2833.秦氏を追って宇佐神宮へ



古代日本を知るためには、どうしても秦氏の行動を調査しないと、
分からない。このため、宇佐八幡で何かを掴もうと12月23日か
ら25日に行ってきた。

今回は青春18切符を買い、それで往復しようとしたが、「ムーン
ライトながら」が1ケ月先までも満席であり、家を朝早く出ての鈍
行列車の旅になった。しかし、JR鈍行列車の接続はスムーズで、
姫路か岡山までは1日でいけることが分かった。その姫路で1泊し
て2ケ日目に宇佐に着いた。姫路から先は、列車の接続はスムーズ
ではなくて待つ時間が多く、あまり進まない。18切符は2300
円/日であるから5000円弱の運賃で宇佐に行けるが、姫路のホ
テル代5800円/泊の方が高い。宇佐のホテル代は4300円/
泊。しかし、帰りは特急ソニック号と小倉から新幹線で帰ったが
22300円と、割安の往復切符と同じような金額になった。
一番安いのは、やはり旅行会社の往復飛行機のパック旅行2〜3万
円かもしれない。

この旅行で分かったことは、「隋書」倭人伝にある「秦王国」は豊
前の秦氏を指していることが分かる。秦氏の渡来は五世紀後半以降
、数度にわたりあったとされている。秦氏は当初、香春岳山麓で銅
を採掘していたが、宇佐の地にも秦氏の一族である辛島氏が入植し
たようだ。この辛島氏が宇佐神宮を建てた。香春岳近くの福岡県築
上郡築上町にある矢幡八幡宮が元宮であり、この新宮として宇佐神
宮が建てられたようだ。秦氏は畑作、養蚕、機織、銅などの鉱山技
術、鍛冶など、その当時の最先端技術を中国から新羅を経て日本に
伝えたのだ。

秦王朝の末裔や秦王朝の技術者を引き連れて日本に来た事が分かる。
辛島氏は宇佐氏の地ではなくて、その外れに入植した。そして、大
和朝廷も銅の技術を持つ秦氏を山背(今の京都)の地に呼んだのだ。
そして、秦河勝こそ、山背国に太秦(秦氏の長)としてそこに本拠
を構え、広隆寺を建て、聖徳太子に仕えた大立者である。後に聖武
天皇が東大寺の大仏を作るときにも大活躍している。

秦氏は養蚕の技術と鉱山の技術があるために、各地方の豪族から呼
ばれて各地に入植した。この秦氏一族の長が京都太秦の秦氏であっ
たのでしょうね。もちろん、航海術を持っているために、海を通じ
て、どこへでも行ける。このため、日本の各地に秦氏の末裔は広が
ることになったのだ。

しかし、663年に白村江の戦い後、ニッポンの「日本」化を加速され
大神氏がこの宇佐神宮の宮司となり、辛島氏は追われそうになる。
例の「道鏡を皇位に」と託宣したのは大神氏の巫女であり、和気清
麻呂が宇佐に参宮し再度託宣を受け、託宣は覆るが、こちらは辛島
氏の巫女が下したものだったと。宇佐神宮内の権力闘争が起こって
いたことが分かる。和気と言う地名もこの地、辛島郷の近くにある
ように岡山の和気氏も秦氏の一族の可能性もある。

そして、和気清麻呂は道鏡事件で「大隈」へ配流となったあと召還
されるが、773年には何と豊前国司に就いて、大宮司は大神氏、少宮
司は宇佐氏、禰宜・祝は辛島氏に世襲とした。その後、宇佐氏が大
宮司職を継承し、さらに宇佐氏の支族である到津氏および宮成氏に
渡り、現在は中津市の薦神社の宮司である池永氏が宮司に就任して
いるが、将来、到津氏に戻すようである。

秦氏の一部は、隼人の国大隈国に移住したが、527〜528年筑紫野君
磐井の反乱も隼人族であり、このときに福岡にいた大本の秦氏が応
援したために、大隈に移住させられたとも考えられる。隼人は朝廷
と何度も戦っている。この移住先である大隈でも乱(720年)がおき、
辛島氏は神軍として従軍して、同じ大隈の秦氏を負かした可能性が
あり、このため、この供養として「放生会」が行われている。

八幡宮は全国に約二万四千もある。この広がりは秦氏の広がりをも
示すものである。大隅国に移住した秦氏の一族は大隅八幡宮(鹿児
島社)を708年に創建している。宇佐八幡宮が秦氏の一族から大神氏
に移ったことで、秦氏が司祭する大隅八幡宮を「正八幡宮」と名乗
った。平安末期までに辛島氏は宇佐神宮寺の権検校職へと冷遇され
ている。

860年、「大安寺」僧・行教が石清水八幡宮を勧請する。これが平安
期における八幡信仰流行の一大契機となった。

どうも、出雲大社も調べる価値がありそうである。18切符が3枚
残っているので、出雲大社に行こうと思う。


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