2802.現代という芸術 29 もののあはれと水俣病



現代という芸術 29 もののあはれと水俣病
From:得丸公明           

「もののあはれ」とは、なんだろうか。物に感ずる心のはたらきと
いわれて、納得できる人は少ないだろう。

本居宣長は、『源氏物語』の本質を「もののあはれ」だという。紫
式部がにくんだのは、我執と、人情に背くことで、もののあはれと
は、「我執をはなれ人情に従うこと」だという。(「紫文要領」)

我執を捨てると、私たちは、大宇宙のリズムや法則に一体化できる。
我執は人類だけがもつ、文明の産物だ。我執を捨て去ったあとで、
それでも否定しきれずに残る自然の感情は、大宇宙の法則に即して
いるからよいとするのが、もののあはれの思想である。だから、宣
長は、「物の心事の心をしりて感ずるをよき事として、其事の善悪
邪正は捨ててかかはらず」というのだ。人間社会の決め事や価値観
のほうが間違っているのだから、気にしなくてよい。

また、「その見る物聞物は心なければ、其人の心にてかはる也」と
もいっている。見るという行為は、見られる客体よりも、見る主体
の問題であるのだ。だから、結局、「物の哀をしる人が即心ある人
也、物の哀しらぬは心なき人也」ということになるのである。

そして、極めつけは、女童の心になりなさいという。「人のまこと
の情といふ物は女童のごとく*みれんにおろかなる物也、男らしくき
つとしてかしこきは、實の情にはあらず、それはうはべをつくろひ
かざりたる物也」、「すべて人の情の自然のまことの有のままなる
所は、はなはだおろかなる物也」と言い切ってしまうのである。
(* 未熟で)

実は吉田松陰もまるっきり同じことをいっている。『講孟剳記』の
中で、「情の至極は理も亦至極せる者なり」(人情を極めれば道理に
自然と一致する、滕文公・上5)といっている。人情は自然にわき出
る感情であり、無私で自然なものは正しいので、道理にかなう。
さらに同じ章で「人情は愚を貴ぶ。益々愚にして、益々至れるなり
」(人情は愚直が肝心。愚直であればあるほど、人情は切実になる)
ともいっている。これらの言葉はともに『孟子』の原文にはない。
松陰自ら切思精思した結果生れた、日本独自の思想である。

愚直な人情は、まっすぐで誠があり、余分なことは考えないから大
宇宙の法則に即している。仏教の本覚思想も、これと同じことをい
っているのだ。

この愚直さ、天然自然な感情の表出に、石牟礼道子著『苦海浄土 
第二部 神々の村』(藤原書店、2006年)で出会った。水俣病で苦し
む家族を看病する母や祖母たち、そして生まれながらにして水俣病
であった胎児性患者たちの生きる姿に、この愚かで、明るく、たく
ましい感情を見たのだった。『苦海浄土』の本質も、『源氏物語』
と同様に、もののあはれであったのだ。

日本という風土は、なんと、すばらしい風土であろうか。我執を捨
てて、愚直に生きることが一番大切であるという知恵が、民衆レベ
ルで共有されている。

(2007.11.2)

http://www.fujiwara-shoten.co.jp/graphy/book/book639.jpg

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もののあはれと『苦海浄土』
From: 得丸公明

もののあはれと『苦海浄土』 

文明の崩壊期を幸せに生きるために


私は、2002年に南アフリカのヨハネスブルグで開かれた「持続可能な開発の
ための地球サミット」というお祭り騒ぎに、日本の市民の意見を世界に伝えるた
めにつくられた市民団体の一員(予算は環境省から出たから、官製NGO)とし
て、参加した。その会議の成果は、ほとんど何もなかったが、そのときに、「水
俣病は文明の原罪であった」という緒方正人(『チッソは私であった』、西村
肇・岡本達明(『水俣病の科学』)、吉田司(『夜の食国』)に出会い、以後、
人類文明の起原について、考え続けてきた。

5年前に、ヨハネスブルグからの失意の帰国直後に、西原克成博士の『内臓が生
みだす心』に出会い、人類は5億年の生命進化の延長を生きていることに気づか
された。ヘッケルの『個体発生は系統発生を繰り返す』であり、ラマルクの「用
不用の法則」の考え方を発展させたものである。

西原先生が「ネオテニーは進化の袋小路である」と言われた言葉をヒントにし
て、はてな人力検索で島泰三『はだかの起原』に出会い、裸化が文明の誕生と関
係があると知り、直感的にそれは洞窟で起きたのだと理解した。その結果、今
年、南アフリカのクラシーズ河口洞窟を訪問したのだった。

洞窟の中で、裸になり、言葉を覚えたヒトが、世界を征服して文明環境を広めた
ことが、今日の地球環境問題の起原である。そして、残念なことに、すでに人類
は成長の限界を超えてしまった。おそらく1986年が、成長の限界であっただ
ろう。

チャレンジャー号空中爆発、チェルノブイリ原発爆発のこの年こそ、ヨハネ黙示
録が現実になった年であったと私は考える。

以後、人類は、崩壊過程を生きている。これは、ラグビーの試合時間は終ってい
るのに、審判の判断で、あと1,2プレー続行しているロスタイムのようなもの
だ。いますぐにでも、ノーサイドのホイッスルが鳴ってもおかしくないのである。


だがしかし、 しかし、だからといって、絶望する必要はない。

日経平均株価が上がっているときに、株で損する人もいれば、下がっているとき
に、儲ける人もいるように、文明の崩壊期にも、幸せを見つけることはできる。

それを私は、石牟礼道子著『苦海浄土 第二部 神々の村』(藤原書店、
2006年、2520円)で知った。


生まれながらにして水俣病にかかって、一度も首が据わらないままに、十年
ちょっとの人生を終えた少年少女たちの心の中が、いかに美しく、汚れなく、さ
まざまな感動に満ち溢れたものであったかということが、この本を読むと理解で
きる。

心の持ち方ひとつで、世界は美しくなる。 あたなが、わたしが、自分の心を美
しくすればいいだけなのだ。

本居宣長がいった「もののあはれ」を知る心をもつこと。これがもっとも大切で
あるということを、胎児性水俣病患者の人生に教えてもらった。


文明は、どんどん滅びている。 そのときに、そのときだからこそ、自らの心を
よく観察して、一点の汚れもない美しい心にすること、無益な殺生をやめ、人も
自然も傷つける事をやめること。 我々の生き方が問われている。

幸せに生きることができるかどうかは、我々の心の持ち方ひとつなのである。そ
れは、文明との付き合いを否定すること、文明から距離をおくということとほぼ
同じ意味になるだろう。

(2007.11.10、得丸公明)




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