5834.文字と文明



文字と文明 − 日本語を世界に広めなければならないわけ
From:tokumaru

皆さま、

新年あけましておめでとうございます。

昨日も今日も大分はいい天気で、昨日は尺間神社(さくま)という佐
伯市と津久見市の間にある霊峰に初詣でしてきました。国道10号線
の上り口から車で20分以上もかけて山道を登り、駐車場からさらに
30分くらい歩いて登って、山の頂上に小さな祠があります。よくも
まあこんなところに神社があって、何人もの宮司や神官が働いてい
ることよと驚きます。自動車がない時代からあったのですが、僕も
79歳の母も生まれて初めてお参りしました。(母はお参りする機会
は何度かあったのだけど、その都度悪天候で取りやめていたそうで
す)道元と荒川修作の最終稿をそろそろ仕上げなければならないの
で、その成就を祈願してきました。

1.	 身心一元論のキリスト者
昨年は、ペトロ岐部の芝居に参加し、その後アッシジ(聖フランシ
スコの生まれ活躍したた町)、ロレート(天正少年使節も訪れた東
海岸にある城砦式教会)、マチェラータ(マテオリッチの故郷)、
ローマなど、イタリア各地を回ってきました。その成果が、1月10日
発売の「カトリック生活」2017年2月号に「ことばの力」として掲載
されます。

ペトロ岐部は、身心一元論のクリスチャンとなり、物理的肉体は滅
んでも、論理的な言語によって自分の生きた証が不滅の存在になる
ことがわかっていたから、拷問される自分を冷静にみつめながら昇
天したのだろうというのが僕の推論です。

この身心一元論、身心二元論の話は、イタリア各地で人々に質問し
、ローマでは司祭にも質問して、誰もきちんと答えてくれなかった
問題です。キリスト教では、肉体は滅んでも、魂は神様のものだか
ら永遠に不滅であるという教えだそうです。でも、この教えを論理
づける理論書や教科書をみつけることはできませんでした。キリス
ト教として、きちんとした検討が行われた理論ではないようです。

実は道元も荒川も一元論者です。道元は辨道話のなかで、はっきり
と身心一元論が正しいと言っています。

一元論と二元論の違いは、純粋にものの考え方の違いであり、文化
的なものです。だからちょっとやそっとの付き合いで、二元論と一
元論の違いに気づくことはありません。でありながら、西洋キリス
ト教社会は二元論一色です。

ごくたまに、スイスの動物行動学者アドルフ・ポルトマンが、「い
ったいヒトはどこまでが動物で、どこから先が人間固有なのだろう
か」と考えたり、ヘンノ・マルタンという地質学者が第二次世界大
戦中に兵役を逃れるために2年半、友人と二人きりでカラハリ砂漠で
隠遁生活をしたときに、「もしかしたら我々の理性というものは、
単細胞生物がもっている記憶と善悪判断力と同じではないか」(
“The Sheltering Desert”, Henno Martin)と考えていますが、二
元論を乗り越えた西欧人にはなかなか出会えません。

そのため西洋は、理詰めで考えながら、「頭ではわかっているけど
、体が言うことをきかない。仕方ないから懺悔をしよう」といった
考えに陥るわけです。おそらく信者一人あたりの懺悔の数は、西洋
のクリスチャンと比べると日本人クリスチャンのほうが圧倒的に少
ないのではないでしょうか。

一方、日本では、「所詮(ヒトとサルの違いは)毛が三本」という達
観があり、神のおかげでヒトだけが魂や理性をもっているという考
えはしません。山川草木悉皆成仏、山川草木悉有仏性の汎神論的考
えです。

でも、今度は西洋とは逆に、丁寧に理詰めで考えることは怠り、「
人生万事色と欲」という達観のもと、ぐじゃぐじゃにしてしまう傾
向があります。理詰めで考えることが嫌われる文化です。「それは
理屈だ!」というのは、相手を否定する言葉ですから。

ま、どっちもそれなりに問題を抱えているわけです。

2. 文字と読み書き能力
昨年10月にパキスタンのラホールにあるパンジャブ大学で学会に参
加する機会を得ましたが、そこは四大文明の発祥地でした。ゴンド
ワナランドの一部であるデカン高原が、ユーラシア大陸に衝突して
、ヒンズークシ山脈、カラコルム山脈、ヒマラヤ山脈ができました
が、それら二つの大陸のすき間に土砂が堆積して生まれたのが南北
方向に伸びるインダス川平原であり、東西方向に伸びるガンジス河
平原です。もともとは大陸と大陸のはざまの海抜0ⅿ地帯に延
々と水利のよい平原が広がる姿は圧巻でした。ガンジス河平原はア
フガニスタンのカブールからバンクラデッシュのチッタゴンまで
2500?も平たい土地が続くのです。四大文明が生まれる土地はさすが
だなと感動しました。

