5877.山田方谷でわかる財政金融政策



江戸時代には、多くの藩で藩札を出したが、価値が暴落した藩が多
い。その中で越前福井藩と備中松山藩の藩札は価値を保持していた
。この2つの藩の動きを追っていきたい。    津田より

0.藩札
明治4年に藩札の新たな発行を禁止したが、このときに流通してい
たのは、244藩、1694種、その当時のお金で総額3855万
円であった。当時の1円は現在の2万円ぐらいであり、とすると、
7700億円程度となる。そして、8割の藩が藩札を発行していた
。藩札を明治政府は「明治通宝札」と交換したことで、藩札はなく
なる。その前、明治4年に「新貨幣旧藩製造楮貨価格比較表」を公
表したが、多くの藩札が価値を激減させている。

最初の藩札は、備後福山藩水野氏が寛永七年(1630年)に発行して
いるが、通説では越前福井藩が寛文元年(1661年)に発行した銀札
という。この福井藩も御用商人などからの借金で首が回らずに、仕
方なく、藩札を発行した。しかし、藩札を発行してもそれだけでは
お札としての信用は維持できずに、相当に価値を下げたようである。

しかし、この当時と同様なことが現在、日本で行われている。財政
難で、国債を発行して民間の金を借りていたが、それだけでは足り
なくなり、日銀を介して円札を大量に出し始めた。

しかし、多くの評論家や浜田さんのような経済学者まで、それは経
済政策としてよいことであると言っている。単に、円札を出し続け
るとどうなるのかを考量しないことに問題がある。しかし、この例
は、戦後の混乱期や江戸時代の藩札を見ればわかるのである。

福井藩も藩札の価値が激減するが、そこに登場するのが、三岡八郎
(後の由利公正)であり、藩の財政立て直しに活躍する。由利公正
は、福井を訪れた横井小楠の殖産興業策に触発され、横井から財政
学を学ぶ。藩主・松平春嶽から財政手腕を評されて抜擢され、藩札
発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建する。

しかし、この由利公正よりもすごい財政家として、山田方谷がいる。
司馬遼太郎の小説「峠」で有名になった長岡藩の河井継之助が内弟
子となったことでも知られている。

1.備中松山藩・山田方谷の改革
山田方谷は、現在では知るものが少ないが、江戸時代後期に藩政改
革の旗手といえば、この山田方谷が最初に上がる存在であった。明
治政府は出仕を要請したが、方谷は辞退して地元で教育者として一
生を終える。

この陽明学者の山田方谷が実行したことは、藩札を使用する人たち
の信用を大切にしたことである。それと、財政改革、藩政改革でも
誠を大切にして、人の信用を大切にしたことである。

彼の物事に向かう基本姿勢は「至誠惻怛(しせいそくだつ)」であ
る。「真心(至誠)と悼み悲しむ心(惻怛)」を人間としての正し
い道、最高の行動規範とした。

そこで行ったことは、まず、藩財政を内外に公開して、藩の実収入
が年間1万9千石にしかならないことを明らかにし、債務の50年返済
延期を行った。

それと同時に、家中に質素倹約を命じて上級武士にも下級武士並み
の生活を送るように命じた。そして多額の発行によって信用を失っ
た藩札を回収(711貫300匁(金換算で11,855両)相当分)し、公衆
の面前で焼き捨てた。

代わりに新しい藩札を発行して藩に兌換を義務付けた。藩札の価値
が下がった場合には、下がった分を保証した。これによって藩札の
流通数が大幅に減少するが、信用度が増して他国の商人にも藩札が
使われるようになった。

殖産興業政策として、新規事業の投資対象は「鉄」であった。豊富
で良質の砂鉄に恵まれたこの地にタタラ吹きの鉄工場を次々につく
り、鋤、鍬などの農具や鉄器を製造した。膨大な公共投資だったが
、これが成功した。またタバコや茶・和紙・柚餅子などの特産品を
開発して専売制を導入した。この特産品に「備中」の名を付け、ブ
ランド戦略で全国に展開したことが成功の秘訣である。

これら特産品を、中間手数料がかかる大坂を避け、藩所有の艦船(
蒸気船「快風丸」)で直接江戸へ運び、藩邸内の施設内で江戸や関
東近辺の商人に直接販売した。これによって、生産から物流、販売
までを藩で行い、現在のユニクロやニトリと同じ製造型小売業 (SPA
)の一種であることから、利益率が非常に高かった。中間の卸を排除
したことにある。

