を定め、宮殿を建設し初代の天皇の御位につかれた
。日本の建国である。この時、天皇は「人々のためになることであ
れば、決して妨げはないだろう。神々の教えを守り、国内を一つに
しよう」と述べられている。時代はくだり、万葉歌人の柿本人麿は
神武天皇の時代を「橿原のひじりの御世」と回顧している。

 橿原神宮が創建されたのは明治二十三年四月二日である。京都御
所の賢所を本殿に、神嘉殿を拝殿として造営された。例祭は紀元節
の二月十一日、かつて神武天皇が橿原宮に即位された日と定められ
た。神宮鎮座の背景には当然ながら当時の国家意識の高揚があった
が、国を肇(はじ)められた神武天皇を景仰する国民意識も強かっ
た。
 神社本庁『平成「祭」データ』によれば全国に神武天皇を祭る神
社は四百五十八社に及ぶ。(神社本庁教学研究所研究室長 茂木も
てぎ貞純)

14・2・11産経■正論 明星大学教授 小堀 桂一郎
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建国記念の日、一つの考え方
歴史の一員としての自覚新たにする日
《呼び名に絡む微妙な抵抗感》
 今年もまた「建国記念の日」を祝ふ日となつた。小学校の生徒と
しての六年間を通じて、この日を「紀元節」といふ名の祝日と心得
て学校の式典に参列し、紅白の餅を頂いて帰つた記憶も残つてゐる
世代である筆者には、今でもつい「紀元節」として先づ意識に上つ
てくることの方が多い式日である。

 全校の生徒で合唱する式典の唱歌の雰囲気に相応した厳粛さと多
少の華やぎと、それにもまして「春寒料峭」といつた季語にふさは
しいこの季節の凛然(りんぜん)たる空気の感覚が皮膚の上に蘇つて
くる、それはなつかしく、好ましい印象に飾られた記憶の連鎖であ
る。

 だが筆者がこの日は現在の呼名よりもやはり「紀元節」の方がよ
いのではないかと思ひ、それを筆にも口にもすることがよくあるの
は、決して上に記した様な懐古趣味的な、況(ま)してや感傷的な動
機によつてではない。それは以下の様な理由による。

 「建国記念の日」といふ呼名には、何となくそれが或る「政治的
必要」に応じてかく呼ばれてゐる、といつた色彩が感じられる。
それは、これこそ正に政治的産物そのものである「憲法記念日」と
並んで、その他の十二の国民の祝日とは異なる性格を有し、この日
の受け取り方祝ひ方について、人々に或る種の要求を課してゐる様
な意味合ひがあり、それが何となく気にかかる。必ずしも率直には
受け取れない、微妙な抵抗感を呼び起す名である。

《叙事詩的精神の所産の意味》
 戦前にも「建国祭」といふ呼び方が行はれてはゐた。しかしそれ
は「紀元節」といふ正式名称に対する別名であり、所詮別称として
の軽い扱ひを受ける底の呼び方であつた。「建国記念の日」といふ
名は「の」を省いた「建国記念日」や「建国祭」と同じことで、例
へばアメリカ合衆国やインドネシア共和国の如き歴史の浅い新興国
の「独立記念日」と共通する或る種の政治的未熟性が感じられて好
きになれない。いや、それは好悪の感情以前に、伝統的な「紀元節
」とは違つた事実を指した呼び方になつてゐるのである。

 「紀元節」の名に否定的な人々がよく論(あげつら)ふのは、キリ
スト紀元前六六〇年の辛酉(しんゆう)の年の元旦に神武天皇が大和
の橿原の宮で即位されたといふ伝承は要するに虚構である、といふ
点である。しかしこの問題は既に天明二年(一七八二年)に本居宣長
が論文の『真暦考』の中で明瞭にその虚構なることを指摘してゐる
のであつて、明治六年の紀元節制定は所謂合理的根拠の有無を超え
た、「虚構にも拘らず」の叙事詩的精神の所産だつたと言つてよい
のである。

 そこでその叙事詩的精神の意味であるが、それは簡単に言へば
祖国の歴史についての博(ひろ)い知識と深い理解を持ち、その結果
として国史に向けた高らかな誇りの心を各自の内部に秘めてゐる、
といつたことがその一の定義であらう。「紀元節」といふ式日は、
新興諸国の独立記念日の類とは判然と違つたもので、元来国民が挙
(こぞ)つて自国の悠久の歴史に思ひを致し、その歴史から生じた自
らの文化の伝統を守り、新たな生命力を賦活する、その様な意味を
こめて祝はれたのであり、又今後ともその方向に向けてこの日の
奉祝行事を作り成してゆくべきものであらう。

