5902.身心二元論と言身二元論



身心二元論と言身二元論
皆さま今日発売のカトリック生活の記事で、ペドロ岐部は身心一元
論のクリスチャンだったから、言葉という論理的なものと、身心(
身体)という物理的なものの二元論者になったと書きました。
道元と荒川も身心一元論者ですが、二人とも日本人には珍しく言葉
を大切にします。二人も論理的な言葉と物理的な身体の二元論者だ
ったといえるでしょう。
欧米の一元論者は、ニューロン決定論に陥り、人間の自由意思を否
定する傾向にあるため、道元や荒川の一元論もきちんと理解されて
こなかったのだと思います。
言葉と身心の二元論といえば、人びとは理解できるでしょうか
得丸
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Re: 身心二元論と言身二元論
得丸さん、皆様

キリスト教の(心身)一元論は、実体は魂のみであり、
肉体は魂が支配すべき、本質でないものとしています。
魂(心)のみが、実体=本質=不滅、というわけです。
(このほか、悪は善の欠如(アウグスティヌス)の
 善悪一元論もあります)

仏教(とりわけ禅宗、維摩経)の身心一元論は、
「身」も「心」も同じ(不二)という考えですよね。
身も心も無常なのです。

一方、「言語」のみが実体、という考えはあります。
「ヨハネによる福音書」の有名な冒頭で、
「はじめに言葉(ロゴス)ありき。
 言葉は神と共にあり、言葉は神であった」
とありますが、ここから「実体はロゴスである」と
考えることができます。
ただそうした場合、「身心」はどう対立するのでしょう。

むしろ「言語」は「身心」が見せる「諸行」の表現形、
と考えると、得丸さんの考えに近くなるのでは。
あくまでも、すべては不二であり、身心一如ですが、
その不二を分別して見せるものとして言語があります。
言語がないと分別がないし、分別がないと分別すべきでない
ということが分からない(不二法門が理解できない)。
ただそう考えると、言語を実体とするのが難しくなる?
南
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南さん、皆さま、

南さん、ご助言ありがとうございます。

>キリスト教の(心身)一元論は、実体は魂のみであり、
> 肉体は魂が支配すべき、本質でないものとしています。
> 魂(心)のみが、実体=本質=不滅、というわけです。

なるほど、魂だけが実在という一元論があるのですね。
肉体はまったく意味がない。
ニューロン一元論も同じような意味合いになるのでしょうね。

> 仏教(とりわけ禅宗、維摩経)の身心一元論は、
> 「身」も「心」も同じ(不二)という考えですよね。

心理現象や意識も、アミノ酸と核酸によっておきているとしたら、
肉体と同じですから、仏教はアミノ酸・核酸一元論といっても
よいのかもしれません。

> 身も心も無常なのです。

無常というのは、常に変化するということですね。

 
> 一方、「言語」のみが実体、という考えはあります。
> 「ヨハネによる福音書」の有名な冒頭で、
> 「はじめに言葉(ロゴス)ありき。
>  言葉は神と共にあり、言葉は神であった」
> とありますが、ここから「実体はロゴスである」と
> 考えることができます。
> ただそうした場合、「身心」はどう対立するのでしょう。

細胞の核膜の中に二重らせんで存在している核酸の配列がすべての生命を
決定するように、言語という論理存在(音節の配列)が人間性、文化の
すべてを決定するという考え方が可能ではないかと思います。

そのためには、ゲノムとなる言語と、ゲノムにならない言語を峻別する
ことが必要でしょう。


言語と身心を二元的にとらえた場合どうなるか。

音節の配列は純粋に論理です。化学的や物理的存在ではありません。
(音素の配列と考えると、音という物理的存在といえますが)
アミノ酸と核酸は、配列は論理ですが、三次元化すると物理になります。

ヒトの言葉の三次元化(実体化)は、どのように行われるのか。
文化として、実体なく実現するのかもしれません。

得丸
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二元論と一元論
南さん、皆さま、

東京での十泊十一日は、合気道三昧で、若松河田の本部道場と吉祥
寺の月窓寺道場で、毎日三時間以上稽古していました。帰ってから
大分ではまったく稽古してないので、まるで夢のような毎日でした

さて、以前話題にした二元論ですが、結局いかなる二元論にも共通
するのは、人間を超越した次元にいることになっている神の存在で
あり、それは自力救済の否定であり、神との契約を根拠とする一神
教徒優越主義と人間中心主義の思想ということになりますか

これでは雑なまとめすぎますか?

映画「沈黙」はまだ観ていませんが、ラストは原作に忠実で、日本
のキリシタンは西欧キリスト教とは似て非なるものに変わるという
井上筑後守の言葉があるそうです

神の沈黙とキリシタンの異教化(異端化)をどう結びつけて考えれ
ばよいのか、わかりませんが、映画監督は遠藤周作の意図をできる
だけ尊重したということですかね

得丸
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ヒトの知性や理性はどのようにして獲得されるのか
皆様、

私はまだ道元論に関わっていて、あと少しで全ての材料を出版社に
渡すところです。

序文に尊敬申し上げている方からもったいないくらい素晴らしい推
薦の言葉をいただき、最後までがんばろうとしています。

4月29日から30日にかけて、荒川修作の三鷹天命反転住宅にい
ったところ、ちょうどクラシーズ河口洞窟訪問十周年で、あらため
てヒトの進化について、頭を整理することになりました。

これまでの学説や一般的な理解では、ヒトは脳を拡大したために、
知性や理性を獲得したと考えられてきました。

デジタル言語学は、それは誤った考えだと結論します。

今から六万五千年前に起きたヒトの身体進化は、母音を発声できる
喉頭降下であり、それによって論理的な音節を手に入れたことがヒ
トの進化だったのです。

音節は論理的であるために、文字にすることができ(物理的な鳴き
声は文字にはできませを)、その文字を読み書きする能力によって
、言語的知識を広げ深めたことが、ヒトの知性と理性に直結するの
です。

つまり、言語をどこまで大切にして、(同時通訳者のように)常に
学習し続けることによって、ヒトの知性と理性は発展してきたので
す。

知性と理性についてのコペルニクス的転換といえませんか?
このことについてもう少し考えてみたいです。

得丸久文



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