6011.ブータン紀行その2



                 平成30年(2018)7月5日(木)
             地球に謙虚に運動 代表 仲津 英治

 大雨が全国的に降っています。
 被害が出ているところ、警報などが出されているところの方々へ
お見舞い申し上げます。

 去る5月11日(金)から17日(木)まで、妻の希望もあって国民総幸福
量=GNH(Gross National Happiness)の国と自称するブータン王国へ
行って参りました。ブータン国内では4泊し、国の在り方、国民生
活の過ごし方など、大いに勉強になりました。表面的だと思います
が、こういう世界があるということと強く認識した次第です。今回
はブータン紀行その2です。宜しくお付き合い下さい。

 その1では、良い意味でブータンに無いものを採り上げました。そ
の2ではまず、豊かなもの豊富なものを採り上げたいと思います。

高山の多い国 
 ブータンは世界最高峰エヴェレストを擁するネパールの東側の隣
国で、大変な高山国です。季節は5月でしたが、白銀に輝く神々しい
7,000メートル級の連山を遠望することができました。インド亜大陸
が北方に移動し、ユーラシア大陸を押し上げており、今もその造山
活動が続いているとか。

 高山国ですから積雪が豊富でブータンでは雪解け水プラス湧水を
活用した稲作が盛んです。しかし田んぼは深い谷の底にあるか、段
々の棚田になっており、V字型渓谷の下にある田畑と自宅の間を往復
するようです。かなりエネルギーを要しましょうが、体力も付くこ
とでしょう。空気も薄く心肺は強靭になって行くはずです。将来オ
リンピック選手が続出するのではないか、とガイドのブブ・ツェリ
ンさんと話し合いました。

 但し、飲料水となると後述する3,040■の高地のタクツァン寺院へ
の道筋では、行き来で活躍する馬&ロバの排泄物、人間による生活
用水の処理問題もあり、衛生上課題はあるとのことでした。オース
トリア、スイスの経験から高山国で源流に近いところでは軟水が豊
富なところ、今回は期待していましたが、いささか外れでした。 

 5月13日(日)首都テインプーから古都プナカ(かつての冬の都)
に向かう途中、見晴らしの良い標高3,100mのドチュ・ラ(ドチュ峠
)に立ち、遥かなるヒマラヤの連山の遠望を期待しましたが、いさ
さか霞んでおり、案内絵図を見ながら想像して我慢をしました。

多数在る寺院と花木
 古都プナカは、標高1,200■の高さにあり、冬季も積雪が少なく、
かつては冬の間、都になっていたそうです。川の合流点にあるプナ
カには、古くからの寺院があり、折からジャカランダ(和名は紫雲
木、中南米原産の樹木、キリモドキとも呼ばれる)の紫色(青紫か藤
色)の花が咲いており、天国を思わせる美しさでした。ブータンで
も一番美しい風景との事。ジャカランダの木は日本にも移植されて
いるようですが、神秘的で美しい紫の花は、樹木そのものが大きく
育たないと咲かないそうですね。
 参考 ジャラカンダ 熱海市公式Website
 http://www.city.atami.lg.jp/hana/1003681/1003694/index.html

豊富な水と盛んな農業 
  高山が近くにあると、水には苦労しません。大きな山が水を貯
えてくれ、雪が天然のダムになってくれるからです。日本でも北海
道、奥州、信州等がそうですね。ガイドのブブ ツェリンさんによる
と、ヒマラヤ山脈を背後に控えたブータンは、湧水が欠けることは
なく、また少し地下を掘れば、井戸水が得られるとのことでした。
従って高山国で、日本の北海道より寒冷地とも思われるのに稲作が
盛んで、古代米とも言われる赤米始め五穀(米、麦、粟、豆、稗ま
たは黍)もよく収穫できるそうです。
 ただ、稲作が盛んになって自給自足できるようになったのは、日
本の西岡 京治(にしおか けいじ)さんという農業専門家の長きに渡
る技術指導と日本の経済支援があったからです。このことを紹介し
ましょう。
  
 今回の旅行は、太陽暦の5月11日から17日まででした。そして5月
15日は陰暦、旧暦(農暦=農村暦)の4月1日に相当します。現代日本
でも農業、漁業に従事する人たちは月の満ち欠けをベースにした陰
暦(農暦)を大事にします。台湾でもそうでした。
 ブータンではこの旧暦の4月1日に一斉に田植え開始するとのこと
でした。私どもが5月12日(土)パロ空港に着いた日には、棚田への導
水が始まっていました。そして田んぼを耕す仕事は男性の役割で、
田植え(手作業)は女性の仕事とのことでした。パロのホテルから
は、田園風景がよく見え、早朝、6時頃目覚めた頃には、既に田んぼ
に8~10人くらいの女性が入って田植え作業を始めていました。そし
て日没後黄昏時、手が見えなくなるまで作業を続けるとのことでした。

