2824.難しい時代へのヒント



世界の環境変化に日本が対応しなければならない時代が来た。
                         Fより

世界の覇権が変化する時代に来たが、その覇権競争とは別の世界に
居るのが日本である。覇権競争に参加する意欲もなく、政治混迷の
立ち往生状態にいる。日本の取り巻く環境は変化して、その変化に
対応しなければならない難しい時代になっているのにである。

日本の生きる道は、日本しかできない独創的な発見や研究開発しか
ない。政治に期待はできない。企業や個人に期待をするしかない。
この発見や研究は天才が行うというのが欧米的な考えであるが、日
本の独創性は、集団で影響しあいながら皆で独創的な発見をすると
見ている。これを追求するしかない。

そして、この難しい時代の参考になるのが、鎖国をして日本の文化
を育てた江戸時代である。中国文化を消化して、日本的な修正をし
て、日本文化そのものにした。この江戸時代の文化を育てた仕組み
が今、求められている。欧米文化を日本文化そのものにする時代に
来ている。そして、今日本の文化がジャパン・クールと世界に広ま
っている。しかし、その国内での構造ができていない。

欧米文化の著作権などの仕組みが日本にも定着して、日本のクリエ
トの環境とは違うと本能的に感じる。このようなことで、日本では
クリエイトする個人が個々の点の状態にある。企業には遊びがない
ために、個人の独創性が殺がれている。真に日本が文化を鍛えるの
は、このような個人の点の状態ではダメだと感じる。そこで、江戸
時代の創造環境をどう組織化しているかを知る必要がある。この江
戸の創造の組織化を書いた良い本がある。「江戸の想像力」田中優
子、1986筑摩書房だ。

江戸時代のクリエイトとしては連句がある。この連句は各人が五七
五の句を読み、次の人がその前の句に繋いで七七の句を読む。次の
人は前の句に続けて五七五を読みと連綿と続ける。このように連句
が全体としての作品になる。その作品には著作権などはない。その
時々で違う連句もできる。

この連句を行う組織が連である。この連句や俳諧の取次ぎ所が全国
にあり、江戸時代には現代の喉自慢のような全国大会もあったのだ。

この連の取次ぎ所を平賀源内は本草学の珍しい植物を集めるために
使う。そして、江戸で物品会を開く。ここでも本草学の連ができて
影響をし合っている。平賀源内のアイデアを発展させて商売をする
人たちもいた。このように連が1つの発想の拠点になっていた。そ
して連同志も情報を交換している。

この連を現代化したような拠点ができないかと思う。いろいろなア
イデアを繋げて、初めて世界が驚くものになる。1つ1つは小さい
アイデアかもしれないが、その連綿とした繋がりが今、日本に求め
られているように感じる。

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2824.難しい時代へのヒント へのへのもへじ

>欧米文化の著作権などの仕組みが日本にも定着して、日本のクリ
エイトの環境とは違うと本能的に感じる。このようなことで、日本
ではクリエイトする個人が個々の点の状態にある。企業には遊びが
ないために、個人の独創性が殺がれている。真に日本が文化を鍛え
るのは、このような個人の点の状態ではダメだと感じる。そこで、
江戸時代の創造環境をどう組織化しているかを知る必要がある。こ
の江戸の創造の組織化を書いた良い本がある。「江戸の想像力」田
中優子、1986筑摩書房だ。


現代日本のサブカルチャーである漫画の分野では、同人誌などの創
作活動をする個人の交流&販売活動の場として有名な「コミックマ
ーケット(略称:コミケ)」があります。コミケは御指摘の『連を
現代化したような拠点』の一例と言えるのではないかと思います。

江戸時代の「連」と現代の「コミケ」について比較分析などしてみ
るのも面白いかもしれません。 
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(Fのコメント)
「コミックマーケット」は凄いですね。さながら、平賀源内の本草
学の薬品会、物品会を巨大化した感じですね。「連」は20名程度
の同人誌の集まりと言うことですかね。その「連」が年数回、意見
交換をする場、全国喉自慢大会という感じがしますね。

