2804.江戸の思想6(平賀源内)



本草学の大家と言えば、平賀源内である。その悲劇を見よう。
                     Fより

時代の先駆者は、いつも嫌われる。数歩前を歩くことが世間との関
係をよりよく保つことであろうが、百歩も先なら誰も認めないし、
着いていけない。百歩も前を行く構想は「空想」「妄想」であり、その
ような構想をする人を「奇人変人」と呼ぶ。

江戸で、この「奇人変人」「ペテン師」と呼ばれたのが、安永8年
(1779)獄中で52歳で病死した平賀源内である。魚類図鑑、油絵、
方歩計、源内焼、金唐車紙、戯作、浄瑠璃、狂文、ポルノ、平線儀
、測量機、火洗布、寒暖計、朝鮮人参栽培法、毛織物製造、金山事
業……と、その才能は多方面に発揮された。

平賀源内は、産業を興して国を豊かにすることが、人々を幸福にす
ることであるという思いがあったようだ。当時の日本は、薬草や生
糸などを海外から輸入し、その代金として法外な額を金や銀、銅な
どで支払っていた。

その現状を長崎で知った源内は、わざわざ海外から輸入しなくても
、国内で調達できるものが数多くあると確信する。それがいろいろ
な分野で活躍する原動力になっていると見る。

24歳の時に高松藩の命令で長崎に留学、蘭学を修める。続いて江
戸において植物を主にした漢方医学の“本草学”を学ぶ。1757
年(29歳)の時、彼の催した物産展の開催は、本草学・植物学・
イベントの走りであり、その物産展でいろいろな品種改良された園
芸類が出展された。それを図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」と
して刊行、世人の注目を浴びる。また、彼はエレキテルの発明をし
て、機械学・電気学の萌芽を築いた。

杉田玄白などの蘭学者は、そのエレキテルも勉強しているから、あ
る程度、平賀源内を理解できたのでしょうが、世間一般人は奇妙奇
天烈にしか見えなかったようだ。こういう万能の天才を評価する風
土は、当時の日本にはなかった。

封建的身分制度に束縛され、研究開発を禁止していた社会で、キワ
モノ扱いされて、平賀源内のような天才は受け入れられなかった。
平賀源内自身も世間に対して冷笑的な態度を取り始める。源内の孤
独は決して過去のものではない。現在もいるはず。

しかし彼のような男を孤独にする限り、日本に本当の意味の創造的
な文化は育たないであろうと哲学者、梅原猛はいう。この意見に私
Fも同感・共感する。

平賀源内は、今では「万能の天才、時代の先駆者」「日本のダ・ビン
チ」などと評価されているのがせめてもの慰めである。

==============================
平賀源内
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
『戯作者考補遺』所載の木村黙老による平賀源内肖像画平賀 源内
(ひらが げんない、享保13年(1728年)- 安永8年12月18日(1780
年1月24日))は日本の江戸時代の本草学者、蘭学者、(医者)、
作家、発明家、画家(蘭画家)である。父は白石茂左衛門(良房)
、母は山下氏の娘。兄弟多数。本名は国倫(くにとも)、号は鳩渓
(きゅうけい)・風来山人・福内鬼外(ふくうちきがい)・貧家銭
内(ひんかぜにない)など。通称は源内、元内とも。

1.経歴
讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)に生まれる。
平賀氏は高松藩の足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族だっ
たが、戦国時代平賀源心の代に甲斐の武田信虎・晴信父子に滅ぼさ
れ、奥州の白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めた。のちに宇和
島藩主家に従い四国へ下り、讃岐で帰農したという。

幼少の頃には掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ
、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。
また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。1748年に父の死によ
り後役として藩の蔵番となる。1752年(宝暦2)頃に1年間長崎へ遊
学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。留学の後に藩
の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。

大坂、京都で学び、さらに1756年(宝暦6年)には江戸に出て本草学
者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得する
ために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山
の採掘や精錬の技術を学ぶ。物産博覧会を度々開催し、1762年
(宝暦12年)には物産会として第五回となる「東都薬品会」を江戸
の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白ら
と交友する。高松藩の家臣として再登用されるが、学問に専念する
ために辞職する。1761年には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカ
ーなども行う。この頃には幕府老中の田沼意次にも知られるように
なる。

1763年には『物類品隲』を刊行。オランダ博物学に関心を持ち、洋
書の入手に専念する。源内は語学知識が無く、オランダ通詞に読み
分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。
明和年間には産業起業的な活動も行い、1773年(安永2)には秋田藩
の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野
直武に蘭画の技法を伝える。秩父における炭焼、荒川通船工事の指
導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長
く逗留した建物が「源内居」として残っている。 1776年(安永5)
には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を復元する。

1776年には橋本町の邸へ移る。翌安永7年(1778年)、2人を殺傷し
て投獄され、翌年獄死、享年52。杉田玄白らの手により葬儀が行わ
れたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく、遺体もないままの葬儀
となった。ただし晩年については諸説あり、大工の秋田屋九五郎を
殺したとも、後年逃げ延びて田沼意次の保護下に天寿を全うしたと
も伝えられる。

墓所は浅草の総泉寺。

2.人物と業績
日本史上でも数少ない天才、または異才の人と称される。鎖国を行
っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など西洋の文
化、技術を紹介した他、 文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄
瑠璃などに多くの作品を残し、また平賀焼などの焼き物を作成した
り、多彩な分野で目覚ましい活躍をした。

『解体新書』を翻訳した杉田玄白はじめ、当時の蘭学者の間に源内
の盛名は広く知られていた。玄白の回想録である『蘭学事始』は、
源内との対話に一章を割いている。源内の墓碑を記したのも玄白で
、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、
非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや)とあり、
源内の才能に玄白が驚嘆しその死を惜しんだことが伺われる。

科学者としての業績には、オランダ製の静電気発生装置エレキテル
の紹介、火浣布の開発がある。一説には竹トンボの発明者とも言わ
れ、これを史上初のプロペラとする人もいる。気球や電気の研究な
ども実用化寸前までこぎ着けていたと言われる。ただし、結局これ
らは実用的研究には一切結びついておらず、後世の評価を二分する
一因となっている。なお、源内の代表的装置「エレキテル」は、故
障していたオランダ製のものを修復したものであり、その原理につ
いては源内自身はよくわかっていなかったとする説が有力である。

「夏バテ防止の為に土用の丑の日に鰻を食べる」風習は、夏場の売
り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した広告コピ
ーが元との説が有力である。また、明和6年 (1769年) にはCMソング
とされる、歯磨き粉「漱石膏」の作詞作曲を手がけ、安永4年 
(1775年) には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ
報酬を受けており、これらを以て日本におけるコピーライターのは
しりとも評される。

浄瑠璃作家としては福内鬼外の筆名で執筆。時代物を多く手がけ、
作品の多くは五段形式や多段形式で、世話物の要素が加わっている
と評価される。江戸に狂歌が流行するきっかけとなった大田南畝の
『寝惚先生文集』(1767年) に序文を寄せている他、風来山人の筆名
で、後世に傑作として名高い『長枕褥合戦』や『萎陰隠逸伝』など
の春本まで残している。衆道嗜好であったと伝えられ、水虎山人名
義により明和元年 (1764年) に『菊の園』、安永四年 (1775年) に
『男色細見』の陰間茶屋案内書を著わした。

また、鈴木春信と共に絵暦交換会を催し (1765年)、浮世絵の隆盛に
一役買った他、博覧会の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会
「東都薬品会」が開催された (1757年)。


コラム目次に戻る
トップページに戻る