パキスタンで行った発表は、「ブリコラージュ(ありもの利用)とブ
レークスルー(突破口)」というタイトルでした。デジタル言語がど
うやって文明を生みだしたのかの分析です。

言語は脊椎動物の脊髄反射を利用したブリコラージュ(ありもの利用
)です。6万6千年前に、音素という順列組合せが可能な信号と、モー
ラというリズム(拍:57577のようなリズムをもつことになりひ
とつひとつの音節が相手に届きやすくなる)を獲得して、文法的な連
接が可能となった。そして6千年前に文字が生まれて、文明が生まれ
た、という話をしました。

広大なパンジャブ地方の農村風景を眺めたおかげで、これだけ広大
な農地と大勢の農民がいたら、それを管理するために記録するため
の文字が必要となることは、理解できました。四大文明すべて象形
文字、楔型文字、インダス文字、漢字という固有の文字があるのも
そのためでしょう。文字と文明は共進化の関係にある。

しかし、それらの文字のなかで、現代まで生き残っていて日常的に
使われているのは漢字だけです。文字にも、出来のいい文字、使い
やすい文字と、そうでない文字があるのではないでしょうか。

また、テルグ語のように、数百年に一回、音節文字セットを新しく
する言語もあります。あるいはロシア革命や中国革命、あるいは敗
戦日本のように、革命や敗戦をきっかけとして文字が簡略化されて
入れ替えられる例もあります。文字がどうあるかで大衆の文化レベ
ルや、住民の思考能力と密接に結びつく気がします。

文字のおかげで、ヒトは、過去の著作や外国の著作を読むことがで
きるようになり、脳の拡張メモリーを使いこなせるようになりまし
た。ヒト個体にとってみれば、文字よりも、読み書き能力、あるい
は言語情報処理能力が重要です。


3.日本の識字率が100%であるのは、ひらがな・カタカナのおかげかも
私はこれまで日本人の識字率の高さは、勤勉な国民性や、寺子屋以
来の教育システムの伝統のおかげかと思っていたのですが、それは
間違いで、実はひらがなとカタカナという2セットの音節文字のおか
げではないかと最近では思っています。

音節文字というのは発音記号のようなもので、ルビさえ振っていた
ら、どんな難しい漢字でも読むことができます。我々の脳は、言葉
の音韻波形を処理するようです。ルビは他の言語や文字システムに
は存在しません。ひらがなとカタカナは、文字数は50足らずであり
、1000年以上も同じ形のままです。また、カタカナもひらがなも、
同じ音を表す漢字を単純化して使っていますので、それぞれ個性が
あって識別しやすく、覚えやすい。

インド系文字だと、母音を文字上に振った点の位置で示しますから
、草書体を作りにくく、どうしても音節文字の形状がお互いに似て
きます。西洋のアルファベットは、同じ文字が違った発音を示しま
す。日本語のひらがなは、墨を使って筆で紙に書くには、カタカナ
では書き表しにくいから46文字中17文字をカタカナとは別の漢字か
ら新たに起こしたという設計思想の明確な文字です。

音節文字が重要であり、ギリシャでももともとは音節文字だったと
ソシュールも言っていますが、音節の種類が多すぎるために、2文字
つなげたthやchなどを使うようになったと書いています。

日本語は音節は母音で終わるという規則があるために、全部で112し
か音節の種類がなく、46(47?)文字ですべての音節を表現できます。
音節の種類が少ないのは、日本、南アフリカ、インドなどの行き止
まり地帯や周辺地帯(離れ)に住む幸運な民族の特徴です。

鈴木先生は、日本は中国から適度な距離があったために、中国での
読み方とまったく違った訓読みが可能だったとおっしゃっておられ
ました。漢字に音読みと訓読みという2種類の読み方を与えることが
できたのも、漢字と日本の周辺性のおかげ。

ま、そんなこんなのたくさんの偶然が重なって、我々はひらがなと
カタカナという2種類の音節文字を使いこなせる日本語を使って、日
本語の言語文化の伝統のなかで生活できるわけです。神様に感謝し
なければならないですね。

