6175.台湾新幹線と福知山線列車脱線事故



台湾新幹線と福知山線列車脱線事故
                 令和3年(2021)4月30日(金)
                        仲津 英治
 今年も4月25日が巡って参りました。16年前の福知山線列車脱線事
故を思い起こします。私はその時、台湾におりました。
現在快走している台湾新幹線は、本来平成17年(2005)10月に開業予
定のところ、平成19年(2007)1月5日暫定開業しました。民間企業で
ある台湾高速鐵路公司(以下台湾高鐵)は、有利子株式を発行して銀
行に引き受けてもらっており、一日も早く開業して、借財を減らし
たかったはずです。

私は当時、台湾高鐵の運務分処安全部に主任工程師という職名で技
術協力の一員として勤務していました。台湾高鐵には間接・直接に
2001年から4年間関わっておりました。

台湾高鐵には数百人の社員が勤務していましたが、日本の国鉄に当
たる台湾鉄路管理局とは別の組織であり、同高鐵には台湾人で鉄道
業務の経験者は少人数しかおりませんでした。しかも当初は欧州の
高速鉄道仕様で設計されており、勢い欧米等に人材を求めた訳で、
設計・施工部局である工務分処には、大勢の欧米豪&香港等の出身
者が重要なポストを占めていました。台湾高鐵の公式言語は中国語
(北京語)と英語でしたが、我々が目にする文書、通達などはほとん
ど英語であり、これら外国人が出席する会議も英語で行なわれてい
ました。

ところで、路盤、トンネル、橋梁、高架橋&線路など下部構造が欧
州仕様で設計、施工が進められる中、上部構造は、別途設計される
べしとの意見が、台湾政府等から出されました。
ここで上部構造とは、電化方式、信号通信方式そして車両を指します。
日本の新幹線とは橋脚の仕様が異なる
そして1998年6月3日ドイツのエシェデで発生した車輪の破損による
ICEの脱線道路橋衝突事故が欧州側に大きなマイナスになりました。
続いて1999年9月21日、台中で発生した大地震の後、欧州鉄道は地震
に対する保安上のハード・ソフトの対策が全く不十分であることが
明らかになりました。
そして再入札が行われた結果、三井物産、三菱重工、東芝、川崎重
工などで構成する台湾新幹線(株)が、落札に成功し、東海道新幹
線&山陽新幹線をベースとする上部システムつまり、電化、信号保
安&車両の導入が決まったのです(通信システムはフランス式)。  
そこで台湾高鐵の技術陣には高速鉄道の実務経験者が必要というこ
とで、JR東海、JR西日本&鉄道建設公団から、技術者が出向するこ
ととなりました。平成15年(2003)夏の頃です。私を含め、約8名の社
員が台湾高鐵勤務となったように思います。
受注側の台湾新幹線(株)も台北市に独自の事務所を持ちました。
そこにも大勢の欧米人が勤務していた事を記憶しています。

冒頭申し上げた通り、台湾高鐵は2005年10月、台北市~高雄(345)
で開業の予定でしたが、上部構造に日本のシステムを導入すること
となり、台湾高鐵と台湾新幹線の間で、設計仕様の調整で時間が掛
かりました。発注者基本技術要件書(EFTR=Employer’s 
Fundamental Technical Requirement)には、上部構造も含めた設計
条件がかなり具体的に記述されていたからです。このことも一因と
なって工事も遅れ、到底当初目標通りに行かないことが、関係して
いる者にすれば、明らかな情勢となって来ました。

我々台湾高鐵勤務者の主な任務は、要員教育と訓練でした。大きな
プロジェクトは、必ず三つの大きな要素が上手くかみ合わないと円
滑に事柄は進みません。三つの大きな要素とは、鉄道で言えば、線
路、電気設備、車両などのハードウエアそれらを運用・保守するた
めの規程、規則などのソフトウエアそしてそれらを実際に維持しな
がら運営する要員=ヒューマンウエアを意味します。
 我々は、JR東海 &JR西日本から無償で提供された規程類、教科書
、解説書などを、日本語表記のままで、英訳しながら、台湾高鐵ス
タッフを教育したのです。そして台湾人スタッフは、それらを消化
吸収した上で、中国語の規程類=ソフトウエア類を整備して行きま
した。従って台湾高鐵スタッフは英語の読解力、会話力は必須で、
全員が大学卒です。今日も日欧米との接触が多く、英語力は欠かせ
ないので、大卒の新規採用を取っているとのことです。

 教育&訓練に全力を挙げながらも、当初仕様での開業を延期せざ
るを得ない状況になったとき、信号保安設備の工事が特に遅れてい
るところ、建設担当である工務分処から、2005年10月に手動式信号
保安方式を用い、時速100kmに速度制限して、暫定開業する案が流れ
て来ました。台湾高鐵幹部の間で少しでも収入を得て、借金を返済
したいという意向と、またメンツを大事にする中国的伝統が持ち上
がって来たのでしょうか。
 私は安全部に勤務する者として、これは絶対に阻止しなければな
らないと思いました。というのは手動式信号保安方式では、事故が
発生する可能性が大だからです。安全部長含め、台湾高鐵スタッフ
が上司の意向に逆らえず、時速100km&手動式信号保安方式による暫
定開業に同意しようとする空気も感じられました。

