5937.社会主義の幻想と限界



社会主義の幻想と限界 ――実際の経験を踏まえて――その2
                               平成29年(2017)8月11日(金)
             地球に謙虚に運動 代表 仲津 英治

3・1 スト権スト突入
 国鉄当局による生産性運動の失敗等で、勢いに乗る公労協は、遂
に昭和50年(1975)11月26日(水)、スト権を回復させろと、無期限ス
トに突入しました。主力は国労、動労を中心とする国鉄系労組、全
電通を中心とする電電公社系労組でした。
全国的には盛岡、秋田、仙台、新潟、金沢、四国、門司で一部のロ
ーカル線が運転された他は、殆どの国鉄列車は何と8日間もストップ
したのです。

ja.wikipedia.org/wiki/スト権スト
国鉄スト権奪還スト8日間の攻防 
ktymtskz.my.coocan.jp/denki/suto.htm


 しかし、マスコミ等は冷静でした。朝日新聞はスト前日11月25日
(火)に早くも「台所直撃せず」との見出しの記事を発信しています
。そして事実、東京の築地市場、大阪の中央市場には、生鮮食料品
が滞りなく、運び込まれ、競りに出され、庶民の台所に届いていた
のです。この事態は、公労協側にショックを与えたようです。
公労協側はこのストによって物流が停止し、生活物資の入手が困難
になり、国民生活に打撃を与えることを想定し、国民の非難は政府
に向かい、政府が妥協すると踏んでいたようです。
しかし、現実には築地市場での鉄道の食料品シェアーは、1955年の
52.9%から1974年には僅か13.9%に低下していたのです。

 政府側がトラック業者と事前協議し、事前備蓄&代替輸送体制を
整えていた点もありますが、スト権ストの前からの国労・動労によ
る順法闘争、減速闘争他度重なる争議行為もあり、荷主は国鉄から
離れて行っていたのです。朝日新聞も事前取材により、国鉄の輸送
市場での減退振りを見事把握していたのでしょう。
 そしてスト中止後、12月4日には朝日新聞は「スト権ストで日本経
済の根幹は揺るがなかった」と報じています。国鉄の深刻な地位低
下を炙り出した事態でした。

3・2 人心の離反
 度重なる闘争が貨物の鉄道離れを起こしていましたが、さらにス
ト権ストは国民の左翼系労働組合からの人心離れを引き起こしまし
た。ストは、不況に苦しむ中小企業にも影響を与えていました。前
述の「国鉄スト権奪還スト8日間の攻防」には、東京下町の中小企業
経営者の下記のような声が伝えられています。
東京・馬喰町の問屋街では、経営者がマイクを片手に絶叫する。「
もう中小企業は倒産寸前に追い込まれています。おとなしい皆さん
、どうぞ立ち上がってください」 そして問屋街の人々は、「暴力
スト反対」のプラカードを片手にデモ行進した。
「ストやめろ!ストやめろ!」

零細企業を経営する両親の下で育った私は、上記の声が痛いほど解
ります。
東京を中心とする首都圏は、国電網が特に発展しており、私鉄・地
下鉄の代替輸送にも限界があり、通勤・通学客のみならず、一般の
利用者にも相当負担を強いたはずです。我慢の限界を超えていたで
しょう。

 12月1日 NHKテレビでは、朝から官房副長官の海部俊樹氏と公
労協代表幹事の富塚三夫氏との討論が、茶の間に流れ、スト権問題
についての双方の主張が繰り広げられていました。スト権を要求す
る富塚氏に対し、とにかくストをやめなさいよと主張した海部氏の
ピシッとした態度が印象に残っています。
多くの国民は、完全に違法ストを貫く公労協側を非難するようにな
っていました。

私は、このとき、北海道のある機関区長の任にありました。国労の
分会長が区長室にやってきて「区長、もうストは疲れたよ。仕事に
早く戻りたいね」とつぶやいて帰って言ったのを覚えています。

 そして下記のような巷の話を耳にしました。
 我々は、労働者だ!偉いんだ!というような感じで肩で風を切っ
ていたスト参加者が、街の食堂に入ると、そこの主人から「お前ら
に食わせる飯はねえ、とっとっと出て行け」と言われたり、散髪屋
の親父さんから「お前らの髪を切る鋏みはねえ、早く失せろ」と叱
り付けられ、追い出されたりしたというのです。
 これら一般国民の声は大切です。12月3日午後、結局国労・動労な
どを中心とする公労協側は、政府から何の回答も得ることなく、ス
トの旗振りを中止したのでした。