「文明の衝突」を書いたハンチントンが、日本だけ特別な文明であ
るというのも、ひらがなとカタカナ、音読みと訓読み、漢字仮名交
じり文の日本語のおかげという気がします。

鈴木先生のおっしゃるように、こんな便利で、何も特別なことをし
なくても識字率が上がり、文化的蓄積のある世界に日本語を広める
ことは、世界人類の平和的共存と文化発展のために必要だと、あら
ためて思いました。

そういえばタカの会では、鈴木先生の「閉ざされた言語 日本語の
世界」はまだ取り上げていなかったような気がします。いつかやっ
てみたいですね。


今年一年の皆さまのご健康とご活躍をお祈り申し上げます。

得丸久文
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得丸さん

一元論と二元論のなかで関連して最近はやっているAIの進化・倫理
論が今年の話題になるのではと思いつきました。

“一方、日本では、「所詮(ヒトとサルの違いは)毛が三本」という
達観があり、神のおかげでヒトだけが魂や理性をもっているという
考えはしません。山川草木悉皆成仏、山川草木悉有仏性の汎神論的
考えです。

でも、今度は西洋とは逆に、丁寧に理詰めで考えることは怠り、「
人生万事色と欲」という達観のもと、ぐじゃぐじゃにしてしまう傾
向があります。理詰めで考えることが嫌われる文化です。「それは
理屈だ!」というのは、相手を否定する言葉ですから。

ま、どっちもそれなりに問題を抱えているわけです。“


AIが自動車を運転し、保険支払いの査定にもAIを導入するそうです。
効率化、省人化がすすむとホワイトカラーの労働力は益々不要にな
り失業者が増えることになると予想されます。産業革命時の工場打
ちこわし運動のようなものが起きるかもしれません。そのうちに裁
判もAIが行うようになるかもしれません。六法全書や判例、解釈な
ど弁護士が勉強した知識よりもAIで蓄積してディープラーニングし
た結果が判決に使用されるようになるかもしれません。人間が人間
を裁くのではなく機械の方が優先されるようになるかもしれません。
ある経済学者は、これからの世の中はアーティストと宗教家しか残
らないのではと危惧していました。

これも、デカルト、ニュートン、ノイマンたちの数学者が基礎をつ
くりあげ、0or 1のデジタル思考を進化させた結果、人類文明を破
滅に導いてしまうような皮肉な誤謬となるかもしれません。デジタ
ル言語学で、数学史を見直してみるのも面白いかもしれません。近
代数学以前の和算やインド数学、心身一元論のなかにAIの弱点発掘
のヒントが見つかるのではと予想したいところですが、研究テーマ
にされては如何でしょうか?

小川
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小川さん、

人工知能によってホワイトカラーの仕事がなくなることは、不可避
でしょうね。先だってカメラの修理を依頼したら、必要事項を自分
でネットで入力すれば無料で引き取りをしてくれるというのです。
これによってオペレーターの仕事が減るわけですね。

申し込みをする人に手間をちょっとかけさせれば、オペレーターを
大幅に削減できます。

オペレーターの電話もリアルタイムでAIが監視していて、客の要
望やその場で言うべきことや禁句を教えてくれるそうですが、これ
も熟練労働者を不要にします。

知能の脳内メカニズムが解明されないまま、現場対応のノウハウを
装備したAIがどんどん導入されてきていて、これがいわゆるディ
ープラーニングと言われているのだと思います。

やっていることは、繊細なお客様対応程度ではないでしょうか。

本当のディープラーニングは、もっと違っている気がします。

例えば道元を知るとはどういうことを言うのか、と考えてみると、

1。
名前を記憶する(その名前に反応し、その名前に関連する言葉や五
官記憶とネットワークする概念装置の誕生)のがラーニングの第一
段階

受験勉強やクイズ番組の知識はこのレベルでよいわけです。

2。
概念装置を使って、様々な関連知識を集める

これもラーニングです。どこまで掘り下げるのか、どこまで正確さ
を求めるのか、レベルはいろいろありますが。

雑学的な、目的のないラーニングもある一方で、目的のある探求も
あります。

3。
さらに深めるラーニングというのがあって、それは道元の言語情報
を繰り返し読むことによって、道元のもっていた意識構造を自分の
なかに再現、再構築することです。