手動式信号保安方式とは運転士に速度制御を殆ど依存する方式のこ
とです。新幹線を始めとする高速鉄道、また昨今の新規鉄道におい
ては、全て自動式信号保安システムを採用し、まさに乗客の死傷事
故無しという記録を更新し続けております。
事故を起こす確率が高い職種は、鉄道で言えば、運転士です。運転
士の注意力と加減速操作による手動式保安システムを採用する限り
、事故は絶滅できません。手動式保安方式の典型である自動車によ
る道路交通事故死者数が年間数千人というデータがそれを物語って
います。
 自動信号保安システムにおいては、前方列車との距離、停車駅ま
での距離を、列車側で自動的に把握し、列車速度を一定以上上回ら
ないようにします。例を挙げると、駅に停車する時には新幹線列車
は、275信号、160信号、70信号と3キロ毎に受信し、自動的にブレー
キが掛かり、速度を段階的に低下させて行きます。
駅のプラットホームに進入すると、列車は30信号を受信し、自動ブ
レーキが掛かって、速度が時速15~20キロ位に下がります。そこで
運転士が確認ボタンを押すと、ブレーキが自動緩解し、あとは運転
士が目視運転でノッチ(アクセルに相当)とブレーキハンドルを操
作して所定位置に列車を止めます。このシステムをATC(Automatic 
Train Control System=自動列車制御システム)と呼んでいます。運
転士は加速操作をおこないますが、減速操作に関しては、駅停止時
以外行なわなくても済むようになっているのです。新幹線の運転士
には、前方確認義務が課されていません。運転台の信号現示に従っ
て運転すれば良いのです。

 2005年ころ、台湾高鐵で検討されていた手動式信号保安方式は、
上記のような装置によるブレーキ操作を全て、運転士に課すことに
なります。時速100kmの上限も運転士が自分で判断することになりま
すし、前方確認義務も課されましょう。速度オーバーする可能性も
出てきます。
そして台湾高鐵で検討されていた手動式信号保安方式では、ある駅
間には指導員を一人定め、その指導員が運転台に乗った列車のみそ
の区間を走ることが許される方式でした。新幹線にもATC故障時に使
用する代用保安方式の一つである指導式として規定化されています
。言葉を換えれば、人間タブッレット方式とも言えるものです。
この運転保安方式は、列車の運転士、車掌、指導員、そして両駅の
運転掛さらに中央指令所の指令員が関わることになります。そして
相互の意思・行為の確認と安全の保障は、全て電話で行なうことと
なります。言わば『言った、聞いて無い』の世界に安全を委ねるこ
ととなるのです。
 まだ慣れていない、台湾高鐵の社員が、上記のような代用保安方
式で確認を行ないながら、列車運転業務を行なったらどうなるでし
ょうか。事故の確率は上がりましょう。

 私共、東海道新幹線&山陽新幹線の運転を預かっているJR東海 、
JR西日本では、上述のような代用保安方式は、極力避けるようにし
てきましたし、今後もそうでしょう。なぜか、慣れない方式を実行
しようとすると勘違い、手違い、確認漏れなどが発生し易いからで
す。従って安全の根幹であるATCが故障した時は、無理をせず、列車
の運転を中断し、故障個所の検知、修繕そして機能復旧まで確認し
てから、運転再開に入るようにしているのです。JR他社も同様です。

 私は、台湾高鐵内で機能していた社内LANを活用し、次のような
E-Mailを関係者全員に発信しました。曰く「ATCの無い時速100km運
転は、ATCのある時速300km運転よりよほど危険である」と。しかし
反応はあまりありませんでした。

 そんな折、福知山線脱線事故が発生し、死傷者が大量に出ている
というニュースが飛び込んで来たのです。平成17年(2005)4月25日の
ことでした。私たちは台湾で終日見ることができるNHKテレビにくぎ
付けとなりました。

 報道が数日続く中で、事故の原因が下記のように段々と判って来
ました。
■	まず、東海道本線、JR東西線及び福知山線を立体交差で接
続する際に線形上、半径300メートルの急曲線を入れざるを得ず、時
速70㎞に制限したこと。
■	そこに時間遅れを回復するために運転士は、制限速度をは
るかに超える時速116kmで急曲線に進入し、遠心力の働いた列車が
、外側へ脱線し、沿線のマンションに激突したこと。
■	現地には、速度超過を検知する速度照査式自動列車停止装
置のATS-P(Automatic Train Stop with Patterns)が設置されてい
なかったこと。
 安 全 - JR西日本
URL;データで見るJR西日本2017:安全 (westjr.co.jp)

日本の新聞もチェックしたところ、マスコミの批判は、この速
度照査式ATSの未整備に集中しておりました。大手私鉄関係者のコメ
ントも掲載されており、「この時代に赤信号の時のみ非常制動が掛
かるATSしか、整備していないとは、信じ難い」というような内容で
した。速度照査式ATSとは曲線などで速度制限が必要な場合、列車速
度をチェックして、それが所定値を上回っていた時、自動的に制限
速度以下まで、ブレーキをかけるシステムのことです。
私も福知山線は、新たに整備されたJR東西線に尼崎駅で接続されて
おり、新線の東西線に合わせ、速度照査式ATSを整備していたはず、
と思っていました。

この運転士も含め107人もの死者を出した福知山線列車脱線事故は、
強烈なショックを台湾高鐵幹部に与えたようです。人間タブレット
による手動式信号保安方式そして時速100kmをもって暫定開業しよう
という動きは、この事故を契機にピタッと無くなりました。
私の親戚の一人があの事故で亡くなっています。親会社であるJR西
日本が起こしたあの大事故は、大変辛い思い出でありますが、台湾
高鐵の他山の石になったことは、ささやかな救いでもあります。
改めて尊い犠牲者の霊にこの一文を捧げるものです。           
  以上


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