もう1つ、「連」として機能しているのが、研究開発でも大企業と
その技術能力が高い20社程度の中小企業の集まりだそうです。こ
の組み合わせがないと、大企業は試作品が作れないとのことです。
大企業はやはり流石ですね。

しかし、技術力がある中小企業がだんだん少なくなってきて、日本
のもの作りがあぶないということです。「連」を現代化してどう機
能させるかは、それぞれの分野で違うが、江戸時代の「連」は現在
も生きているようですね。その活性化をする必要があるということ
のようですね。
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優子りん、最高!〜または『江戸の想像力』にからめて
http://blog.goo.ne.jp/civil_faible/e/c560aba3dae6d4458f9d4680e1356f8b
 TBS「サンデー・モーニング」にコメンテーターの一人として出演
していることでも知られる、近世研究者・田中優子さんが、マガジ
ン9条のインタヴューに登場した。
 なんだか僕の中では満を持して、という感じがしている。という
のは、かつて田中氏の著作『江戸の想像力 18世紀のメディアと表
徴』(筑摩書房)に衝撃を受けた者の一人だからである。ここ数年
勢いを増す右派勢力の「日本の伝統」「日本の国柄」という駄弁を
耳にするたび、この『江戸の想像力』の中の一節を反射的に思い浮
かべていた。

「縄文時代を取り上げたとしても、世界の流動と交錯について多く
を発見できるに違いない。そして常に至る結論は、国学者たちが夢
見たような、「本来の日本文化」などどこにもありはしない、とい
うことなのだ」(第一章「金唐革は世界をめぐる」より)

 さらに、日本固有の文明などというものはない、あるのは中華文
明のヴァリエーションである、とまで言い切る箇所もあった。
 これは決してネガティヴな物言いとか、細かな特色を切り捨てた
粗雑な物言いというのではない。日本には日本ならではのヴァリエ
ーションが生まれる風土、構造、そこに生きる民族のゆるやかな個
性がある。それを氏は否定してはいない。むしろそれは中華文明に
対して時間的に遅れてはいても、劣っていたわけではない、そもそ
も文化に優劣なんかないということを、説明するための物言いなの
だ。さらに言うなら中華文明でさえ、無からすべてを創造したわけ
でなく、四方八方から押し寄せる様々な文化の影響のごった煮なの
である。
 文化とは、混じり合ってこそ文化であるということ、我々「情報
社会に暮らす」などとうぬぼれている現代人が思う以上に、昔の人
たちは世界各地で交流しまくっていた、アジアの東端の一見自閉的
な環境にあるように見える島国の住人でさえも──田中氏の本で、
僕はそのことに深く感動した。

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『江戸の想像力』を落語の目で見る
http://homepage1.nifty.com/wackie/shougei.4.html

はじめに
落語という形態は、歴史的には口承文芸の1つとして発展してきたも
のだが、空間的には近世の江戸の文化の網の目の中で揺籃されたも
のである。であるから落語について考えるとき、近世江戸文化にお
ける位置付けを視野に入れることが大事であることは言を待たない。

表題の『江戸の想像力』は、田中優子が江戸の近世の文化について
、平賀源内と上田秋成をキーワードに論じたもので、歴史的な視野
にあわせて、東洋の中の江戸、大航海時代の世界の中の江戸といっ
た空間的にも広い視野を持った優れた評論である。

今回はこの『江戸の想像力』をテクストにして、揺籃期の落語の姿
を拾いながら、落語の背景を整理してみたい。

俳諧の連
江戸文化を代表するものとして、俳諧がある。「俳諧」は古代から
和歌の滑稽の側面をにない十六世紀に「俳諧」というジャンルとし
て独立したものである。俳諧は、後世の俳句と違い基本は連句(俳諧
連歌)であった。複数の者が同時、同空間に集り作成される。芭蕉な
どはこの連句の座のリーダーとして名を成したのだ。 

