776−1. 熊野古道 〜古からの癒しの道〜



謹賀新年
謹んで初春の御慶びを申し上げます。
 本年の初詣は、和歌山県南部に広がる霊験あらたかな地、熊野三
山に行きました。その報告を致します。
   熊野古道 〜古からの癒しの道〜

 宮中三殿では、四方拝・歳旦祭が行われる元旦の未明に車にて出
発し、初日の出を見に行きました。目的地は熊野三山(くまのさん
ざん)です。熊野三山とは、熊野本宮(ほんぐう)大社、熊野那智
(なち)大社、熊野速玉(はやたま)大社のことで、以前から興味
があり行きたかったので、この際と思い、四方拝の日に行きました。
 
 熊野古道(こどう)として有名で、平安・鎌倉時代に栄え、京都
から熊野へ向かう上皇や法皇による熊野御幸(ぎょこう)が行われ
ました。「お伊勢参り」と同じように、熊野詣も庶民の大きな楽し
みでした。当時、王侯貴族は、護衛武士や女官を従え、長い行列を
なして、熊野三山を目指しました。その様子は、蟻(あり)の行列
にたとえられ、「蟻の熊野詣」とも言われました。
 
 もともと熊野信仰は、深山幽谷・水・滝(那智の滝)・巨岩(速
玉大社の元宮(もとみや)である神倉神社の御神体は巨岩)・巨木
等への素朴な畏怖心からきた自然信仰であり、3600峰の奥深く
にこもり修行すれば、神通力を得たり、生きながらにして成仏でき
ると信じられ、その思想が熊野信仰の源流となりました。
 
 中世、熊野詣の代表者としては、白河上皇・後鳥羽上皇・藤原定
家・和泉式部・一遍上人等の名前が挙げられます。熊野詣の人々は
、この地で2本の杖を求め、1本は熊野川に流して後世を祈り、
もう1本は現世で富貴長命が得られると信じて、杖をついて帰路に
つきました。
 
 熊野詣の出発点の目印が大阪天満(てんま・大阪城北西)にあり
、その目印を王子(おうじ)といいました。天満から堺(さかい)
を通り、和歌山市を過ぎて海南市、田辺(たなべ)市を通って白浜
まで行きます。そこから一気に東の方角に切り替えます。ここから
熊野までを熊野古道といい、その道程の目印として多くの王子が建
てられ、各地で神社に祀られています。
 
 熊野古道は様々なコースがあり、白浜からのコースを中辺路(な
かへじ)といいます。高野山(こうやさん)からのコースを小辺路
(こへじ)といいます。伊勢神宮を参拝(お伊勢参り)してから
海岸沿いを通って新宮(しんぐう)市の熊野速玉大社へ至るコース
を伊勢路(いせじ)といいます。大辺路(おおへじ)は、白浜から
南へ行き、串本町を通って那智勝浦町の熊野那智大社へ至るコース
です。

 小生は、初めに熊野那智大社へ参り、那智の滝を見てきました。
朝6時に着きました。大晦日から元旦にかけて那智の滝ではライト
アップをしており、それを見たかったためです。初日の出は、6時
50分ぐらいでした。熊野那智大社から眺めることが出来ました。
太陽神から光の御稜威(みいつ・神の御威光)を戴けたと感じまし
た。なにしろ熊野三山からの初日の出ですから。それから、車で東
へ20分ほどの距離にある熊野速玉大社へ行きました。そこで、
朝食をとり、もち入りぜんざい300円を食べました。
 
 そしてそこから北へ登り熊野本宮大社へ。明治22年の十津川
(とつがわ・上記の熊野川と繋がっている)大洪水により元社殿は
流水に遭いました。今の社殿はそこから700メートル北の丘に移
転しました。その旧社殿には、昨年5月に日本一の大鳥居が完成し
ました。

 熊野御幸には中辺路が多く用いられ、始めに本宮大社へ参拝し、
そこから南へ下って速玉大社へ行きました。南下の際には、(十津
川からつながっていて名前が変わった)熊野川を船で通りました。
そして、西へ行き那智大社へ。さらに再び北上して本宮大社へ、と
いう旅程でした。那智から本宮への熊野古道が最も険しい道であり
、「大雲取越え(おおくもとりごえ)」といわれました。そして白
浜へ行き、京都へ帰られました。

 小生は、熊野本宮大社へ参拝してから、その側にある西日本最大
の大露天風呂がある「わたらせ温泉」(入浴のみ700円)に入り
ました。ここで昼食をとりました。御茶漬けとおでんを戴きました
。帰りは中辺路を通って白浜経由で帰宅。帰り際、白浜から夕日、
つまり美しい夕映えの初日の入りを見ました。四方拝の日に、初日
の出と初日の入りを見たことになります。

 熊野は、神仏習合の名所で、「熊野大権現」「熊野権現○○大社
」と自ら名乗っています。権現(ごんげん)とは、仏が(権)かり
の姿となって現れることです。つまり「本地垂迹(ほんじすいじゃ
く)説」のことです。この用語は、高校日本史にも出てきますが。
仏が化身して日本の神として現れることで、熊野三所権現と言われ
ています。熊野権現のもとの姿である本地は、阿弥陀如来(あみだ
にょらい)です。阿弥陀如来は浄土宗であり、上記の小辺路の入り
口にあたる高野山は真言宗ですが。本地垂迹説は、明治の「神仏分
離」(左翼用語では国家神道)により衰えたといわれますが、この
「神仏分離」の功罪について、小生はよくわかりません。

 本年は、初日から御稜威を戴き、一層の活躍が出来そうです。

 末筆になりましたが、ますますの御活躍と御多幸、さらに貴家の
御清福を御祈り申し上げます。よしお年を。
                          図越 寛
紀元2662年 平成13年 壬午(みづのえ・うま)睦月 吉日

各位
参考文献
・産経新聞大型連載「日本人の足跡」「南方熊楠(みなかたくまぐ
  す)」 平成13年5月23日から
・『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』 神坂次郎(こうさかじろう
  ) 新潮文庫
・『熊野まんだら街道』 神坂次郎 新潮文庫
・『熊野古道』 小山靖憲 岩波新書 665番
・『正論』平成13年7月号204頁 「蛙の遠めがね」 石井英
  夫連載 第73回 「昭和天皇と南方熊楠」
・『Voice』平成13年5月号135頁 「日本人の自然観 熊野
  信仰の原点に時代の先端に位置する精神を見た」 呉善花
 
ガイドブック 
・『歩く旅シリーズ 熊野古道を歩く』 宇江敏勝 山と渓谷社
・『講談社カルチャーブックス 69 熊野古道を歩く 熊野詣』
      神坂次郎 講談社 


コラム目次に戻る
トップページに戻る