4.	国鉄改革&国鉄の分割民営化そして大阪市の改革
 このスト権ストのもたらしたものは何であったでしょうか。時の
政権与党であった自民党の幹事長は、中曽根康弘氏でした。そして
12年後の国鉄の分割民営化を柱とする国鉄改革を遂行したときの総
理大臣は同じく、中曽根康弘氏です。
 彼は、間違いなくスト権ストの事態を見て、公労協中でも国労・
動労を何とかせねばならぬと思ったに違いありません。公共企業体
の分割民営化路線が、スト権ストの後から本格的に展開されて行き
ます。国民世論も多くはこの政府方針に賛同して行ったのです。

4・1 動労のコペルニクス的旋回
 動労という労働組合を語るとき、「松崎 明」なる人物を抜きに
して語れません。特に国鉄改革が成功し、多くに方々に民営化JRが
受け入れられ、国鉄時代より数段サービスレヴェルが上がり、評価
されている点からも、彼の果たした役割は大きなものがあります。
 但し、私は、彼とは国鉄改革直前、四国総局に勤務していた時に
一度お会いしただけです。
従って、何故、動労がコペルニクス的転回(私は旋回という言葉が
あっていると思っていますが)と言われる国鉄改革に賛同する、ま
たその方向に、組合側を主導するスタンスにたったのか、私には不
明なところがあります。コペルニクスはポーランドの天文学者で、
地球の周りを宇宙が回っているという天動説を信じていた欧州キリ
スト協会に対し、地球が太陽の周りを回っているとの地動説を唱え
た人です。今までの考えとは180度方向が異なる見解を主張する時に
コペルニクス的転回という言葉を使うようです。従来から言われて
いた、あるいは信じられていたことと全く違うことを主張するので
すから、時代によっては命に係わる勇気ある意見表示となります。
今日、全ての人が地動説が正しいことを知っています。

 動労がこの政策方針を大転換した理由については、国鉄改革の渦
中にあったとき、その後JR西日本で勤務し、見聞することが出来た
資料、そして関係者の話を伺い、また国鉄改革後出版された本など
を読んで、大筋下記のような判断、方向付けを松崎 明氏率いる動
労が行なったのであろう、と類推しています。
 元々、動力車労働組合=動労は、国鉄の運転現場の機関区員で構成
する職能組合である機関車労働組合=機労が原点であり、平等化を
目指す国労から機関士、運転士の待遇を上げるべしとの趣旨で結成
された労組です。昭和30年(1955)、彼は臨時雇用員として運転現場
の松戸電車区に配属されています。
第3項で述べた通り、昭和50年(1975)の8日間ぶち抜いたスト権スト
でありましたが、食料輸送の分野でも鉄道のシェアは低下しており
、ストによる影響が殆ど無かったことから、事業としての鉄道への
危機感を持ち、その中で運転現場を守らねばならない、というスタ
ンスに変えたのであろうかと思われるのです。

鉄道会社の労働組合(2) 〜複雑な組合関係〜http://tetudotensyoku.link/%e9%89%84%e9%81%93%e4%bc%9a%e7%a4%be%e3%81%ae%e5%8a%b4%e5%83%8d%e7%b5%84%e5%90%882%e3%80%80%ef%bd%9e%e8%a4%87%e9%9b%91%e3%81%aa%e7%b5%84%e5%90%88%e9%96%a2%e4%bf%82%ef%bd%9e/

 そしてそれが具体的に表れたのが、昭和53年(1978)に公表された
動労による「貨物輸送安定宣言」でしょう。松崎 明氏が動労東京
地方本部(地本)の委員長の時です。そして続いて「職場と仕事を
守る」という方針が昭和57年(1982)3月、動労第11回中央委員会にお
いて満場一致で採択されています。「働き度を上げて職場を守ろう
」というスタンスへの大変換です。
 彼は、日本革命的共産主義者同盟・革命的マルクス主義派⇒革マ
ル派の構成員であったことは認めていますが、JR総連幹部になった
頃には関係は切れていたと同氏は主張しています。

 ja.wikipedia.org/wiki/国鉄動力車労働組合
 松崎 明氏の略歴を下記に記しておきます。 
・1936年 誕生
・1955年、臨時雇用員として松戸電車区に配属」
・1973年、東京地方本部委員長に就任。
・1985年、動労中央本部委員長に就任。
・1987年、鉄道労連(後のJR総連)副委員長、東鉄労(後のJR東労
          組)委員長に就任。
・1995年、JR東労組会長に就任。
・2001年、JR東労組会長を退任、顧問となる。
・2010年、逝去