農産物が豊かになった国
 此度の旅行で、ブータンは農産物の豊かな国であるとの印象を強
く持ちました。しかしかつてはそうではありませんでした。今日の
農産物の豊かさは、ある日本人と日本の経済・技術協力があったか
らなのです。
 革命的なブータン農業の発展をもたらした人は、現地でダショウ
西岡と尊称される西岡京治さんという方です。ブータン農業の父と
も呼ばれています。ダショウとは「最高に優れた人」の意味で、現
地では省庁の次官&県知事などに与えられる尊称で、外国人では西
岡さんが唯一人です。 西岡さんは国際協力事業団の農業専門家と
して昭和39年(1964))ブータンに、海外技術協力事業団(現・国
際協力機構)のコロンボ・プランの農業指導者として夫人とともに
赴任しています。赴任当初はインド人が大半を占める農業局から冷
遇を受け、試験農場すらまともに用意されなかったそうで、ブブツ
ェリンさんの話では、自ら小さな田畑を借りて自主農園を始めたと
のことでした。日本から持ち込んだ野菜の栽培および農林11号とい
う稲(北海道など寒冷地用)を導入し、整列田植えも実践して見せ
たそうです。明らかな収穫量の違いを見て、ブータン人は、西岡さ
んの指導を仰ぐようになったと言います。もちろん無農薬、人口肥
料無しの栽培です。
 西岡京治 Wikipedia
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E4%BA%AC%E6%B2%BB

 かつて種籾をばら蒔きしていて、収穫高は極めて低かったのです
。(実入り4割以下?)、そして西岡氏は品種改良、荒地の開墾など
、1992年現地で亡くなるまで28年間ブータンの農業振興に尽力され
ました。結果、お米も、野菜も自給できるようになったのです。

 以前、ブータン人は、家畜の血肉でビタミンを補給していたとい
います。野菜の取れない寒冷地の北極圏のイヌイットに似ています
ね。ところが、今や野菜からビタミン類を摂取できるようになった
とのこと。寒暖差の大きいブータンでは日本産の野菜が合ったとも
伺いました。 
 また果物として青森産のリンゴの種苗、苗木を育成し、今やリン
ゴはインドなどへの輸出作物にもなっているとか。外貨も稼げてい
るようです。
 他の果物、オレンジ、マンゴなどはほとんどインドから輸入して
いるとのことでした。
  
 私は、国鉄所属でしたが、昭和52年~54年(1977~1979)外務省経
済協力局に出向し、国際協力事業団=今の国際協力機構=JICAの実
施する技術・経済協力援助、支援に伴う、外交的実務を担当してい
ました。そしてブータンに派遣中専門家であった西岡京治氏とブー
タン政府の要請に基づき、農業用の資材・機材を送る外交電報を発
信し、関係書類を送った記憶があります。確か機材供与事業の一環
として、クボタ製の耕運機・田植え機などの農業機械類そして稲作
&野菜の種苗類であったと思います。棚田などが多い、ブータンで
は小規模農業用の日本製農機具・農機類はぴったり合ったのです。
 今回の旅行でもクボタの小型トラクターを使って田んぼを耕して
いる男性を見かけました。

 ただ、私の外務省出向時、西岡さんはJICAでは評価されていまし
たが、評判はあまりよくありませんでした。JICAが資材・機材ある
いは資金協力しても全部西岡さんの手柄になっているという事から
でした。プブツェリンさんからもその話を伺いました。本部と第一
線の間にはこうした齟齬は起こりうるものなのですね。

 ダショウ西岡氏のように、今も現地の人から感謝され、尊敬され
ている日本人として台湾の農業育成に尽力した故八田 與一氏の例が
あります。嘉南大?(かなんたいしゅう)と呼ばれる誇大な農地を整
備した人物です。日本以上に日射・雨量の多い台湾では、日照りや
台風・洪水の度に田畑が荒らされます。特に生活が安定しなかった
台湾南部において、昭和5年(1930)烏山頭ダムを、彼は設計・整備し
、治山・治水に成功した日本の国家プロジェクトの指揮者でした。
現地に現地住民が建立した八田 與一の銅像があります。
八田 與一 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%94%B0%E8%88%87%E4%B8%80

                       その2 以上


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