連句の構造は、個々の句は、直前の句と繋がるように作るが、それ
以前の句とはイメージが離れるように作るのが良いとされる。だか
ら鑑賞のしかたは2句づつ独立して味わいながら移動し、そのイメー
ジの変化を楽しむという風なのだろう。まるで順路に沿って進みな
がら連続する視点によって変る風景を楽しむ回遊式日本庭園のよう
である。このフォルムは実は近世に通底する「連」という構造/方法
なのである。

それはさておき、俳諧にはもう1つ前句付というサブジャンルが存在
する。前句付けは現代の大喜利でも行われるのでご存知の方も多い
かもしれないが、例えば七七の短句が出題され、それに五七五の長
句を付け、点数を付けて競技するゲームのことである。前句付の他
にも「ものは付」「冠付」「折句付」など多種多様なルールが生ま
れ(雑俳と称される)、参加者は全国へ広まった。これら参加者の投
稿作品を評価者(点者という)に取り次ぐ全国ネットワークが生まれ
「組連」と呼ばれた。

江戸落語の発生
1774年頃、上方の雑俳ネットワークの中で「咄」が集められだした。
滑稽な俳諧の新種として滑稽な咄が収集されはじめたのだ。1776年
、江戸の狂歌師が、京都へ滞在したおりに、この「咄」という概念
を身に付け、江戸に帰ってくる。これが江戸小咄の始まりとなる。

そして1783年4月25日、江戸の狂歌師、竹杖為軽(たけつえのすがる)
が「宝合わせの会」を開催した。何か物を持ち寄って、なぜこれが
宝かを列席者に納得させる屁理屈の弁論大会で、優秀なものはまと
めて本にして出版するという馬鹿な企画である。

この会に出席したある大工の棟梁の弁論があまりにすばらしく「太
平楽記文」という1冊の独立した本として出版されることとなった。
この棟梁が江戸落語の祖、烏亭焉馬であり、3年後の1786年4月12日
に向島の武蔵屋で連の狂歌師を集めて第1回の「咄の会」を開くこと
になるのである。

おわりに
以上、少し長いが落語の発生と連のかかわりをテクストから抜き書
きしてみた。

簡単にまとめると、江戸落語は連というサロンの、俳諧ゲームとい
うフレームから発生してきたということである。

現代の、例えば唐澤俊一をキーワードとするサロン(と敢えて呼ぼう
)に出入りする、立川流の落語家が落語に限らない活動を行なってい
るのと相似形なのだろう。

また、連の文化として、全体の構成より視点の移動による変化を楽
しむ特徴がある。これは落語のネタとして全体の矛盾を気にせず部
分部分で疾走するものがあることと関係ある気がする。この点は日
本の物語全体の構造的特徴とも関連する問題として今後の課題の1つ
としたい。

また、『江戸の想像力』にはこの他に、中国の説話人と日本の講談
、落語の関係を論じているが、この部分の整理は、また次の機会と
したい。
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連とは何か?(田中優子さんのサイトから)
http://lian.webup.co.jp/tanaka/whatis/index.htm

日本語でいう「連」とはForumのことであり、RENと発音する。「連
」という言葉はふつう単独で使われることはなく、「〜連」という
ように名前をつけて使う。名前のついた連(forum)は3人から20
人ほどのメンバーから成るが、メンバーは1回限りで解散すること
もあり、長く続くこともある。目的は様々で、日本の江戸時代
(1603〜1867)であれば、主にソフトを作ることや研究や
翻訳に専念した。俳諧、狂歌、落とし咄、浮世絵、博物学、団扇や
手拭いなどのデザインなどである。これらは企業とは無縁の動きで
単なる「遊び」であるが、結果として市場に出回ることはいくらで
もあった。また政治や学問とも無縁であるが、結果として一般的で
ない学問(蘭学など)の形成を支えたり、実際に武士、商人、職人
たちの情報交換の場でもあった。 
 