《誰しもが持つ〈遠つおや〉》
 先帝陛下が昭和六十年の歌会始の御題「旅」に寄せられた御製、
〈遠つおやのしろしめしたる大和路の歴史をしのびけふも旅ゆく〉
の一首は幸ひにして現在も多くの人に愛誦されてゐる様である。
陛下がここで詠はれてゐるのは大和路を〈しろしめしたる〉初代神
武天皇以下歴代の皇祖、理屈を言へば平安京奠都以前の四十九代に
わたる天皇方の御事蹟であるが、我々がこの御製に深く共感するの
は、さうした具体的な史実をさて措いて、主として〈遠つおや〉の
昔をしのびつつ大和路を歩まれる時の天皇の御心持に対してであら
う。

 何故ならば、我々庶民においても、その系譜を文字記録の上で辿
(たど)れるか否かは別問題として、血統の上に〈遠つおや〉を持た
ない人間は一人として存在してゐない。現在の自分といふ存在は、
忽然(こつぜん)として木石の中から生まれ出たわけではない。思へ
ば気が遠くなる様な、遠い遥かな〈遠つおや〉からの系譜のさいは
ての子孫として我はこの世に在るのだといふ事実は、如何なる個人
主義者でも認めないわけにゆかないだらう。その様な、現在のこの
自分をも含めた悠久な民族の歴史に思ひを馳せ、その歴史の中の一
員としての自覚を新たにする記念の日が二月十一日なのだ、と考へ
てはどうだらうか。(こぼり けいいちろう)
図越
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今日は何の日・http://www.nnh.pos.to/
1603年徳川家康が征夷大将軍に就任。江戸幕府を開く
1868年徳川慶喜が幕府追討軍に恭順の意を示し、江戸城を出て上野
   寛永寺に移り謹慎

☆小生が参加した昨日の日本会議大阪での紀元節の式典と記念講演
会には700名の参加者がありました。また引き続き行われた敬宮
愛子内親王殿下御誕生をお祝ひする御堂筋パレードには3000人
の方が参加されました(産経新聞大阪本社版本日付朝刊より)。
沿道の若い方たちにも歩きながら日の丸の小旗を100人ぐらいの
方に渡しましたが、皆さん喜んで小旗を振つてくださいました。中
にはギターを抱えたモヒガンがりの3人の若者もパレードに参加し
たいと話され途中から参加してもらつたり、沿道からの多数参加者
して頂きました。素晴らしいパレードでした。
雪が舞う中、本当に寒かつたです。

産経2・12■建国記念の日 都内で2000人パレード
独自の奉祝行事相次ぐ
 建国記念の日の十一日、「政府後援の式典はこの日の由来である
神武創業の意義に触れていない」として、独自の奉祝行事が各地で
行われた。
 神社本庁や日本会議などでつくる「日本の建国を祝う会」(会長・
小田村四郎拓殖大総長)は午前十時から、青山通りや表参道などをパ
レード。沿道からも飛び入り参加し、約二千人が練り歩いた。

 続いて、明治神宮会館で「建国記念の日奉祝中央式典」が開かれ
、約千九百人が参加した。国歌斉唱などに続き、小田村会長が「神
武創業を思い起こし、国の姿を回復することが平成の日本人の最大
の使命だ」とあいさつ。政府主催行事の実施を求める決議を採択し
た。
 第二部では狂言師の和泉元彌さんが記念講演。「天皇を中心に発
展してきたわが国の歴史と伝統を大切にしたい」と強調した後、
敬宮(としのみや)さまのご誕生を祝う狂言小舞を披露した。
 横浜市ではこの日に合わせて敬宮さまご誕生を祝う「県民の集い
」が、さいたま市でも奉祝式典が行われた。

朝日2・12■建国を祝う会に1400人が集まる
 日本会議や神社本庁などでつくる「日本の建国を祝う会」は東京
・渋谷の明治神宮会館で「奉祝中央式典」を開き、約1400人が
集まった。
 米国での同時多発テロや不審船事件を「戦後日本の外交・安保の
根幹を問われる重大問題」としたうえで、「神武建国の理想」を掲
げ、「聖域なき構造改革の潮流を憲法改正や教育基本法の改正など
の一大国民運動へと推し進め、日本の再生へ向けて力強くまい進す
る」との決議を採択した。

