794−1.社会的共通資本の考え方



社会的共通資本について、勉強しよう。   Fより

この社会的共通資本は宇沢さんの本を読んだ方がいいのですが、
ここでは、F的な解説を試みることにする。この社会的共通資本は
環境問題やその他、社会的な共通の問題に解決を与える基盤になる。

今の公共事業は、ただ地元の選挙民に仕事を作るためだけに土木工
事を行い、国家財政を破綻させたのですが、これから未来に起こる
と思われる被害を事前に防止することは、世界にとっても、日本に
とっても必要なことである。この費用対効果は測定可能です。

このような公共事業であれば、将来の費用を現在、使うので問題が
ない。または、その事業を拡大することによって、必要経費が全体
的に下がるのであれば、問題がないはず。これが社会的共通資本の
ことであろう。

今必要な具体的ものは、田中さんが主張する環境問題であると思う。
これは京都議定書で日本も批准したのであるから、その実行は世界
に対する公約であるが、日本は今でも環境先進国であることと、
1990年から30%以上、家でのエネルギー消費量が増えている。
このため、その達成目標を守るのが厳しい。そのため、技術革新と
技術の普及を推進しないと、到底実現できない数値であり、これに
本腰を入れることは大きな意味がある。また、その達成のため、エ
ネルギー消費には高税を掛けることも必要があると思う。一方、エ
ネルギー節約には、国家補助をすることがいいでしょうね。また、
東京都の石原知事のように風力発電適合地には、風力発電を積極的
に導入する必要がある。

家での太陽発電には蓄電池も組み合わせて、家に必要な電気を自分
で生み出すような仕組みにする必要があろう。今までは発電と受電
の時間が違うために、電力会社が発電した電気を買い取るという便
方で辻褄を合わせていた。

もう1つが、環境保全の問題で、ダイオキシンの防止のためのゴミ
焼却場の建替えか改善を行う必要がある。

燃料電池の家庭用のものが、そろそろ実用化の時期にきている。
メタン・ブタン改質で当面は水素を得ることになるが、発売開始も
近いようですね。この支援を積極的にする必要があろう。

もう1つが、社会インフラとしてのブロードバンド・インターネッ
トの整備が急務のような気がする。この網整備ができると、それを
利用したサービスの変革が起きて、需要を大きく産む出すことにな
る。たとえば、IP電話が各家にできると、ほとんど無料で通話が
できるため、その電話の機器が全面的に入れ替わることになる。
また、世界的に通話が無料になるため、より大きなメリットが出る
ことになる。しかし、田舎の部分の事業はADSLであっても、
ヘイしないでしょうから、そこは国がサポートをするべきだと思う
のです。

社会的共通資本の話とは少し違うが、世界の次の秩序体系を作るた
めには、必要であるため、ここで方向性を述べる。
アマルティア・センの「貧困の克服」を読むと、アジアの経済発展
は3つの条件によっていたとのこと。1つ、教育の徹底があったこ
と。2つ、平等性。3つは日本からの支援で工業化上必要な習慣や
規則を持ち込んだこと。そして、アジア危機では民主主義の発展が
ないインドネシアやフィリピンなどが混乱したのです。このため、
民主主義の進展は重要である。これと、タイでの問題は政府関与が
大きいため、実体経済との乖離が大きいのと政府要人の腐敗、企業
倫理のなさが問題になった。しかし、マレーシアはIMFの支援を
受けるこを拒否した。それでも、マレーシアは経済復活が成功した
。これは企業の民営化を促進して、政府関与をなるべく少なくした
ことによる。そして、マレーシアの成功により、IMFの方針が間
違えであることがわかった。高金利政策は、その後IMFも方針間
違えを認めている。

このIMF方針を批判したスティグリッツである。彼の公共経済学
は、非常に示唆に富んでいる。また、グルーグマンMIT教授も要
チェックですね。これらの経済学者から、次の世界秩序体系を考え
ようと思う。今後もこのシリーズをご期待ください。
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 社会的共通資本の考え方 :宇沢弘文著から引用

