790−2.自文化と異文化、OSの文化とアプリケーションの文化



おはようございます。富山は昨日から大雪です。飛行機便も少し欠
航したようです。
窓の外の公園は真っ白白で、そこにまだまだ空から雪が降り続いて
います。

書店で立ち読みした異文化本に自文化という概念を見つけたので、
久々に文化について考えてみました。
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自文化と異文化、OSの文化とアプリケーションの文化

1 文化は民族に帰属するのだろうか
異文化という言葉から思い浮かぶのは、理解不能な言語や風俗習慣
、礼儀作法や交際術。食べ慣れない味付けや香辛料の料理。コミュ
ニケーションが成立しない話し相手。
異なったものへの信仰、たとえば朝日を拝んだり、地蔵尊を祀った
り、言葉でしかない神だったり。家の素材の違い。集会場や広場の
つくり、町づくり。

では、その反対概念であるところの自文化って何? 自分が慣れ親
しんでいる郷土料理。自分の国に古くから伝わる神話、伝説、詩歌
、物語。母国語。小さいころからお稽古しているお茶やお花や武道。

結局自分が慣れ親しんでいるものが自文化であり、不慣れなものが
異文化としてカテゴリーされてしまうのではないか。異文化とは、
慣れているかいないかの違いではないのか。

文化を民族に固有のものだと考えると、日本民族の文化のリストが
あって、それが自文化であり、そうでないものが異文化ということ
になるのかもしれない。

だけど、自分が身につけていない日本の文化を自文化と呼ぶことは
できるのだろうか。あるいは、海外生活や外国人の隣人のおかげで
自分が日本固有でない文化を身につけたとすると、それは自分化な
のか異文化なのか。

2 文化はあくまで個人に帰属するもの
こう考えることはできないか。民族なんて関係ない。自文化とは、
自分が慣れ親しんでいるもの、さらに進んで自分が身につけたもの。
異文化とは、自分が慣れ親しんでいないもの、身につけるまでに至
っていないもの。

すると世界中の文化と呼ばれるさまざまな技術や表現やコミュニケ
ーションの手法は、すべて同じく文化として取り扱われ、その中で
自分が身につけたものや慣れ親しんだものが自文化として自分の中
に囲い込まれていく(自分の意識の中に取り込まれていく)のだ。

異文化は、自分がたまたま知らないだけのもの。だから異文化との
付き合い方は、自分を異文化に対して「開く」ことだ。異文化を取
り込んでいくようにして、付き合うことが大切だ。

3 アプリケーションの異文化
異文化を自分が知らない文化、自分が身につけていない文化だと規
定し、異文化を取り込んで自文化にすると世界が広がるというと簡
単なようだが、異文化交流はそんなに簡単なものではない。

文化の中には簡単に知ることのできる文化と、簡単には知ることの
できない文化がある。それらは、コンピュータのソフトウエアに類
して、アプリケーションの文化とオペレーショナル・システム(OS)
の文化に分類できると思う。

アプリケーションの文化とは、文化そのものがある特定の技術や役
割と結びついているもので、木や花を育てたり、料理を作ったりす
るものである。ひとりの人間が複数の文化を身につけても問題は生
じない。言語もどちらかというとこちらに含まれる。

これに対してOSの文化は、衣食住など生活の基本的な部分に関する
行動、無意識のうちに取るしぐさや行動、おつりの計算、苗字で呼
ぶか名前で呼ぶかといったお互いの呼称、神話的宗教的象徴やタブ
ー、詩の言葉。OSの文化は、どのような文化をになっているかが外
部から見えにくいことと、習慣になっているので、ひとりの人間が
複数の文化を身につけてそれを使いわけることがより難しい。

異文化摩擦は、どちらかというとこのOSの文化の領域で起きること
がおおい。

4 死角にあるOSの異文化
問題は、OSの異文化は死角にある。自分にとってドアは引くもので
ある時に、それをまず押してみる人びとがいることをどうやって想
像することができるだろうか。友達になったら、苗字ではなくて名
前で呼ぶことが親しさのあらわれであると信じている人々が、日本
人は苗字を呼び捨てにすることが親しさのあらわれであることに気
づくまでには時間がかかる。

自分が当たり前すぎるくらい当たり前だと思っていて、ほかに方法
はないと信じ切っていることが通用しないところに、OSの異文化の
難しさがある。

5 名刺の表裏でOSを切り替えるのは異文化コンバータ
明治維新のころの日本人は、英語で話すときには苗字と名前を反対
にするという慣例を作った。日本では苗字名前の語順であるのに、
名前のことをファーストネームと呼び、苗字のことをラストネーム
と呼んだ。日本では苗字がファーストネームであるという事実を隠
して、ひたすら日本人向けには日本文化OS、外国人向けには外国文
化OSを使いわけることで乗り切った。

これは異文化接触をできるだけスムーズに行うための生活の智恵だ
。海外旅行に持参する100Vと200Vの変圧器のようなものだ。名刺の
表を漢字で縦書きにし、裏をローマ字で名前、苗字の語順にしてい
る人は今も多い。

このような切り替えは、とりあえずの接触をスムーズにする上でお
おいに役にたったであろう。だが、一方で外国人に接する時には
ホンネを語らない習慣ができはしなかったか。相手が日本人であろ
うと、外国人であろうと、同じように自分の心を開くことまでは考
えていなかったのだと思う。

自文化の影響圏と、異文化の影響圏がはっきりと別れていた時代に
は、このような切り分けでなんとかしのげた。外国での行動様式と
日本での行動様式、相手の顔が外国人か、日本人かによって、名刺
の表裏を使い分ければよかったのだ。それに、外国人とは深い付き
合いをするチャンスもそれほどなかった。

現代の難しさは、文化を異にする人間が、入り交じって住むように
なったことだ。ひと昔前だったら、共同体の中に共通の意味付けが
徹底していたのに、今は同じ地域に住んでいても同じ意味付けを行
うとは限らない。もちろん文化を異にする人たちとは同じ地域に住
んでいても交わることは稀である。だからこそ、いざ交わった時の
ギャップは大きい。

相手が異文化を持つのか自分と同じ文化に帰するのかにおかまいな
く、うまく交流するにはどうすればいいのか。異文化交流の難しさ
は、ここにある。
(得丸久文、2002.01.24)
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得丸さん、どうも、白鳥です。
カルチャーショックというものを体験してこそ異文化は異文化とし
ての意味を持つのではないでしょうか。

先日中国で犬の肉と蛙の肉を食べてきました。蚕も食べてみました
。私の場合は他人が食べているものを食べられない訳がないだろう
という思いから、思い切って何でも食べてみることにしています。
人も食おうと思えば食えます。でも食べたことのないものを食べる
ときは抵抗がないかと言えばウソになります。異文化に飛び込むに
は「勇気」が必要です。

中国人は何でも食べると言って日本人は驚きますが、私がもし異邦
人なら、犬の肉を食べるよりは蛸やナマコを食べる方が勇気が要る
と思います。
でもその勇気を示すことによって自分が成長できるのだと思います。

カルチャーショックを受けたあとはすぐに立ち直って自分もそれを
体験してみるという勇気を示し、自分の知らなかった世界を体験す
ることによって新たな人生の楽しみに触れるということが異文化が
存在する意味でもあるのでしょうね。


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