 「祝う会」会長の小田村四郎・拓殖大総長は「占領時代の後遺症
は主権回復後50年を経た今日でも根強く残存し、逆に一般化して
いる場合も少なくない」と述べ、「新しい歴史教科書をつくる会」
の教科書の採択率が「全国できわめて低かった事実はこれを実証し
ている」とあいさつ。狂言師の和泉元弥さんが「受け継がれる日本
のこころ」と題して記念講演した。

「赤旗」(共産党新聞)02/02/10
歴史教科書 有事立法 改憲策動
2・11 「建国記念の日」のいま
 二月十一日は「建国記念の日」。戦前は「紀元節」と呼ばれた
この日は、憲法や民主主義をめぐる進歩と反動の攻防の場になって
きました。天皇賛美の神話をとりいれた歴史教科書が採択され、有
事立法や改憲論が強まるなかで迎える今年の「2・11」は――。
◇紀元節
 最初の「紀元節」は一八七三(明治六)年一月二十九日。宮中行
事としておこなわれましたが、同年十月、太政官布告でその日を
二月十一日に変更しました。
 紀元節のもとになった「神武建国」神話(注)自体が、天皇の正
当性を強調するための架空の話。神武天皇の即位日にも根拠はまっ
たくない、明治政府の創作でした。
 明治政府は紀元節を特別に重視。天皇主権の明治憲法発布や日露
戦争開戦の新聞発表日、その後の重要な戦闘の作戦日をこの日に合
わせるなどして、国民を天皇崇拝と軍国主義に動員する機会にして
きました。
 教科書で「建国」神話を教え、学校の紀元節式典では、国民は
天皇に命をささげろと命じた「教育勅語」を奉読。読み間違えた校
長が自殺に追い込まれるという事件もありました。
◇復活
 太平洋戦争敗戦後の一九四八年、紀元節は「祝日法」で正式に
否定されましたが、五一年のサンフランシスコ条約調印後、紀元節
復活の「運動」が組織されました。五七年、自民党が法案を提出。
国民の激しい抵抗でもめたすえ、六六年六月、日付を決めないまま
「建国記念の日」という名称だけを強行可決。佐藤首相(当時)の
諮問機関が同十二月、「その日を二月十一日にする」と答申し、
翌日閣議了承、即日政令公布…という形で「建国記念の日」が制定
されました。
 紀元節復活をめざす勢力は翌年から「奉祝」大会を開き、これを
政府主催の国家行事にする運動を開始。八五年以降は政府後援の「
国民式典」と民間主催でより紀元節色の強い「奉祝式典」とを開催
しています。これにたいし、憲法の国民主権や平和・民主主義を守
ろうとする人たちがこの日を承認せず思想や学問、信教の自由を守
る集会を各地で開き、「2・11」は、進歩と反動の対決の場にな
ってきました。
◇改憲論
 「建国記念の日」制定は「天皇元首化など憲法改悪のくわだてと
も結びついた政治反動の重大な計画の一つ」(不破哲三『「家族、
私有財産および国家の起源」入門』)でした。
 事実、「奉祝」派は「私どもの前途には…靖国神社、防衛、有事
立法、国家機密保持、そして憲法改正の問題がある」(八〇年の式
典)などと、露骨にそのねらいを述べています。
 そして昨年の「奉祝」式典では「憲法改正、教育基本法改正の国
民運動を推進」と決議。「新しい歴史教科書をつくる会」の西尾幹
二会長(電通大教授)が講演し、「いまの教科書は国家の起源をあ
いまいにしている。建国神話の教育が必要」と強調しました。
 小泉政権下で正式に認知されたその歴史教科書は「神話」に十ペ
ージをさきました。とりあげたのは民衆に伝承されたものではなく
「神武天皇の東征」「日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛
(おとたちばなひめ)」など、奈良期に勅令(天皇の命令)で編さ
んされた記紀神話だけ。「この教科書が正式に認められ、一部とは
いえ学校現場に採用されたことは今後の、憲法を視野に入れた運動
の突破口になりうる」――奉祝派の「日本会議」関係者はそう位置
付けています。
 「2・11」は、新たな段階で進歩と反動の攻防の場になってい
ます。(各地の建国記念の日「不承認」集会は6日付け9面に掲載
しています)
◇神武建国(神武東征)神話
 高天原(たかまがはら)から降り立った神(ニニギノミコト)の
孫が初代の神武天皇で、各地の豪族を武力で征伐し、大和の橿原(
かしはら)で即位した…という、奈良時代編さんの『日本書紀』に
でてくる神話。明治政府は即位日を紀元前六六〇年の一月二十九日
(のち二月十一日に変更)だとして紀元節としました。これが史実
なら神武天皇は縄文時代に即位し、百二十七歳まで生きたことにな
ります。
図越

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