 はしがきに述べたように、社会的共通資本は、一つの国ないし特
定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれ
た文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持す
ることを可能にするような社会的装置を意味する。社会的共通資本
は、一人一人の人間的尊厳を守り、魂の自立を支え、市民の基本的
権利を最大限に維持するために、不可欠な役割を果たすものである。

 社会的共通資本は、たとえ私有ないしは私的管理が認められてい
るような希少資源から構成されていたとしても、社会全体にとって
共通の財産として、社会的な基準にしたがって管理・運営される。

社会的共通資本はこのように、純粋な意味における私的な資本ない
しは希少資源と対置されるが、その具体的な構成は先験的あるいは
論理的基準にしたがって決められるものではなく、あくまでも、そ
れぞれの国ないし地域の自然的、歴史的、文化的、社会的、経済的
、技術的諸要因に依存して、政治的なプロセスを経て決められるも
のである。

 社会的共通資本はいいかえれば、分権的市場経済制度が円滑に機
能し、実質的所得分配が安定的となるような制度的諸条件であると
いってもよい。それは、アメリカの生んだ偉大な経済学老ソーステ
ィン・ヴェブレソが唱えた制度主義の考え方を具体的な形に表現し
たものである。ヴェブレンの制度主義の思想的根拠は、これもまた
アメリカの生んだ偉大な哲学者ジョン・デューイのリベラリズムの
思想にある。したがって、社会的共通資本は決して国家の統治機構
の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市
場的な条件によって左右されてはならない。社会的共通資本の各部
門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範
にしたがって管理・維持されなければならない。

 社会的共通資本は自然環境、社会的インフラストラクチャー、制
度資本の三つの大きな範疇にわけて考えることができる。自然環境
は、大気、水、森林、河川、湖沼、海洋、沿岸湿地帯、土壌などで
ある。社会的インフラストラクチャーは、道路、交通機関、上下水
道、電力・ガスなど、ふつう社会資本とよはれているものである。

なお、社会資本というとき、その土木工学的側面が強調されすぎる
ので、ここではあえて、社会的インフラストラクチャーということ
にしたい。制度資本は、教育、医療、金融、司法、行政などの制度
をひろい意味での資本と考えようとするものである。

 自然環境を経済学的に考察しようとするときに、まず留意しなけ
ればならないのは、自然環境に対して、人間が歴史的にどのような
かたちで関わりをもってきたかについてである。この問題は、広く
、文化をどのようにとらえるかに関わるものであって、狭義の意味
における経済学の枠組みのなかに埋没されてしまってはならない。
 「文化」というとき、伝統的社会における文化の意味と、近代的
社会において用いられる意味との問に本質的な差違が存在すること
をまず明確にしておきたい。

 一八五四年、アメリカ・インディアンの酋長シャトルがいったと
いわれるつぎの言葉は象徴的である。
 「白人がわれわれの生き方を理解できないのはすでに周知のこと
である。白人にとって、一つの土地は、他の土地と同じような意味
を持つ存在でしかない。白人は夜忍び込んできて、土地から、自分
が必要とするものを何でもとってしまう余所者(よそもの)にすぎ
ないからである。白人にとっては、大地は兄弟ではなく、敵である
。一つの土地を征服しては、また次の土地に向かってゆく。……
白人は、自らの母親でも、大地でも、自らの兄弟でも、また空まで
も、羊や宝石と同じように、売ったり、買ったり、台なしにしてし
まったりすることのできる「もの」としか考えていない。白人は、
貪欲に、大地を食いつくし、あとには荒涼たる砂漠だけしか残らな
い」

 温室効果ガスのうちでもっとも重要な役割を果たすのが二酸化炭
素(CO2)である。
 大気中の二酸化炭素は、産業革命の時代までは極めて安定的な水
準に維持されていた。ほぼ六千億トンであって、二八〇PPmの濃度が
保たれていた。しかし、産業革命以降の二百年ほどの間に、大気中
の二酸化炭素は約二五%増えて、現在の七千五百億トン、三百五十
PPmの濃度になっている。


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