  江戸時代の連の特徴は、決して巨大化せず適正規模を保つこと
(そのため連の数が増える)、存続を目的としていないこと、コー
ディネイターはいるが強力なリーダーはいないこと、費用は参加者
が各々の経済力に従って負担すること、パトロンと芸術家、享受者
と提供者の分離がなく全員が創造者であること、様々な年齢、階級
、職業が混在していること、メンバーの出入りが自由であること、
他の連と密接なつながりがあること、メンバー各々が多名であるこ
と、などである。連に参加する創造的な人間は、活動によって複数
(ときには数十個)の名前を使いわけているのがふつうである。 
 
 日本の連の起源は二つの方向から考えられる。ひとつは「連歌」
である。古代から和歌の冗談バージョンとして「俳諧歌」というも
のがあった。「俳諧」とは中国語で滑稽の意味である。この俳諧歌
を上の句の「575」と下の句の「77」のパートに分けて、複数
の人間が鎖のようにつなげて作ることが始まり、これを「鎖連歌」
と言った。中世の連歌は100句、50句を連ねた。連歌を作るた
めには複数の人間が集まる必要があった。 
 
  そもそも日本の和歌の起源は「歌垣」にあり、和歌は通常「宴
(うたげ)」で作られるものであり、和歌を生み出した貴族社会に
は「歌合わせ」という和歌の競技会もあって、集まって歌を作るの
は自然なことだった。この連歌は様々な革新を経た後、17世紀に
は「俳諧」として農民から商人までを巻き込む文学の一大ジャンル
となって社会に定着した。そのころ指導者(宗匠)として全国を巡
っていたのが芭蕉である。「俳句」は、明治になって俳諧が西欧文
学の観念のもとに組み替えられた結果できあがった近代の産物であ
る。江戸時代まではこのように社会全体の生活の中に「複数の人間
による文学創造」が日常のこととして定着していたため、連はいつ
でもどこでも、どのような目的であっても、形成される可能性があ
った。 
 
 連のもうひとつの起源は農村の社会構造である。日本の村は「村
」を最小単位とするものでなく、多数の小グループが複雑に交錯し
合って村を形成していた。それらは機能によって「座」「講」「組
」「結」「中」と呼ばれていた。その中の「講」は仏教の布教にと
もなってできた全国ネットワークをもつものであり、村は小グルー
プによって外の村とつながっていた。また農村の「一揆」のグルー
プと連歌のグループとは重なることがしばしばであった。町の運営
の単位もこの構造に似せて作られていた。 
 
  「連」という言葉は中国起源である。中国語ではこれをLianと発
音する。「荷を運ぶ車」と「道を行くこと」が組合わさってできた
字である。かつて、「つらなる」意味はむしろ中国語の「聯」(こ
れもLian)にあった。これは、「耳」と「糸」とを組み合わせた字
である。「聯」の字の中には「左右対称」の意味が含まれており、
そのため、門に左右対称に貼る祝福の文字や、対になった掛軸など
を「聯」と呼んだ。また中国にも「聯詩」という、詩を複数の人間
がつなげていく形があるが、この場合も「聯」を使った。ただし現
在では中国でも、「聯」は連合の意味に、「連」は「つらなる」意
味に使っている。 
 
  日本では左右対称性によるものごとの完結を、意味の上でも意匠
の上でも避ける傾向にあり、道の上を旅するがごとく未完結に連ね
てゆく「連」の方が好まれたと思われる。ちなみに、連の仲間のこ
とを日本語で「連中(れんじゅう)」と言うが、この言葉は中国語
では「続けざまに」という意味しかない。中国語で、「連」を使う
人間関係「連属」は親戚づきあいのことで「連宗」は同姓のつなが
りのことであり、両方とも家族関係に関する言葉である。その意味
でも「連」の中には日本社会の特質が見える。 

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