 国鉄改革後の30年経った現在、国労が昭和43年(1968)頃、22万
人の組合員数を誇っていましたが、9,000人に激減し、旧動労系は約
5万人であったのが、その後継団体のJR総連は、73,000人そして旧鉄
労(鉄道労働組合)系のJR連合は81,000人です。
(厚生労働省平成28年労働組合基礎調査の概要)=www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/roushi/.../gaikyou.pdf)
昭和57年(1982)3月の闘争主義から脱皮し、「職場と仕事を守る」
というコペルニクス的旋回と呼ばれる方針大転換が活きているとい
うことでしょう。  

4・2 大阪市職員労働組合の「ワープロ・パソコン導入反対」 
 私は大阪生まれの大阪育ちですが、仕事で大阪に本格的に勤務し
たのは、昭和62年(1987)4月、JR西日本に採用されたのが初めてです
。そして阿倍野区役所の住民登録に参りました。そこでは労組が貼
り付けた組合のスローガンが壁など至る所に見られました。曰く「
近代化・合理化反対 大阪市職員労働組合青年部」&「ワープロ・パ
ソコン導入反対 大阪市職員労働組合青年部」等々。
 私はそれを見て「国鉄改革の春風 未だ大阪市に至らず」との印象
を持ちました。5年以上前の昔に戻ったような感じが致しました。

 そして同区役所の職員の机の上には、ワープロ、パソコンと言っ
たIT機器が皆無だったのです。生まれ故郷の天王寺区役所を覘いて
見たのですが、似たようなものです。

 近畿運輸局に業務説明に伺った時、大阪市交通局には人間ファッ
クスという言葉があると伺いました。交通局の資料を届ける時、大
阪市側にはファックスが未整備で、近畿運輸局に交通局のスタッフ
が持参してくるというのです。近畿運輸局管内の鉄道企業では大阪
市交通局だけがこういう対応だったとの事でした。このことを鉄道
以外の知人・友人らに話したところ、皆「今時、ワープロ・パソコ
ン導入反対?」と首を傾げていたものです。
 要は、大阪市職員組合の活動は、スタッフの数を増やし、組合員
数を拡大することが主目的なのでした。

 大阪市は、長く職員出身者が市長に立候補し、職員組合が彼を支
援し、当選させてお互いの存在にもたれあう傾向がありました。「
ワープロ・パソコン導入反対」もその一環でしょう。さすがに世の
中にIT技術が浸透・活用されていく中で、大阪市も近代化・合理化
を図って来たはずです。
 そして、市長・労組による既得権へのもたれあいの悪習を打ち破
ったのは、橋下 徹前市長であったという印象を持っています。

 橋下 徹氏の業績として下記のような記述がありました。
togetter.com > まとめトップ > カテゴリー > 社会 > 政治
実績2/小中学校に校務支援システム導入(通知表・成績表・出欠簿
などのIT化、2012)
実績7/妊婦検診無料化、小中学校へタブレット端末導入予定(2016)

 彼が、企業、他の自治体から大幅に遅れた大阪市の行政部門にIT
技術の導入のため、尽力したことは評価されて良いと思います。
                            以上

参考文献
■	未完の「国鉄改革」 巨大組織の崩壊と再生
    葛西敬之 東洋経済新報社出版部
平成13年(2011)2月28日 初版
■	戦後史の中の国鉄労使 ストライキのあった時代
  升田 嘉夫  明石書店  
平成23年(2011)8月31日 初版
■	昭和解体-国鉄・分割民営化30年目の真実
     牧 久    講談社   
平成29年(2017)3月15日 第1冊
■	飛躍への挑戦             
     葛西 敬之  ワック■  
平成29年(2017)3月20日 初版


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