他己という言葉を道元は使っていますが、この言葉はこういう意味
かなと思います。

するといつの間にかあなたは道元の問題意識と知識を共有して、今
を生きる聖火ランナーになっているわけです。

4。
そうしてあなたは道元の解けなかった難題にいどみ、あなた独自の
解決策を模索して生み出すことができるようになる。

人工知能とは違うディープラーニングがありえると思うのです。

インターネットのおかげで、ノイマンや道元がどこまで前衛的な仕
事を残したかは簡単に調べることができます。

自分が彼らの最終到達地点に立つためには、繰り返し彼らの著作を
読む必要があるため、古今東西そんな暇人はおらず、あなたの独壇
場です。

人工知能にはこういったディープラーニングはできないのではなく
、求めてないだけかもしれませんが、生身の人間は人工知能よりも
深いディープラーニングを志すとよいかもしれません。

得丸久文
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二十世紀の科学と文化の不幸
皆様

12月例会で取り上げたカズオ・イシグロは、初期作品に戦争に協力
した画家の話や、フグ毒で死ぬ話がありました。出世作の「日の名
残り」は第二次世界大戦がだんだん広がっていく時期のことでした
か。ドラマにもなった「私を離さないで」は臓器移植のために育て
られるクローン人間がテーマでした。現代作家のなかで、珍しく同
時代の人類共通の問題を小説に取り上げる作家だと思っています。

今朝、ユネスコ時代のことを夢で思いだしました。僕は1991年7月か
ら1993年7月までの二年間ユネスコで外務省派遣のアソシエイトエキ
スパートとして勤務したのですが、最初の16ヵ月間は自然科学セク
ターの地球科学部でリモートセンシングの推進プロジェクトを立ち
上げる仕事をしました。赴任したときにはそのような仕事はなかっ
たのですが、赴任して4ヶ月した頃、何も仕事がなくて困ったときに
文部科学省から日本政府代表部にきておられた前川喜兵という方に
相談したところ、いろんなアイデアを出してくださり、そこからプ
ロジェクト推進を始めたのでした。ちょうどニューヨークの国連宇
宙部が世界の4ヵ所にリモートセンシングの機関を設置するプロジ
ェクトを推進していたのに気がついて、その4ヵ所に名乗りをあげ
ている20くらい国があったので、その機関を誘致出来なかった国の
ために小さなセンターをつくるというアイデアで、海外出張や国際
専門家会議をやらせてもらいました。

しかし、アソシエイトエキスパートの期間は二年(延長は一年だけ
可能)で、外務省としては正規職員になってもらうことを優先して
いて、学位のない僕は自然科学セクターではなかなか生き残れない
という判断と、僕が夢のお告げで「ノンフィクション文学の二十世
紀の百冊」というプロジェクトを推進しようとしていて文化セクタ
ーにアプローチしていたこともあって、文化セクター書籍部に後半
の8ヵ月勤務したのでした。

書籍部長はスペイン出身の女性だったのですが、自分の部下にあた
るコロンビア人の男性と同棲していました。このコロンビア人の男
性は、前の部長が採用したのですが、前の部長は探偵小説しか読ま
ないアメリカ人の女性でした。

ま、つまり、コロンビア人の男性はユネスコの女性管理職にうまく
取りいって、専門家でもないのにユネスコ書籍部課長になり、さら
にスペイン出身の女性のおかげで部長級に昇進したのです。

なんでこんなメチャクチャな公私混同の人事が知的国際協力を推進
することを任務とするはずのユネスコでまかりとおるのかといえば
、情実人事はそこら中でまかり通っていて、科学でも文化でも、自
称専門家ばかりだったことがあります。

それと二十世紀の自称科学は、目に見えない量子力学の領域に入っ
たために、どのようにして量子力学を学習し発展させるかについて
の一般理論がないという状況にありました。目に見えない科学を、
いかに正しく学び伝え、発展させるか。これがまだ明らかになって
ないから、STAP細胞騒ぎが起きるのです。

一方、文化の問題は、人類の文化を人類共通のひとつの文化だと規
定して、それを学習し発展させることが大切なのに、ユネスコは文
化相対主義の文化を標榜したため、人間の行うことはすべて文化で
あるという開き直った、向上心のない文化観によって、人々は方向
性を見失ったのです。

カズオイシグロは、そのような絶望的な時代にあって人類共通の文
化を求め続ける前衛小説家ではないでしょうか。

クローン人間の問題は、一体、クローン人間とそうでない人間の違
いはあるのか。人間の尊厳はどのようにして生まれるのか。発生時
なのか、後天獲得によるのかという人間存在の基本を問題にしてい
るのだと思います。そしてイシグロの答えは、後天獲得にあるので
はないか。つまりクローン人間にも尊厳が宿るということだと思い
ます。

それはデジタル言語学と同じ結論ということになります。

得丸

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