また、公共工事を貧しい領民に実施させ、現金収入を得させた。そ
の結果、交通整備や農業用水の灌漑の充実にも成功した。そして、
農民には新田開拓を奨励し、そこで取れた米には租税を徴収しなか
った。そして、財政が豊かになると税を軽減したことで農民の生産
性意欲を刺激した。減税したにもかかわらず米の生産は倍加し、藩
の米蔵は満杯となったという。

また、士農工商の身分を否定して能力主義を採用し若手藩士と農民
からの志願者によるイギリス式軍隊を整えた。その前、方谷は岡山
の津山藩で新しい洋式砲術を学んで、大砲も自ら鋳造した。その結
果、この地に来た長州藩の久坂玄瑞がこの光景を見て、「わが長州
はとてもかなわない」と脱帽し、この軍制を参考に西洋式装備の長
州藩・奇兵隊を作り、また、長岡藩の河井継之助も当時最新鋭の機
関銃を手に入れ、農民兵を整備したが、これも方谷の軍制を模範に
した。

これにより、方谷は改革の8年間で、借金10万両(約300億円)を返
済し、余剰金10万両を作ったのである。大変な力量と言わざるをえ
ない。

2.備中松山藩の幕末
藩主板倉勝静は幕府の老中になり、方谷はその補佐役として中央政
界でも活躍したが、ここで、方谷は江戸幕府は長くないと見たよう
だ。

方谷の藩政改革の成功は、藩主を日本有数の名君にし、ついには幕
府の老中、そして老中首座(現在でいえば総理大臣)にした。石高
5万石の藩が実質石高20万石ともいわれた。しかし、藩主が幕府
の幹部になり、藩も佐幕となり朝敵になってしまった。

山田方谷が藩主勝静に説いた帝王学は「事の外に立つ」ということ
だった。当事者になると、どうしても一時しのぎのつけ焼刃な対応
をしがちであるが、物事の局外に立ち、時代の方向性を見て戦略を
立てることであるという。立てた戦略により戦術を実行することで
あると。

このため、最新鋭・最強のイギリス式軍隊を持つ備中松山藩は、朝
敵になったが、無血開城している。時代の波に抵抗することはでき
ないし、領民や農民が苦しむとして、方谷は開城を決断している。

ここが河井継之助とは違う。長岡藩は、薩長軍を苦しめたことで有
名になり、しかし、備中松山藩は、最強のイギリス式軍隊を持って
いたのに、現在忘れられている。

2.日本の今後
世界の幕府ともいえる米国の覇権が揺らぎ、今、日本は幕末の備中
松山藩と同じような位置にいる。米国からも頼りにされて、日本は
老中首座とも言える位置にいる。

そして、軍備に金が必要で、円札を大量に出して、円札の信用が揺
らぐ可能性も出てきた。円札の価値が急に失墜する危険性が出てき
た。使う人が円札が危ないと思えば、円札から金や他通貨に逃げ始
める。

このスピードは速い。中国の人民元が、今その段階であり、資金流
出を止めるために、資金規制を強化し、人民元に為替介入して価値
を維持させているが、それでも止まらない。

この段階に行くには、まだ間があるかもしれないが、円札を使用す
る人たちから信用を失うと、急に円暴落になる。その点がそろそろ
とという状態のような気がする。

人の信用を軽視する経済学者や評論家があまりにも多すぎである。
もちろん、現在の状況は、需要不足によるデフレ状態であり、方谷
と同じようなイノベーションを起こすことが必要であるが、世界的
に同様なことが思っているので普通のことでは難しい。

このような状態では、経済的な冗長を徹底的に排除することで利益
を増すことであり、一番改革が遅れている農業改革を行うことが必
要である。JAを真に農民の協同組合として、中間の卸を抜くことと
、世界に農産物を売ることである。この改革だけでも大きな利益が
ある。

もう1つが、手を付けていない経済政策として、移民政策である。
移民が増えると、その分の消費が増えて、全体の需要と供給規模を
増やすことになる。これしか、デフレを抑えることができない。

さあ、どうなりますか?



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